五味康祐氏とワグナー(その4)
フルトヴェングラーは、
ドイツのクラシック音楽こそが音楽だ、といったことを言っている。
ドイツ音楽以外で認めていたのはショパンだけだ、とも言っている。
そうとうに極端なことであり、
フルトヴェングラー以外の人がこんなことをいったら、
「何をバカなことを!」と思われてしまう。
フルトヴェングラーのベートーヴェン、ブラームス、ワグナーなどを聴いていない人は、
フルトヴェングラーの言葉として知って聞いても「何をバカなことを!」と思うかもしれないが、
フルトヴェングラーの演奏に打ちのめされた経験のある聴き手ならば、
フルトヴェングラーの言葉としてなら、どこか納得してしまうところがある。
フルトヴェングラーの熱心な聴き手にも、そういうところがあるような気もする。
もしかすると逆なのかもしれない。
フルトヴェングラーの言葉を俟たずとも、
ドイツ音楽以外は認めない聴き手もいよう。
特に日本の聴き手にはいよう、
若い世代ではなく、戦争の前から音楽を聴いてきた聴き手にはいよう。
五味先生にも、そういう面(それに近いといえる面)があったように感じることが、
五味先生の書かれたものを読んでいるとある。
ショパンについても書かれいてるし、フランス音楽についても書かれている。
アメリカの現代音楽も一時期集中して聴かれている。
ドイツ以外の作曲家についてももちろん書かれている。
それでも、そんなことを感じてしまうのは、
おもにオペラについて書かれたものを読んでいる時である。
正確にいえば、読み終えてからである。
ワグナーについてはあれだけ書かれている。
けれどイタリア・オペラとなると、何か書かれているだろうか、と記憶を辿ることになる。
モーツァルトのオペラについては書かれているが、
そのほとんどはカラヤンの初期の演奏の素晴らしさを語る際に登場するのであり、
ワグナーのことを語り尽くそうとされている感じを、そこには求められない。