Archive for category ベートーヴェン

Date: 8月 24th, 2013
Cate: ベートーヴェン

待ち遠しい(アニー・フィッシャーのこと・余談)

アニー・フィッシャーに関する情報は、昔は少なかった。
いまではインターネットのおかげで、
私がアニー・フィッシャーをはじめて聴いた時に比べればずっと多くの情報が得られるとはいえ、
それでもほかのピアニストと比べれば、情報はそれほど多くはない。

それでもアニー・フィッシャーが素晴らしいピアニストであることにはなんら影響を与えることはないのだが、
それでもアニー・フィッシャーの人となりは、少しは知りたい気持は、いまもある。

twitterには、Botとよばれる、著名人の発言をツイートするアカウントがある。
私もそんなBotをいくつかフォローしていて、そのなかのひとつにRichterBotがある。

ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルに関するものだ。
今日ツイートされた中に、リヒテルがアニー・フィッシャーについて語っているものがあった。
     *
(アニー・フィッシャーは)実に率直な人物で、私の見るところ外交辞令など一切抜きである。だから言うことが信じられる。何でも包み隠さず、こちらの目を見ながら言ってくれる。私の弾いたバッハ『フランス組曲ハ短調』とモーツァルトの『ソナタへ長調』の演奏を的確に批判したことをよく覚えている。
     *
やはり、そういう人だったんだ、と思った。

Date: 7月 31st, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その5)

アンドラーシュ・シフのCDをはじめて聴いた時のことが思い出されてきた。
その時受けた印象が、まるっきり同じである。

だからといってシフが変っていないわけではない。
約20年の歳月、私もそれだけ歳をとっているし、シフだって同じに歳をとっている。
20年前に鳴らしていたオーディオ機器は、なにひとついまはない。
まったく違うオーディオ機器で鳴らしての印象が同じだった。

たとえ同じオーディオ機器を持っていて、住んでいるところも同じだったとしても、
20年前の音と2004年の音がおなじなわけはない。

まわりの環境も、ほぼすべてが変っている。
変っていないものといえば、
デッカ時代のシフゴールドベルグ変奏曲のCDに刻まれているピット(データ)だけしかない。

そのデッカ時代のゴールドベルグ変奏曲のCDを、2004年に聴いたところで、
20年前と同じ印象を受けることは、まずない。
そういうもののはずだ。

にも関わらず、シフの20年ぶりのゴールドベルグ変奏曲の新録を聴いて、
20年前にはじめてシフの演奏を聴いた時と同じ印象を受けている──、
つまり変っていないものを聴いて変化に気付き、
変っているものをきいて、変っていない、と感じる。

このことが意味するところを考えると、
アンドラーシュ・シフの音楽家としての才能の豊かさとか素晴らしさ、といったことではなく、
シフというピアニストの特異性のようなものに気づく。

そして、それからシフのECMでの録音を集中的に聴くようになった。
20年前と同じことをくり返していた。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その4)

アンドラーシュ・シフのゴールドベルグ変奏曲のECM盤をもらったのは、
2004年の1月か、そのあたりだったと記憶している。

シフのゴールドベルグ変奏曲は20年ぶりの再録音である。
デッカでの旧録はスタジオ、ECMの新録はライヴである。

最初,そのことに気づかずにCDプレーヤーにディスクをセットした。
ピアノ・ソロだから、だいたい音量はこのくらいかな、という位置にレベルコントロールをセットした。
すぐに音が出てくるものとかまえていたら、肩透かしをくらった。
演奏が始まるまで(最初の一音が鳴り出すまで)に、すこしばかり時間がかかる。

どうしたのかな、と思っていると、音が鳴り出す。

ライヴ録音だということをジャケットを聴く前に読んでいたら、
どうしたのかな、と思うことはなかったわけだが、
身構えていたのに肩透かしをくらったことは、よかったのかもしれない。

とにかくシフの音は美しかった。
1980年代に、デッカの旧録を聴いた時のことが思い出されてきた。
あの時と、まったく同じだ、と思っていた。

もちろんまったく同じだ、といっても、完全に同じというわけではない。
でも、1980年代にまだ20代のときにシフの演奏を聴いて受けたものと同じものを、
2004年、40代になっていた私は、感じていた。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その3)

1980年代のある時期、アンドラーシュ・シフのCDを、
グレン・グールドよりも集中して聴いていた。

シフは1953年生れだから、グールドよりも21若い。
当然、その分だけ録音も新しい。
新しい録音による魅力も、シフのCDにはあったから、よけいに集中して聴いていたところもある。

グールドの演奏は、人によっては、受け入れらないという面があるようだ。
私にはそれはないのでなんともいえないけれど、
グールドについて否定的な人もいることは知っている。

シフの場合はどうだろう。
これも想像でしかないのだが、グールドを否定するような意味でシフで否定する人はいないような気もする。

だからシフの演奏はつまらない──、ということにはならない。
そんなレベルでの、シフの演奏ではない。
そうであったらシフの演奏に夢中になるわけがない。

素晴らしいピアニストだと思う。
なのに、ふと気がつくと、シフのCDをかけることがなくなっていた。
そうなるとシフの新譜にも関心が薄れていく。

実はシフがECMに移ったことも知らなかった。
「気に入ると思って」という言葉とともに、シフのゴールドベルグ変奏曲の新録のCDをもらったとき、
懐かしいな、というおもいだけだった。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その2)

アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノソナタ。
最後の三曲をおさめたVol.8を聴いて、そこに「ないもの」を感じとった。
そのことは、この項の(その1)に書いている。

このシフのベートーヴェンを手に入れてしばらくは集中して聴いていた。
いい演奏だ、と思う。
たしかに「ないもの」があることは、私にとっては事実であるが、
このベートーヴェンが、高く評価されることに否定的であったり、どこかおかしいと思ったりはしない。

それで、いまもシフのベートーヴェンを聴いているかというと、
一年以上聴いていない。
もっともベートーヴェンのピアノソナタの、最後の三曲はそうたびたび聴く性質のものでもないから、
そんなことも関係しているといえばそうなるけれど、
他のピアニストによるベートーヴェンのピアノソナタは聴いているわけで、
シフのディスクに手が伸びることがなくなった、ということになる。

ECMになってからのシフの素晴らしさに気づかせてくれたのは、
ある人からもらったバッハのゴールドベルグ変奏曲のCDだった。

それほど深い付き合いではない人から、
「気に入ると思って」という言葉とともにもらった。

アンドラーシュ・シフだ、懐かしいなぁ、とその時は思っていた。
1980年代、シフがデッカに録音していたころ、
シフの新譜は必ず聴いていた時期があった。

グールドのバッハは素晴らしい、
シフのバッハも、またいいな、と思い、このときもシフのCDを集中的に聴いていた。

あのときも、いつのまにかシフのCDに手が伸びなくなっていた。

Date: 2月 12th, 2013
Cate: ベートーヴェン

待ち遠しい(アニー・フィッシャーのこと)

読響アーカイブ・シリーズとして、
ハンガリーのピアニスト、アニー・フィッシャーによるモーツァルトのピアノ協奏曲のCDが今月末発売される。

20番と23番のカップリングで、
20番は1983年公演、23番は1994年公演を収録したもの。

1994年の公演には行けなかったが、1983年の公演には行っている。
といっても、今回発売されるCDの公演ではなく、アニー・フィッシャーのソロ・リサイタルのほう。

実はアニー・フィッシャーの名前は、そのときまで知らなかった。
ただ何かのコンサートにいったとき、会場の前で配られるチラシの束のなかに、
アニー・フィッシャーのリサイタルのものがはいっていたのが、きっかけといえばきっかけであった。

この手のチラシには、聴き手の興味を煽るようなことも書かれていることがある。
いかにも、素晴らしい演奏家が来日してくれる、といったようなことも書かれていることがある。
30年前のことだから、なぜ興味をもったのかも憶えていない。

おそらくベートーヴェンの後期のピアノソナタを、コンサートで聴いてみたい。
ただ、それだけで聴きにいったのかもしれない。

期待していたとはいえない聴き手であった私だったけれど、
当日のベートーヴェンには圧倒されたことだけ、いまでも心に残っている。

このときだけである、楽屋まで行きサインをもらったのは。
とにかくアニー・フィッシャーという人を間近でみたかった。

小柄な人だった。
1914年生れだから、このとき69歳か68歳。
煙草をくわえてのサインに応じているアニー・フィッシャーの姿は、独特の貫禄があった。

このときハタチの若造は、
その日のベートーヴェンがどう素晴らしかったのもよくわからず、ただ感動していただけだった。
だから、その日から30年経ち50になった耳で、
もういちど、あの夜のアニー・フィッシャーのベートーヴェンを聴きたい、と思う。

30年前、行けなかったモーツァルトのピアノ協奏曲も素晴らしいとおもうし、
いまから聴けるのを楽しみにしている。
それでも、私としては、あの日のベートーヴェンをもういちど確認したい。

録音されているのかどうかもわからない。
残っているのであれば、ぜひCDにしてほしい。
その日がくるのであれば、待ち遠しい。

Date: 3月 22nd, 2012
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その8)

1989年12月25日に、ベルリンの壁崩壊を記念して、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮していることは、よく知られている。

このニュースをきいたとき、このとき存命中の指揮者で、
この「第九」にふさわしく思えたのは、やはりバーンスタインだった。
ジュリーニも素晴らしい指揮者で、私にとって大事な指揮者のひとりではあっても、
こういう場の「第九」だと、バーンスタイン以外に、誰か適任がいるだろうか、と思える。

ベルリンの壁がどういう存在であったのかは、文字、映画などで知っているだけである。
いつかは無くなる日が来るはず、とは思っていても、それがいつの日なのかはまったく見当がつかなかったし、
漠然とではあったが、それはずっとずっと遠い日のような気がしていたから、
ベルリンの壁崩壊のニュースを聞いたとき、信じられない、という思いが強かった。

もし日本が東西に壁によって分離されていたら……、そしてその壁がやっと崩壊したとしたら、
そのとき日本では、何が演奏されるだろうか、と考えたりもした。
自国の作曲家の作品でなにかあるだろうか。
やはり、ベートーヴェンの「第九」が演奏されるだろう、としか思えなかった。

ベルリンの壁の存在がどれほどの存在であったのかを実感している人間でないから、
こんなことを言えるのかもしれないが、
ベートーヴェンの「第九」をもつドイツ人は、倖せかもしれない、と。

ベルリンの壁はカラヤンが生きているときに建築され、
カラヤンが生きているあいだは存在していた。壁崩壊の4ヵ月前にカラヤンは亡くなっている。

別項の「プロフェッショナルの姿におもう」を書いているせいだろうが、
カラヤンがもしあと数ヵ月ながく生きていたら、もしかすると壁崩壊を記念しての「第九」を、
カラヤンもまた振ったことだろう。
ウィーン・フィルハーモニーとではなく、やはりベルリン・フィルハーモニーを指揮しての「第九」だったはず。

フルトヴェングラーは壁が建設される前にこの世を去っている。
カラヤンは壁があった時代に、クラシック界の頂点に昇りつめた。

ベルリンの壁はカラヤンの演奏に、なんらかの影響を与えていたのだろうか……。
カラヤンの最晩年の演奏は、壁の崩壊を予感していたのだろうか……。

こんなことは私の勝手な妄想にすぎないけれど、
なにかどこかカラヤンの演奏の変化はベルリンの壁の存在とリンクしているところがあるような気もする。
でも、これは私のこじつけでしかないはず。

それでも、カラヤンがもし生きていたら、
そのときの「第九」は永く語り継がれるものになっていた──、と、
なぜかそう信じられる。

Date: 2月 21st, 2012
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その6)

断わるまでもなく私はオーディオ・マニアである。気ちがい沙汰で好い再生音を希求してきた人間である。大出力アンプが大型エンクロージュアを駆動したときの、たっぷり、余裕を有って重低音を鳴らしてくれる快感はこれはもう、我が家でそういう音を聴いた者にしかわかるまい。こたえられんものである。75ワット×2の真空管アンプで〝オートグラフ〟を鳴らしてきこえる第四楽章アレグロは、8ワットのテレフンケンが風速三〇メートルの台風なら五〇メートル級の大暴風雨だ。物量的にはそうだ。だがベートーヴェンが苦悩した嵐にはならない。物量的に単にffを論じるならフルトヴェングラーの名言を聴くがいい。「ベートーヴェンが交響曲に意図したところのフォルテッシモは、現在、大編成のオーケストラ全員が渾身の力で吹奏して、はるかに及ばぬものでしょう。」さすがにフルトヴェングラーは知っていたのである。
     *
上に引用した文章は五味先生の書かれたものだ。
「人間の死にざま」に収められている「ベートーヴェンと雷」の中に出てくる。
だから第四楽章アレグロとは、交響曲第六番のそれである。
75ワット×2の真空管アンプは、説明する必要はないだろうが、マッキントッシュのMC275のこと。
テレフンケンとは、テレフンケン製のS8のスピーカーシステム部のことで、
8ワットは、300Bシングルのカンノ・アンプのことだ。

この項の(その4)で引用した中野英男氏の文章の中に、
「シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである」と。
あのレコードとは、若林駿介氏の録音による、
岩城宏之氏指揮のベートーヴェンの交響曲第五番とシューベルトの未完成のカップリングのレコードのこと。
中野氏は、「日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴らしいレコード」と書かれている。
そのレコードを、シャルランは全く認めなかったのは、
結局のところ、引用した五味先生の文章が語っていることと根っこは同じではなかろうか。

どんなに素晴らしい音で鳴ろうが、交響曲第六番の四楽章をかけたとき、
それが「ベートーヴェンが苦悩した嵐」にならなければ、それはベートーヴェンの音楽ではない。

シャルランが言いたかったことは、そういうことではないのだろうか。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その2)

ほんとうに、この曲は傑作だ、と思えた瞬間だった。
アバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏によって、心からそう感じることができた。

それからはそれまで買って聴いていたディスクをひっぱり出して、ふたたび聴きはじめていた。
フルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーの演奏に圧倒された。
五味先生が「フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を知ったようにおもうのだ」
と書かれたことが実感できたのは、私にとってはアバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏があったからである。

アバド/ウィーンフィルハーモニーのディスクがもし登場していなかったら、
登場していたとしても、アバドのベートーヴェンなんて、という思い込みから手にとることさえしなかったら、
ベートーヴェンの交響曲第三番の素晴らしさに気づかずに20代を終えていたかもしれないと思うと、
なんといったらいいのか、或る意味、ぞっとする。

アバド/ウィーンフィルハーモニーの交響曲第三番は、これだけでは終っていない。
このディスクを聴いてしばらくしたったときの朝。
ステレオサウンドに通うために、このころは西荻窪に住んでいたので荻窪駅で下車して丸ノ内線に乗り換えていた。
電車が荻窪駅に停車する寸前、ドアの前に立っていた私の頭の中に、
ベートーヴェンの交響曲第三番の第一楽章が鳴り響いた。

こんな経験ははじめてだった。
いきなり、わっ、という感動におそわれた。もうすこしで涙がこぼれそうになるくらいに。
なぜか、その演奏がアバド/ウィーンフィルハーモニーのものだ、とわかった。

だからというわけでもないが、私はアバド/ウィーンフィルハーモニーの第三番には恩に近いものを感じている。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その1)

ベートーヴェンの交響曲第三番は、ベートーヴェン自身のそれ以前の交響曲、第一番と第二番だけでなく、
他の作曲家によるそれ以前の交響曲とも、なにか別ものの交響曲としての違いがあるのは、
頭では理解できていても、実を言うと、なかなか第三番に感激・感動というところまではいけなかった時期があった。

世評の高いフルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーによるレコードは、もちろん買って聴いた。
他にもカラヤン/ベルリンフィルハーモニー、トスカニーニ/NBC交響楽団、
ワルター/コロンビア交響楽団なども買って聴いた。

五味先生は「オーディオ巡礼」の所収の「ベートーヴェン《第九交響曲》」の冒頭に書かれている。
     *
ベートーヴェンでなければ夜も日も明けぬ時期が私にはあった。交響曲第三番〝英雄〟にもっとも感激した中学四年生時分で、〝英雄〟は、ベートーヴェン自身でも言っているが、〝第九〟が出るまでは、彼の最高のシンフォニーだったので、〝田園〟や〝第七〟、更には〝運命〟より作品としては素晴しいと中学生でおもっていたとは、わりあい、まっとうな鑑賞の仕方をしていたなと今はおもう。それでも、好きだったその〝英雄〟の第二楽章アダージォを、戦後、フルトヴェングラーのLHMV盤で聴くまでこの〝葬送行進曲〟が湛えている悲劇性に私は気づかなかった。フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を私は知ったようにおもうのだ。
     *
そのフルトヴェングラーの演奏でも、〝英雄〟の素晴らしさをうまく感じとれない、ということは、
ベートーヴェンの聴き手として、なにか決定的に足りないところが私にあるんだろうか、
このまま、この先ずっと交響曲第三番に感動することはないまま生きていくのだろうか、
と不安にちかいものを感じていたことが、20代前半にあった。

それでも交響曲第三番の新譜が出れば、買っていた。
1985年録音のアバド/ウィーンフィルハーモニーのCDも、そうやって購入した一枚だった。
クリムトのベートーヴェン・フリーズがジャケットに使われたディスクだ。
アバド/シカゴ交響楽団のマーラーは聴いていたけれど、正直、アバドのベートーヴェンにはさほど期待はなかった。

CDプレーヤーのトレイにディスクを置いて鳴らしはじめたときも、
ながら聴きに近いような聴き方をしていたように記憶している。
なのに鳴り始めたとほぼ同時に、
いきなり胸ぐらをつかまれて、ぐっとスピーカーに耳を近づけられたような感じがした。
目の前がいきなり拓(展)けた感じもした。
このとき、ベートーヴェンの交響曲第三番に目覚めた感じだった。

Date: 12月 29th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 挑発

挑発するディスク(余談・その4)

「ベートーヴェン(動的平衡)」の項で書いたように、
ベートーヴェンの音楽、それも交響曲を音の構築物、それも動的平衡の音の構築物であるからこそ、
それに気がついたからこそ、できればモノーラルではなくステレオの、
それも動的平衡の音の構築物であることをとらえている録音で聴きたい、と変ってきたわけだ。

この心境の変化のつよいきっかけとなったのは、
菅野先生のリスニングルームで聴いたケント・ナガノ/児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番である。

このケント・ナガノ/児玉麻里のディスクを買ってきたから、といって、
すぐに誰にでも、動的平衡による音の構築物としてのベートーヴェンの音楽を再現できるわけではないものの、
このディスクが、そういえる領域で鳴ってくれることは確かななことである。
そういうことを考え、感じさせる音で録音・再生できる時代に──それはたやすいことではないにしても──、
いまわれわれはいる。

ベートーヴェンの音楽が音の構築物であることは、以前から思っていた、感じていた。
けれど「音の構築物」というところでとまっていた。
それが福岡伸一氏の「動的平衡」ということばと菅野先生のところで聴けたピアノ協奏曲第1番があって、
動的平衡の音の構築物という認識にいたることができた、ともいえる。

そうなってしまうと、むしろマーラーの交響曲に求める以上に、優れた録音でベートーヴェンの交響曲を聴きたい、
という欲求が強くなってきている。
それも細部までしっかりととらえた録音ではものたりない、
あくまでも動的平衡の音の構築物としてのベートーヴェンの交響曲をとらえたものであってほしい。

今日、シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のベートーヴェンの第九番を聴いた。
来年早々にはティーレマン/ウィーンフィルハーモニーのベートーヴェンが聴ける。
楽しみである。
そして、これらのディスクを聴いて、フルトヴェングラーのベートーヴェンへ戻りいくことが、
さらなる深い楽しみである。

Date: 11月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その5)

シャルランのことば、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
あくまでも、この本「音楽 オーディオ 人々」の著者、中野氏が書かれたことばである。

つまりシャルランが直接言ったことそのままではない。
シャルランはフランス人だし、とうぜんそこではフランス語で話したであろうし、
中野氏はその現場にはおられず、若林氏から伝え聞かれたことを、中野氏のことばで日本語にされているわけだから、
この「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という表現を、
細部にとりあげて論じることは、逆にシャルランの意図を曲解してしまうことにもなると思う。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」

このことばが伝えたがっていることは、直感で受けとめるしかない、と思う。
そしてこのことばは、ききてにとっても、そのまま投げかけられることだとも思っている。

シャルランが、レコードを再生することをどう捉えていたのかは、はっきりとはわからない。
レコード演奏という観念は、シャルランにあったのかなかったのかは、わからない。
それは、まあどうでもいい。

オーディオを介して音楽を聴く行為を、レコード演奏として捉えている人にとっては、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は
重いことばとなってのしかかってくる。

レコード演奏という観念をもたずに、
オーディオにも関心をもたずにレコードから流れてくる音楽を鑑賞するという立場にとどまっている分には、
シャルランのことばは、関係がない、といえる。

けれど、より積極的に、能動的にレコードにおさめられている音楽を聴く行為を臨むのであれば、
シャルランの真意をはっきりと感じとる必要がある。

Date: 10月 15th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その4)

中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章がある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之──N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
この中野氏の文章を引用したのは、若林氏、それに若林氏の録音についてあれこれ書きたいからではない。
シャルランの「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という言葉に、
若林氏も中野氏も大きな衝撃を受けられている。

なぜシャルランは、若林氏(日本から来た若いミキサー)のことを気に入って、
若林氏が持参したベートーヴェンとシューベルトのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みながらも、
最後に、このレコードの存在価値をまったく認めていないということを、
あえて「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのか。

このレコードを私は聴いたことがない。
でも、おそらく、このレコードには、
ベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として収録されていなかった、のではないだろうか。

ベートーヴェンの音楽をベートーヴェンの音楽として録音することは、
適切な位置にマイクロフォンを設置して、適切なバランスでミキシングし、
録音器材にも良質なものを使い、つねに細部まで注意をはらえば、
それでベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として収録されるわけではない。

ベートーヴェンの音楽をベートーヴェンの音楽として収録するには何が求められるのか。
シャルランが録音を担当したイヴ・ナットのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集に答がある。
けれど、まだ私はそこから読み解けて(聴き解けて)いない。
それでも、イヴ・ナットのベートーヴェンの録音には、
ベートーヴェンの音楽がベートーヴェンの音楽として鳴っている。

そんなシャルランだからこそ、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と問えるのである。

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その4)

グレン・グールドの、この言葉も、長いスパンでの動的平衡を語っている、と私は感じている。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。

Date: 8月 25th, 2011
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(動的平衡・その3)

ベートーヴェンの音楽を聴いて、そこになにを感じとるかは、誰が聴いても共通しているところがありながらも、
聴く人によって、さまざまに異って受けとめられることもある。
別に、これはベートーヴェンの音楽についていえることではなく、他の音楽についても同じなのだが、
それでもベートーヴェンは、私にとっては特別な作曲家であって、
ベートーヴェンの、それもオーケストラによる音楽(交響曲、協奏曲など)を聴いて、
そのことにまったく無反応、なにも感じられない人とは、ベートーヴェンについて語ろうとは思わない。

これがほかの作曲家だったら、話をしてみようと思うことはあっても、
ことベートーヴェンに関しては、譲れない領域がある。
そのひとつが、ベートーヴェンの音楽は、音による構築物、ということだ。

この構築物は、聴き手の目の前に現れる、そしてそれを離れたところから眺めている、というものではなく、
その中に聴き手がはいりこむことが可能な音の構築物であり、
しかも音楽の進行とともにその構築物も大きさを変え形も変っていく。

これをいい変えれば、福岡伸一氏が「動的平衡」について語られた
「絶え間なく流れ、少しずつ変化しながらも、それでいて一定のバランス、つまり恒常性を保っているもの」となる。

ベートーヴェンの音楽がつくり出す音による構築物は、まさにこの「動的平衡」がある。
静的平衡の構築物ではないからこそ、音による構築物なのだ。

ベートーヴェンの音楽は、いま鳴っている音が、次に鳴る音を生むようなところがある。
世の中には、残念ながら、ベートーヴェンの音楽が鳴らないオーディオが存在する。
そういう音は、意外にもどこかに破綻したところがあるわけではない。
注意深くバランスをとった音でも、それが静的平衡の領域にとどまったバランスであるかぎり、
そのオーディオでは、私はベートーヴェンを聴きたくない。