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Date: 6月 17th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その17)

カラヤンと精妙ということで思い出すのは、
ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生が「レコードからみたカラヤン」というテーマでの対談である。
     *
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
 いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
 この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
 いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
 それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
 つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
     *
実演での精妙と精緻ということではない。
録音での精妙と精緻ということでいえば、
カラヤンは精妙であるとはっきりいえるし、小澤征爾は精緻ということか。

岡先生は、さらにこうも語られている。
     *
 六〇年代後半から、レコードそしてレコーディングのクォリティが、年々急上昇してきているわけですが、そういった物理量で裏づけられている向上ぶりに対して、カラヤンは音楽の表現でこういうデリケートなところまで出せるぞと、身をもって範をたれてきている。指揮者は数多くいるけれど、そこで注意深く、計算されつくした演奏ができるひとは、ほかには見当りませんね。ぼくがカラヤンの録音は優れていると書いたり発言したりすると、オーディオマニアからよく不思議な顔をされるんだけど、フォルテでシンバルがどう鳴ったかというようなことばかりに気をとられて、デリカシーにみちた弱音といった面にあまり関心をしめさないんですね。これはたいへん残念に思います。
     *
単なる物理的な弱音ではなく《デリカシーにみちた弱音》、
心理的な意味でのピアニッシモを実現してこその精妙である。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その16)

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭に書かれている。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
ここに書かれていることも、精緻と精妙の違いのように読める。
4343の音は精緻、
LS3/5Aの音は精妙だからこそ、
《コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ》を、
鳴らしてくれるのではないのか。

Date: 5月 10th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その15)

カラヤンをお好きだった瀬川先生と黒田先生。
お二人ともJBLの4343でレコード(録音物)を聴かれていた。

瀬川先生は、ステレオサウンド 53号での4343研究で、
オール・レビンソン、
しかもウーファーに関してはML2をブリッジ接続してのバイアンプ駆動、
つまり六台のML2を用意しての4343を極限まで鳴らそうという企画をやられている。

この時の音は、この時代における精緻主義の極致であっただろう。

この時、誌面に登場する試聴レコードは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

カラヤンのディスクはなかった。
53号を読んだ当時は、そのことに気づかなかった。
そういえばカラヤンのディスクがなかったな、と気づいたのは、
ずっとあとのことである。

気づいた後で、
ステレオサウンド 56号掲載のトーレンスのリファレンスの新製品紹介記事、
58号でのSMEの3012R-Specialの新製品紹介記事、
もちろん両方とも瀬川先生が担当されているわけで、
この二つの瀬川先生の文章を読み返すと、
精妙主義ということに、少なくとも私のなかではつながっていく。

同じことは黒田先生についてもいえる。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その14)

精妙と精緻は近いようでいて、同じではない。
カラヤンは精妙主義の指揮者であり、
別項で触れているマーラーの第一番をシカゴ交響楽団と録音したころのアバドは、
精緻主義の指揮者である。

カラヤンの精妙主義がもっともいかされていると私が感じるのは、
ワーグナーにおいて、である。

「パルジファル」がもっとも優れたカラヤンの精妙主義を聴くことができるが、
「ニーベルングの指環」もそうだと感じている。

室内楽的、といわれたのは黒田先生である。
たしかにカラヤンの「ニーベルングの指環」は室内楽的な印象を受ける。

五味先生はカラヤンを嫌われていた。
初期のカラヤンの演奏は高く評価されていたけれど、
フルトヴェングラーが亡くなって以降のカラヤンに関しては、
堕落した、とまでいわれている。

カラヤンの「ニーベルングの指環」は、
その五味先生のレコードコレクションの中にある。

いまでこそけっこうな数の「ニーベルングの指環」の録音はある。
けれど五味先生が生きておられた時代、
ショルティの「ニーベルングの指環」がまずあった。

それ以外の「ニーベルングの指環」となると、
いかな五味先生でもカラヤンの「ニーベルングの指環」を無視できなかったのだろう。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その4)

THAEDRAと組み合わせた時の音について別項でも触れているから、
ここでは省くけれど、THAEDRAも、どうしても欲しい、という人がいて、
結局、その人に譲ってしまった。

JC2とTHAEDRA。
これら以外のコントロールアンプも使ってきたけれど、
ふり返って思い出すのは、この二機種である。

使ったことがない、
つまり自分のシステムに組み込んだことがないモデルのなかでは、
マークレビンソンのLNP2は、いまでもいつかは──、というおもいがあるけれど、
使ったモデルに限定すれば、JC2とTHAEDRAということになる。

いま目の前に、この二つのコントロールアンプがあって、
どちら片方だけ選べといわれたら(もちろんどちらも同じ価格だとして)、
やはりTHAEDRAを選ぶ(資産価値で選ぶ人はJC2のはず)。

実際のところ、中古市場ではJC2のほうが高価である。
それでも、私がとるのはTHAEDRAであり、ここにおける選択は、
音があってのことであっても、別の理由もある。

別項で「オーディオ・システムのデザインの中心」を書いてる。
結論までにはもう少し書いていく予定なのだが、
私は、オーディオ・システムのデザインの中心はコントロールアンプだ、と考えている。

つまりJC2よりもTHAEDRAということは、
コーネッタをスピーカーに据えるシステムにおいて、
THAEDRAを、システムのデザインの中心に置く(選んだ)ことである。

Date: 5月 4th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その3)

水を得た魚のように、という表現がある。
GASのTHAEDRAと接いだSUMOのThe Goldはまさにそうだった。

SUMOのThe Powerがステレオサウンドの新製品紹介の記事に登場したとき、
コントロールアンプをTHAEDRAにしたら、鳴り方が大きく変った──、
そんなことが書かれていたことは、常に頭のなかにあった。

とはいうものの、ここまで変るのか、と驚いてしまった。

JC2を友人に譲ってからは、
エッグミラーのW85(H型アッテネーター)を使っていた。

アナログプレーヤーはトーレンスの101 Limited、
CDプレーヤーはスチューダーのA727を使っていたので、
どちらのモデルも出力にライントランスを介している。
バランス出力である。

だからW85を介してThe Goldのバランス入力に接続していた。

JC2、THAEDRAにはバランス出力はない。
アンバランス出力のみだから、The Goldのアンバランス入力に接ぐことになる。

The Goldの場合、アンバランス入力だと、
アンバランス/バランスの変換回路を通ることになる。
信号経路が長くなり、信号が通過する素子数も多くなる。

そのことがあったから、THAEDRAの音にそれほど期待していたわけではなかった。
理屈の上では、THAEDRAを介すことで音が良くなることはない。

でも、そんな理屈は実際に鳴ってきた音を、
ほんのわずかな時間聴いただけで消し飛んでしまう。

Date: 5月 3rd, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その2)

ジョン・カール・モディファイJC2以前に、
JC2の音は聴いたことがなかった。

私がオーディオに興味を持ちはじめて数ヵ月後には、
LNP2、JC2の入出力端子がLEMO端子に変更され、
その他、内部も変更されたことで、型番の末尾にLがつくようになった。

もっともLがつくのは日本だけの型番であって、
並行輸入対策であった。

JC2Lは、すぐさまML1(L)となった。

ML1の音は聴いていた。
でもJC2、それも初期の、ツマミが細長いタイプの音は、
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版を読んでは、
それまで聴いたマークレビンソンの音から想像するしかなかった。

そうやって頭のなかに描いてきたJC2の音と、
実際に自分のシステムに組み込んで鳴ってきたJC2(モディファイ版)の音は、
大きく違うことはなかった。

なので満足していたといえばそうだった。
けれど、その音に衝撃を、もしくはそれに近いものを受けたわけではなかった。

JC2は使い続けてもよかったのだが、友人がどうしても欲しい、ということで、
譲ってしまった。

それからしばらくしてGASのTHAEDRAを手にいれた。
THAEDRAには、さほど期待していなかった。
ただSUMOのThe Goldを使っていたから、
それに別項で書いているように、The Goldを手にいれた時、
THAEDRAもそこにあったけれど、予算が足りずに諦めたことも重なって、
一度はボンジョルノの意図した音を確認しておきたかった──、
そのぐらいの気持であった。

なのに鳴ってきた音は、衝撃といえるレベルだった。

Date: 5月 2nd, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その1)

THAEDRAはGASのコントロールアンプとしてフラッグシップモデルだった。
JC2(ML1)は、上級機としてLNP2があったことから、フラッグシップモデルとはいえなかった。

けれどマーク・レヴィンソン自身は、自家用として使っていたのはJC2だった、
と当時のオーディオ雑誌には書いてあった。

THAEDRAもJC2も同時代のコントロールアンプである。
価格もほど近い。同価格といってもいい。

それだけに、この二つのコントロールアンプは、
ジェームズ・ボンジョルノとマーク・レヴィンソンと同じくらいに実に対照的存在である。

JC2は一時期使っていた。
1980年代なかばごろ、ジョン・カールがJC2をモディファイしている──、
そういう情報が入ってきた。

なので、とある輸入元の社長にお願いして、JC2のモディファイ版を輸入してもらった。
JC1SMが搭載されていて、ツマミが細長い初期型のJC2であった。

初期のJC2ということもあって外部電源は型番なしのタイプ。
なのでハーマンインターナショナルからPLSを購入。
そうやって聴いていた時期があった。

THAEDRAを手に入れたのはJC2の後である。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その11)

黒田先生は、「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
GASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところでも、
その10)で引用したことと関係する発言をされている。
     *
黒田 ぼくは非常にほしくなったアンプです。まず、瀬川さんはこのアンプの音を男性的とおっしゃったけれども、それに関連したことから申し上げます。これはぼくだけの偏見かもしれないけれど、音楽というのは男のものだという感じがするんです。少しでもナヨッとされることをぼくは許せない。そういう意味では、このシャキッとした、確かに立派な音といわれた表現がピッタリの音で、音楽を聴かせてもらったことにぼくは満足しました。
     *
今の時代、誤解される発言となるかもしれない。
今の時代の風潮に敏感であろうとすることだけに汲々としている編集者ならば、
24号に書かれたこと、
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言、
どちらにも訂正をいれてくるだろう。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言だけでは、
そうなるかもしれないが、24号での文章もあわせて読んでほしい。

そこには、こう書いてある。
《もし音楽においても男の感性の支配ということがあるとしたら、これはその裸形の提示といえよう》
ここはほんとうに大事なことである。

そして《その裸形の提示》においての鮮度ということが、再生音にはある。

Date: 4月 2nd, 2022
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その17)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」のなかで、
岩崎先生は、こんなことを語られている。
     *
 じつは、ほんとうはL400にしたかったのです。ところがL400はまだ出てきていない。JBLでは出すといってますけれど。これは、新しいスタジオ・モニターの4343、このスピーカーのコンシュマー版ですね。
     *
マイルス・デイヴィスのエレクトリック・サウンドを聴くための組合せで、
岩崎先生はJBLのL300を選択されている。
L300は4333のコンシューマー版である。

《ほんとうはL400にしたかったのです》は、
その1)で引用している岩崎先生のスタックスの文章を読んでいれば、
素直に納得できる。

L400の登場がまだならば、L300ではなく4343を選択した組合せにしなかったのは、なぜ?
そう思われる読者もいようが、
ここでの組合せの相談者(架空の読者)は、29歳と想定されている。

そのためもあってか、L300の組合せだけでなく、
パイオニアのCS616の組合せもつくられている。

L300の組合せのトータル価格は、2,156,800円、
CS616の組合せは、491,000円と四分の一に抑えられている。

L300が4343になるとトータル価格は四十万円ほどアップすることになる。
そのへんも考慮されてだろうが、岩崎先生はこう語られている。
     *
スペクトラムバランスが違いますから、4343よりもはるかに低音が厚くなるはずで、その意味でもマイルスのレコードによく合うんです。
     *
ここでの組合せは、あくまでも読者の聴きたいレコード(音楽)がはっきりしてのことで、
組合せの予算に制約がなかったとしても、L300だったはずだし、
登場していたらL400のはずである。

瀬川先生は、どうなのだろうか。
別のところで、瀬川先生は4333よりもL300、
そのL300よりも4333Aといわれていた。

そうなると4343のコンシューマー版のL400が登場していたら、
4333とL300の評価のように、L400だったのだろうか。

Date: 3月 28th, 2022
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その14)

GASのデビュー作は、パワーアンプのAMPZiLLAである。
ステレオサウンド 36号(1975年9月発売)の新製品紹介の記事に登場している。
51号(1979年6月発売)に新製品としてGODZiLLAが取り上げられている。

なので、これまでAMPZiLLAが出て、
その上級機としてGODZiLLAが出てきたものだと思ってしまっていた。

けれど、AMPZiLLAの前に、GODZiLLAがあった、という話も耳にしていた。
それでもステレオサウンドのどこを見ても、そんなアンプは登場していないのだから、
AMPZiLLA、 GODZiLLAの順だと信じていた。

GASのTHAEDRAを昨晩落札したことを別項で書いている。
それでGASの情報を、改めて蒐集しようと検索してみた。
画像検索のみをしていたら、
いままで目にしたことのない、それでもAMPZiLLAによく似たアンプの写真がヒットした。

GODZiLLAとある。
AMPZiLLAをモノーラル仕様にしたアンプである。
なのでパワーメーターは一つだけ。

出力は8Ω負荷で250W、4Ω負荷で500W、2Ω負荷で1000Wとなっている。
まさにGODZiLLAだ。

このオリジナルGODZiLLAが世に出たのかどうかは、はっきりしない。
プロトタイプだけなのかもしれない。

まだまだ知らないことがある。
ソーシャルメディアが、その知らないことに出会わせてくれる。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景
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情景(その10)

グラシェラ・スサーナの歌が、私に情景を見せてくれる。
だからといって、他の人もそうだとは思っていない。

人それぞれだから、グラシェラ・スサーナではなくて、別の歌手だったりするし、
その歌で描かれている情景なんて浮ばない──、という人もいて当然だし、
情景が浮ぶことが音楽の聴き手として優れているとも思っていない。

ただ私にはグラシェラ・スサーナは、そういう存在であった、
そしてメリディアンのULTRA DACでMQA再生によって、
いまもそういう存在である、といえる──、それだけのことだ。

私は昨年から、心に近い音についてしばしば書いているのは、
このことがあってのことだ。

音を追求してきて、グラシェラ・スサーナの歌から情景を失ってしまった。
そのことに気づき、ULTRA DACとMQAとの出逢いがあった。

他の人はどうだか、私はわからないが、
すくなくとも私に限っては、耳に近い音を追求した結果、
情景を失ってしまった、といえる。

心に近い音といっても、なかなかに理解しがたいかもしれないが、
私にとってのグラシェラ・スサーナのように、
その歌が描いている情景を見せてくれる歌手をもつ聴き手ならば、
心に近い音がどういう音なのか、いつかわかると思う。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その9)

グラシェラ・スサーナの歌が、
ハイ・フィデリティ再生になるほど──、といったことを書いているが、
ここでのハイ・フィデリティ再生とは、情感たっぷりに歌ってくれることでもある。

私の目の前でグラシェラ・スサーナ本人が歌っているかのような、
しかも情感豊かな歌を聴かせてくれようとも、
情景が浮んでこない、という状況をどう受けとったらいいのだろうか。

結局、ラジカセでミュージッテープを聴いていたときの情景は、
私が勝手につくりあげた妄想、もしくは錯覚だったのか。

そのことを確認したい、という気持があって、
ヤフオク!でグラシェラ・スサーナのミュージックテープ、
それも中学生のころ聴いていたミュージックテープが安価で出品されていたら、
入札しては手に入れていた。

五本ほど集まった。
でもラジカセを買うまでにはいたらなかった。
買おうかな、と思って、量販店のラジカセのコーナーを何度か見てまわったことはある。

まったく食指が動かなかった。
だからといって昔のラジカセを探し出してまで買おう、という気もなかったのは、
もしかすると情景が浮ばなくなったのは、こちら側のせいなのか。
ようするに老化してしまったからなのか……。

けれどそうでないことを確認できた。
2018年9月8日、audio wednesdayで、
グラシェラ・スサーナのMQA-CDを.メリディアンのULTRA DACで聴いて、
そうでないことを確認できた。

情景がふたたび浮んできた。

Date: 3月 11th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その8)

ラジカセからコンポーネントになり、
モノーラルからステレオになり、音はよくなっていく。

唇の動きが、舌の動きまでわかるようだ、という表現がある。
音がよくなっていくと、そういう感じが現出してくるようになる。

歌っている表情すら目に浮かぶような感じにもなっていく。
これらは音がよくなっていっていることの確かな手応えである。

けれど、これらはすべてグラシェラ・スサーナがスタジオで歌っているシーンを、
できるだけハイ・フィデリティに再生(再現)しようとする方向である。

間違っているわけではない。
グラシェラ・スサーナはライヴ録音以外はスタジオで録音しているのだから、
それらの録音がそういうふうに鳴ってくれるということに、
何の文句をいうことがあろうか。

けれど、そんなふうにグラシェラ・スサーナの歌がなってしまうとともに、
いまふり返ると、聴く時間が減ってきた。

ハイ・フィデリティ再生になればなるほど、
情景が浮ばなくなってくる。

このことは音に関係しているのか。
ラジカセので聴いてきた時に、そう感じていたのは、
聴き手である私の勝手な妄想にすぎない──、そうともいえることはわかっている。

けれど確かに、あのころは情景が浮んでいた。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その7)

いわゆるコンポーネントステレオで、LPで、
グラシェラ・スサーナを聴くようになって、
確かにステレオになったし、ラジカセとは比較にならない音で聴けるようになった。

さらにカートリッジを買い替えたり、ケーブルを交換したり、
スピーカーのセッティングをあれこれ試してみたりしながら、
音は少しずつ良くなってくる。

それにともないグラシェラ・スサーナの歌(声)もよく聴こえるようになる。
そのことが嬉しかった。

ステレオサウンドで働くようになってからは、
使えるお金も学生時代とは比較ならぬほど増えるわけで、
システムも高校生のころとは、まったく違う。

音は良くなってきた。
スタジオで歌っている感じの再現は、ラジカセ時代では無理だった。
つまりラジカセよりも、ハイ・フィデリティになってきているわけだ。

なのにグラシェラ・スサーナを聴くことが減っていった。
聴く音楽の範囲が拡がっていくのにともない、聴く時間は限りがあるわけだから、
それも自然なことと、当時は思っていた。

けれどステレオサウンドをやめて、それからいろいろあってシステムをすべて手離した。
そのあたりから気づいたことがある。

グラシェラ・スサーナの歌から、情景が消えていたことに気づいた。
ラジカセで聴いていたころに、あれだけ浮んでいた情景を、
どこかでなくしてしまったようである。