Archive for category オーディオ評論

Date: 12月 17th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その8)

その7)に書いている広告代理店とメーカーの、かなりずうずうしいといえる依頼。
こんなことを平気でいってくる広告代理店は、
つまり、それが当り前のように通るものだ、と思っているからだろう。

もちつもたれつなのはわかっている。
完成品でなくとも、プリプロダクツ(量産直前の生産モデル)ならば、まだわかる。
けれど、その時のCDプレーヤーはプリプロダクツともいえない段階だった。

そういうモノを試聴用として持って来ていて、
文句をいれてくる。

オーディオ評論家(商売屋)とオーディオ評論家(職能家)がいる。
オーディオ雑誌の編集者も同じだ。
編集者(商売屋)と編集者(職能家)がいる。

その時の私が、編集者(職能家)だった、とはいわない。
だが編集者(商売屋)ではなかった、とはっきりと言い切れる。

広告代理店の人も同じだ。
商売屋と職能家がいよう。

試作品のCDプレーヤーが、どういう段階のモノなのか、
それすらも理解せずに、ごり押しすれば……、と考えていたのだろうか。
はっきりと商売屋でしかない。

編集者、広告代理店の他にも、いえる。
出版社の営業部の人たちだ。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(余談)

オーディオ評論というテーマで、150本以上書いてきている。

書きながら、思い出したことがある。
(じろん)である。

小学生のころだった、初めて(じろん)という言葉を聞いた時、自論だ、と思った。
幸い、作文などで(じろん)を使うことはなかったから、間違いはバレなかった。
中学生になって、持論なんだ、と知った。

(じせつ)には、自説と持説がある。
けれど(じろん)には、持論だけで、自論はない。

オーディオ評論について考えることは、評論について考えることでもある。
評論には「論」がついている。
自論ではなく、持論の「論」がついている。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その18)

編集者は、つねに読者の代弁者であるべき──、とは考えていない。
ただ必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う。
そして書き手に対して、代弁者として伝えることがある、と考えている。

このことは反省を含めて書いている。

オーディオ雑誌の編集は、オーディオ好きの者にとっては、
これ以上ない職場といえよう。

けれど、そのことが錯覚を生み出していないだろうか。

本人たちは熱っぽくやっている、と思っている。
そのことは否定しない。

けれど、その熱っぽさが、誌面から伝わる熱量へと変換されていなければ、
それは編集者の、というより、オーディオ好きの自己満足でしかない。

読み手は、雑誌の作り手の事情なんて知らないし、関係ない。
ただただ誌面からの熱量こそが、雑誌をおもしろく感じさせるものであり、
読み手のオーディオを刺戟していくはずだ。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その17)

誌面から伝わってくる熱量の減少は、
オーディオ雑誌だけの現象ではなく、他の雑誌でも感じることがある。

書き手が高齢化すればするほど、
43号のようなやりかたのベストバイ特集は、ますます無理になってくる。

43号は1977年夏に出ている。
菅野先生、山中先生は44歳、瀬川先生は42歳と、
岡先生以外は40代(上杉先生は30代)だった。

いま、ステレオサウンドのベストバイの筆者の年齢は……、というと、
はっきりと高齢化している。

そのことと熱量の減少は、無関係ではない。
書き手の「少しは楽をさせてくれよ」という声がきこえてきそうである。

しかも昔はベストバイは夏の号だった。
それを12月発売の号に変更したのは、
夏のボーナスよりも冬のボーナス、ということも関係している。

しかも賞も同じ時期に行う。
オーディオショウも同じである。

そんなことが関係しての熱量の減少ともいえる。

こうやって書いていて思うのは、編集者は読者の代弁者なのか、である。

Date: 11月 22nd, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その5)

坂東清三氏が書かれている。
(坂清也の名で、主にステレオサウンドの音楽欄に登場されていた)
     *
 瀬川さんを評して、〈使いこなしの名手〉という言葉がある。たぶん岡俊雄さんの評言ではなかったかと思うけれど、たしかに一緒に仕事をしたりしていると、その〈名手〉ぶりには瞠目させられることしばしばだった。ほんの3センチか5センチ、スピーカーの高さを変える、あるいは間隔を、角度を変える。アンプのTREBLEなりBASSのツマミを、ひと目盛り変える。といったことを、何時間もかけて丹念にやっているうちに、とつぜん素晴らしい音で鳴り出す。こういった〈使いこなし〉にかけては、瀬川さんの右にでるひとはいない、といってもいいだろう。
 その〈名手〉ぶりを仕事で目の当りにみせつけられたある夜更け、例によって酒場のカウンターでからんでいた。瀬川さん、理想のオーディオ装置って、ポンと置いたら、そのままでいい音が鳴るものじゃないのかなあ──。理想をいえばそうなのかもしれないけど、そんな装置、出来っこないよ、と穏やかに答える。じゃあさ、そういう装置にできるだけ近づくべきだというのが、瀬川さんの仕事じゃあないのかなあ、と暴論を吐いたら、なんどもブゼンとした表情だけが返ってきたのだった。その表情には、オーディオ趣味の真髄がちっとも分かってないなあ、という気配が多分にあったことはまちがいない。
     *
坂東清三氏がいわんとされていることは、そのとおりだ、と思う。
ポンと置いて、きちんと鳴るオーディオ機器があれば──、と思ったことはある。
でも、それはオーディオと呼べるだろうか、と考える。

坂東清三氏は、続けて書かれているが、いい音で聴きたい気持は強くても、
それはひとりの音楽愛好家としてのものであって、オーディオマニアのそれとは少し違うともいえる。

オーディオ評論家に求められる才能とは、
音を聴き分ける能力、音を言葉で表現する能力──、
これらも必要ではあるのはわかっているが、
それ以上に、そしてそれ以前に必要な才能とは、
スピーカーをうまく鳴らすことである才能である、と(その1)で書いた。

そうだろうかと思う人もいた。
うまくスピーカーを鳴らせなくとも、
耳がよくて、言葉で表現し伝える能力があれば、オーディオ評論の仕事はできるはず──、
果してそうだろうか。

それではオーディオ評論家ではなく、サウンド批評家である。

Date: 11月 22nd, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その4)

理想のオーディオ機器とは、いかなる使い方をしても、
持てる能力を100%発揮できるモノという考えがある。

実際はまるで違う。
高い可能性、実力をもっているオーディオ機器であればあるほど、
使い方は難しくなる。

こんなことで音が変るのか、と思わず口走りたくなるほど、
ささいなことで音は変っていく。
しかも、使いこなしがしっかりしていればいるほど、
ささいなことに敏感に反応してくれる。

どんなに優秀なオーディオ機器であっても、
いいかげんな使い方をしていれば、そのことによるマスキングによって、
そういったささいなことによる音の変化は、なかなか聴き取り難くなる。
だが、それでも音は変化している。

音は振動の影響をつねに受けている。
電子機器であるアンプであっても、振動は音に影響している。

このことがアンプのコンストラクションを変えてきた。
いまでは金属ブロックからの削り出しの筐体のアンプも、珍しくはない。
振動対策を謳っているアンプも少なくない。

それでも、いいかげんなところにポンと置いただけでは、けっしてうまく鳴らない。

結局、ポンと置いてポンと接ぐだけで、いい音がしてくるオーディオ機器は登場しそうにない。
これから先も登場しそう(実現しそう)にない。

ほぼ同じことが、サプリーム 144号にも載っている。

Date: 11月 16th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その3)

サプリーム 144号に皆川達夫氏も書かれている。
そこから、ここでのテーマに関係してくるところを引用しておく。
     *
 どう仕様もないぐらい鳴りの悪いスピーカーが、あなたの手にかかるとたちまち音楽的なものに生まれ変ってゆく現場をみて、わたくしのような素人にはそれがひとつの奇蹟のように思えたものでした。それもそんな大騒ぎするのではなく、アンプのツマミをふたつ、みっつさわり、コードを2、3回はめ直すだけで、スピーカーはまるで魔法がかかったように生きかえってゆく。そんなことはわたくしだって何回もやっていたのに、どうして瀬川さんがさわるとちがってしまのうだろうと、どうにも納得がゆかなかったのです。
 そうした表情のわたくしに、あなたは半分いたずらっぽく半分照れながら、「これはあまり大きい声では言えませんが、オーディオの専門家だからといって誰にでも出来るというものではないんですよ」と、心に秘めた自信のほどを冗談めかしに垣間見せてくださったのも、今ではなつかしく、そして悲しい思い出になりました。
     *
オーディオ店のイベントに招かれるオーディオ評論家と呼ばれている人たち。
満足のいく音で鳴っていることは、そんなに多くはない、ときいている。
そういうときに、瀬川先生ならば、皆川達夫氏が書かれているように、
《アンプのツマミをふたつ、みっつさわり、コードを2、3回はめ直す》ことで、
スピーカーの音を生き返らせたはずである。

アンプをFMアコースティックに替える、なんてことは、
オーディオ評論家、オーディオの専門家でなくとも、できることだ。

瀬川先生がいわれている、
《オーディオの専門家だからといって誰にでも出来るというものではない》と。

その意味では、アンプをFMアコースティックにかえるという手を選択した人は、
自分の力量を正確に把握している、ともいえるし、
それはプロフェッショナルとしての最低条件でもある。

アンプを替えずに、スピーカーの音をよくしていくことができないことを自覚しているのだから、
オーディオのプロフェッショナルといえるのかもしれない。

だとしても、オーディオの専門家として、
瀬川先生とは違うところに立っているオーディオの専門家でしかない。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その4)

来週末(9月29日、30日、10月1日)は、インターナショナルオーディオショウ。
インターナショナルオーディオショウ協議会のサイトでは、
各ブースで行われるプレゼンテーションのスケジュールがPDFで公開されている。

上記リンクページの下部には、
「TIAS2017イベントスケジュール」とある。
いつからイベントスケジュールになったのだろうか。

昨年はどうだったのだろうか。
講演スケジュールのようだった気もするが、
いまとなっては確認できない。
それともイベントスケジュールだったのか。

ダウンロードできるPDFは、今年も講演スケジュールとなっている。
おそらくこれまで使ってきているテンプレートを流用しているからなのかもしれない。

スケジュール表をみてわかるように、
オーディオ評論家を呼ばないブースも多い。
そこに講演スケジュールとひと括りにするのは、そぐわない。

それに何度も書いてきているように、
オーディオ評論家が話すことは、
いまや講演と呼べない内容のものばかりになってきている。

来年以降、PDFのタイトルも講演スケジュールからイベントスケジュールへと変更されるのだろうか。

Date: 8月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その7)

そういえばこんなことがあった。

ある国内メーカーがCDプレーヤーの新製品を出した。
けれど完成品(量産品)は、新製品の試聴には間に合わない。
だから試作品で試聴してほしい、という依頼が、広告代理店からあった。

広告代理店といっても、電通や博報堂といった大手のそれではなく、
オーディオだけの広告代理店が、当時はいくつかあった。

取材(試聴)で製品の貸し出しをお願いする際に、
メーカー、輸入元に直接電話することもあれば、
広告代理店を通じて、というのもあった。

国内メーカーのいくつかは広告代理店を通じて、だった。
そのメーカーの、20万円ほどのCDプレーヤーの新製品である。

ステレオサウンドは季刊だから、最新号の掲載を逃せば、
次は三ヵ月後になる。
それでは商戦に間に合わない。
だから試作品にも関わらず、新製品で取り上げてほしい、という強い押しだった。

試作品ということで、内部写真も撮らないでほしい、という制約が、
広告代理店からあった。
しかも1ページの扱いではなく、2ページでやってほしい、という。

かなりずうずうしい依頼である。
当時のステレオサウンドの新製品の紹介ページでは、
1ページの場合は、製品写真のみ、2ページは内部写真の他に、部分にスポットをあてたカットも入れていた。
そういう写真はやめてほしい、写真はこちらで用意する、という。

確かに写真は用意してくれたが、
ステレオサウンドの新製品紹介のページのフォーマットに使えないものばかりだった。

結局どうしたか、というと、内部写真をとって掲載した。
D/AコンバーターのLSIの近くには、ブチルゴムが貼ってあった。
ブチルゴムは、ここだけでなく、何個所に使われていた。
その部分もしっかり撮ってもらい、ブチルゴムが使われていることを説明文にも入れた。

量産機では絶対にしないことを、試作品ではやっていた。
だからこそ、誌面にはそのことをしっかりと掲載した。

本が出て、その広告代理店からクレームという名の文句が来た。
予想通りに文句をいってきた。

Date: 8月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その6)

私が編集部にいた時も、書き直しを頼んだことはある。
けれど、それはメーカー、輸入元に忖度しての書き直しではなく、
でき上ってきた原稿が、あまりにもひどいためである。

時間的に余裕があるときはそういうことができる。
けれど、〆切をすぎて渡された原稿がそうであったときは、
多少は手直ししてもどうにもならないときは、そのまま掲載してしまったこともある。

記事は原稿だけででき上るわけではなく、写真や図も入る。
その説明文は編集者が書く。
そこのところで少しでも、記事としてのクォリティを上げようとする。

一度あったのは、スピーカーのエンクロージュアについて、
ある筆者に依頼した原稿があまりにも酷すぎた。
私の担当ではなかったけれど、担当から「どうにかならないか」と頼まれたので、
写真の説明文において、原稿とは180度違う主張をしたことがあった。

別の編集者が、原稿本文と写真の説明文がまるで違うんですね、ときいていたけれど、
ステレオサウンドが、いままで主張してきたこと、
それにステレオサウンドの読者のレベル、そういったことに対して、
その筆者はまるで認識していなかったから生じたものだった。

それからしばらくその筆者はステレオサウンドには書いていない。

書き直しを依頼したときも、再度上ってきた原稿がたいして変っていなかったこともある。
そのときは、全面的にこちらで書き直した。

そんなことはあったけれど、
くり返すが、メーカー、輸入元に悪い意味での忖度してのそれでは決してなかった。
あくまでも原稿がつまらなかったからである。

けれど現在の忖度は、そうでないことを、
ステレオサウンドの書き手(ひとりではない)から、直接聞いている。

Date: 8月 24th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その5)

ここ(つまりその5)で書こうと考えていたことと、少し違うことを書くことにする。

別項で、商売屋と職能家、と書いた。
川崎先生は、どこも同じで、商売屋と職能家がいる、といわれる。
そうなのだろう。

けれど職能家よりも商売屋が目立つ業界は衰退に向っている、といえる。
オーディオ業界がそうなのかどうかは、あえて書かない。

ここを読まれている方がひとりひとり考えてほしいことだからだ。

今年は、忖度という言葉が、流行語のひとつになるのは間違いないだろう。
忖度(そんたく)とは、他人の気持ちをおしはかること、という意味なのに、
今年における使われ方は、いい意味ではないところである。

悪い意味での忖度。
オーディオ評論家は忖度の権化のように捉える人もいよう。
昔からオーディオ評論家がやってきたことは、悪い意味での忖度。

ここまでいわれると、必ずしもそうではない、と私は否定するが、
そう思われても仕方ないところがあるのも……、と思わないわけでもない。

ただそれでもいいたいのは、オーディオ評論家が忖度を進んでやってきた、と捉えるのは、
若干の事実誤認があるといえる。

悪い意味での忖度を行ってきたのは、
オーディオ評論家よりもオーディオ雑誌の編集者であるし、
先だともいえるからだ。

オーディオ雑誌の編集者が、
クライアント(メーカー、輸入元)に対して忖度する。
そのことによって原稿が、編集者によって手直しされたり、
手直しを求められたりする。

そんなことが続けば、オーディオ評論家がオーディオ雑誌の編集者に対して忖度する。
こんなふうに書いては、また編集者から手直しされるか書き直しか、と思えば、
最初から編集者が「よし」とするものを書こうとするはずだ。

Date: 8月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その4)

その2)で、オーディオ評論家という書き手の商取引の相手は出版社だと書いた。
オーディオ評論家という書き手は、原稿を出版社に売って対価を得ている。
原稿とは、いわゆるオーディオ評論という商品である。

それは商品足り得なかったりしているわけだが、
それでも出版社から原稿料をもらっている以上、それは商品ということになる。

その商品を書くため(作るため)に、
オーディオ評論家は試聴を行う必要がある。

どんないいかげんなオーディオ評論家といえども、試聴せずに試聴記を書くようなはしないはず。
そんなことをしてバレてしまったら、オーディオ評論家としてやっていけなくなる。

別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その10)」で書いているような、
あんないいかげんな聴き方をしていて、
それはもう試聴とは呼べないものであっても、形の上では試聴を行っている。

片チャンネルが逆相で鳴っていた音を聴いて、試聴記を書いて、
それが商品として通用するわけだから、むしろ聴かないほうがいいのではと思うこともある。

それでもオーディオ評論家と呼ばれる人たちは、試聴を行う。
試聴をやることで対価が得られる、というのも理由のひとつである。

オーディオ評論家が出版社からもらうのは、原稿料だけではない。
試聴という取材に対しても、貰っている。

これを否定はしない。
オーディオ評論家の原稿は、試聴を必要とする場合もあれば、そうでない場合もある。
あるテーマを与えられた原稿などは試聴する必要はないわけだ。

オーディオ評論家が試聴する場は、出版社の試聴室だけではない。
自身のリスニングルームも試聴の場となる。
そしてメーカーの試聴室、輸入代理店の試聴室も、そうだ。

出版社が直接関係しない試聴が、オーディオ評論家にはある。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その16)

私が買った「名曲名盤300」は、
二ページ見開きに三曲が紹介されていた。

評を投ずるのは七人の音楽評論家。
十点の点数を、三点以内に振り分けるというものだった。
評論家によっては、一点に十点をつけている場合もあった。

そして200字ちょっとのコメントをすべての評論家が書いていた。
ステレオサウンド 43号のベストバイのやり方とほぼ同じである。
コメントの中に出てくる演奏者名はゴシックにしてあった。

編集という仕事を経験していると、
200字程度のコメントを、少ない人(評論家)でも数十本、
多い人では二百本くらいは書くことになり、これはたいへんな労力を必要とする作業である。

もう少し文字数が多ければ楽になるだろう。
演奏者名だけでも、少なからぬ文字数をとられる。
残った文字数で、選考理由や演奏の特徴などについてふれていく。

選ぶ作業でも大変なうえに、コメントを書く作業が待っている。
人気のある企画とはいえ、同じやり方で継続していくとなると、
評論家からのクレーム的なものが出てきたであろう。

誰かひとりが代表して書けばいいじゃないか、
そうすることで文字数は増えるし、書く本数もずいぶんと減る。

書き手(評論家)の負担はそうとうに小さくなる。
それでも選ぶだけでもたいへんとは思うけれど。

でも、これは作り手側、書き手側の事情でしかない。
読み手側にしてみれば、なぜ以前のやり方を変えてしまったのか、と思ってしまう。

私もステレオサウンドの読み手だったころ、
なぜ43号のやり方を変えてしまったのか、と不思議に思ったものだ。

作り手側、書き手側の負担を減らすということは、
誌面から伝わってくる熱量の変化としてあらわれる。

編集経験があろうとなかろうと、読み手は敏感に反応する。
熱っぽく読めるのか、そうではないのか、のところで。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その15)

レコード芸術別冊「名曲名盤500」。

レコード芸術がいつごろから、この企画をやりはじめたのかはっきりとは知らないが、
私がまだ熱心に読んでいた1980年代には、すでにあった。
そのころは500ではなく200曲少ない300だった。

レコード芸術で数カ月にわたって特集記事で、しばらくすると一冊の本として発売されていた。
もう手元にはないが、あのころ一冊買っている。

持っているレコードにはマーカーで色付けして、
持っているけれど選ばれていないディスクをそこに書きこんだり、
買いたい(聴きたい)ディスクには別の色のマーカーでチェックしたりした。

一年ほどでボロボロになってしまった。

いま書店に並んでいる最新の「名曲名盤500」を買おうとは思わない。
書店で手にとってみた。
いまは、こういうやり方なのか、とがっかりした。

ステレオサウンドのベストバイと同じ道をたどっている、とも思った。
何度も書いているように、ステレオサウンドのベストバイで、
私がいちばん熱心に読んだのは43号である。

43号のやり方が理想的とはいわないが、これまでのベストバイ特集の中ではいちばんいい。
熱心に読んだ。

それは時期的なものも関係してのことではあるが、
いま読み返しても43号のやり方は、評論家の負担は大きくても、
一度43号を読んできた者にとっては、それ以降のベストバイはものたりないだけである。

同じことを最新の「名曲名盤500」にもいえる。
評論家(書き手)の負担を慮ってのやり方なのだろう、どちらのやり方も。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(書評のこと)

(その5)にfacebookでコメントがあった。
そこに書評の世界のことが書いてあった。

コメントの内容とは関係のないことだが、
書評は難しい、とステレオサウンドの編集をやっていたころから思っていた。

当時のステレオサウンドには、岡先生による書評のページがあった。
音楽、オーディオに関する本が取り上げられていた。

毎回岡先生の原稿を読むたびに、さすがだな、と感心していた。
大半が未読の本だったが、
中には岡先生の原稿の前に読んでいた本もあった。

そういうときは、ほんとうにかなわないな、と感じていた。
書評を書け、といわれても、こうは書けないどころか、
書評というものをどう書いたらいいのかもわかっていなかった(つかめていなかった)。

日本語で書かれた本を読んで、その本について日本語で書く。
いったい何を書いたらいいのだろうか、途方に暮れる。

書評を依頼されることはないけれど、
時々、この本を紹介するのに、どう書くかは考える。

ステレオサウンドを辞めて25年以上が経っているし、
こうやって毎日書いていても、書評はほんとうに難しい、とおもう。