Date: 6月 14th, 2016
Cate: オーディオ評論
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ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その11)

その10)を、もし当の本人、
つまり片チャンネルが逆相で鳴っていた音で試聴したまま気づかなかった人が読んだとしても、
本人が、ここでも気づかないであろう。
こんなヤツが同業者なのか、と思うのかもしれない。

誰かに、「これ先生のことでは?」と指摘されても、
もともと逆相で鳴っていたことに気づいていないのだから、本人には心当たりがないわけだから、
「ぼくじゃないよ。それにしてもひどいヤツがいるものだね」と答えても不思議ではない。

本人には嘘をついているという自覚はまったくないのだから。
気づかないのは本人である。

同じことは、別項「オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)」にも書いている。

ここに登場するオーディオ評論家と呼ばれている人は、
あるオーディオ雑誌の特集記事で、シェーンベルクに触れながらオーディオのことを書いている。

シェーンベルクだから、12音技法のことが、その文章にも出てくる。
そしてシェーンベルクのある作品のことについて言及している。

ところが、その作品が12音技法以前のものだったのである。
これは致命的なミスである。

実は編集者も気づいていた。
けれど作品名だけを訂正するというわけにはいかなかった。
構成からいって、すべてを書き直してもらうしかない。
しかも特集記事なので、かなりの文章。
時間的な余裕がまったくないという状況で、編集者はそのまま掲載することを決めた。

この時の編集者の心境を考えてほしい。
発売日がずらせるものならば、そうしたいところであったはずだ。

結局、そのオーディオ雑誌はそのまま掲載している。
読んだ人の中には、クラシックに関心のない人もいるだろうから、
この致命的なミスに気づかない人もいる。

その一方でクラシックの聴き手でありながら、このミスに気づかない人もいる。
その文章を書いた本人も、実はここにいる、といえる。
おそらく彼もまた、そういうミスをおかした文章を読んでも、何も思わないであろう。

わかったつもりの人だからである。
わかったつもりの人は彼だけではない。
片チャンネルが逆相で鳴っていたのに気づかなかった人も、わかったつもりの人である。

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