「三島由紀夫の死」
12日、TBSの番組で、三島由紀夫が自決する九ヵ月前の未発表の録音テープの一部が放送された。
新聞でもニュースとなっている。
五味先生の「天の聲」に「三島由紀夫の死」が収められている。
初めて読んだ時も、その後、何度か読み返した時も、
そして、ついいましがた読み返した時も「三島由紀夫の死」には圧倒されるものがある。
最後のところだけを書き写しておく。
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本気なら、あの切腹もそうなのか? 壮烈な三島美学の完結だという見方があるが、この話を聞いて私は涙がこぼれた。三島君はヤアッと大声もろとも短剣を突立てたそうだ。切腹の作法で、武士が腹を切るのに懸け声をあげるなどは聞いたことがない。切腹には脇差を遣って短刀はつかわない。それにあの辞世である。「益荒男が……」と短冊に書いて「三島由紀夫」と署名してあった。辞世には名前は入れないのが故実である。三島君は、わざわざ姓まで書き加え、更に落款を押している。ものを知らぬにもほどがあると、普通なら私は呆れたろう。週刊誌にこの『辞世』のグラビアを見た時はぼろぼろ涙がこぼれた。三島君が武士の作法を知らぬわけはないと思う。あれは死をかけた三島君の狂言ではないのか。三島君はあの衝撃的な自決を計算しないで行なったように見えるが、檄に見られる稚さと、落款と、署名と短刀でのかけ声をおもうと、抱きしめてあげたいほどの凡夫だ。精一杯、三島君はやったのだ。なんという素晴らしい男か。虚飾の文学を、彼に冠せられていた天才の虚名を、彼はその血で粉砕して死んだ。あの自決はナショナリズムなんかではない、文学者三島由紀夫の死だ。ナショナリズムなら、三島君はあのバルコニーで割腹しながら自衛隊員に話しかけたと私は思う。そうすればヤジは飛ばなかったろう。目の前で腹を裂いて叫ぶ男の声を、人は聴いたろう。三島君の名を以てすればあの場合、それはできたはずである。村上義光の最期のように。だが三島君はしなかった、詩人の含羞みを知っていたからだ。
彼はナショナリストではない。文学者だ、文学者が志すところを述べ、ジャーナリズムのすべての虚飾を粉砕して死んだのだ。これほど誠実な作家の死に方はない。断じて彼は軍国調の復活など意図していない。麗々しい美文の内容空疎なおのれの作品を三島君は誰よりも知っていて、血で贖った。世間が彼の死にうたれたのはそんな人間としての誠実さに対してだった。今こそ、そういう意味でもぼく達は大切な日本人を、この日本で失った。人さまにはどう見えようと私はそう思う。そう思う。
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三島由紀夫は《ワグナーをよく聴いている》とある。