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Date: 4月 15th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その11)

黒田先生は、「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
GASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところでも、
その10)で引用したことと関係する発言をされている。
     *
黒田 ぼくは非常にほしくなったアンプです。まず、瀬川さんはこのアンプの音を男性的とおっしゃったけれども、それに関連したことから申し上げます。これはぼくだけの偏見かもしれないけれど、音楽というのは男のものだという感じがするんです。少しでもナヨッとされることをぼくは許せない。そういう意味では、このシャキッとした、確かに立派な音といわれた表現がピッタリの音で、音楽を聴かせてもらったことにぼくは満足しました。
     *
今の時代、誤解される発言となるかもしれない。
今の時代の風潮に敏感であろうとすることだけに汲々としている編集者ならば、
24号に書かれたこと、
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言、
どちらにも訂正をいれてくるだろう。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言だけでは、
そうなるかもしれないが、24号での文章もあわせて読んでほしい。

そこには、こう書いてある。
《もし音楽においても男の感性の支配ということがあるとしたら、これはその裸形の提示といえよう》
ここはほんとうに大事なことである。

そして《その裸形の提示》においての鮮度ということが、再生音にはある。

Date: 4月 2nd, 2022
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その17)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」のなかで、
岩崎先生は、こんなことを語られている。
     *
 じつは、ほんとうはL400にしたかったのです。ところがL400はまだ出てきていない。JBLでは出すといってますけれど。これは、新しいスタジオ・モニターの4343、このスピーカーのコンシュマー版ですね。
     *
マイルス・デイヴィスのエレクトリック・サウンドを聴くための組合せで、
岩崎先生はJBLのL300を選択されている。
L300は4333のコンシューマー版である。

《ほんとうはL400にしたかったのです》は、
その1)で引用している岩崎先生のスタックスの文章を読んでいれば、
素直に納得できる。

L400の登場がまだならば、L300ではなく4343を選択した組合せにしなかったのは、なぜ?
そう思われる読者もいようが、
ここでの組合せの相談者(架空の読者)は、29歳と想定されている。

そのためもあってか、L300の組合せだけでなく、
パイオニアのCS616の組合せもつくられている。

L300の組合せのトータル価格は、2,156,800円、
CS616の組合せは、491,000円と四分の一に抑えられている。

L300が4343になるとトータル価格は四十万円ほどアップすることになる。
そのへんも考慮されてだろうが、岩崎先生はこう語られている。
     *
スペクトラムバランスが違いますから、4343よりもはるかに低音が厚くなるはずで、その意味でもマイルスのレコードによく合うんです。
     *
ここでの組合せは、あくまでも読者の聴きたいレコード(音楽)がはっきりしてのことで、
組合せの予算に制約がなかったとしても、L300だったはずだし、
登場していたらL400のはずである。

瀬川先生は、どうなのだろうか。
別のところで、瀬川先生は4333よりもL300、
そのL300よりも4333Aといわれていた。

そうなると4343のコンシューマー版のL400が登場していたら、
4333とL300の評価のように、L400だったのだろうか。

Date: 3月 28th, 2022
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その14)

GASのデビュー作は、パワーアンプのAMPZiLLAである。
ステレオサウンド 36号(1975年9月発売)の新製品紹介の記事に登場している。
51号(1979年6月発売)に新製品としてGODZiLLAが取り上げられている。

なので、これまでAMPZiLLAが出て、
その上級機としてGODZiLLAが出てきたものだと思ってしまっていた。

けれど、AMPZiLLAの前に、GODZiLLAがあった、という話も耳にしていた。
それでもステレオサウンドのどこを見ても、そんなアンプは登場していないのだから、
AMPZiLLA、 GODZiLLAの順だと信じていた。

GASのTHAEDRAを昨晩落札したことを別項で書いている。
それでGASの情報を、改めて蒐集しようと検索してみた。
画像検索のみをしていたら、
いままで目にしたことのない、それでもAMPZiLLAによく似たアンプの写真がヒットした。

GODZiLLAとある。
AMPZiLLAをモノーラル仕様にしたアンプである。
なのでパワーメーターは一つだけ。

出力は8Ω負荷で250W、4Ω負荷で500W、2Ω負荷で1000Wとなっている。
まさにGODZiLLAだ。

このオリジナルGODZiLLAが世に出たのかどうかは、はっきりしない。
プロトタイプだけなのかもしれない。

まだまだ知らないことがある。
ソーシャルメディアが、その知らないことに出会わせてくれる。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景
1 msg

情景(その10)

グラシェラ・スサーナの歌が、私に情景を見せてくれる。
だからといって、他の人もそうだとは思っていない。

人それぞれだから、グラシェラ・スサーナではなくて、別の歌手だったりするし、
その歌で描かれている情景なんて浮ばない──、という人もいて当然だし、
情景が浮ぶことが音楽の聴き手として優れているとも思っていない。

ただ私にはグラシェラ・スサーナは、そういう存在であった、
そしてメリディアンのULTRA DACでMQA再生によって、
いまもそういう存在である、といえる──、それだけのことだ。

私は昨年から、心に近い音についてしばしば書いているのは、
このことがあってのことだ。

音を追求してきて、グラシェラ・スサーナの歌から情景を失ってしまった。
そのことに気づき、ULTRA DACとMQAとの出逢いがあった。

他の人はどうだか、私はわからないが、
すくなくとも私に限っては、耳に近い音を追求した結果、
情景を失ってしまった、といえる。

心に近い音といっても、なかなかに理解しがたいかもしれないが、
私にとってのグラシェラ・スサーナのように、
その歌が描いている情景を見せてくれる歌手をもつ聴き手ならば、
心に近い音がどういう音なのか、いつかわかると思う。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その9)

グラシェラ・スサーナの歌が、
ハイ・フィデリティ再生になるほど──、といったことを書いているが、
ここでのハイ・フィデリティ再生とは、情感たっぷりに歌ってくれることでもある。

私の目の前でグラシェラ・スサーナ本人が歌っているかのような、
しかも情感豊かな歌を聴かせてくれようとも、
情景が浮んでこない、という状況をどう受けとったらいいのだろうか。

結局、ラジカセでミュージッテープを聴いていたときの情景は、
私が勝手につくりあげた妄想、もしくは錯覚だったのか。

そのことを確認したい、という気持があって、
ヤフオク!でグラシェラ・スサーナのミュージックテープ、
それも中学生のころ聴いていたミュージックテープが安価で出品されていたら、
入札しては手に入れていた。

五本ほど集まった。
でもラジカセを買うまでにはいたらなかった。
買おうかな、と思って、量販店のラジカセのコーナーを何度か見てまわったことはある。

まったく食指が動かなかった。
だからといって昔のラジカセを探し出してまで買おう、という気もなかったのは、
もしかすると情景が浮ばなくなったのは、こちら側のせいなのか。
ようするに老化してしまったからなのか……。

けれどそうでないことを確認できた。
2018年9月8日、audio wednesdayで、
グラシェラ・スサーナのMQA-CDを.メリディアンのULTRA DACで聴いて、
そうでないことを確認できた。

情景がふたたび浮んできた。

Date: 3月 11th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その8)

ラジカセからコンポーネントになり、
モノーラルからステレオになり、音はよくなっていく。

唇の動きが、舌の動きまでわかるようだ、という表現がある。
音がよくなっていくと、そういう感じが現出してくるようになる。

歌っている表情すら目に浮かぶような感じにもなっていく。
これらは音がよくなっていっていることの確かな手応えである。

けれど、これらはすべてグラシェラ・スサーナがスタジオで歌っているシーンを、
できるだけハイ・フィデリティに再生(再現)しようとする方向である。

間違っているわけではない。
グラシェラ・スサーナはライヴ録音以外はスタジオで録音しているのだから、
それらの録音がそういうふうに鳴ってくれるということに、
何の文句をいうことがあろうか。

けれど、そんなふうにグラシェラ・スサーナの歌がなってしまうとともに、
いまふり返ると、聴く時間が減ってきた。

ハイ・フィデリティ再生になればなるほど、
情景が浮ばなくなってくる。

このことは音に関係しているのか。
ラジカセので聴いてきた時に、そう感じていたのは、
聴き手である私の勝手な妄想にすぎない──、そうともいえることはわかっている。

けれど確かに、あのころは情景が浮んでいた。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その7)

いわゆるコンポーネントステレオで、LPで、
グラシェラ・スサーナを聴くようになって、
確かにステレオになったし、ラジカセとは比較にならない音で聴けるようになった。

さらにカートリッジを買い替えたり、ケーブルを交換したり、
スピーカーのセッティングをあれこれ試してみたりしながら、
音は少しずつ良くなってくる。

それにともないグラシェラ・スサーナの歌(声)もよく聴こえるようになる。
そのことが嬉しかった。

ステレオサウンドで働くようになってからは、
使えるお金も学生時代とは比較ならぬほど増えるわけで、
システムも高校生のころとは、まったく違う。

音は良くなってきた。
スタジオで歌っている感じの再現は、ラジカセ時代では無理だった。
つまりラジカセよりも、ハイ・フィデリティになってきているわけだ。

なのにグラシェラ・スサーナを聴くことが減っていった。
聴く音楽の範囲が拡がっていくのにともない、聴く時間は限りがあるわけだから、
それも自然なことと、当時は思っていた。

けれどステレオサウンドをやめて、それからいろいろあってシステムをすべて手離した。
そのあたりから気づいたことがある。

グラシェラ・スサーナの歌から、情景が消えていたことに気づいた。
ラジカセで聴いていたころに、あれだけ浮んでいた情景を、
どこかでなくしてしまったようである。

Date: 3月 6th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その6)

その1)でも書いているように、
私が、ことさら情景、それも日本語の歌に関して情景を求めたくなるのは、
中学生のときにグラシェラ・スサーナの歌を聴きすぎたためかもしれない。

ラジカセで、スサーナのミュージックテープを聴いていた。
私が中学生のころ、ステレオのラジカセは珍しかったはずだ。
ラジカセ・イコール・モノーラルの時代だった。

私が小遣いを貯めて買ったラジカセも、だからモノーラルだった。
スピーカーユニットもフルレンジだけだった。
トゥイーターを加えた2ウェイ仕様のラジカセが出たのは、もう少しあとのことだ。

そんな環境で、ほぼ毎日、グラシェラ・スサーナの歌を聴いていた。
日本語の歌である。

そこまでグラシェラ・スサーナの歌にのめり込んでいたのは、
スサーナの歌を聴いていると、その情景が浮んでくることが多かったからである。

中学生が買えるラジカセで、カセットテープが音源なのだから、
出てくる音はたかが知れている。

これがステレオになったら──、
カセットテープではなくLPだったら──、
そんなことを思わなかったわけではない。

もっと情景がリアルに浮ぶものだと、中学生の私は思っていた(信じていた)。

Date: 3月 4th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景
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情景(その5)

実演に接して、その音を「鮮度が高い」という人は、まずいない。
少なくとも、私の周りにはそういう人はいないし、
いままでそう言った人もいない。

なのに再生音に関しては、鮮度の高い(低い)という。
音の鮮度をことさら気にする人、主張する人は、
このことに気づいていないのだろうか。

気づいていないということはないと思うのだけれども、
なのにすっぽり抜け落ちているかのように、鮮度の高さを気にしているようでもある。

昨晩、「再生音に存在しないもの(その2)」を書いたのは、
そのためである。

その1)は、2008年9月に書いている。
フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」をみてきたから、ということもあるのだが、
同じくらいに、鮮度の高い(低い)について書いてきていることもあって、だ。

再生音に存在しないものがあるからこそ、
鮮度を気にするのではないのか。

では、いったい再生音には何がないのか。

Date: 3月 3rd, 2022
Cate: 五味康祐, 再生音

再生音に存在しないもの(その2)

4月3日まで、東京都美術館で「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」をやっている。
ヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」が公開されている。

修復作業によって、誰かによって消されていた、
壁に描かれていたキューピッドの絵があらわれた「窓辺で手紙を読む女」である。

コロナ禍ということもあって入場時間を予約しなければならない。
そのおかげで比較的空いていた。
平日の午前中ということもあってだろう。

すべての絵を見終ると、そこには今回の展示に関連したグッズの販売コーナーがある。
そのなかに、3Dプリントで複製したフェルメールの絵があった。

オランダでの3Dデータを元にした複製画である。
オリジナルの絵にある凹凸も再現されている。

この複製画には触れる。
触って感じるのは、フェルメールは重ね塗りをやらなかったのか、である。

私は絵に関しては素人なのだが、
重ね塗りをしているのであれば、3Dデータで複製した絵にも、
同じように表面の凹凸が再現されるはずである。

今回触った複製画には、オリジナルにあるひび割れの感触が感じられる。
そこまでの複製画なのだから、重ね塗りの凹凸も複製しているはずである。

Date: 2月 25th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その4)

鮮度の高い音。
もっともらしくて、わかりやすく思える。

しかも鮮度の高い音は、ある意味たやすく聴ける、ともいえる。
昔のプリメインアンプにはトーンコントロールがついていた。
このトーンコントロールをバイパスするスイッチもけっこうついていた。

トーンコントロール回路を経由しないわけだから、
余分な回路を信号が通らない、その音は鮮度が高い、といえなくもない。

CDプレーヤーが登場して、パッシヴ型フェーダーを使うことで、
コントロールアンプを経由せずにパワーアンプにダイレクトに接続する。
その音を、鮮度が高い、といえなくもない。

でも、これらの音は、本当の意味で客観的に鮮度の高い音なのだろうか。
     *
 オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
 けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
     *
瀬川先生が書かれている。
1979年においても、「いまでも」と書かれている。
ここからすでに四十三年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。

《客観的な原音というものなどしょせん存在しない》とある。
そうである。
あるのは、主観的な原音である。

鮮度の高い音も、じつのところそうではないのか。
客観的な鮮度の高い音がある──、
ほんとうにそういえるのか。

Date: 2月 5th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その3)

ハイ・リアリティな音ということは、
「五味オーディオ教室」を読んだ時から私の頭にずっとある。

ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティを、と思っていた時期もある。

では、ハイ・リアリティな音とは、どういう音なのか。
鮮度の高い音ならば、その結果として、ハイ・リアリティな音となるのか。

プログラムソースに含まれている音(信号)を、
できるかぎりそのままに増幅して、音に変化する。
そうすることで、究極の鮮度の高い音を実現したとしよう。

私には、それがハイ・リアリティな音とは、どうしても思えない。

鮮度の高い音──、
一時期の私にとって、これは魅力的な表現でもあった。

鮮度を損う要素を、オーディオの再生系から徹底して排除していく。
鮮度の高い音の実現とは、鮮度を損う要素を排除することでもある。

けれど、そういう音が、
別項「いま、空気が無形のピアノを……(その4)」で書いている音を聴かせてくれるのか。

そこで聴いた音は、いわゆる鮮度の高い音ではない。
けれど、サックスのソロになった瞬間に、
スピーカーに背を向けながら写真撮影の助手をやっていた私は、
サックス奏者が背後にいる、という気配を感じとってしまい、
そこに誰もいないのはわかっても振り返ってしまった。

これは確かにリアリティのある音だった。
生々しいサックスの音でもあった。

Date: 2月 5th, 2022
Cate: 五味康祐

続「神を視ている。」(その3)

別項「Jacqueline du Pré(その2)」で書いている写真。

iPhoneのロック画面に設定しているわけだから、毎日、何度も見ている。
見るたびに「デュ=プレは、神を視ているのか」と思ってしまう。

Date: 2月 4th, 2022
Cate: 瀬川冬樹
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瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その9)

瀬川先生にとっての「心に近い音」について考えていて、
ふと思い出したスピーカーシステムがある。

ステレオサウンド 54号に登場したグルンディッヒのProfessional 2500である。
54号の特集では、瀬川先生のほかに、菅野先生、黒田先生が試聴メンバーであった。

Professional 2500の、瀬川先生の評価菅野先生の評価がどう違うのか、は、
リンク先をお読みいただきたい。
このふたりの評価は違いについては、特集の座談会の中でもとりあげられている。

54号での試聴メンバーは三人であっても、合同試聴ではなく、ひとりでの試聴である。
ゆえに菅野先生のときのProfessional 2500の音と、
瀬川先生が鳴らされたときのProfessional 2500の音が、
違っている可能性もあるわけだが、それについては座談会のなかで、
編集部の発言として、
「このスピーカに関しては、三人の方が鳴らされた音に、それほど大きな違いはなかったように思うのです」とある。

だから評価のズレが、鳴っていた音の違いによるものではない、といってもいいだろうし、
Professional 2500が、瀬川先生にとって「心に近い音」のスピーカーシステムだった──、
そんな気がしてならない。

Date: 1月 30th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その8)

ステレオサウンド 53号の4343研究中に登場する試聴ディスクは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

どのディスクも当時(1979年)、優秀録音ということで、
ステレオサウンドの別の特集の試聴テストでも、とりあげられていたディスクばかりだ。

私も、当時「黙示録」以外は買って聴いていた。
「ザ・ダイアログ」は日本盤しかないが、
「春の祭典」と「サンチェスの子供たち」は輸入盤だった。

4343研究では、レコード番号も記載されていた。
56号のロジャースのPM510の文章中に出てくるディスクは、
バッハの「無伴奏」、とあるだけだ。

演奏者の名前も、レコードレーベル、番号については何も書かれていない。
同じ56号では、トーレンスのリファレンスの記事も、瀬川先生は書かれている。

そこでは、コリン・デイヴィスの「春の祭典」、
カラヤンの「ローマの泉」についての音の印象が出てくる。

おそらくなのだが、PM510では、「ザ・ダイアログ」は聴かれていない、と思っている。
「ザ・ダイアログ」は別項でも書いているように、この時期、よく聴いていた。
それだけでなくaudio wednesdayでもたびたび鳴らしていた。

でも「ザ・ダイアログ」をPM510で鳴らしたこと、聴いたことはない。
自分のPM510、自分の部屋においてだけ、でなく、
ステレオサウンドの試聴室でもPM510で「ザ・ダイアログ」は聴いていない。

「サンチェスの子供たち」も聴いていない。
「春の祭典」は一回だけかけたことがあるが、
4343で聴くときの音量で鳴らしたわけではなく、ずっと小さな音量で、であった。