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Date: 2月 21st, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その13)

森本雅樹氏の記事のタイトルは、
「中高音6V6-S 低音カソ・ホロ・ドライブ6BQ5-PPの定電圧電源つき2チャンネル・アンプ」。
     *
 グッドマンのAXIOM 80というのはおそるべきスピーカです。エッジもセンタもベークの板で上手にとめてあって、f0が非常に低くなっています。ボイス・コイルが長いので、コーンの振幅はかなり大きくとれるでしょう。まん中に高音用のコーンがついています。ところが、エッジはベーク板でとめてあるだけなので、まったくダンプされていませんから、中音以上での特性のアバレが当然予想されます。さらにまたエッジをとめるベークをとりつけるフレームがスピーカの前面にあるのですが、それがカーンカーンとよくひびいた音を出して共鳴します。一本で全音域をと考えたスピーカでしょうが、どうしても高域はまったくお話になりません。ただクロスオーバを低くとれば、ウーファーとしては優秀です。
     *
1958年の記事ということもあって、森本雅樹氏のシステムはモノーラルである。
このころ日本でステレオ再生に取り組まれていた人はいたのだろうか。

森本雅樹氏のスピーカーシステムは、
ウーファーがAXIOM 80とナショナルの10PW1(ダブルコーンを外されている)のパラレルで300Hzまで、
スコーカーはパイオニアのPIM6(二発)を300Hzから2500Hzまで、
トゥイーターはスタックスのCS6-1で1500Hz以上を受け持たせるという3ウェイ。

森本雅樹氏はAXIOM 80を300Hz以下だけに、
しかもナショナルののユニットといっしょに鳴らされている。

高域はお話になりません、と書かれているくらいだし、
ウーファーとしては優秀とも書かれているわけだから、
こういう使い方をされるのかもしれないが、
瀬川先生にとっては、認め難い、というより認められないことだったはず。

一昨晩のOさんのやりとりの中でも出たことだが、
森本雅樹氏も、室蘭工大の三浦助教授も、学者もしくは学者肌の人であり、
エンジニア(それもオーディオエンジニア)とは思えない。

AXIOM 80の実測データについては(その4)で書いている。
高域はあばれているといえる特性である。
それにAXIOM 80の独特な構造上、一般的なスピーカーよりも共振物がコーンの前面にあるのも確かだ。

その意味でAXIOM 80を毒をもつユニットともいえる。
その毒の要素を、どう鳴らすか、鳴らさないようにするか。

森本雅樹氏は鳴らさないようにする手法を選択されている。
瀬川先生とは反対の手法である。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その12)

AXIOM 80について書きながら、また写経のことを考えていた。

川崎先生が2月5日に『とうとうその時期「写経」で自分の書を晒します』、
2月20日に『書そして運筆なら空海がお手本になる』、
書と写経についてブログに書かれている。

だからことさらにオーディオにおける写経について考えている。
昨晩、友人のOさんから連絡があった。
森本雅樹氏の記事を見つけた、という連絡だった。

森本雅樹氏については、天文学(特に電波天文学)に関心のある方ならご存知のはずである。
私は天文学にはほとんど興味はないが、森本雅樹氏の名前は、瀬川先生の文章に出てきているから、
なんとなくではあるが記憶にある。

ラジオ技術 1961年1月号掲載の「私のリスニング・ルーム」に、
瀬川先生が登場されている。タイトルは「ハイファイざんげ録」。

ここに森本雅樹氏の名前が出てくる。
     *
 それまでの私は、海外のオーディオ・パーツ、特にスピーカにはほとんど関心を示さず、かって、白い眼さえ向けさえ下。それは多分にラ技の影響でもあった。その私を〝改宗〟させたのが、いまだ愛聴しているGoodmansのAXIOM-80である。しかし私は、このAX’-80についてラ技誌上で多くを語ることをためらわずにいられない。かえって58年8月号に、森本雅樹氏がこのスピーカについてふれられた際〝……どうして、高域はまったくお話になりません〟ウンヌンと極言されておられ、さらにまたその年の2月のこの欄では、室蘭工大の三浦助教授が、AX’-80をやめて〝P社の12インチにとりかえた〟と書かれている。私自身はこのスピーカを、〝鳴らす〟ことがきわめてむずかしいスピーカだとつくづく感じているが、森本氏や三浦氏のようなベテランがこのスピーカごときを使い誤るようなことはあり得ようはずがない。とすれば、その〝お話にならない〟高音を、たいへん美しい、生々しさをともなったみごとな音だ、と感じる私の耳は異常なのだろうか、と私はたいそう心細くなるのである。
     *
ラジオ技術 1958年8月号の森本雅樹氏のアンプ製作記事のコピーを、
Oさんは送ってくれた。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その11)

AXIOM 80を鳴らすパワーアンプのことに話を戻そう。
真空管の格からいえば、45よりもウェスターン・エレクトリックの300Bが上である。
300Bのシングルアンプということも考えないわけではないが、
まずは45のシングルアンプである。

満足できる45のシングルアンプを作ったあとでの300Bシングルアンプ。
私にとってはあくまでのこの順番は崩せない。

既製品でも鳴らしてみたいパワーアンプはある。
First WattのSIT1、SIT2は一度鳴らしてみたいし、
別項「シンプルであるために(ミニマルなシステム・その16)」で触れていように、
CHORDのHUGO、もしくはHUGO TTで直接鳴らしてもみたい。

でもその前に、とにかく45のシングルアンプである。
45のシングルアンプにこだわる理由はある。

17年前、audio sharingの公開に向けてあれこれやっていた。
五味先生の文章は1996年から、瀬川先生の文章、岩崎先生の文章をこの時から入力していた。

入力しながら、これは写経のようなことなのだろうか、と自問していた。

手書きで書き写していたわけではない。
親指シフトキーボードでの入力作業は、写経に近いといえるのだろうか。

オーディオにとって写経とは、どういうことだろうか。
オーディオにとっての写経は、意味のあることなのだろうか。
そんなことを考えながら、入力作業を続けていた。

私がAXIOM 80、それに45のシングルアンプにここまでこだわるのは、
写経のように感じているからかもしれない。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(余談)

グルンディッヒのProfessional BOX 2500というスピーカーシステムは、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’80」で、
瀬川先生の組合せ(予算50万円)で登場している。

続いてステレオサウンド 54号(1980年春号)の特集にも登場し、
瀬川先生は特選機種にされている。

Professional BOX 2500は4ウェイ。
ウーファーとミッドバスはどちらも19cm口径。
密閉のブックシェルフ型で、
4ウェイということがイメージする本格的なスピーカーシステムというイメージからはほど遠い。
価格もJBL4343の約1/6の10万円である。

あまり注目されることのなかったスピーカーともいえる。
グルンディッヒには、このProfessional BOX 2500のアクティヴ型があった。
Akitiv Box 40というモデルで、4つのユニットにそれぞれ独立したパワーアンプを備えている。

4ウェイのマルチアンプ・ドライヴのシステムである。
価格は16万円。
Professional BOX 2500よりも6万円高いだけで、
4チャンネル分のパワーアンプとエレクトリッククロスオーバーを内蔵している。

Professional BOX 2500の価格もそうだが、
Aktiv Box 40もかなり安いと感じる。

Aktiv Box 40は、いったいどんな音だったのか。
瀬川先生は聴かれていないのか、
それとも聴かれたけれど芳しくなくて……、ということだったのか。

瀬川先生は、Professional BOX 2500の音を、
《ハイファイのいわば主流の、陽の当る場所を歩いていないスピーカーのせいか、最近の音の流れ、流行、
そういったものを超越したところで、わが道を歩いているといった感じがある》
と評価されていた。

4ウェイのマルチアンプ・ドライヴになっても、そういうところはそのままのはずである。
むしろマルチアンプ・ドライヴということから受けるイメージとは、
かなり遠いところで鳴っている音なのかもしれない。

「確信していること」の(その21)を書こうとしていて、
Akitv Box 40のことを思い出した次第。

Date: 2月 17th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その10)

それにしてもいつごろからオーディオ雑誌で、
技術用語が正しく使われなくなってきたのだろうか。

チョークコイルをチョークトランスともいう。
出力管の前段をドライバー段ともいう。

メーカーや輸入商社からの資料にそう書いてあるから、そのまま使う(写す)。
ひどいのになると、整流コンデンサーなるものを新発明している文章もあった。

誰しも間違える。
でも誰も気付かないというのは問題にしたい。

オーディオ評論家と呼ばれている人たちは、その間違いを指摘しないのだろう。
指摘しないのは、間違いだということに気づいていないからであるはずだ。

オーディオ評論家と呼ばれている人たちにも得手不得手があっていい。
すべてを知っているわけではない。

オーディオ評論家と呼ばれている人たちが、
チョークトランスとか整流コンデンサーとかを、原稿に書いてきたら、
編集者が朱を入れればいいのだが、ここでも気づかれずに活字になってしまう。

一度活字になってしまうと、チョークトランスが当り前になってしまう。
出力管の前段をすべてドライバー段(管)とするのが当然になってしまう。

いまの時代のオーディオ評論家と呼ばれている人たちや、
オーディオ雑誌の編集者たちは、そんなこまかいことどうでもいい、と思っているのかもしれない。

ならば、細部に神は宿る、といったことも口にしないでほしい。
ディテールが大切だ、ともいわないでいただきたい。

そんな感性では、AXIOM 80は鳴らせない、と断言しておく。

Date: 2月 16th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その9)

AXIOM 80を、私ならどう鳴らすか。
そんなことを妄想している。

まず考えるのはパワーアンプである。
ここは絶対に疎かに、いいかげんに決めることはできない。

まず浮ぶのは瀬川先生がAXIOM 80を鳴らされていたように45のシングルアンプ。
既製品では、そういうアンプはないから自分でつくるしかない。
瀬川先生は定電圧放電管による電源部、無帰還の増幅部で構成されている。

同じ構成にする手が、まずある。
45のフィラメントを、どうするか、とも考える。

シングルアンプだから、それにAXIOM 80の能率の高さと、
ハイコンプライアンスという構造上の問題からすれば、
ハムは絶対に抑えておきたいから、必然的に直流点火となる。

整流回路、平滑回路による非安定化電源か定電圧電源か。
ここは定電流点火としたい。

前段はどうするか。
最近のオーディオ雑誌では出力管の前段を、ドライバー段と表記しているのが目立つ。
前段の真空管をドライバー管ともいっている。

だが真空管アンプのベテランからすれば、わかっていないな、と指摘される。

トランジスターアンプと真空管アンプは、同じではないし、同じように語れるところもあれば、
そうでないところもある。
そのことがオーディオ雑誌の編集者も、
オーディオ評論家と呼ばれている人たちもわかっていないようだ。

無線と実験の別冊として以前出版されていた淺野勇氏のムック。
この本の巻末には、座談会が載っている。
ここでの伊藤先生の発言を読んだことのある人ならば、
出力管の前段をドライバー段とか、ドライバー管とはいわない。

もちろん正しくドライバー段と呼ぶ場合もあるが、
たいていの場合、ドライバー段と呼ぶのは間違いである。

私も、淺野勇氏のムックを呼ぶまでは(10代のおわりごろまでは)、
ドライバー段などといっていた。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(オーディオのこと)

KK塾のときは司会はいなかった。KK適塾にはいる。
毎回そうなのだが、KK適塾が始まる前に司会者からの注意事項がある。

そこにはSNSやブログに、内容について書くな、ということがある。
だからKK適塾になってからは、内容については書かないようにしている。

書きたいことはあっても、そういうことである。

1月のときは少し、今回のKK適塾でも、
川崎先生がオーディオについて語られている。
そのことについて書きたいのだが、書くな、という司会者のお達しだから、
このことについても書けない。

Date: 2月 10th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(四回目)

KK適塾四回目の講師は、河北秀也氏と北川原温氏。

今回、もっとも記憶残っている言葉は「文化」である。

十数年前、菅野先生が話してくださったことがある。
日本が失われたのは、明治維新によってであり、
第二次世界大戦の敗戦でさらに失われた──、
そんなことを趣旨のことだった。

このことを、ますます実感する世の中になってきている。
今日も明治維新という言葉が出てきた。

なるほど、と思うより、やはり、と思ってしまう。

十数年まえよりも、世の中にほころびが目立つ始めたようにも感じている。
文化が失われることによって、文明にほころびが生じてしまう。

今日の話を聞いていて、そのことを考えていた。

Date: 1月 25th, 2017
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーのこと(その16)

この項の(その1)を書いたのは、2008年9月だから、
このブログを始めたばかりのころである。
少し時間をかけすぎた、と反省している。

「菅野沖彦氏のスピーカーのこと」というタイトルで書こうと思ったのは、
そのころよく「菅野先生の音は、どういう音なんですか」と訊かれていたからだ。

できるかぎりの説明はするものの、それだけで伝わっているとは思っていない。
菅野先生の音を想像する、それも正しく想像するのに、何かきっかけとなる音、
それも聴こうと思えば、多くの人が聴ける音として、何があるだろうか、と考えた。

浮んだのは、B&OのスピーカーシステムBeoLab 5である。
2008年の段階で XRT20は製造中止になって久しいし、
マッキントッシュのラインナップからXRT20の後継機といえるモデルはなかった。

JBLの375を中心としたシステムは、
JBLのスピーカーシステムのラインナップに近いモノはない。

ジャーマン・フィジックスのDDD型を中心としたシステムに関しても、同じだ。

でも、これら三組のスピーカーに共通する要素を考え、抽出し、
その要素を備えているスピーカーシステムとなると、Beolab 5ということになる。

だから、「菅野先生の音は、どういう音なんですか」と訊ねてきた人に対して、
全員ではないけれど、何人かにはBeoLab 5を聴いてみることをすすめた。

Date: 1月 25th, 2017
Cate: 岩崎千明

想像つかないこともある、ということ(その9)

井上先生も2000年12月に亡くなられているから、もう確かめようはないが、
1977年以降のステレオサウンド別冊での組合せ例は、
岩崎先生の不在によって、大きくあいてしまった「空間」を、なんとかしようとされていたようにも、
いまになって思うのだ。

もっと早くに気づいていれば、直接井上先生に訊けたけれど、
でも井上先生のことだから、そうであったとしても、「そうだよ」とは言われなかっただろう。

若いうちは、こんなことはまったく想像できなかった。
けれど、いまはそうかもしれない、と気づく。

だから、あとどのくらいなのかはわからないが、
生きていれば、岩崎先生の音量についても、想像できるようになるかもしれない。

ステレオサウンド 130号の「レコード演奏家訪問」で、
菅野先生は上杉先生のリスニングルームを訪問されている。
記事の終りにある「訪問を終えて」に、こうある。
     *
たとえば、いまは亡き岩崎千明君の音に、僕はうまれてはじめて目から火が出る体験をいたしました。しかし、あの凄まじい大音量再生の攻撃的世界からも、デリカシーとしなやかさはじゅうぶんに感じとれたわけですね。世界には、森も草原も砂漠も海もあります。上杉さんは、おだやかな草原に、岩崎君は、嵐の海に生きられても、それぞれの世界に、優しさもあれば荒々しさもあることを汲み取っていただき、訪問記を読んでほしいものだと思います。
     *
「訪問を終えて」は菅野先生の書き原稿ではなく、話されたことを編集部の誰かかがまとめたものだろう。
些細なことだが、ひっかるところがある。
岩崎千明君、となっているところだ。

上杉先生のことはさん付けで呼ばれている。
なのに岩崎先生のことは君付けである。

菅野先生より上杉先生は若い。
岩崎先生は菅野先生よりも四つ上である。

菅野先生から岩崎先生の話は何度か聞いている。
菅野先生は岩崎さん、とたいていはそう呼ばれていたし、
時折、千明さん、でもあった。

千明さんは、ちあきさん、ではなく、せんめいさんである。

補足しておく。
岩崎千明は「いわさきちあき」である。
千明を「せんめい」と読んでいたのは、
岩崎先生と親しかった方たちである。

Date: 1月 20th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(三回目)

KK適塾三回目の講師は、太刀川瑛弼氏と村田智明氏。

前回に続いて今回も二人の講師。
時間の経つのを早く感じる。

太刀川瑛弼氏の話に源流に還るということがあった。
ここ数年、実感していることだけに首肯ける。
デザインもオーディオも同じである。

村田智明氏の話に出たskillとwill。
学校教育に関する話である。

これだけでは何のことかわからないだろう。
話をきいていれば納得できる。
確かにそうである。

このことに関することで関西で登校拒否の子供たちをあつめた学校の話もあった。
それから太刀川瑛弼氏が、寝屋子制度の話をされた。

寝屋子(ねやこ)は、はじめて聞く言葉だった。
三重県鳥羽市の答志島答志町での古くからの風習とのこと。

直接デザインに関係してなさそうなことであっても、決してそうではない、ということ。
オーディオでも同じだ。
直接関係してなさそうなことでも、決してそうではないことが実のところ数多く在る。

いくつかのキーワードがあった。
それらを書き出していこうかと思ったが、ひとつだけにしておく。

川崎先生が最後に話された「倫理」である。

この倫理がオーディオでは、正しい音につながっていき、
倫理を持たぬ人は、低い次元の好きな音に留まっている。

Date: 1月 17th, 2017
Cate: 井上卓也

井上卓也氏の言葉(その3)

井上先生はよくいわれていた。
「レコードは神様だ、疑うな」と。

このことは二度書いている。
何度か話したこともある。

そうすると反論みたいなものが返ってくる。
現実にはひどい録音があるじゃないか、と。

確かにそんな録音のものはある。
でもメジャーレーベルから出ていて、箸にも棒にもかからないほど、
どうしようもない録音はまずない、といえる。

たいていの場合、メジャーレーベルの録音がうまく鳴らない時は、
こちら側の問題であることが大半である。

井上先生は、同じように「スピーカーを疑うな」ともいわれた。
ここでも、ひどいスピーカーは確かにある。
けれど一般的に在る程度の評価を得ているスピーカーが、
まったくうまく鳴らないのであれば、鳴らし手の問題であることがほとんどだ。

スピーカーのせいにするな、とも続けていわれていた。

このふたつの井上先生の言葉を聞いて、
反論みたいなものを返してくる人の多くは、
オーディオの想像力が欠如している、といまでは思っている。

Date: 1月 13th, 2017
Cate: 五味康祐

「三島由紀夫の死」

12日、TBSの番組で、三島由紀夫が自決する九ヵ月前の未発表の録音テープの一部が放送された。
新聞でもニュースとなっている。

五味先生の「天の聲」に「三島由紀夫の死」が収められている。
初めて読んだ時も、その後、何度か読み返した時も、
そして、ついいましがた読み返した時も「三島由紀夫の死」には圧倒されるものがある。

最後のところだけを書き写しておく。
     *
 本気なら、あの切腹もそうなのか? 壮烈な三島美学の完結だという見方があるが、この話を聞いて私は涙がこぼれた。三島君はヤアッと大声もろとも短剣を突立てたそうだ。切腹の作法で、武士が腹を切るのに懸け声をあげるなどは聞いたことがない。切腹には脇差を遣って短刀はつかわない。それにあの辞世である。「益荒男が……」と短冊に書いて「三島由紀夫」と署名してあった。辞世には名前は入れないのが故実である。三島君は、わざわざ姓まで書き加え、更に落款を押している。ものを知らぬにもほどがあると、普通なら私は呆れたろう。週刊誌にこの『辞世』のグラビアを見た時はぼろぼろ涙がこぼれた。三島君が武士の作法を知らぬわけはないと思う。あれは死をかけた三島君の狂言ではないのか。三島君はあの衝撃的な自決を計算しないで行なったように見えるが、檄に見られる稚さと、落款と、署名と短刀でのかけ声をおもうと、抱きしめてあげたいほどの凡夫だ。精一杯、三島君はやったのだ。なんという素晴らしい男か。虚飾の文学を、彼に冠せられていた天才の虚名を、彼はその血で粉砕して死んだ。あの自決はナショナリズムなんかではない、文学者三島由紀夫の死だ。ナショナリズムなら、三島君はあのバルコニーで割腹しながら自衛隊員に話しかけたと私は思う。そうすればヤジは飛ばなかったろう。目の前で腹を裂いて叫ぶ男の声を、人は聴いたろう。三島君の名を以てすればあの場合、それはできたはずである。村上義光の最期のように。だが三島君はしなかった、詩人の含羞みを知っていたからだ。
 彼はナショナリストではない。文学者だ、文学者が志すところを述べ、ジャーナリズムのすべての虚飾を粉砕して死んだのだ。これほど誠実な作家の死に方はない。断じて彼は軍国調の復活など意図していない。麗々しい美文の内容空疎なおのれの作品を三島君は誰よりも知っていて、血で贖った。世間が彼の死にうたれたのはそんな人間としての誠実さに対してだった。今こそ、そういう意味でもぼく達は大切な日本人を、この日本で失った。人さまにはどう見えようと私はそう思う。そう思う。
     *
三島由紀夫は《ワグナーをよく聴いている》とある。

Date: 12月 22nd, 2016
Cate: 川崎和男

KK適塾(二回目)

KK適塾二回目の講師は、澄川伸一氏と原雄司氏。
川崎先生を含めて講師は三人となると、
いつもと同じ時間であっても、短く感じてしまう。

タイムテーブル通りに進むことは大事であっても、
ひとりひとりの時間が短い。
三人ゆえの話も聞けたのだから……、と思っているけれど、それでも……、と感じる。

感じるといえば、今回はじめて感じたことがもうひとつある。
澄川伸一氏のプレゼンテーションで、はじめに三分ほどの動画が、
スクリーンに映し出された。

澄川氏がこれまでデザインされた作品が映し出された。
音楽も流れている。

そこでの音楽の選曲はよかった。
よかっただけに、そして映し出される澄川氏の作品が素晴らしいだけに、
その音の質が気になった。

作品、曲に対して、音が劣っている。
たいていのところで、音はないがしろにされている。
2015年度のKK塾、今年度のKK適塾、
会場は同じだから、そこで鳴る音がどの程度なのかはわかっている。

それまでも音は悪いな、と思うことはあったが、そこまでだった。
でも今回は、音の質。
ここでの質とは(しつ)であり(たち)でもあり、
特に質(たち)がスクリーンに映し出されている作品と曲にそぐわなすぎていた。

BGM(ここではBGMといっていいだろうかとも思う)の有無、
あるならばどういう曲なのかによって、スクリーンに映し出されるものの印象は、
大きく影響を受ける。

でもそこでの音の質(しつとたち)も同じに、影響を与える。
むしろ私の耳には、質(たち)のそぐわなさが気になりすぎた。

これからのプレゼンテーションにおける音の質(しつとたち)について、
これからのKK適塾がどう答(音)を提示してくれるのかが楽しみである。

Date: 12月 15th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その8)

ここでのタイトルはあえて「AXIOM 80について書いておきたいこと」とはしなかった。
何かはっきりとした書いておきたい「こと」があったわけではなく、
ここでも半ば衝動的にAXIOM 80について書いておきたい、と思ったことから書き始めている。

書き始めは決っていた。
AXIOM 80というスピーカーユニットを知ったきっかけである。
それが(その1)であり、(その1)を書いたことで(その2)が書けて、
(その2)が書けたから(その3)が……、というふうに書いてきている。

ここではたどり着きたい結論はない。

ここまで書いてきて、オーディオにおける浄化について考えている。
オーディオを介して音楽を聴くことでの浄化。

浄化とは、悪弊・罪・心のけがれなどを取り除き,正しいあり方に戻すこと、と辞書にはある。
音楽を聴いて感動し涙することで、自分の裡にある汚れを取り除くことが、
オーディオにおける浄化といえる。

でもこの項を書いてきて、それだけだろうか、と思いはじめている。
裡にある毒(汚れとは違う)を、美に転換することこそが、
オーディオにおける浄化かもしれない、と。