老いとオーディオ(若さとは・その19)
老成ぶっている人たちは、もしかすると、
自分にはもうのびしろがない、ということに気づいている人なのかもしれない。
はっきりと気づいていなくとも、なんとなく感じているのかもしれないからこそ、
老成ぶるしかないのか──、
のびしろがないこと、なくなってしまったことを、
素直に受け入れられるのであれば老成ぶることはないのかもしれない。
ここにきて、そうおもう。
老成ぶっている人たちは、もしかすると、
自分にはもうのびしろがない、ということに気づいている人なのかもしれない。
はっきりと気づいていなくとも、なんとなく感じているのかもしれないからこそ、
老成ぶるしかないのか──、
のびしろがないこと、なくなってしまったことを、
素直に受け入れられるのであれば老成ぶることはないのかもしれない。
ここにきて、そうおもう。
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを──、
といったことを(その2)で書いて、六年以上が経ち、
ひとつにしたむき出しの勢いを洗練させていくことが老いていくことだと思うようになった。
(その3)で、
2018年のインターナショナルオーディオショウで見たアナログプレーヤーのことを書いている。
聴いた、としないのは、聴く以前の製品であったからだ。
(その3)でも触れているが、このアナログプレーヤーで再生すると、
ウーファーが見たことのないくらい前後にフラフラする。
CD全盛時代になってからは、こういうことは基本的になくなったが、
アナログディスク全盛時代では、ウーファーのフラつきはあった。
アナログプレーヤーの低域共振によって発生する現象なのだが、
それにしても2018年に見たウーファーのフラつきぶりはひどかった。
このフラつきの発生原因であるアナログプレーヤーの製品名は書かなかった。
オーディオ雑誌でも、新製品紹介記事に登場してからは、
私の知る限りではほとんど登場していない。
今年のインターナショナルオーディオショウでは展示されていなかった。
なので、もう輸入されていないものだと思ってしまったところに、
この製品の値上げの情報が発表になった。
まだ輸入されていたのか? まずそう思った。
型番はそのままなのだから、大きな改良は施されていないと思われる。
とすれば、ウーファーのフラつきは、あのままのはずだ。
世の中には、ウーファーのひどいフラつきを見て、
低音がすごく出ている、と勘違いする人もいるようだ。
そういう人にとっては、このアナログプレーヤーは低音がよく出るということになるのか。
このアナログプレーヤー、MAG-LEV AudioのML1、
いまもウーファーはフラつくのだろうか。
いまも変らずだとしたら、輸入元の人たちは、そのことをどう思っているのか。
なんとも思っていないのだとしたら、製品以上に、そのことのほうが問題である。
終活という造語を頻繁に目にしたり耳にしたり、というふうになっていたのは、
いつごろからだろうか。
そんなに経っていないはずなのに、それがあたりまえのことのように思われつつあるようだ。
終活の意味について書く必要はないだろう。
私もあと二ヵ月ほどで60になる。還暦だ。
同世代の人たちは、終活ということを真剣に考え、実行に移しはじめているのだろうか。
終活=断捨離みたいにも受け止められている。
けれどほんとうに終活とは、そういうことなのか。
私はむしろ終活とは、残り時間が少なくなってきたのだから、
好きな分野でいままでやってこれなかったことをやるのが終活だと思っている。
そう思っているからこそ、今年はいくつものオーディオ機器がやって来たのだろう。
オーディオテクニカのウェブサイト内に、
「レコード曲の思い出を求めて〈40代・女性〉」というページがある。
11月1日に公開されている。
40代とおもわれる女性がLPを手にしている写真が使われている。
この写真をどう受けとったらいいのだろうか。
盤面に指先で触れている。
オーディオテクニカは、
「レコード曲の思い出を求めて〈50代・女性〉」と
「レコード曲の思い出を求めて〈50代・男性〉も公開している。
こちらの写真では、盤面の縁を両手でもっている。
盤面には触れていない。
なので、あえて〈40代・女性〉では盤面に触れるような写真を撮り使っているのか。
40代の人ならば、
音楽をおさめたメディアといえばCDだった人のほうが多いのではないのか。
LPを知らない人、触ったことのない人もいよう。
だから扱い方を知らない人がいるのは知っている。
その上で、オーディオテクニカは、こういう写真を使っているのだろうか。
それにしても、こういう取り扱い方を載せてしまうのは、いただけない。
オーディオテクニカが、この写真を使っている理由が知りたい。
何も考えずの、この写真ということはないと思うのだが……。
老化と劣化は同じではない。
(その11)で触れている例は、どちらなのか。
そのことを考えてほしいし、
インターナショナルオーディオショウという場で、
アナログディスクが頻繁にかけられるようになっていることはけっこうなことだが、
同時に、CD全盛時に、この人たちは大事なことをどこかに置き忘れてきたのか、
それともアナログディスク全盛時代でもそうだったのか──、
そこで鳴っている音に真剣に耳を傾ければ、わかるはずだ。
1990年代の、二年弱の時期、
サウンドステージにいくつかの文章を書いていた。
中原柊成のペンネームで発表した文章だ。
三十前後のころである。
若さのせいか、「私」という単語を素直に使えず、
かといって、ぼく、でもないし、ましてオレでもない。
だから、あえて使わずに書いた。
このことを指摘されたことはない。
2008年から始めた、このブログでは「私」を使っている。
抵抗なく使っているのは、齢をとったためなのか。
と感じつつあるので、
2023年1月29日以降は、あえて使わないようにしようかな、とも考えている。
今日、インターナショナルオーディオショウに行ってきたわけだが、
とあるブースでアナログディスクがかかっていた。
かなり高価なプレーヤーでの再生だった。
なのに奇妙なノイズがつきまとった音だった。
パチパチというスクラッチノイズではなく、ジョリジョリといった感じのノイズである。
ずっとつきまっているノイズだから、サーフェスノイズなのだろう。
だとしたら、こんなサーフェスノイズは聴いたことがない。
どう調整すれば(どう調整が失敗すれば)、
こういうジョリジョリといったノイズが出せるのか。
盤の状態がおそろしく悪いのかというと、そんな感じではない。
このブースのスタッフは、誰もこのノイズが気にならないのか。
こういうアナログディスク再生が行われていると、
悪い意味での老いということについて、あれこれ考えてしまう。
別項でふれているように、ここしばらくシューベルトを主に聴いている。
そのこともあって、しばらくグレン・グールドの演奏を聴いていなかった。
といっても三ヵ月ほど聴いていなかっただけである。
今日、グールドを聴きたくなった。
昨夏よりグールドを聴く、ということは、TIDALでMQA Studioを聴くことに、
すっかりなってしまっている。
さきほども、だからTIDALでMQA Studioで聴いていた。
何を聴こうか、ということよりも、グールドを聴きたかった。
なので目に入ってきたアルバムを選択した。
バッハの平均律クラヴィーア曲第一集を聴いていた。
MQA Studioで聴いたからといって、最新録音のように聴こえてくるわけではない。
いまとなってはもう古い録音である。
テープヒスもきこえてくる。
いまどきのピアノ録音と比較するまでもない。
それでも十分ほど聴いていると、
グールドのバッハが身体にしみ込んでくるような感触がした。
聴きながら、しみ込んできている、しみ込んできている──、
そんなことをつぶやきそうになるくらいにだ。
平均律クラヴィーア曲集は、グールドの演奏をいちばん多く聴いている。
それでも、いままでこんなふうに感じたことはなかった。
これは老いからくることなのだろうか。
OTOTENでのDSオーディオのブースで、一つだけ確認したいことがあった。
けれど、それをリクエストするのは、さすがにどうかな、と思い何もいわなかった。
何を確認したかったのかというと、
ES001を使うことで偏心量を数値で確認できる。
そして減らすことで、音は良くなる。
偏心量を検出するときはもちろんディスクのレーベル上に、ES001がのっている。
ディスクをずらすときものっている。
偏心量がある値よりも小さくなって、もう一度再生するときものっている。
OTOTENでは、偏心量が大きいときも小さくなった時も、つねにES001がのっている。
ES001がのっている音しか聴けなかった。
私が聴きたかったのは、偏心量を小さくした状態で、
ES001がのっている音とのっていない音である。
いま書店に並んでいるオーディオ雑誌は、ES001を取り上げていることだろう。
誰がどんなことを書いているのかは知らないが、
ES001をのせた音、のせない音に言及している人がいるだろうか。
そしてES001の効果を絶賛しているようにも思う。
だがES001は、くり返すが測定器である。
偏心をなくしてくれるわけではない。
これまで感覚量でしかなかった偏心の度合を、数値で表してくれる測定器である。
そして、偏心による音の影響については、
昔からアナログディスク再生にまじめに取り組んできた人にとっては、
あたりまえすぎる常識である。
測定器に頼ることなく、すぐに対処できることでもある。
私はES001を評価しないわけではない。
測定器として捉えている。
測定器としてES001は、存在価値がある、と思っている。
ただいいたいのは、ES001を持ちあげている人で、
私と同世代、上の世代の人がいたら、
その人は、それまでただ漫然とアナログディスクを扱ってきた──、
と白状しているようなものだ。
そのことに気づかずにES01を高く評価しているのであれば、
それはもう老いでしかない。
ディスクの偏心に関しては、ステレオサウンド時代に、
井上先生から指摘されたことが一度ある。
アナログディスク関連機器の試聴の時だった。
当然だが、アナログディスクを何度もかけかえる。
そのうちの一回、「けっこうズレているな」と井上先生がいわれた。
ズレているとは偏心が大きいということである。
それでどうしたかというと、かけかえである。
これでまた偏心の大きいかけかたをしようものなら、
それは漫然とディスクを扱っている証左であり、
もしそんなことをしようものなら井上先生から怒られただろう。
一度目は偏心が大きくても二度目で偏心の少ないようにすればいい。
そこに測定器はいらないし、結局はどういうかけかたをするかである。
もちろん反対に、ほとんど偏心のないと思えるときも何度かあった。
そういうときはきまって井上先生は「いいところに決ったな」ときちんといってくれる。
これだけのことなのかもしれない、他人から見れば。
それでもそんな井上先生のことばがあったからこそ、レコードのかけかたである。
DSオーディオのES001は、それまで感覚量でしかなかったことを数値で示してくれる。
そういう経験があるからこそ、なぜディスクのかけかえをせずに、
ディスクの縁を指でチョンチョンと押すのだろうか。
なんとなくいじましい行為におもえるし、
偏心が大きかったら、スパッと一度やりなおす(かけかえる)ほうが、
見ている側としても潔く見えると思うのだが、どうだろうか。
これは私だけの感覚なのかもしれないが、
ターンテーブルプラッター上でディスクをずらすことは、
ディスク表面を傷つけるような感じがして、やりたくはない。
良質のシートがあれば傷つくことはないのだろうか、
なんとなく雑に扱っているようにも感じてしまう。
DSオーディオのES001は、スタビライザーというよりも測定器といったほうがしっくりくる。
ES001は、ディスクの偏心量を測定してくれる。
検出したディスクの偏心を少なくしていくのは、人の手(指)である。
DSオーディオのデモでは、ES001でディスクの偏心を検出後、
ディスクの縁を指で少しずつ押して、またES001で測定。
それで偏心量が減っているのか、増加したのかを判断。
ナカミチのDragon-CTがやっていたことを、人の指で行うわけだ。
この作業になれていなければ、指で押して、逆に偏心を増やすことにもなりかねない。
この作業をやっている人がどのくらい馴れていたのかはわからなかったけど、
偏心の仕方によっては、けっこうな時間をかけて指を押す作業をくり返していた。
それを見て私が思っていたのは、なぜディスクをかけかえないのか、だ。
指でこのくらいかな、とチョンチョンと押すくらいなら、
ES001を取って、ディスクも取って、もう一度ターンテーブルプラッターにのせる。
こちらの方がずっと早い。
そしてもう一度ES001をのせて測定してみればいい。
ディスクの偏心による音の影響は、なれれば、最初の音が出た時点でわかるものだ。
偏心量が大きい、とわかる。
ただ漫然と聴いていてはわからないかもしれないが、
偏心に注意して、同じディスクを何度もかけかえては、
その音の違いを意識して聴くようにしていれば、
今回は偏心が大きいな、とか、今回はうまく芯出しができた、とかわかるようになる。
もちろん偏心の量まではわからない。
ES001は、これまで偏心が大きいな、と感じていたのが、
どのくらいの偏心量なのかを数値で示してくれる。
その意味での測定器である。
今年のOTOTENで、DSオーディオのES001を聴くことができた。
DSオーディオいうところの偏心検出スタビライザーなのだから、
その音を聴くという表現は、少し間違っているのかもしれないが、
その効果を聴いた、という表現も少し違うように感じてもいる。
DSオーディオのブースに入ったときに、
ちょうどタイミングよくES001のデモが始まろうとしていた。
ES001が出ていたのは知っていた。
ただどんな製品なのかを正確には知ろうとはせずに、
レコードの偏心の問題を自動的に解決してくれるモノだと勘違いしていた。
DSオーディオのスタッフの話は面白かった。
ナカミチのDragon-CTの話も出てきた。
私よりも二まわりほど若い方のようで、TX1000の話はなかった。
アナログディスク再生において、ディスクの偏心は音に大きく影響する。
そのことはずっと以前から云われてきたことだし、
だからこそナカミチが、いまから四十年以上前にTX1000を開発しているし、
高価すぎるTX1000の普及モデルとしてDragon-CTも出してきた。
私はどちらもステレオサウンドの試聴室で、その効果を聴いている。
偏心しているレコードの芯出しを行うと、誰の耳にもあきらかなほどの音の違いが生じる。
ナカミチのアナログプレーヤーは、どちらの機種も偏心を検出し、
芯出しまでボタン一つで行ってくれた。
その印象が残っていたために、
ES001も検出・芯出しまで行ってくれるモノだと思い込んでしまった。
思い込みながらも、実際にはどんな方法で行うのだろうか、とあれこれ想像はしていた。
検出はなんとなくこんな方法だろうと想像はついたけれど、
芯出しの機構をスタビライザーのなかで、どう実現するのか。
なかなか大変なことなのに──、
と思っていたわけだが、ES001の説明を聞くと、
ユーザー(人間)が芯出しを行う。当然といえば当然か。
(その3)へHiroshi Noguchiさんのコメントがあった。
残念ながら、ボザール・トリオはMQAではない。
ワーナー・クラッシクスでの録音はMQAになっているが、
私がボザール・トリオときいて、まず思い浮べるフィリップスへの録音は、
いまのところTIDALではMQAになっていない。
e-onkyoはどうかというと、
ベートーヴェンのピアノ三重奏曲がMQA(192kHz)になっている。
今年の6月に配信が開始になっている。
個人的には、デジタル録音なのだが、モーツァルトもぜひMQAにしてほしい。
昨晩、五味先生の、この文章も思い出した。
*
死のつらさを書かぬ作者は、要するに贋者だ。
そいつは初めから死馬である。幾らだってだから書ける。狂うことも、自殺することもないわけで、死馬ほど安楽な状態はあるまい。シューマンはその点、所詮、死馬に耐えられなかった。彼の作品は、悉く若い時代に為したもので、私に言わせればシューマンは音楽家よりは文学者になるべき人だったとおもう。彼の作品活動は、その良いものは三十二歳までだ。音楽に向っては、若い裡にしか流露しないそういう才能なのであり、あとの十余年は、死馬になった己れとの闘いだったろうと思う。ライン川への投身はその意味では、潔い行為で、精神錯乱と呼ぶのは死馬の輩だ。しかもシューマンには、しっぺ返しを喰うほどの才能の結実さえ(作品四一の弦楽四重奏曲、同四四のピアノ五重奏曲、それにピアノ四重奏曲を除いては)なかったと、私なら言う。少なくとも作曲上不可欠な構成力といったものが、彼には欠けていたのではなかったかと。
(「音楽に在る死」より)
*
思い出したから、シューマンのピアノ五重奏曲を聴いた。
ボザール・トリオの演奏で聴いた。