Date: 1月 9th, 2016
Cate: オーディオ評論
Tags:

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その9)

数年前、「井上さんの使いこなしはたいしたことない」とか、
「オーディオの理屈をわからずにやっている」とか、そういうことを私に向って言った人がいた。

しかも、その人は井上先生と一度も会ったことのない人だった。
失礼な人だな、と思ったし、他にもあれこれ思った。

その人とは疎遠になった。
で、ふと思い直したことがある。

確かにその人は井上先生を誤解している。
だが、なぜ誤解したのか。

井上先生を、オーディオの使いこなしの名人と呼ぶ人は多い。
その人たちの中には、井上さんと呼ぶ人もいれば、井上先生と呼ぶ人もいる。

井上先生と呼ぶ人の中で、直接井上先生から使いこなしを教えてもらったという人(Bさん)もいる。
この人の使いこなしの程度を、井上先生を誤解している人(Aさん)は写真で知っている。

Aさんは、Bさんの使いこなしを見て、これが井上卓也の使いこなしなのか、と思ったのではないのか。
こんなレベルの使いこなしだったのか、とAさんが思ってもしかたない。
そんなBさんのリスニングルームの写真であるのだから。

尊敬している人を、先生と呼ぶ。
でも、そう呼ぶことで、そう呼ばない人を誤解させることにつながる危険がある。

Bさんが井上先生とは呼ばずに、井上先生から使いこなしを教えてもらった、と公言しなければ、
Aさんは、井上先生を誤解することはなかったかもしれない。

Bさんは、悪意をもって井上先生と呼んでいるわけではない。
そのことは承知している。

けれど、Bさんの使いこなしの未熟さが、
Aさんに井上先生を誤解させるきっかけとなっているとしたら……。

そう考えると、先生と呼ぶことで責任が生じる。
そのことに無自覚な人が、先生と呼ぶのをみていると、
どうしても黙っていられない。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]