Date: 9月 25th, 2015
Cate: オーディオ評論
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オーディオ評論をどう読むか(その1)

あのころのオーディオ評論家による文章と、
いまどきのオーディオ評論家と呼ばれている人たちの文章、
前者をオーディオ評論とするならば、後者は……、ということはここでは問わない。

とにかくオーディオ雑誌に掲載されたオーディオに関する文章をオーディオ評論とすれば、
それをどう読むのか。

私と同世代、それよりも上の世代の人たちにとっては、
いまどきのオーディオ評論はつまらない、と思っている人が少なくないのは感じている。
一方、若い人たちにとっては、
昔のオーディオ評論のどこがいいのかわからない、という意見もあるだろう。

ステレオサウンドだけでも来年創刊50年を迎えるわけだから、
そこに掲載された文章はかなりの量になり、
ステレオサウンド以外にもいくつものオーディオ雑誌がある(あった)。
それらすべてとなるとそうとうな文章になり、玉石混淆でもある。

昔のオーディオ評論がよかった、
昔のオーディオ評論なんて役に立たない、
読み手によってどちらでもあるわけで、
つまりは読み手次第のところがある。どう読むか、である。

私は、ここで製造中止になってひさしいオーディオ機器のことについて書いている。
もういちど聴きたい、といったことを書くこともある。

たしかにもういちど聴きたい、と思いながらも、聴かずにいたほうが賢明かもしれない──、
そう思うこともある。

井上先生がステレオサウンド別冊「音の世紀」で書かれていることを思い出す。
     *
 ただ、古き佳き時代のスピーカーシステムがいかに心に残るコンポーネントであったとしても、経時変化という絶対不可避な劣化は、当然覚悟しなければならず、基本的に紙パルプ系コーンを採用していた振動板そのものの劣化や、エッジ、スパイダーなどの支持系をはじめ問題点は多い。現実に状態の良いシステムを実際に鳴らしてみたとしても、かつて備えていた本来の状態をベースに聴かせた音の再現は完全には不可能であり、例えば、1モデルに1ヵ月の時間を費やしてメインテナンスしたとしても、絶対年齢は、リカバリー不能であろう。逆説的ではあるが、イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、想い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。
     *
《イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、想い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。》

これはまさにそうである、と歳を重ねるごとにそう思うようになっている。
「残像」を大切に扱いたい、と思う。

そして、その「残像」を大切に扱うために欠かせない文章があり、
その「残像」をよりはっきりとしたものにしてくれる文章がある。

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