Archive for category オーディオ評論

Date: 6月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その10)

約一年前に別項「輸入商社なのか輸入代理店なのか(その10)」で、
「オーディオは文化」と捉える人とそうでない人がいることについて書いた。

「オーディオは文化」なのか。
私はこれまでずっとそう思ってきたし信じてきている。
けれど、世の中にはいろんな人がいるわけで、
オーディオマニアであっても「オーディオは文化」とは捉えない人がいるし、いてもいい。

あくまでも文化といえるのは音楽であって、
それを再生するオーディオ機器は文明とはいえても、文化とは認められない。
そういう考えはあってもいい。

たとえばコンピューターにおけるソフトウェアとハードウェアについて、
コンピューターに詳しくない人に対して、
ある人は「ソフトウェアは文化、ハードウェアは文明」と答えた話を読んだことがある。

同じことはオーディオにもあてはめようと思えば可能である。
だから「ソフトウェア(録音物)は文化、オーディオ機器(ハードウェア)は文明」
という捉えかたを全否定する気はない。

ただ「オーディオは文化」となると、そこには自ずとソフトウェアも含まれると考えられる。
そうなるとどうだろうか。

コンピューターにしてもソフトウェアだけでも、ハードウェアだけでも役に立たない。
両方揃って、はじめて道具として機能することを考えれば、オーディオもまた同じことである。
ならば「オーディオは文化」と捉えるのが道理としか私には思えないのだが、人はさまざまだ。

ステレオサウンドはどうだろうか。
私がいたときは「オーディオは文化」として捉えていた。
ステレオサウンド 49号で当時の編集長であった原田勲氏が、
《オーディオ機器の飛躍は、オーディオ文化の昇華につながる》と書かれている。

「オーディオは文化」としての編集方針があったのは明白である。
いまはどうなのかわからないが、少なくとも以前はそうだった。

ということは、そのころ熱心にステレオサウンドを読んできた人たち(私もその一人)は、
「オーディオは文化」と捉えてきた人たちであるはずだ。

Date: 6月 18th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その15)

わかりやすいは、わかったつもりで留まる人にとっては楽しいことではあるのかもしれないが、
本当に楽しい、といえるだろうか。

ここで憶いだすのは、ステレオサンウド 58号に載った対談記事である。
粟津則雄、黒田恭一の二氏による「レコードで音楽を聴くということ」だ。

レコードで音楽を聴く、ということは、映像がない、音だけの世界で音楽と接するということであり、
それゆえの難しさが確実にある。
     *
黒田 オペラに限定していうと、むつかしいことがひとつあるんです。たとえば「ボエーム」を例にあげると、最後にミミが死ぬんですが、台本にはどこでミミが死ぬのか書かれていない。そのシーンで、ミミは「ドルミーレ」つまり「眠いわ」と、二小節のあいだでうたう。つぎに音楽がガラッとかわって、ロドルフォが「医者はなんといった?」とうたい、マルチェロが「もうじきくるよ」と答える。そしてつづいてムゼッタが聖母マリアへの祈りをうたう。
 聴いている人間が、どこでミミの死を知るのかというと、そのあとでショナールがミミの様子を見にいって、眠っているのではなく死んでいるのを発見して、「マルチェロ・エ・スピラータ」つまり「死んでいるよ」と叫ぶ。そこで知るわけですね。ミミの「ドルミーレ」からショナールの「エ・スピラータ」まで、時間にすれば一分以上ある。その間に、ミミは死んでいる。いったいどこの時点で、ミミは死んだのか。
 オペラ劇場で見ている場合でいうと、たとえばこの秋に来日するスカラ座がもってくる。ゼッフィレルリの演出だと──このあいだテレビで放映されましたが──、ベッドに寝ているミミの手が、バタンと落ちるんです。それによって、聴衆は、ミミの死に気づくわけです。とくに音楽に耳をすませていなくても、目で見て、ああいま死んだんだとわかります。
 レコードでは、そうはいきません。耳をすませていなくてはならない。いい演奏であれば
、どこでミミが死んだのか、コードのひびかせかたでわかるのです。しかしそれを聴きとるためには、それなりの聴きかたが必要になるわけですね。
 ヨーロッパの音楽ファンは、とくにオペラ好きではなくとも「ボエーム」ぐらいのオペラは、オペラ劇場で聴いています。だから、どこでミミが死ぬのか、目で知っている。そのうえでレコードを聴くのだから添付された台本に、ここでミミが死ぬといったト書きがなくたって、いいわけですよね。
粟津 ところがレコードだけだとそうはいかないわけだ。
黒田 ぼくの経験をいいますと、このオペラはエデーレ指揮でテバルディがうたったレコードで、最初に聴いたのですが、このレコードを聴いていて、どこでミミが死ぬのだろうとずっと考えていたんです。そのつぎにトスカニーニ指揮のレコードを聴いて、多分ここだろうとわかったわけですけれど、十何年か前にヨーロッパにいったときに、ゼッフィレルリの演出──現在のものとはちょっとちがっていますが──による「ボエーム」をみて、やっぱりここで死ぬんだな、とおれの聴きかたはまちがっていなかったな、とわかったんですね。
 そのプロセスは逆行してるということでしょう。つまりヨーロッパの人間だったら、オペラ劇場でみて、ぼくの、というか日本人の大多数の聴きての聴きかたは、まずレコードで聴いて、そのあとで実際の舞台をみる、ということですね。いいかえるとヨーロッパの人間と逆の接しかたをしているわけで、それが大きな特徴だと思う。
粟津 さらにいえば、レコードでそういう聴きかたができるということは、ヨーロッパの人間からみれば驚くべきことだといってもいいたろうね。
黒田 だから彼らにいわせると、そうしたレコードの聴きかたを幸福だといい、その幸福にひじょうに羨望を抱くんです。
     *
ステレオサウンド 58号は1981年春号である。
パイオニアがレーザーディスクプレーヤーの第一号機LD1000を出すのは、この年の秋である。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その14)

わかったつもりで留まっている(満足している)人を相手に商売をしたほうが、
つねにわかろうとしている人を相手にするよりもずっと楽である。

楽であるから、よほど気をつけていないとそちらへ転んでいる。
しかもそのことに気がつきにくい。

五年前に「オーディオにおけるジャーナリズム(その11)」を書いた。
そこで書いたことを、ここでもう一度書いておく。
     *
わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。

最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。

一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。

わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。

わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。

わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
     *
けれど、いまのオーディオ雑誌は、あきからにこうである。
わかったつもりの人を相手にした誌面づくりとしか思えない。

そんな誌面づくりをしているうちに、作り手側も、いつしかわかったつもりの域で留まっている。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その13)

ここまで書いてきて思い出すことがある。
「五味オーディオ教室」にこう書いてある。
     *
 よくステレオ雑誌でヒアリング・テストと称して、さまざまな聴き比べをやっている。その結果、AはBより断然優秀だなどとまことしやかに書かれているが、うかつに信じてはならない。少なくとも私は、もうそういうものを参考にしようとは思わない。
 あるステレオ・メーカーの音響技術所長が、私に言ったことがあった。
「われわれのつくるキカイは、畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない。百貨店や、電気製品の小売店には、各社のステレオ装置が並べられている。そこで、お客さんは聴き比べをやる。そうして、よくきこえたと思える音を買う。当然な話です。でもそうすると、聴き比べたときによくきこえるような、そんな音のつくり方をする必要があるのです。
 人間の耳というのは、その時々の条件にひじょうに左右されやすい。他社のキカイが鳴って、つぎにわが社の音が鳴ったときに、他社よりよい音にきこえるということ(むろんかけるレコードにもよりますが)は、かならずしも音質自体が優れているからではない場合が多いのです。ときには、レンジを狭くしたほうが音がイキイキときこえる場合があります。自社の製品を売るためには、あの騒々しい百貨店やステレオ屋さんの店頭で、しかも他社の音が鳴ったあとで、美しく感じられねばならないのです。いわば、家庭におさまるまでが勝負です。さまざまな高級品を自家に持ち込んで比較のできる五味さんのような人は、限られています。あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」
 要するに、聴き比べほど、即座に答が出ているようでじつは、頼りにならぬ識別法はない、ということだろう。
 テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが、和を抜きにして、私たちの耳は、音の美を享受できない。ヒアリング・テストを私が信じない理由がここにある。
     *
あるステレオ・メーカーの音響技術所長の
「畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない」は、そうであろう。
商売であるのだから、売れて利益が出ないことには、あとが続かない。
商売であれば、できれば効率よく稼ぎたい、とも思うだろう。

だとしたら、誰を相手にすれば効率よく商売ができるのか、となると、
いうまでもなく「わかったつもり」の人相手である。

あるステレオ・メーカーの音響技術所長はだから、
五味先生のことを「あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」という。

キチガイは気違い、と書く。
気が違う人である。
この意味でなら、五味先生は確かに「気違い」といえる。

五味先生は自身のことを
「私はキカイの専門家ではないし、音楽家でもない。私自身、迷える羊だ」と書かれている。
五味先生は、わかったつもりの人ではない。

だから、私にとってはわかったつもりの人と五味先生とでは、気が違う、ということになる。
五味先生はわかったつもりのところで留まっていない。

私もわかったつもりのところで留まる気は毛頭ない。
そのことで気違いと呼ばれるのならば、なんら気にしない。
むしろ誇らしく思う。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その12)

わかったつもりの人がやらかすことは、他にもある。
とあるオーディオ店でのことだ。

どういう店なのか、少しでも書くとすぐにでも特定されてしまうそうなだけに、
店に関してはこれ以上書かないが、
そこでの試聴会に参加した人から直接話を聞いている。

そこであるスピーカー(4ウェイのマルチアンプシステム)が鳴らされた。
私にこの話をしてくれた人も、そのスピーカーを鳴らしている人である。
だからこそ、音が出た瞬間に、片チャンネルのミッドバスが逆相になっていることがわかった。

その人は、そのことを指摘した。
けれどその店の人は、そんなことはない、と確認もせずにそのまま試聴をすすめていったそうだ。
結局、最後ではミッドバスが片チャンネルのみ逆相だということがはっきりした、とのこと。

誰にでも間違いはあるのだから、指摘された時点で確かめればいいことだ、と思う。
けれどそのオーディオ店の人は、それをやらなかった。
プライドがそれを許さなかったのか。

私は、その同じところで、左右チャンネルが反対に接続されている音を聴いたことがある。
左のスピーカーから右チャンネルの音が鳴ってきた。
これは、ミッドバスが片チャンネル逆相よりもすぐにわかることである。

けれど、このスピーカーは、
それまでずっと左右チャンネルが反対に接続されたまま鳴らされていた、ということだった。
笑い話というよりも、もうおそろしい話というべきである。

ペアで数百万円するスピーカーが、そんな状態で鳴らされている。
このスピーカーの輸入元の人たちが知ったら、どんな気持になるだろうか。

Date: 6月 14th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その11)

その10)を、もし当の本人、
つまり片チャンネルが逆相で鳴っていた音で試聴したまま気づかなかった人が読んだとしても、
本人が、ここでも気づかないであろう。
こんなヤツが同業者なのか、と思うのかもしれない。

誰かに、「これ先生のことでは?」と指摘されても、
もともと逆相で鳴っていたことに気づいていないのだから、本人には心当たりがないわけだから、
「ぼくじゃないよ。それにしてもひどいヤツがいるものだね」と答えても不思議ではない。

本人には嘘をついているという自覚はまったくないのだから。
気づかないのは本人である。

同じことは、別項「オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)」にも書いている。

ここに登場するオーディオ評論家と呼ばれている人は、
あるオーディオ雑誌の特集記事で、シェーンベルクに触れながらオーディオのことを書いている。

シェーンベルクだから、12音技法のことが、その文章にも出てくる。
そしてシェーンベルクのある作品のことについて言及している。

ところが、その作品が12音技法以前のものだったのである。
これは致命的なミスである。

実は編集者も気づいていた。
けれど作品名だけを訂正するというわけにはいかなかった。
構成からいって、すべてを書き直してもらうしかない。
しかも特集記事なので、かなりの文章。
時間的な余裕がまったくないという状況で、編集者はそのまま掲載することを決めた。

この時の編集者の心境を考えてほしい。
発売日がずらせるものならば、そうしたいところであったはずだ。

結局、そのオーディオ雑誌はそのまま掲載している。
読んだ人の中には、クラシックに関心のない人もいるだろうから、
この致命的なミスに気づかない人もいる。

その一方でクラシックの聴き手でありながら、このミスに気づかない人もいる。
その文章を書いた本人も、実はここにいる、といえる。
おそらく彼もまた、そういうミスをおかした文章を読んでも、何も思わないであろう。

わかったつもりの人だからである。
わかったつもりの人は彼だけではない。
片チャンネルが逆相で鳴っていたのに気づかなかった人も、わかったつもりの人である。

Date: 6月 12th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その10)

船木文宏氏のブログ「もういちどオーディオ」。
更新は数年前で終ってしまっているが、現在も公開されている。

その中に「オーディオは奥が深い~“純粋オーディオ音”志向(2)」がある。
この文章の終りに近いところに「●耳の感度」という中見出しがつけられている。

ここのところに登場する「あるオーディオのライター」、
いわゆるオーディオ評論家と呼ばれている人のことが書かれている。

詳細はリンク先を読んでほしいが、
この「あるオーディオのライター」は、
片チャンネルのスピーカーが逆相になっていることに最後まで気づかずに試聴していた。
にも関わらず試聴が終って、編集者に向って
「このスピーカー、なかなかいいよ。値段の割りにいい音をしてる。」と言う。

船木さんはこの「あるオーディオのライター」が誰なのかは書かれていない。
いまも現役のオーディオ評論家と呼ばれている人だからだ。

それでもヒントは書かれている。
     *
この方はもうかなり年配で、若いときからなぜか威張った態度と物言いで知られています。先生と呼ばなくては叱られそうですが、親しくなると○○さん、と呼ぶとにっこりする無邪気さもあります。
     *
私は、この話を船木さんの「知り合いの若いライター」から直接聞いていた。
仮に聞いていなくとも、ヒントを読めば、すぐに誰なのかはわかる。

スピーカーが片チャンネル逆相で鳴っていることに気がつかなかった人は、
いまもオーディオ評論家と呼ばれて仕事をしているし、
オーディオ業界関係者は「先生」と呼ぶ。
読者も先生とつけて呼ぶ人の方が多いかもしれない。

スピーカーが片チャンネル逆相で鳴っていることに気づかなくとも、
この業界では仕事をやっていけることに疑問を感じない人が多い、ということなのかもしれない。

Date: 2月 26th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(主従の契り)

ステレオサウンドについて(その20)」で書いたことを読み返して思ったのは、
瀬川先生がステレオサウンド 44号、Lo-DのHS350の試聴記の冒頭に書かれたこと、
こういうことを書く人はいなくなっている、ということだ。

私は《編集部によって削られることなく》と書いたが、
いまステレオサウンドに書いている人のほとんどは、
ステレオサウンド編集部によって削られる可能性のあることは書かない──、
といっていいだろう。

筆者が編集部の意向をくんで……、ということなのだろうか。
編集部からすれば、そういう文章を書いてくる人のほうが原稿を依頼しやすい、ということになる。

そんなことを思っていたら、
いまのステレオサウンドにおいて、編集部と筆者の関係は、どちらが主で従なのか、と考える。
昔はどうだったのだろうか、とも考える。

なぜ編集部は削るのか。
編集部が削ってしまうのは、クライアントが主であり、編集部が従であるから、といえなくもない。
そうだとしよう。
これは正しいありかたと、削る側の人たちは思っているのか……、ということも考える。

ここで忘れてはならないのは、読者の存在だ。
読者は主なのか、従なのか。

Date: 1月 22nd, 2016
Cate: オーディオ評論

評論と評価/「表」論と「表」価(その1)

昨日のKK塾の前日に、「表」論なるもの、と題された文章を読んでいた。

浅井佳氏という方が書かれた文章だ。
《つまり評論ではなく「表」論なのだ。》と書かれている。

浅井氏自身、《我ながらうまい》と書かれている。
確かに、うまいと思った。

評論ではなく表論。
そうとしかいえないものを、いやというほどいまは読める。
読まされる、といってもいいだろう。

評論といえるものはどこにいってしまったのか。
そう嘆きたくなるほど、表論が増えているのは何もオーディオだけのことではないようだ。

そんなことを思っていた翌日に、KK塾の四回目だったから、
講師の長谷川秀夫氏の話をきいていて、この表論のことも思い出していた。

評価も、「表」価になっているのではないだろうか。
それはなにもオーディオ機器の評価にとどまらないのではないか。
安全、信頼の分野でも、評価が「表」価になってしまっているところがあれば、
そこに気づかずにいれば、どうなるのか。

そんなことも考えていた。

Date: 1月 9th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その9)

数年前、「井上さんの使いこなしはたいしたことない」とか、
「オーディオの理屈をわからずにやっている」とか、そういうことを私に向って言った人がいた。

しかも、その人は井上先生と一度も会ったことのない人だった。
失礼な人だな、と思ったし、他にもあれこれ思った。

その人とは疎遠になった。
で、ふと思い直したことがある。

確かにその人は井上先生を誤解している。
だが、なぜ誤解したのか。

井上先生を、オーディオの使いこなしの名人と呼ぶ人は多い。
その人たちの中には、井上さんと呼ぶ人もいれば、井上先生と呼ぶ人もいる。

井上先生と呼ぶ人の中で、直接井上先生から使いこなしを教えてもらったという人(Bさん)もいる。
この人の使いこなしの程度を、井上先生を誤解している人(Aさん)は写真で知っている。

Aさんは、Bさんの使いこなしを見て、これが井上卓也の使いこなしなのか、と思ったのではないのか。
こんなレベルの使いこなしだったのか、とAさんが思ってもしかたない。
そんなBさんのリスニングルームの写真であるのだから。

尊敬している人を、先生と呼ぶ。
でも、そう呼ぶことで、そう呼ばない人を誤解させることにつながる危険がある。

Bさんが井上先生とは呼ばずに、井上先生から使いこなしを教えてもらった、と公言しなければ、
Aさんは、井上先生を誤解することはなかったかもしれない。

Bさんは、悪意をもって井上先生と呼んでいるわけではない。
そのことは承知している。

けれど、Bさんの使いこなしの未熟さが、
Aさんに井上先生を誤解させるきっかけとなっているとしたら……。

そう考えると、先生と呼ぶことで責任が生じる。
そのことに無自覚な人が、先生と呼ぶのをみていると、
どうしても黙っていられない。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その2)

あの人は輝いている、という表現がある。
輝いているわけだから、光をはなっているわけだ。
その光は自らの光なのか、それとも近くに輝いている人がいて、
その輝きを反射させての輝きということだってある。

どちらが上とか下とか、そんなことではなく、
月のように太陽の輝きを反射しての人が、自らを太陽だと勘違いしてしまっては困る。

オーディオ評論家も同じである。
輝いている人(いまどのくらいいるのかは書かない)、そうでない人がいて、
輝いている人は自ら光を放っている人と、誰かの光を反射して、の人とがいる。

私はどちらもいていいと思っている。
けれど月であることを自覚してほしい人がそうでなかったりする。

これは読み手側の問題ともいえるところがある。
読み手側が、書き手側(オーディオ評論家)に勘違いを起こさせてしまっているところがある。

読み手側が、あの人は月であることをわかって読んでいるのと、
月であっても太陽であると思って読んでしまっていては、書き手も勘違いしてしまう。

そしてここでの読み手は、オーディオ雑誌の読者のことだけではない。
読者よりも先にオーディオ評論家の文章を読む編集者も含まれる。

オーディオ雑誌の編集者こそが、はっきりとわかっていれば、勘違いはそうとうに減るはずだ。

Date: 9月 25th, 2015
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(黒田恭一氏のことば)

《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》
ステレオサウンド 61号(1981年12月発売)、
黒田先生の「さらに聴きとるものとの対話を 内藤忠行の音」に、こう書かれている。
34年前のことだ。

《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》
これだけだったら、現在を語ったものだと、多くの人が思うことだろう。

《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》
これだけだったら、現在のオーディオ評論と呼ばれているもののことだと、思う人もいることだろう。

Date: 9月 25th, 2015
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その1)

あのころのオーディオ評論家による文章と、
いまどきのオーディオ評論家と呼ばれている人たちの文章、
前者をオーディオ評論とするならば、後者は……、ということはここでは問わない。

とにかくオーディオ雑誌に掲載されたオーディオに関する文章をオーディオ評論とすれば、
それをどう読むのか。

私と同世代、それよりも上の世代の人たちにとっては、
いまどきのオーディオ評論はつまらない、と思っている人が少なくないのは感じている。
一方、若い人たちにとっては、
昔のオーディオ評論のどこがいいのかわからない、という意見もあるだろう。

ステレオサウンドだけでも来年創刊50年を迎えるわけだから、
そこに掲載された文章はかなりの量になり、
ステレオサウンド以外にもいくつものオーディオ雑誌がある(あった)。
それらすべてとなるとそうとうな文章になり、玉石混淆でもある。

昔のオーディオ評論がよかった、
昔のオーディオ評論なんて役に立たない、
読み手によってどちらでもあるわけで、
つまりは読み手次第のところがある。どう読むか、である。

私は、ここで製造中止になってひさしいオーディオ機器のことについて書いている。
もういちど聴きたい、といったことを書くこともある。

たしかにもういちど聴きたい、と思いながらも、聴かずにいたほうが賢明かもしれない──、
そう思うこともある。

井上先生がステレオサウンド別冊「音の世紀」で書かれていることを思い出す。
     *
 ただ、古き佳き時代のスピーカーシステムがいかに心に残るコンポーネントであったとしても、経時変化という絶対不可避な劣化は、当然覚悟しなければならず、基本的に紙パルプ系コーンを採用していた振動板そのものの劣化や、エッジ、スパイダーなどの支持系をはじめ問題点は多い。現実に状態の良いシステムを実際に鳴らしてみたとしても、かつて備えていた本来の状態をベースに聴かせた音の再現は完全には不可能であり、例えば、1モデルに1ヵ月の時間を費やしてメインテナンスしたとしても、絶対年齢は、リカバリー不能であろう。逆説的ではあるが、イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、想い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。
     *
《イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、想い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。》

これはまさにそうである、と歳を重ねるごとにそう思うようになっている。
「残像」を大切に扱いたい、と思う。

そして、その「残像」を大切に扱うために欠かせない文章があり、
その「残像」をよりはっきりとしたものにしてくれる文章がある。

Date: 9月 21st, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々続・おもい、について)

日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人は、
おそらく自分自身が、そういう方向へともってゆこうとしているとは気づいていないのかもしれない。
それだけではなく、自分自身が毒されたということを自覚していないのかもしれない。

そういう人たちでさえ、オーディオ界で仕事をするようになったときから、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうと考えたり、行動していたわけではなかったはずだ。

なのにいつしか毒されてしまう。
いつのまにかであるから、なかなか毒されたことに自覚がなく、
自覚がないままだから、日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうとしている──。

そんな人たちばかりでないことはわかっている。
わかっていても、そんな人たちの方が目立っている。
ゆえにそんな人たちの周囲にいる人は、どうしても毒されてしまう環境にいるといえよう。

それで毒される人、毒されない人がいる。
そんな人も、自分が周囲の人を毒する方向へともってゆこうとしているとは、
露ほどにも思っていないのではないだろうか。

こういうことを書いている私自身は、どうなのだろうか……。

Date: 9月 20th, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々・おもい、について)

ステレオサウンド 16号(1970年9月発売)、
巻頭には五味オーディオ巡礼がある。
副題として、オーディオ評論家の音、とついている。

山中敬三、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の音を聴かれての「オーディオ巡礼」である。

瀬川先生のところに、五味先生は書かれている。
     *
 でも、私はこの訪問でいよいよ瀬川氏が好きになった。この人をオーディオ界で育てねばならないと思った。日本のオーディオを彼なら毒する方向へはもってゆかないだろう。貴重な人材の一人だろう。
     *
「毒する方向へはもってゆかない」。
これは、日本のオーディオを毒する方向へともってゆく人が現実にいる、ということのはずだ。

「貴重な人材の一人だろう」。
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆかない人よりも、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人の数が多いということなのだろう。