オーディオ機器との出逢い(その4)
出逢いがあれば、必ず別離がある、とはずっとずっと以前から云われていること。
出逢うべくして出逢ったオーディオ機器との別離が、いつかきっとくる。
大切なモノを失うことはつらい。
ときに、その別離が、大切な「こと」を見失っていたのに気づかせてくれることもある。
出逢いがあれば、必ず別離がある、とはずっとずっと以前から云われていること。
出逢うべくして出逢ったオーディオ機器との別離が、いつかきっとくる。
大切なモノを失うことはつらい。
ときに、その別離が、大切な「こと」を見失っていたのに気づかせてくれることもある。
DVDは、Digital Versatile Discの略だが、
最初はDigital Video Discとして企画されたものだったはず。
CDが、音楽のパッケージとして使われるだけでなく、
パソコン用のソフトのインストーラーや当時としては大容量のメディアとしても使われていったように、
DVDも、ビデオだけの利用にとどまらず、多用途なディスクとしての意味で、
videoが、versatile(多用途)へと変更された。
バーサタイル(versatile)と対比させることで、
ユニバーサル(universal)の意味がはっきりとしてくる気がする。
SMEのトーンアームの特徴は、軸受け部のナイフエッジということの、そのひとつとしてあげられる。
この構造上、SMEのトーンアームの調整で重要なのは、ラテラルバランスを必ずとる、ということ。
SMEも、3012-Rになり、このラテラルバランスの機構が調整しやすくなった。
ただ、それでもラテラルバランスがきちんととれているのかどうか、
どうやって判断したらいいのか、と訊かれたことが何度かある。
広く知れ渡っていることだと思っていただけに、ちょっと意外だったが、判断方法は簡単だ。
プレーヤーの片側を持ち上げて傾けて、トーンアームのパイプが流れなければいい。
もちろんカートリッジをとりつけて、ゼロバランスをとってから、であることはいうまでもない。
それからインサイドフォースキャンセラー用のオモリも外しておくこと。
そんなに大きく傾ける必要はない。目見当で10度から15度くらいで十分だ。
こう答えて、さらに訊かれたのは、傾けられないくらい重いプレーヤーだったらどうするんですか、だった。
そのころはまだステレオサウンドにいたし、ステレオサウンドの試聴室のリファレンスのアナログプレーヤーは、
マイクロのSX8000IIにSMEの3012-R Proの組合せ。
その人は、このマイクロは傾けられないだろう、ということだった。
SX8000IIの総重量は正確には憶えていないが、ベースを含めると100kg近かった。
この重量を傾けられる人もいるだろうが、ふつうは、まあ無理だ。
なにもベースごと傾ける必要はないし、ターンテーブル本体部分ですむことだが、
それでも軽いとはいえない重さだし、
トーレンスやリンのようなフローティング型からすると大変なことに変りはない。
でもマイクロはアームベースが取り外せる。
カートリッジをつけてゼロバランスをとって、針圧は印可しない状態で、
アームベースごとはずして、これを傾ければいい。
オーディオ機器との出逢いには、ふたとおりあると思う。
ひとつは、もちろんオーディオ機器と使い手・聴き手との出逢い。
オーディオ機器と人との出逢いだ。
もうひとつは、オーディオ機器とオーディオ機器との出逢いがある、といえないだろうか。
これも、オーディオ機器と人とオーディオ機器との出逢いというべきだろうが、
それでも所有しているオーディオ機器が、
なにか、それと組み合わされるべき相手となるオーディオ機器と出逢う、ということがときとしてある。
モノがモノを呼び寄せる、そのようなものだろうか。
私の場合では、The Goldを手に入れてしばらくして、GASのThaedraを手に入れることができた。
それも初期のThaedraの、ひじょうにコンディションのいいモノだった。
よく世間ではGASのアンプの音は、男性的という表現で語られる。たしかにそういう面を強く持っていた。
でも、それは必ずしもGASのアンプすべて、すべての時期についていえることではないくて、
ごく初期のGASのアンプの音は、そういう男性的な、と語られるところをうまく抑制して、
素直で表情豊かな音を聴かせてくれていた。
というよりも一般に語られているGASの男性的と表現される性格は、
やや意図的に出されてきたものではないかとも、私は思っている。
サイケデリック風のロゴがアンプのパネルに描かれるようになってから、音の印象があきらかに変化している。
だから、初期のThaedraが入手できたことは、うれしかった。
それにThe Goldと組み合わせたときの音、これはいまでも憶えている。
The Goldが、いままで見せてくれなかった、生き生きとした表情で鳴ってくれた。
こういうふうに鳴りたかった──、そんなことが伝わってきそうな感じだった。
The Goldは、というよりもボンジョルノのつくるパワーアンプは、基本的に素直な性格をもつ。
コントロールアンプの違いを、よりはっきりと出す。
相手を選り好みする、というのではなくて、わりとストレートにコントロールアンプの性格を音として出す。
それはパワーアンプとしての性能が高くなってきたThe Goldにおいて、もっとも顕著だった。
オーディオ機器とオーディオ機器との出逢い、それに立ち合えた経験を一回でもお持ちなら、
いま書いたことを理解してくださると信じている。
SMEの3012の誕生は、オルトフォンのSPU-Gのためであることは、
瀬川先生がなんども書かれていることからもわかるし、
SME純正のヘッドシェルの形状が、オルトフォンのGシェルに似ていることからも推測できる。
つまりオーディオクラフトのAC3000のように、
コンプライアンス、自重、適正針圧、発電方式などがさまざまに異る多種多様なカートリッジを、
一本だけで使いこなすためのトーンアームではなく、
たったひとつのカートリッジを使いこなすためのトーンアームが、3012であり、
SMEのトーンアームは基本的に、その思想を貫いている。
3012のあとに出た3009はシュアーのV15に合わせたものだし、
さらに軽量化を徹底的に進めた3009/SIIIは、
V15よりもさらにハイ・コンプライアンス、軽針圧のカートリッジに適合するように、
チタンのごく細いパイプを使い、ヘッドシェルも一体化(しかも孔あき)、
カートリッジの交換はアームパイプごと行う仕様になっている。
交換のための機構がアームパイプの先端にあるほど実効質量が増すのをなくすために、
軽量化した機構を、アームの軸受け部近くに持ってきているし、後部のウェイトもコンパクトにまとめられている。
3012は優美な美しいトーンアームなのに、3009/SIIIのとなりにあるとたくましさを感じるほど、
30009/SIIIのパイプは細く(軽く)、見た目も華奢だ。
このトーンアームでMC型カートリッジは使えない。
*
SMEのユニバーサリティとは、一個のカートリッジに対して徹底的に合わせ込んでゆくその多様な可能性の中から一個の「完成」を見出すための、つまり五徳ナイフ的な無能に通じやすい万能ではなく、単能を発見するための万能だといえるのだと思う。(ステレオ 1970年4月号)
*
いまから40年も前に、瀬川先生が書かれているこのことは、
オーディオにおける「ユニバーサル」の意味を考えてゆくうえで、本質だ。
オーディオクラフトの社長は、花村圭晟氏だった。
花村氏とお会いしたことはない。
けれど、どういう経歴の人であったかは、なんどかきいたことがある。
瀬川先生はステレオサウンド 58号に次のように書かれている。
*
社長の花村圭晟氏は、かつて新進のレコード音楽評論家として「プレイバック」誌等に執筆されていたこともあり、音楽については専門家であると同時に、LP出現当初から、オーディオの研究家として長い経験を積んだ人であることは、案外知られていない。日本のオーディオ界の草分け当時からの数少ないひとりなので、やはりこういうキャリアの永い人の作る製品の《音》は信用していいと思う。
*
菅野先生も、花村さんは、ぼくらの大先輩だ、とおっしゃっていた。
この花村氏の名前を、なぜか、なんら関係のない人が名乗っていることを、数年前に知った。
花村圭晟から一文字だけ削った、そんなまぎわらしい名前で、
オーディオ、ジャズについて、あれこれ言っている人だ。
本名はまったく違う人だ。
詳細は伏せておくが、そのことでオーディオ関係者が憤慨されていたことも知っている。
そのときの名前の使い方からすると、あえて利用しているとしか、私には思えなかった。
SMEの3012-Rとほぼ同じ時期に、オーディオクラフトのAC3000 (4000)シリーズの存在もあった。
AC3000はアームパイプを根元から交換する構造で、
アームパイプは材質、形状にいくつもの種類を用意して(ストレート型が5本、S字パイプが3本)、
ハイ・コンプライアンスのカートリッジからロー・コンプライアンスのモノまで、
ひとつのトーンアームでの対応を目ざした、いわゆるユニバーサルトーンアームとして開発されている。
その前身のAC300のころから、瀬川先生は愛用され、高く評価されていた。
AC300のころはアームパイプの交換はできなかったが、3000になり採用。
このときから、ヤボったさの残っていた外観の細部が変化して、ずっと洗練された見た目になっていった。
おそらくデザイナーとして瀬川先生が手がけられたのだ、と私は思っている。
色、仕上げもAC3000 Silverになり、また良くなった。
使いこなしてみたい、とおもわせる雰囲気をまとってきた。
欲をいえば、もっともっと洗練されていくことを期待していたけれど、
瀬川先生がなくなり、オーディオクラフトから花村社長が去り、この有望なトーンアームも姿を消す。
当時のカタログや広告をみれば、AC3000シリーズには、豊富な、
日本のメーカーらしいこまかなところに目の行き届いた付属アクセサリー(パーツ)が用意されていた。
カートリッジに対してだけでなく、取り付けるプレーヤーシステムのことを考慮して、
アームベースは、フローティングプレーヤー用に軽量のものもあった。
出力ケーブルも、MC型カートリッジ用の低抵抗型、MM型カートリッジ用の低容量型もあった。
これはもう、日本のメーカーだから、というよりも、当時の社長であった花村氏のレコードに対する愛情から、
そしておそらく瀬川先生の意見されてのことから、生れてきたものというべきであろう。
AC3000を使う機会は、残念ながらなかった。
101 Limitedを買っていなければ、AC3000か4000を買っていた、と思う。
状態のいいモノがあれば、ぜひ、いま使ってみたいトーンアームでもある。
オーディオ機器の中で、ユニバーサルということばがつくものといえば、トーンアームがまずあげられる。
ユニバーサルトーンアーム、という言い方がある。
その代表としてあげられるのが、SMEの3012である。
たしかに3012は、調整のポイントをしっかり把握した上で使いこなせれば、
かなり融通のきくトーンアームの、数少ないモノである。
私自身も3012-Rを使っていた時期があるし、
ステレオサウンドの試聴室のリファレンス・プレーヤーのマイクロのSX8000IIに3012-R Proだった。
カートリッジの試聴において使用するトーンアームは、私がいたころは、この3012-R Proだけだった。
3012-Rだけで、ハイ・コンプライアンスのカートリッジからオルトフォンのSPUまで、
MM型からMC型まで、じつにさまざまなカートリッジを取り付けては調整し、また交換しては試聴してきた。
だから私にとって、 SMEの3012-Rはもっとも手に馴染んでいるオーディオ機器である。
だからこそ、信頼して使えるオーディオ機器でもあった。
話はすこしそれるが、アナログディスク再生において、もっとも重要なことのひとつに、
この、手に馴染む、ということがあると、私は考えている。
もちろん基本性能の高いことはいうまでもないが、それだけではアナログディスクを再生、というよりも、
演奏するオーディオ機器としては不十分ではないだろうか。
たとえばカメラ。ライカのカメラの評価は素晴らしいものがある。
でもすべてのカメラ好きの人の手に、ライカが馴染むかどうかはどうなのだろうか。
最初にさわったときからすっと手に馴染む人もいるだろうし、
愛着をもってつかいこなしていくうちに、手に馴染んでくる、ということもある。
でも、世の中にひとりとして同じ人がいないのだから、
どうしても、どうやってもライカが手に馴染まない人もいて、ふしぎではない。
そんな感覚が、アナログディスクを演奏するオーディオ機器にはある。
とくにトーンアームこそ、そうである。
アナログディスクの演奏においてこそ、手に馴染む、手に馴染んでくるモノを使うべきである。
それを見極めるのも、アナログディスク演奏には重要なことでもある。
ユニバーサル(universal)がつく言葉に、ユニバーサルデザイン(universal design)がある。
ユニバーサルデザインの定義については、川崎先生の「デザインのことば」のなかに、こうある。
*
「誰でもが使いやすいモノやコトのデザイン」という定義が一般化してしまったことは、この言葉の本質を訴求するうえでは、大きな誤用であったと指摘しておきたい。7原則である、公平性・自由性・単純性・省力性・安全性・情報性・空間性は、我が国においては、その内容を大きく変容させる必要がある。まして、「誰もが使えるモノ」などあるわけがなく、高齢者や幼児、障害者すべてに対するデザインが、いわゆるユニバーサルデザインの本質において、デザインの理想主義の確信を強調させた意味を持っているだけである。この意味が重要である。
*
ここに引用したところだけでなく、ぜひ全文を読んでいただきたい。
川崎先生の「デザインのことば」を念頭において、「ユニバーサルサウンド」について考えてゆく。
オーディオのシステムは、ひとつのモノだけでは成りたたない。
どんなに優秀なスピーカーシステムを手にいれたとしても、それだけでは音は出ない。
あたりまえすぎる話だが、アンプが必要になり、CDプレーヤーなりアナログプレーヤーも要る。
すくなくともこの3点が揃わなければ、音は出ない。
いま日本で入手できるそれぞれの数はいったいどのくらいあるのだろうか。
オーディオマニアを対象にしたモノにかぎっても、かなりの数となり、
それらの組合せとなると、たいへんな数だ。
それに実際のオーディオマニアは、なにも現行製品ばかりでシステムを組んでいるわけではない。
ずっと愛用してきた、すでに製造中止になって久しいモノもある。
それに自作のモノもある。
そうなると、この日本だけに限っても、そのシステムの多彩さは、いったいどれだけの幅があるのだろうか。
そして、そこに部屋(リスニングルーム)が加わる。
同じ装置、同じ部屋が存在していてとしても、鳴らす人が同じでなければ、同じ音は出ないのが、オーディオである。
システムが違い、部屋が違い、人も違う。
人の数だけ、同じレコードが、それぞれの音で鳴っている。
この事実は、つまり万人のための音はありえない、ということでもあるはずだ。
「万人のための音」を英訳しろといわれたら、
多くの人が、おそらくユニバーサルサウンド(universal sound)と答えるだろう。
だが、ユニバーサルサウンドを、万人のための音、と訳していいのだろうか。
われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、ひとつの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるために良い加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしはならぬ。
*
フローベルの有名なことばを引用して、瀬川先生は、「言葉」を「パーツ」、「動詞」を「組合せ」に、
「形容詞」を「使いこなし」に置き換えれば、オーディオの本質をいい現わすことばになる、と
「コンポーネントステレオの楽しみ」のなかに書かれている。
つまり「われわれはそのパーツ、その組合せ、その使いこなしを見つけるまでは捜さなければならない」わけだ。
パーツ(つまりオーディオ機器)、組合せ、使いこなし、これらのなかで、
他人(ひと)とは絶対に同じにならないのが、「使いこなし」である。
パーツも組合せも、だれかとまったく同じになることは確率的にはごくまれともいえる反面、
ずっと以前は、たとえばタンノイのIIILZにラックスのSQ38Fは、黄金の組合せ、と呼ばれていたことがある。
黄金の組合せとは言われなかったけれど、JBLの4343とマークレビンソンLNP2、
それにSAEのMark2500の組合せ、という方は、当時は少なくなかったと思う。
それからQUADのシステムに代表される、いわゆるワンブランドシステムならば、まったく同じシステムが、
世の中にはいくつも存在している(はず)。
それでも、まったく同じシステムでも、同じ音は、この世には存在しない。
それはなにもそれぞれのコンポーネントを接続するケーブルが違う、とか、電源事情が異る、だとか、
もうすこし大きいところでは部屋が違う、からなのではない。
いうまでもないことだが、人が違う、からだ。
絶対に同じになることはないもの、それは人、つまりは「自分」である。
その人にとって、絶対的に特別なのは、結局その人自身のみ、でなければならない。
なのに人とは違う、なにか特別なモノを求めようとする人がいる……。
特別な環境、特別なモノ……、とにかく特別ななにかに囲まれていることで、
自分を特別だ、と思いこめるのであれば、そう自分を騙せているうちは、幸せなはずだ。
ずっと、それに気づかずに生きていければ、もっと幸せなのだろう。
オーディオが趣味で、まわりの人に迷惑をかけずにやっているのであれば、
その「幸せ」にケチをつけるようなことではない。
オーディオは、私にとって趣味なのか──。
こんなことを考える。
誰かと、まったく同じ部屋(環境)に、同じオーディオ機器。
そういう状況において、よりいい音を鳴らすことができることこそ、特別である、ということ。
もちろん、こんな状況は、実際にありえない。
そんなことをする意味もない、だろう。
特別なモノでなくても、自分の気に入ったモノ、惚れ込んだモノを手に入れて、
鳴らして、望む音を出していけばいいのが、趣味のオーディオだから。
それに、それが趣味のオーディオとしての選択でもあろう。
特別なモノを手にするためには、そういうモノがあるということを、まず知っていなければならない。
特別な知識がなければ、手に入れることは難しい。
だから、特別な知識の蒐集からはじまる。
そうやって、なんらかの特別なモノが手に入ったときは、
運も味方して、ということもあって、嬉しくないはずはない。
特別なモノばかり揃えても、いい音が出せるわけではない。
使いこなせなければ、宝のもち腐れとなるが、
その面においても、ステレオサウンドにいたこともあって、恵まれていた。
レコードに関しても、グールドのLPは、いわゆる初期盤といわれているものをかなりの数、手に入れてきた。
それらのほとんどを、ある時期手放した。
そして、いまがあり、いえることがある。
そんな選び方をして、自分の望む音が出せるのか──。
オーディオマニアは、なにか特別ななんらかを手に入れたがっているところがあるように思う。
たとえば、自分の敷地内に専用の電柱(いわゆるマイ電柱)もそうだし、
専用のリスニングルームもそう。特註品、限定品、
それにウェスターン・エレクトリックやシーメンスの、いまでは入手の難しくなったスピーカーなど、
特別なものは、モノだけでなく、環境・条件において、いくつもある。
なにも、これらの特別なものを手に入れることを否定するのではない。
そういう特別なものを手に入れることができるのも、
ある意味(それは間接的ではあるかもしれないが)、入手した人に特別な能力があったからだろう。
ただ、その能力が、オーディオの能力とは限らない。
ときに特別ななにかを手に入れて、自分だけの特別な音をつくっていく。
20代のころ、そうだった。
EMTの927Dstも手に入れた。
そのイコライザーアンプとして、1960年代、ヨーロッパでの録音に使われていた
テレフンケンのM10の再生用アンプも手に入れた。
管球式で、堅牢なつくりのモノーラル構成。
ちなみに私が手に入れた927Dstは、後期(というより一般的に知られている)927Dstとは違い、
デッキ部分に927Dstの刻印が入っていたし、クイックスタート・ストップレバー用の穴は、最初からない。
349Aのアンプをつくろうとしていたときは、ベース部分にではなくガラス面に、
349Aと印刷されている、いわゆるトップマークタイプも集めていた。
音のいいと云われているモノの中で、さらに音が優れているモノ、そんな特別なモノを手に入れていた。
音ではなく、ボロボロのグールドの椅子とならべたときにしっくりとくるモノを選ぶというわけだ。
グールドの椅子は、たしかグールドの父親の手による製作で、プロの職人によるものでないことは知られているし、
実物をみると、そのことはすぐにわかる。
そんな椅子としっくりくるもの……というと、ボロボロの、素人の手によるスピーカーというわけではない。
たしかにグールドによって永年つかわれていた椅子はボロボロではあるが、実物を見たことのある者にとっては、
どこかにストイックな要素を感じてしまうし、それは、ただのボロボロの椅子とは、違う。
感傷的視線、感情移入から、そう見えた、とは思っていない。
はっきりと、何が違うと、まだ見えていない。
だから、グールドの椅子を、まず手に入れたいと思う(もう少し先になるけれど)。
そしてグールドの椅子とじっくり向かい合いスピーカーを決めていく。