Archive for category テーマ

Date: 4月 5th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その7)

GASのアンプの音のことで思い出すのは、
ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES 3」である。

アンプの別冊ではなく、トゥイーターの別冊である。
なのにGASのアンプの音に関連して思い出すのは、巻頭座談会があるからだ。

JBLの4343のトゥイーターを、他社製のトゥイーター五機種につけかえての試聴。
井上先生、黒田先生、瀬川先生による試聴と座談会である。

ピラミッドのリボン型トゥイーターのT1のところ、
瀬川先生が、こんなことを語られている。
     *
瀬川 この「ピラミッド」の音を「2405」との比較でいうと、たとえば、アンプの聴き比べをしている時の、「ガス」対「マークレビンソン」の音のように思えてならないのです。「2405」の場合にはいまも三人三様の言い方をしたけれども、かなりくまどりのはっきりした、いわば言葉に出していえる差みたいなものが表に押し出されて、そこがたいへん快くもある。あるいはそれが少し硬めの艶を乗せて快く聴かせる。と同時に、玄の音などで、やや金っ気を混ぜて聴かせるという、いやみな点もある。これは「マークレビンソン」のアンプにもあるのですけれど、あのいかにも線の細い、高域を少し強調するところですね。それが「マークレビンソン」をきらう人にとっては相当気になる部分だとぼくは解釈している。
 ただ、ぼく個人の言い方をすれば、それは大変好きな部分なんです。それが「ガス」系のアンプにすると、もっと下の肉がたっぷりついてくるという感じで、そして、高域のキラキラ光ったところが抑えられてくる。つまり、トータルで言えばより自然になったという言い方が成り立つと思うのです。「ピラミッド」をスーパートゥイーターにつけた「4343」は、あらゆる楽器に対してここにいるぞ、ここにいるぞみたいなことを言ってこないで、ごく自然に目の前に展開したという印象が強いんです。
     *
「HIGH-TECHNIC SERIES 3」を読んだ時、
マークレビンソンのアンプは数回聴いていた。
でもGASのアンプは聴く機会がなかった。

それもあって、2405とピラミッドの音についての座談会を、
私はマークレビンソンとGASの音の違いについてのことでもある──、
そう受けとりながらくり返し読んでは、その音を想像していた。

念のため書いておくと、
ここでの「マークレビンソン」のアンプとは、
LNP2であったりML1(JC2)であったりするわけで、ML7以降の音のことではない。

Date: 4月 4th, 2022
Cate: ディスク/ブック

グールドの「熱情」

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番には、
「熱情」という通称がついている。

この通称にとらわえてしまうと、演奏の評価を誤ってしまうのかもしれないが、
それでもグレン・グールドの「熱情」は、
グールドによるベートーヴェンの他のピアノ・ソナタほどには際立っているとは、
これまで感じたことはなかった。

「熱情」をそれほど聴くわけではない。
他のピアニストの演奏でも、それほど聴かない。

昨年、TIDALでグールドのコロムビアでのすべての録音がMQA Studioで聴けるようになってから、
すべてのアルバムを聴き直しているところ。

今日は、「熱情」がおさめられているアルバムを聴いていた。
前回、グールドの「熱情」を聴いたのがいつだったのか、
正確に思い出せないほどにひさしぶりのグールドの「熱情」となった。

第二楽章を聴いていて、ハッとした。
こんなに美しかったか、とハッとした。

ピアノの演奏よりも、むしろグールドのハミングの美しさに、ハッとしたものだった。

MQAだからなのだ、と勝手に思っている。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その44)

つきあいの長い音──、私にとってはボンジョルノのアンプの音となるのか。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(ABBA・その3)

昨年11月に出たABBAのひさしぶりのアルバム“Voyage”は、
MQA(96kHz)で聴ける。

“Voyage”の発売に合わせて、
これまでのアルバムもMQAで聴けるようになるのか、と期待していたが、
そんなことはなかった。

6月1日に、CDボックスが出る、という。
ということはリマスターでの発売なのか、
だとしたらTIDALでMQAで、今度こそ聴けるようになる──かもしれない。

ABBAのボックス発売のニュースを見ても、
リマスターされたのかどうかははっきりしない。

それでも期待しているし、
今回MQAで聴けるようにならなければ、当分無理であろう。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その7)

インターネットが普及して、
ヤフオク!も広く浸透しているからこそ、
今回のケースのように、THAEDRAを格安で、
それだけでなく家から一歩も出ずに手に入れることが、
つまり再会することができた。

以前だったら、THAEDRAが欲しい、
もう一度THAEDRAと思い立ったら、
中古オーディオ店を巡回していくか、
オーディオ雑誌の売買欄をこまめにチェックしていくしかない。

どちらにしても労力は、けっこうなものである。

それがいまや椅子に腰掛けたまま、iPhoneを触っているだけで済む。
手軽すぎる、といってもいいくらいである。

でも、だからといってありがたみが薄れるわけでもない。
20代のころ、SUMOのThe Goldを手に入れたときも、今回の件に近かった。

The Goldが欲しい! と思うようになった。
12月だった。
ステレオサウンドの最新刊も出たばかりで、ちょうどぽっかりと時間が空いていた。

出社していたけれど、ふらっと会社を抜け出して秋葉原に行った。
なぜだか、予感があったからだ。

ダイナミックオーディオに行った。
The Goldが、そこにあった。
私を待っていたかのように、そこにいた。

隣にはTHAEDRAもあった。
両方とも欲しかったけれど、この時はThe Goldだけしか買えなかった。
予算が足りなかった。

The Goldは、こんなふうにしてあっさりと自分のモノとなった。
不思議なものだ。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その6)

20代のころ、GASのTHAEDRAを使っていた。
1980年代後半である。

THAEDRAが登場して、ほぼ十年経ったころの話だ。
なので、そのころTHAEDRAを使っていた人も少なくなかったし、
THAEDRAを使っている、と周りのオーディオマニアにいったとしよう。

その時、「いまさらTHAEDRAねぇ……」という人はいなかった、といってよいだろう。
それから三十年以上が経ち、
「THAEDRAをヤフオク!で落札した」と不用意にいおうものなら、
「いまさらTHAEDRAねぇ……」と返してくる人はいる──、と思う。

たとえば、これがTHAEDRAではなく、マランツのModel 7だったらどうだろうか。
「いまさらModel 7ねぇ……」という人はいるだろうか。

おそらくいるだろうけれど、
「いまさらTHAEDRAねぇ……」という人よりもずっと少ないように思う。

MODEL 7はTHAEDRAより、ずっと以前に登場している。
なのに「いまさらModel 7ねぇ……」という人はずっと少ない。

理由はいくつか考えられる。
そのうちの一つは、資産価値ということがあるように感じられる。

いまマランツのModel 7の中古相場は高騰している。
百万円を超える場合も珍しくなくなってきている。
三百万近い値がつけられていたケースもある。

私がオーディオに興味をもったころ、1976年ごろは三十万円ほどだった。
そのころ登場したTHAEDRAの定価は六十六万円だった。

それから四十年以上が経ち、Model 7の相場は高くなる一方で、
THAEDRAの相場は低くなってきている。

低くなってきたからこそ、今回私は三万円ほどで手にすることができたわけなのだが。

Date: 4月 2nd, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その12)

32、65、29、46、49、45、37、29、43、22、36、20、40、38、24。
28、32、25、26、28、46、29、41、29、37、35。

上が「コンポーネントステレオの世界 ’77」に登場する架空読者の年齢、
下が「コンポーネントステレオの世界 ’78」での架空読者の年齢である。

ステレオサウンドは、組合せの別冊を出さなくなって、かなり経つ。
もしいま出したとしても、この時の「コンポーネントステレオの世界」のように、
架空読者からの手紙を掲載しての組合せという形はとらないだろう。

それでも、もしこの時の「コンポーネントステレオの世界」と同じことを、
いまやろうとしたら、架空読者の年齢はどうなるのだろうか、
をちょっと想像してみてほしい。

50代、60代、70代の読者が中心となるのだろうか。
でも、そういった年代の人たちがステレオサウンドに、組合せの相談をする──、
そういう設定に、もう無理があるような気もするから、
20代、30代の読者を中心として想定するのだろうか。

20代、30代の人たちが聴く音楽を、どう設定するのだろうか。
どんなレコード(録音物)を持ってくるのだろうか。

「コンポーネントステレオの世界」の’77年版と’78年版では、LPだけだった。
いまの状況は、もうそうではない。
パッケージメディアにしてもいくつかあるし、
ストリーミングがメインという人もいるわけだから。

「コンポーネントステレオの世界」の2023年版がもし出るのならば、
想定する読者(聴き手)次第では、そうとうに面白い内容に仕上げられるのではないか。

Date: 4月 1st, 2022
Cate: ディスク/ブック

ブルーノ・ワルターの「田園」(その2)

ワルター好きの何人かの知人の口から、
そういえば「田園」について、なにかを聞いた記憶がない。

不思議なもので、数人の知人がワルターの指揮について語るのは、
ブラームスについてが多かった。

たまたま、私の知人でワルター好きという数人がそうだった、というだけで、
多くのワルター好きの人がそうだとは思っていないのだが、
それでも、ごく少数のサンプルなのはわかっていても、
このことはなかなかに興味深いな、と感じている。

ワルター好きの知人も「田園」は聴いているはずだ。
なのに、ワルターの「田園」が素晴らしい、とは一度も聞いていないのはどうしてなのだろうか。

ブラームスの演奏については力説する知人なのに、
「田園」については何も語らなかった。

つまりはそれほどいいとは感じていないからなのだろう。
知人の性格からして、そうだ、といえる。

どうしてなのだろうか。

そういえば、内田光子が何かのインタヴューで語っていた。
ブルーノ・ワルターという指揮者は道端に花が咲いていたら、
立ち止って、その花を愛でる。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、気には留めても、
足を停めることはなく、そのまま進んでいく──、
これも掲載されている本が手元にないから、
記憶に頼っての引用でしかないが、
これは核心をついているのではないだろうか。

内田光子は、どちらが優れた指揮者か、といいたいのではなく、
二人の指揮者の違いについて語っていた。

交流が途絶えてしまったワルター好きの知人に、なぜ? と訊くことはしない。
訊いたところで、納得できる答が返ってくるとも思えない。

それはそれでいい。どうでもいいことだ。
とにかくワルター/コロムビア交響楽団の「田園」は素晴らしい。

Date: 4月 1st, 2022
Cate: ディスク/ブック

ブルーノ・ワルターの「田園」(その1)

福永陽一郎氏は、ブルーノ・ワルターについて、
ベートーヴェンの『田園」交響曲を指揮するために存在した人──、
そういった書き方をされていた。

音楽之友社から出ていた「私のレコード棚から(世界の指揮者たち)」、
レコード芸術の名曲名盤、そのどちらでも書かれていた、と記憶している。

ワルター好きな人は、多い。
知人でもワルターの演奏を熱心に聴いている人が何人かいる。

さいわいなこと、というべきなのか、
ワルター好きの知人は、福永陽一郎氏の本を読んでいないようだ。
だからといって、こんなことが書かれているよ、と教えたこともない。

知人たちが福永陽一郎氏がワルターについて書いていることを知ったら、
なんというのだろうか。

福永陽一郎氏のワルターの評価は、高くないと記憶している。
いまどちらも本も手元にないので確かめられないけれど、
それでもワルターの「田園」だけは、絶賛といってもいいほどである。

ワルターはウィーン・フィルハーモニーとの録音もある。
1937年の録音である。
こちらも高く評価されているが、
1958年録音のコロムビア交響楽団との演奏は、さらに高い。

ワルターと「田園」交響曲について、
楽想と同心同体である──、
こんなふうに書かれていた、と記憶している。

福永陽一郎氏が書かれたのを読んだのは、20代のころだった。
もちろんワルター指揮の「田園」を買って聴いた。

名演だ、と感じたものの、
正直、福永陽一郎氏がそこまで高く評価される演奏だろうか──、とも思っていた。
それに、20代のころの私は、ベートーヴェンの交響曲に夢中だったけれど、
「田園」はあまり、というか、ほとんど聴かなかった。

その後も、そう変らなかった。
「田園」をすすんで聴くことは、そんなになかった。

ここ十年は、まったく聴いていなかった。
3月、何人かの指揮者の「田園」を、TIDALで聴いていた。

今日、ワルターの「田園」を聴いてみた。
MQA Studio(192kHz)で聴いた。

やっと福永陽一郎氏がいわれていたことがわかった。
ワルターという指揮者と「田園」交響曲の楽想は、
まさに同心同体という印象を受けた。

Date: 3月 31st, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その6)

1970年代に登場したトランジスターアンプをすべて聴いているわけではない。
なのにおもうのは、意外にもGASのTHAEDRAとSAEのMark 2500の組合せこそ、
マッキントッシュのC22とMC275のトランジスターアンプ版といえるのではないか、と。

C22とMC275の組合せ、C28とMC2105の組合せは聴いたことがある、
といっても、比較試聴しているわけではない。
それぞれ別の場所で、まったく違うスピーカーで聴いたことがある、というだけでしかない。

どちらのアンプの組合せも、新品同様の性能(音)を維持していたのかは、はっきりしない。
そういう状態での、いわば記憶のなかでの比較でしかないのだが、
C28+MC2105は、C22+MC275とはずいぶん違った方向の音のように感じてしまった。

もちろんC28+MC2105に、C22+MC275そっくりの音を求めていたわけではない。
私が感じている音の良さを引き継いでいてほしかった、というだけのことで、
私がそう感じないからといって、他の人もそうだ、とは思っていない。

また、その音を聴いてもいないのに、
THAEDRAを落札した時から、Mark 2500との組合せは、
私にとってのC22+MC275のトランジスターアンプ版といえる存在になってくれるのかも──、
そんな予感が生れてきた。

マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せも、
また充分魅力的なのだが、この組合せはC22+MC275のトランジスター版ではない。

LNP2とMark 2500の組合せも、ちょっと違う。
あくまでも感覚的なことでしかないし、
こんな感覚的なことは、誰かに理解してもらう、なんてこととは無縁のこと。

つまりは、書いても無駄なことなのかもしれないが、
それでも私にとって大事なのは、そう感じてしまった、ということである。

Date: 3月 31st, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その4)

1976年、「五味オーディオ教室」と出逢った私は、
その一ヵ月後くらいにステレオサウンドを書店で見つけた。

41号と別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」の巻頭は、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」である。
     *
 ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
 そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。しかし、少し視点をかえていうと、彼は、きかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
 しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね——という。そういって、いっこうかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうべートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね——というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができない。
 楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって、演奏家にきかされている——ということになる。
 レコードでは、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとりの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
 ここでひとこと、余計なことかとも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
 なぜなら、きかされていることを意識した時にはじめて、きこえてくる音楽に、みずから歩みよることができるからだ。きいているのは自分なんだとふんぞりかえった時、音楽は、きいてもらっているような顔をしながら、なにひとつきかせていないということが起こる。ききての、ききてとしての主体性も、そしてききてならではの栄光も、きかされることにある。
     *
中学二年の冬だった。
「風見鶏の示す道を」を、この時、くり返し読んでいてよかった、と思っている。

Date: 3月 30th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来た

三十分ほど前に、ヤフオク!で落札したGASのTHAEDRAが届いた。
SAEのMark 2500の上に置いて、眺めているところ。

ヤフオク!の写真のとおり、かなり程度はいい。
THAEDRAのリアパネルは酸化していたり、錆びついてたりしていることが、割と多い。

THAEDRAはヤフオク!に、よく出品されている。
このブログを読んで、THAEDRAを買ってみようかな、と思う人がいるのかどうかはわからない。
もしかすると一人くらいはいるのかもしれない。

そういう人に一つだけいえるのは、
リアパネルの写真がないTHAEDRAの出品は用心した方がいい、ぐらいである。
リアパネルの写真がなかったら、出品者に質問して写真を追加してもらった方がいい。

THAEDRAの音は──、というと、まだ音を出していない。
音が出ない、とあったわけだから、来週あたり、少し時間がとれるようになったら、
内部をチェック、分解掃除して、それからになる。

20代のころ、SUMOのThe Gold(中古)を買った時も、そうした。
丸一日かけてすみずみまで分解掃除して、それから電源投入。
それから一週間は、なにかあっても大丈夫なように、10cmのフルレンジを鳴らしていた。

安心して使えるという確信が得られてから、
当時鳴らしていたセレッションのSL600に接続したものだ。

今回のTHAEDRAも、同じようにする。

別項「サイズ考(SAE Mark 2500を眺めていると)」でも書いているように、
THAEDRAも、いま見ると、意外にコンパクトなコントロールアンプとして映る。

それからMark 2500もAGIの511もそうなのだが、
このころのアメリカのアンプの板金加工は、いい感じだな、と思ってしまう。

天板といっても平らな金属板ではなく、側版もかねているからコの字型である。
曲げ加工が施されているわけだが、そのカーヴが、アメリカのアンプだな、と感じさせる。

金属から削り出された筐体も魅力的ではあるが、
この時代の筐体も、私にはとても魅力的である。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その5)

コーネッタを、
マークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68で鳴らしたい、と欲求は、
いまもかなり強く持っている。

けれど、以前から思っていることの一つに、
五味先生はタンノイ・オートグラフをマッキントッシュのC22とMC275で鳴らされていた。
この組合せがメインだったし、
晩年は、カンノアンプの300Bシングルで鳴らされてもいた。

C22とMC275はどちらも管球式である。
トランジスターアンプで、C22とMC275にかわる組合せは、なんだろうか。

中学生のころから、そんなことをあれこれ想像していた。

ステレオサウンド 47号の「オーディオ巡礼」のなかで、
五味先生は、こう書かれている。
     *
南口邸ではマッキントッシュではなくスレッショールドでタンノイを駆動されている。スレッショールド800がトランジスターアンプにはめずらしく、オートグラフと相性のいいことは以前拙宅で試みて知っていたので南口さんに話してはあった。でも私は球のマッキントッシュを変える気にはついになれずにきたのである。
     *
スレッショルドの800Aは、そのころの私にとっては憧れのパワーアンプだった。
A級動作で200W+200Wの出力を誇る。
同時代の日本のA級アンプの代表的存在であったパイオニアのExclusive M4が50W+50Wだった。

価格が違うにしても、アメリカと日本という国の規模の大きさが、
そのまま出力にもあらわれている──、とそう感じたものだった。

そのころは可変バイアスによる動作だ、ということはまだはっきりとしていなかった。
なので素直にA級動作と信じていた。

とにかくスレッショルドの800Aは、理想のアンプに近かった存在ともいえた。
オートグラフをトランジスターアンプで鳴らすのなら、800A!
それしかない!、と思えていた時期が私にはあった。

800Aの音は、個人宅で二回(違う方のリスニングルーム)、
熊本のオーディオ店でも何度か聴く機会があった。

800Aを手に入れようとしたことがあった。
それでも、それは800Aをいいアンプと思ったからで、
800AがMC275の代り、というか、MC275のトランジスター版だと思っていたわけではない。

五味先生もそうだったはずだ。
だから、C22とMC275のトランジスター版といえる組合せは、どういうものがあるのか。

マッキントッシュのC28とMC2105がそれにあたる、とはどうしても思えなかった。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その4)

SAEのMark 2500とGASのTHAEDRAはどうなのか。
悪くないはずだ、という予感はもっているが、
音だけは実際に聴いてみないことには、何もいえない。

それでも悪くない、と思うのは、
どちらもジェームズ・ボンジョルノが設計に関わっていること、
それにステレオサウンド 37号の新製品紹介の記事でTHAEDRAが取り上げられている。

そこで試しにMark 2500と組み合わせてみたら、ひじょうにいい結果が得られた、
と井上先生が語られている。

そうであろう、と思うだけでなく、
その結果は、やはりTHAEDRAの初期モデルだったから、よけいにそうだったのか、とも思う。

初期モデルということで思い出すのは、
これまでに別項で何度か引用している五味先生の文章だ。
     *
 JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
4343を鳴らしていたアンプはGASのTHAEDRAとマランツのModel 510Mである。
この時のTHAEDRAも初期モデルだったはず。

Date: 3月 29th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その3)

THAEDRAの音は、わりと誤解されているのかもしれない。

GASはGreat American Soundのことである。
そのGASのデビュー作がAMPZiLLAなのだから、
ユニークなネーミングと受けとる人もいれば、
ふざけたネーミングだと憤る人もいるのが世の中だし、
どちらにしてもGASと名乗る会社のアンプだけに、
いかにもアメリカンな音がするもの──、
とその音を実際に聴いていない人ならば思い込んでいたとしてもおかしくない。

GASの音は、当時から男性的といわれていた。
けれど如何にも、その力を誇示するような音では本来なかったのだが、
GASのアンプも、海外製アンプの例にもれず、
型番は同じでも製造ロットによって、けっこう音の傾向が変ってきている。

瀬川先生は、
《初期の製品だけが持っていた、素直さが魅力につながるような、控え目ゆえの好ましさ》、
そんなことを書かれている。

THAEDRAに、それはあてはまる。
むしろTHAEDRAとAMPZilLAが、特にそうだ、ともいえる。

THAEDRAはTHAEDRA IIになり、THAEDRA IIBが日本に入ってきている。
末尾に何もつかないTHAEDRAにしても、
内部をみると、こまかなところが変更されているのがわかる。

どの時期のTHAEDRAを聴いているのか、
それによってTHAEDRAの音の印象は、かなり違っていることだろう。

私は幸運なことに初期のTHAEDRAの音を聴いている。
私が20代のころに自分のモノとしたTHAEDRAもそうである。

今回のTHAEDRAは、まだ届いていないのでなんともいえないが、
ヤフオク!の写真で判断するかぎりでは、初期のモノの可能性が高い。

初期のTHAEDRAこそが最高、といいたいのではない。
私が求めているTHAEDRAは、初期のモノだというだけのことだ。