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Date: 10月 25th, 2016
Cate: 川崎和男

KK適塾

2015年10月から2016年3月にかけて、毎月一回(3月は二回)五反田に行っていた。
KK塾が開かれていたからだ。

4月になって、今月からKK塾はないんだ……、と感じていた。
2016年秋からKK適塾が開かれるのはアナウンスされていたけれど、
それまでの半年は喪失感といえば大袈裟になるが、ものたりなさといおうか、
そういう感じがいっそう秋がくるのが待ち遠しくさせていた。

11月17日から、KK適塾が始まる。
平日の昼間に行われる。

行きたいけれど、行くのが難しい、という人はいるはずだ。
KK適塾には行けないけれど、別の機会にでも……、
休日に開かれたら、その時は……、と人は思いがちだ。

そう思っている人は、いつか後悔することになることを考えないのだろうか。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: 五味康祐

フォーレ「ノクチュルヌ」

「オーディオ巡礼」ではなぜか「FM放送」になっているが、
ステレオサウンド 26号に掲載時は違っていた。

 ラフマニノフ「声」
 フォーレ「ノクチュルヌ」
であった。

ラフマニノフの「声」は、オーマンディの指揮のものがCDになったときに手に入れた。
五味先生が聴かれていたのもオーマンディのものである。
ごく短い曲だ。

いまではあまり聴かなくなったが、
手に入れた時は頻繁に聴いていた。

フォーレの「ノクチュルヌ」について、
この曲に続いて五味先生は書かれている。

エンマ・ボワネーというピアニストの演奏で、五味先生はフォーレの夜想曲を聴かれている。
カタカナ表記ではエンマ・ボワネだが、ここは五味先生に倣ってボワネーとしておく。
     *
 フォーレの〝夜想曲〟は、エンマ・ボワネーという女流ピアニストの弾いたもので、残念ながらこれもモノーラルである。ノクチュルヌの中の六曲をボワネーは弾いているが、とりわけ第一番変ホ短調(作品三三の一)はフォーレの全ピアノ曲の中でも白眉の名品で、実に典雅な曲だ。そしてこればかりは女性でないと弾けないだろうと私は思う。
 ふつう、女性にはショパンがふさわしく思われているらしいが、女性に、ショパンはぜったい弾けない、というのが私の持論で、パハマンやリパッティを持ち出す迄もなく、およそ女性の弾いたショパンにいいものがあった例を私は知らない。
 その点、フォーレの音楽はショパンよりはるかに女性向きである。ヴァルカロールにせよ、即興曲、このノクチュルヌにせよ、ヨハンセンやカサドジュなどの演奏も聴いてみたが、エンマ・ボワネーのフォーレに及ばない。曲が女性の感性で奏べるように出来ていると思うのだ。
     *
「オーディオ巡礼」を読んで、聴いてみたいと思った。
が、すでに廃盤になっている、とも書かれていた。
そのせいか、あまり積極的に探すことをしなかった。
そうこうしているうちに、忘れかけていた。

五味先生もエンマ・ボワネーのLPは所有されていなかった。
レコードをS氏に借りて録音したテープで、であった。

いまはCDになっている。
10年ほど前に出ている。
エンマ・ボワネーのフォーレも、ふとしたことで思い出した。

まだ手に入るようである。
注文をした。取り寄せになる、とのこと。

五味先生は、はじめてこの曲を聴いたときのことを書かれている。
     *

 フォーレのこのノクチュルヌは、大体が、夫人と呼ばれる年令の婦人を空想させる曲である。すでに愛の痛み、誓いのむなしさ、愛を裏切る(或いは裏切られる)哀しさ、嫉妬、悔恨、傷ついたプライド、そういう愛のくさぐさな在り様を身をもって体験した女性にしか、通わぬ音楽と私には思えるし、はじめてこの曲を聴いたとき、私は私自身の妻を想い浮べた。実像の妻よりはるかに美化された容姿と、妻の人柄を考えていた。
     *
はじめてこれを読んだとき、まだ結婚はしてなかった。
ハタチにもなってなかった。

エンマ・ボワネーで聴いたとき、何を想い浮べるだろうか、と想った。
その日から30数年。いまも独りである。

おそらく届くであろうエンマ・ボワネーのフォーレ・夜想曲を聴いて、
いま何を想い浮べるのだろうか。

Date: 10月 17th, 2016
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その12)

マークレビンソンのML2は初段は差動回路だが、二段目は差動回路ではない。
そのためドライバー段と出力段をもう一組用意すれば、
バランス出力が得られる──、というわけにはいかない。

差動回路のふたつの出力をどう扱うか。
バランス出力であればそのままでよくても、
アンバランス出力であれば、プラス側の出力を使っても、
マイナス側の出力は無駄にするのか、それともカレントミラーなどの回路を使い、
有効利用するのかは、設計者によって違ってくる。

ML2、原型となっているJC3の回路図はインターネットで検索すれば、すぐに見つかる。
初段と二段目の接続がどうなっているのか興味がある人は、回路図を見ていただきたい。

ブリッジ接続はバランス出力をもつコントロールアンプがあれば、
どのパワーアンプも原則として可能である。
アンバランス出力しか持たないコントロールアンプでも、入力がバランスであるパワーアンプであれば、
ブリッジ接続は特別なアダプターを必要とせず可能になる。

2チャンネル分のパワーアンプをブリッジ接続すれば、それはバランス増幅といえるのか、といえば、
そうとはいえない。
その違いについて言葉だけで詳しく述べるのはやや面倒なのでばっさり省略するが、
SUMOのTHE POWER、THE GOLDのバランス増幅と、
2チャンネル分のアンプを使いブリッジ接続した場合と同じに考えるわけにはいかない。

GASのGODZiLLAは、ここのところがどうなっているのかがはっきりとしない。
2チャンネル分のAMPZiLLAをブリッジ接続した回路構成なのか、
それともSUMOのアンプと同じバランス増幅といえる回路になっているのか。

外形寸法と重量、それに内部コンストラクションの写真をみていると、
GASのGODZiLLAはAMPZiLLAのブリッジ接続版という可能性が捨てきれない。

仮にそうだとしたら、AMPZiLLAの進化形といえるのはGASのGODZiLLAではなく、
SUMOのTHE POWERとなるし、現在のAMPZiLLA 2000ははっきりとTHE POWERの流れを汲むアンプである。

Date: 10月 17th, 2016
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その11)

GASのGODZiLLAが、ボンジョルノ設計ではないことは、保護回路からも推測できる。
SUMOのパワーアンプは、基本的に保護回路はない。
GODZiLLAはしっかりした保護回路を搭載している。

この違いは、ボンジョルノのアンプ(設計)かどうかの判断基準といえる。

GODZiLLAもSUMOのアンプもバランス入力を持ち、バランス出力となっている。
ただ回路構成が基本的に同じかどうかはなんともいえない。

JBLのパワーアンプSE408S(SE400S)において差動回路が採用されて以来、
今日のアンプの大半は差動回路を採用しているといえる。

差動回路はふたつの入力を持つ。
出力もふたつある回路である。
つまり差動回路そのものがバランス回路といえるところがあるわけで、
それでも従来のアンプがアンバランス入力だったのは、
差動回路の片側の入力だけを信号用として使い、
もう片方の入力はNFB用に使われていた。

出力に関しては、ドライバー段、出力段をもう一組用意すればバランス出力を得られるわけだが、
少なくともコンシューマー用アンプではSUMOのTHE POWERの登場までなかった。
THE POWERは入力から出力まで差動回路によるバランス構成となっている。

バランス入力に関しては、マークレビンソンのML2が先に出ていた。
ML2の電圧増幅段も差動回路で、ふたつの入力をもち、
だからこそリアパネルにはLEMO(CAMAC規格)端子の他にXLR端子もついている。

通常の使用では反転入力をアースに落すことでアンバランス入力としている。
なので非反転入力をアースに落せば、ML2は反転アンプとなる。

ステレオサウンド 53号が面白いと思うのは、
特集でGASのGODZiLLA AとSUMOのTHE POWERが取り上げられていて、
さらに瀬川先生による4343のML2のブリッジ接続ドライヴの記事も載っていることである。

Date: 10月 16th, 2016
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その10)

広告は、時として記事よりも、知りたい情報を与えてくれる。
ステレオサウンド 53号のバブコの広告。

ここにはスレッショルド、シンメトリー、GAS、SUMOといったブランドが紹介されている。
それぞれのブランドのロゴの下には、エンジニアの名前が表記してある。

スレッショルドはNelson Pass、
シンメトリーはDesigned by John Curl、
SUMOはDesigned by James Bongiorno、
GASはDesigned by Andrew Hefleyとなっている。

GASのところにある写真は、
コントロールアンプのThaedra IIとGODZiLLAである。

これではっきりした。
GODZiLLAの設計はボンジョルノではないことが。
ただThaedraはボンジョルノの設計だから、
Thaedra IIの基本設計はボンジョルノで、Andrew HefleyによってII型になったということのはずだ。

つまりGASのアンプでThaedra II(1978年)以降、
Thaedra IIB、GAS500 Ampzillaも含めて、ボンジョルノからAndrew Hefleyの設計に変っている。

GODZiLLAはSUMOのパワーアンプの仕様に近い。
AB級とA級、ふたつのラインナップを持ち、出力も近い。
けれどコンストラクションは大きく違う。

GODZiLLAの音を聴く機会はなかったため、
これまで断言できなかったけれど、ボンジョルノの手を離れたモノとは判断できていた。

ただ想うのは、ボンジョルノ自身は、
GASで、GODZiLLAという型番で、SUMOのTHE POWERとTHE GOLDを出したかったのではないだろうか。

AMPZiLLAの登場のころから、上級機としてGODZiLLAが出る、というウワサはあった。
たしかに出るには出た……。
けれどボンジョルノの手による「GODZiLLA」は、
GASのGODZiLLAではなく、SUMOのTHE POWERとTHE GOLDといえる。

Date: 9月 17th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(名盤・その2)

数ヵ月前、程度のいいと思えるマランツのModel 7の値段が150万円を軽く超えていて、
ここまで来たのか、と思っていたら、その上があった。
350万円の値が付いているModel 7があった。

私の感覚では高すぎる、ということになるが、
買う人がいるから、売る側もこれだけの値段をつけているのだろう。

マランツのModel 7は名器といわれている。
でも、この場合の名器も名盤と、結局は同じである。

名器とされるモノでしかない。
名盤と同じで、名器も「聴き込んでみずからつくるもの」である。

聴き込まなければ、つまり自分の心に近いモノとしなければ、
どんなに程度がよくて350万円の値が付いているModel 7であっても、
それは名器でもなんでもない、ということだ。

なぜ売り手側にとって都合のいい(よすぎる)ことに振りまわされるのか。
市場で高い値が付けられるのが名盤、名器ではない。

そのことがまったくわかっていない人がいる。
そういう人たちが、オリジナル盤、オリジナル盤とさわぎ、
オーディオ機器に関しても、オリジナル、オリジナルとさわぐ。

いつまで続くのか、こんなことが。

Date: 9月 17th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(名盤・その1)

五味先生は「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」とされている。
これを「五味オーディオ教室」で読んで、心に刻んできた。

聴き込んでみずからつくる、とはどういうことなのか。
それは「心に近く」するということだと思う。

だから何もオリジナル盤と呼ばれているモノが名盤ではない。
再発盤、廉価盤とオリジナル盤とでは音は違う。
違って当然である。

でもどれがいいのかは、そう簡単にはいえない。
少なくともオーディオに真剣に取り組んできた人ならば、わかってもらえる、と信じている。

それでもオリジナル盤が、驚くほどの値段で売買されることがある。
希少価値があればモノは高くなる。市場原理だから、わからないわけではない。

でも、そのオリジナル盤は名盤ではない、ということは肝に銘じておくべきだ。
あくまでも、それは名盤とされるモノでしかない。

「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」だからだ。
オリジナル盤で、「耳に近く、心に遠い」ままだったら、それは名盤では決してない。
少なくともあなたにとって、それは名盤ではない。

再発盤で、オリジナル盤よりは音は劣るかもしれない。
それは「耳に遠い」音ともいえよう。

そうであっても聴き込んでみずからつくることで、心に近くすることで、
それは名盤となっていく。
「耳に遠く、心に近い」、こうありたい。

もちろん「耳に近く、心に近い」にこしたことはない。
でも私は「心に近い」だけで、いいではないか、と思うようになってきている。

Date: 9月 16th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(その3)

1976年ごろのHI-FI-STEREO GUIDEには、
ルボックスのA700は688,000円と載っている。
テレフンケンのM28Aは載っていないが、M28Cは載っている。
1,300,000円である。

スチューダーのC37は管球式のマスターレコーダーで、すでに製造中止。
ソリッドステート時代のマスターレコーダーとしてA80MKIIが載っていて、
3,300,000円である。

A700、M28Cは、この時代のオープリンリールデッキに詳しくない人でも、
そのスタイルは容易に想像がつく。
つまり一般的なオープンリールデッキの恰好である。

C37、A80となるとコンソール型である。
その大きさからいっても、家庭に持ち込むモノではないことはあきらかだ。

ちなみにこの時代、EMTの930stは1,050,000円、
927Dstは2,500,000円であり、
価格的にも927DstはC37クラスといえ、930stはA700、M28Aクラスといえる。

くり返すが、五味先生はオープンリールデッキに関しては、927DstクラスのC37まで手を伸ばされている。
アナログプレーヤーは927Dstの下、930st留り(あえてこう書いておく)である。

このことはずいぶん考えてきた。
なぜなのか。
プログラムソースとしての比重は、五味先生にとってもLP(アナログディスク)が大きかったはずだ。
ならば先に927Dstで、その後にC37だったならば、五味先生の行動はすんなりわかる。

けれど違うから、考えていた。
答(らしきもの)は、オーディオだけの側面で考えていてはたどりつけない。
五味先生にとってのワグナーが、答につながるものを提示してくれた、といえる。

Date: 9月 16th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(その2)

マッキントッシュのMC3500について書かれていることを、また引用しておこう。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
こういう五味先生だから、930stと927Dstに関してもそう思われていたのかも……、と思ってもいた。
マッキントッシュのMC275とMC3500の比較、
EMTの930stと927Dstの比較は、どこか共通するものがあるといえるからだ。

けれどステレオサウンド 50号の「続・五味オーディオ巡礼」で、
スチューダーのC37を手に入れられたことを書かれているのう読んで、
ならばアナログプレーヤーも927Dstではないのか……、と思ってしまう。
     *
最近プロ機のスチューダーC37を入手して、欣喜雀躍、こころを躍らせ継いでみたら、まったく高域にのびのない、鼻づまりの弦音で呆っ気にとられたことがある。理由は、C37は業務用だからマイクロホンの接続コードをどれ程長くしてもINPUTの音質に支障のないよう、インピーダンスをかなり低くとってあるため、ホームユースの拙宅のマランツ♯7とではマッチしないと知ったのだ。かんじんなことなので言っておきたいが、プリアンプとのインピーダンスが合わないと、単にテープの再生音がわるいのではなく、C37に接続したというだけでレコードやFMの音まで鼻づまりの歪んだ感じになってしまった。愕いてC37を譲られた録音スタジオから技術者にきてもらい、ようやくルボックスA700やテレフンケン28Aで到底味わえぬC37の美音に聴き惚れている。
     *
スチューダーのC37のことは、「五味オーディオ教室」もほんのわずかだが書かれていた。
     *
 いい音で聴くために、ずいぶん私は苦労した。回り道をした。もうやめた。現在でもスチューダーC37はほしい。ここまで来たのだから、いつか手に入れてみたい。しかし一時のように出版社に借金してでもという燃えるようなものは、消えた。齢相応に分別がついたのか。まあ、Aのアンプがいい、Bのスピーカーがいいと騒いだところで、ナマに比べればどんぐりの背比べで、市販されるあらゆる機種を聴いて私は言うのだが、しょせんは五十歩百歩。よほどたちの悪いメーカーのものでない限り、最低限のトーン・クォリティは今日では保証されている。SP時代には夢にも考えられなかった音質を保っている。
 家庭で名曲を楽しむのをレコード音楽本来のあり方とわきまえるなら、音キチになるほど愚の骨頂はない、と今では思っている。
     *
「五味オーディオ教室」は私が読んだ最初のオーディオの本であるから、
スチューダーのC37がどういうモノなのかは、まったく知らなかった。

でもステレオサウンド 50号のころは知っていた。

Date: 9月 15th, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(その1)

五味先生のスピーカーは、いうまでもなくタンノイのオートグラフ。
アンプは最初はQUADの管球式で鳴らされた。
その後、いろいろなアンプを使われている。

最終的にはマッキントッシュのC22とMC275の組合せである。
MC275は、岩竹義人氏の手によって内部配線を銀線に交換されたモノなのかもしれない。

アンプはC22、MC275の他にカンノ製作所の300Bシングルを晩年は使われていた。
コントロールアンプはマークレビンソンのJC2も使われていた。

アナログプレーヤーはEMTの930stを長いこと愛用されていた。
私はてっきり930stの専用インシュレーター930-900も使われていると思っていた。

ステレオサウンド 55号に載った五味先生のリスニングルームの写真。
930stは930-900なしの状態だった。
意外だった。

ステレオサウンドの原田勲氏との仲からいって、
930-900の評判を知らずにいたとは思えない。
だから930-900を使われているものだと思いこんでいた。

アナログプレーヤーに関しては、927Dstの導入を考えられなかったのか、とも思う。
927Dstの音は聴かれている。
930stと直接比較をされたのかどうかははっきりしないが、
されていないくとも930stとの実力の差がどれだけのものかは掴んでおられたはずだ。

それでも927Dstにはされなかった。
でも一方でオープンリールデッキは、スチューダーのC37を導入されている。

それまで使われていたオープンリールデッキが930stクラスだとすれば、
C37ははっきりと927Dstクラスのモノである。

なぜだろう、と昔から思っていた。
いまも思っている。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーのこと(その15)

スピーカーユニットを多数使うことに、別に懐疑的ではない。
けれど、若いころは、それこそ絶対的にスピーカーユニットは並列接続すべきだと考えていた。

そう思いこんでいたのは、振動板はピストニックモーションが理想であり、
振動板がピストニックモーションであれば、
その振動板が鳴らす空気もピストニックモーションである──、
そう考えていたからでもあった。

けれどピストニックモーションの幻想から一歩離れてしまえば、
振動板のピストニックモーション・イコール・空気のピストニックモーションではないことは、
容易に想像がつく。

けれど、その一歩離れることが、なかなか難しかったし、
そのきっかけとなったのが、私の場合、(その14)で書いているように1996年、
NTXスピーカーの登場まで俟たなければならなかった。

ピストニックモーションこそが……、という思いこみは、
XRT20を眺めたときに、24個のトゥイーターを並列接続にすべき、と見てしまっていたし、
XRT20以前のスピーカー、BOSEの901に関して、同じに見てしまっていた。

901は10cm口径のフルレンジユニットを9発使っている。
使用されているスピーカーユニットのインピーダンスは0.9Ω。
9発すべてを直列接続しているから、0.9×9=8.1Ωとなる。

901の存在を知ったとき、おもしろいスピーカーと思いながらも、
私だったら、絶対的に並列接続するのに、その方が絶対音は良くなるのに……、
不遜にもそう捉えてしまっていた。

振動板を動かすことと空気を動かすことは、同じではない。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その9)

昨夜(9月7日)のaudio sharing例会に来てくれた常連のAさん。
facebookに、「いい気づきを今回もいただきました」と投稿されていた。

人によるだろうが、私は「今日はいい音でした」といわれるよりも、
Aさんのように言ってくれる方を嬉しく思う。

気づき、発見、再発見。
私がオーディオ雑誌、オーディオ評論に望んでいるものである。

何を望むのか、求めるのかは人によって違うものだ。
オーディオ雑誌、オーディオ評論に、結果(答)を求める人もいよう。

そういう人にとっては、ベストバイやステレオサウンド・グランプリといった点数づけ、
権威づけに直接つながっていく賞がおもしろい、ということになるのだろう。

いま書店に並んでいるステレオサウンド 200号。
まだ見ていないが、ステレオサウンドのサイトでは、
特集は「誌面を飾った名スピーカー200選」とある。

見てなくとも、おおよその構成は想像できる。
大きく外れてはいないという自信もある。

選ばれている200のスピーカーについて、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、それぞれに担当して書いているのだろう。
以前の「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」と同じ構成のはずだ。

「世界の一流品」や「ステート・オブ・ジ・アート」では、そういうやり方でもいいが、
今回は200号記念特集、つまり創刊50周年の記念特集であるわけだ。

ここで私が求めたいのは、50年を俯瞰しての読みものである。
つまりオーディオの系譜、スピーカーの系譜といったことを求めたいし、読みたい。

この「系譜」について、200号では語られているのだろうか。
ないような気がする。

私がこの項のタイトルを、「ヴィソニック David 50のこと」とせずに、
「瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50)」とした意図は、そこにある。

Date: 9月 7th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その8)

エラックのCL310とヴィソニックのDavid 50とに、いくつかの共通点を挙げることができるからといって、
CL310をDavid 50の系譜に置くのは間違っている、もしくはこじつけ、強引なこと──、
私はそうは思っていない。

CL310は奥行きこそ長いが、ミニスピーカーといえるサイズで、
驚く音を聴かせる。
知人宅でCL310のAudio Editonを聴いて、心底驚いたことをいまもはっきりと思い出せる。

ミニサイズなのに音量が出せる──、低音が出る──、
そういったレベルではなく、そこでのエネルギーの再現性に驚いた。

CL310以前にも小型スピーカーで驚く製品はいくつもあった。
セレッションのSL6(SL600)、アコースティックエナジーのAE2などがあった。
それぞれに驚かされる面をもっていたけれど、
CL310ほどエネルギーの再現性に優れていたとは思えない。

AE2の方がCL310よりも最大出力音圧レベルはとれるかもしれないが、
ホーン型に一脈通ずるようなエネルギーの再現性は、AE2には感じず、CL310にだけ感じたものだった。

そういうCL310だけに、セカンドスピーカー、サブスピーカーという捉え方からは完全に脱している。
David 50はセカンドスピーカー、と書いているではないか。
そう思われるであろう。

でもヴィソニックがDavidシリーズで目指していたのは、良質のセカンドスピーカーではないはず。
David(ダヴィッド)の名は、巨人ゴリアテを見事に倒したダヴィデから名づけられているからだ。

ヴィソニックのエンジニアが目指していたCL310の領域にあった、と私は思っているし、
瀬川先生がCL310を聴かれていたら、どう書かれるかを想像するに、
ヴィソニックの系譜に沿って書かれた可能性があった、と思う。

Date: 9月 6th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その7)

ヴィソニックのDavid 50の外形寸法はW10.7×H17.0×D10.3cm、
David 502はW10.3×H17.0×D10.7cm。わずかな違いはあるが、同じといっていい。

エラックのCL310はW12.3×H20.8×D128.2cmである。
奥行きが三倍近くあるが、横幅と高さはDavid 50に近い。
ユニットもウーファーは11.5cm口径、トゥイーターはAMTの2ウェイ構成。

エンクロージュアの横幅はDavid 50同様、ウーファー口径よりもわずかに大きいだけである。
David 50もCL310もフロントバッフルいっぱいにユニットがある。
バッフルの余白はどちらもあまりない。

それからCL310のエンクロージュアのアルミ製である。
ここも同じである。

ヴィソニックもエラックもドイツのメーカーである。

CL310を最初に目にしたとき、David 50の系譜だと思った。
David 50は1976年に登場している。CL310は1998年である。
20年の開きが、David 50の系譜を、ここまで進化させたのか、と音を聴いて思っていた。

価格も違う。
David 50は67,600円(二本)、David 502は60,000円(二本)、
CL310は260,000円(二本)である。

それでもCL310は、David 50の系譜だ、と感じていた。

Date: 9月 5th, 2016
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ヴィソニック David 50・その6)

ヴィソニックのDavid 50の系譜は、David 502、David 5000と続いていく。
日本ではDavid 5000で途切れてしまった感があるが、
David 5001まで続き、いまも購入可能(のようだ)。
ただしドイツ製なのかどうかは不明。

David 502のころに専用のサブウーファーSUB1が出てきた。
30cm口径ウーファーで、300Hzのカットオフ周波数のネットワークを内蔵していた。
重量は36kg。これを加えれば、低域の拡充が実現する。
ただしSUB1の価格は20万円だった。
David 502が一本3万円の時にである。

David 5000と同時期に、B&OからBeovox C75が登場した。
Beovox C75といっても、どんなスピーカーだったのか、思い浮べられる人は少ないだろう。
Beovox C75は、CX100のひとつ前のモデルである。

エンクロージュアの形状、材質も同じ。
ユニット構成もBeovox C75とCX100は同じである。

Beovox C75は一度も聴いていない。
CX100と同じ音だったのだろうか。
だとしたら、なぜ型番を大きく変更したのかだろうか、と思ってしまう。

瀬川先生はBeovox C75は聴かれていないのだろうか。
瀬川先生はCX100をどう評価されただろうか。

こんなことを考えながら、David 50のもうひとつの系譜といえるスピーカーのことを思い浮べている。
エラックのCL310である。