オーディオの想像力の欠如が生むもの(その24)
オーディオの想像力の欠如のままでは、理外の理とは無縁だろう。
オーディオの想像力の欠如のままでは、理外の理とは無縁だろう。
オーディオの想像力の欠如とは、内なる耳の欠如である。
カタログとカタログ誌は、同じとはいえない。
カタログ誌ときいて、どういうものを思い浮べるかによって、
同じではないか、という人もいようが、私はカタログとカタログ誌ははっきりと分けている。
HI-FI STEREO GUIDEは、まずジャンルごとに分けられている。
スピーカーシステム、フルレンジユニット、トゥイーター、スコーカー、ドライバー、ホーン、
ウーファー、エンクロージュア/ネットワーク、
アンプもプリメインアンプ、コントロールアンプ、パワーアンプ、レシーバー、チューナー、
グラフィックイコライザー、エレクトリッククロスオーバーなど、といったようにである。
さらにブランド別、価格順で掲載されている。
途中から新製品には☆、製造中止の製品には★がつくようになった。
カタログではなくカタログ誌に近い存在といえるのが、
ディスコグラフィ(discography)であるが、
ディスコグラフィとカタログ誌も違う面がある。
私はクラシックを主に聴くために、
ここでのディスコグラフィとは、あくまでもクラシックにおけるディスコグラフィのことである。
ステレオサウンドでは、30号から「ディスコグラフィへの招待」という記事が始まった。
30号ではモーツァルトの三大オペラ(フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、魔笛)、
31号ではマーラーの交響曲、32号ではブラームスの交響曲、33号ではカール・ベーム、
35号は小沢征爾、36号はウラディミール・ホロヴィッツ、38号はゲオルグ・ショルティと続いた。
すべてのディスコグラフィは浅里公三氏による。
黒田先生は、31号で、
《もしディスコロジストという言葉がありうるなら、ぼくの知るかぎり日本におけるもっともすぐれたディスコロジストである浅里公三氏によってつくられた》
と書かれている。
カタログ誌。
オーディオの世界では、
ステレオサウンドが半年ごとに発行していたHI-FI STEREO GUIDEがよく知られている。
ステレオサウンド本誌よりも高くて、
中学生のころは、その数百円の差がけっこう大きくて毎号は買えなかった。
いつのころからか、
ステレオサウンドをカタログ誌になってしまった……という批判を耳にするようになった。
そういいたくなる気持はわかっても、
カタログ誌には、そういった悪い意味もあるけれど、
HI-FI STEREO GUIDEはきちんとしたカタログ誌であり、いいかげんな編集ではなかった。
とにかくすべてを網羅する。
それがカタログ誌でもっとも重要とされることである。
カタログ誌が、これは載せないなどをやっていてはカタログ誌たりえない。
網羅されることで気づくことは、意外にある。
私が買ったHI-FI STEREO GUIDEは、’76-’77年度だった。
ステレオサウンドで働くようになって、それ以前のHI-FI STEREO GUIDEを見ていた。
’74-’75年度版、これが最初の号である。
’74-’75年度版を眺めていると、
この製品とあの製品は、同じ時代に現行製品だったのか、と驚く。
マークレビンソンのLNP2はもう登場していた。
LNP2が載っているページの隣には、
アルファベット順だからマッキントッシュが掲載されている。
当時のマッキントッシュのラインナップは、
C26、C28の他にチューナー付きのMX115があり、
管球式のC22も、まだ現行製品として残っている。
パワーアンプのMC275も、チューナーのMR71も、この時はまだ現行製品だった。
スピーカーでも、ジェンセンのG610B。
私は、この同軸型3ウェイユニットの存在を、ステレオサウンド 50号(1979年春号)で知った。
その時はずっと以前に製造中止になっていたユニットだと思っていた。
でも’74-’75年度版では、まだ現行製品である。
JBLからは4350、4341といった4ウェイのスタジオモニターが発売されていた。
オーディオ機器にも、世代といえるものがある。
その世代が切り替るのを認識するうえでも、カタログ誌は重宝するし必要である。
カルチュア・コンビニエンス・クラブによる徳間書店の買収のニュースのあとに、
KK適塾の五回目はあった。
KK適塾で対話について、
ビッグデータをベースにした対話、
ストーリーをベースにした対話、
という話があった。
ビッグデータをベースにした対話の代表的な例は、
iPhone(iOS)に搭載されているSiriである。
Siriはインターネットという環境があるからこそ成立する技術である。
そして、そこでの対話は一問一答が基本である。
ここがストーリーをベースにした、いわゆる対話との大きな違いでもある。
雑誌は対話なのか。
そんなことをKK適塾五回目で思っていた。
ビッグデータをベースにした雑誌編集は、
そういうことになっていくように予想できる。
雑誌が面白かったのは、ストーリーをベースにしていた、
ストーリーの共有が、編集者と読者とのあいだにあったからなのかもしれない──、
このことも思っていた。
3月下旬に、徳間書店が、
TUTAYAを運営しているカルチュア・コンビニエンス・クラブの子会社になった、
というニュースがあった。
いまコンビニエンスストアだけでなく、かなりの業種の小売店で、
「Tポイントカードは……」と会計の度にきかれる。
私はもっていないけれど、それだけTポイントカードは多くの人が持っているのだろう。
Tポイントカードが使われるごとにカルチュア・コンビニエンス・クラブが得られる情報は、
いわゆるビッグデータなのだろう。
そのデータの活用方法のひとつとして、出版を考えているのだろうか。
データに基づいた本づくりを行えば、うまくいくのだろうか。
そうやって新雑誌が創刊されるのだろうか。
新雑誌とまでいかなくとも、既存雑誌のリニューアルが行われるのだろうか。
出版不況といわれているだけに、そういうやり方で雑誌がつくられていくかもしれない。
大当りするかどうかはわからないが、少なくとも大きく外してしまう、
極端に売行きの悪い雑誌にはならない──、のかもしれない。
でも、そうやってつくられた雑誌は、面白いだろうか。
雑誌好きの読み手を満足させるのだろうか。
オーディオ雑誌もそうやってつくられるようになるのだろうか。
(その10)を書こうと思いながらも、
他のことを書くことを優先していたら、(その9)から一年半以上経っていた。
この一年半のあいだに、大きく変ったことがある。
「考える人」の休刊が、今年2月15日に発表になった。
4月4日発売の2017年春号で休刊となる。
「考える人」のメールマガジンを読んでいる。
そこに、こうある。
*
先日、ばったり顔を合わせた同年代の編集仲間に冷やかされました。「考える人」みたいな雑誌を作ってしまうと、病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう、というのです。たしかに、そういう面は否定できません。1世紀以上の歴史と伝統を持つ出版社の基盤の上で、高いスキルを持った編集スタッフの力を借りながら、だ一戦の人たちの寄稿を仰ぎ、また創刊以来、単独スポンサーとして支援して下さった株式会社ファーストリテイリングの伴走を得て、思う存分に作ってきた雑誌です。手前みそになりますが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本チームを率いて戦うような醍醐味を満喫できたのは、編集者として大変に恵まれたことだったと思います。この後の「考える人」ロスが心配です。
*
《病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう》、
ここだけ抜き出せば、なにか麻薬のことをいっているようにも聞こえる。
「考える人」という雑誌は、そのくらい編集者にとっては、
雑誌の編集者にとっては、これ以上は求められないくらいの環境である。
株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーということのウェイトは、大きい。
大きすぎた、ようにも、いまは思う。
創刊15年で、「考える人」は休刊となる。
《それがひいては物を作る態度にも、いつのまにか反映している》
このことはステレオサウンドをはじめとするオーディオ雑誌においては、
本づくりの態度に反映してしまうだけにとどまらず、
物(モノ)を評価する態度にも、いつのまにか反映してしまうところに、
大きな、根深い問題へとなってしまう。
これは編集部だけに留まらず、
編集部がいいかげんな技術用語を使っていることに気づかずにいる執筆者もそうだ。
気がつかない、そんないいかげんな技術用語を自身がやっているということは、
その執筆者(オーディオ評論家)の、
オーディオ機器を評価する態度にも、いつのまにか反映してしまっている、ということだ。
技術用語の乱れは、すぐにはなくならないだろう。
メーカー、輸入元の資料を写しているだけの執筆者、編集部。
つまりは校正といっても、その元となるのが、技術用語が乱れたものでしかなかったりするのだから、
参考にできるものが、あまりないという状況でもある。
結局は、編集者、執筆者自身が、きちんと技術用語を勉強するしかない。
そんなめんどうなこと、基本的なことをいまさらやられるか、と少しでも思っているとしたら、
ずっとそのままであり、
携わっている雑誌の評価を確実に下げていくことになる。
ステレオサウンド 47号の特集の巻頭、
「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」で、
瀬川先生が書かれていることを、ここでも書き写しておこう。
*
だが、何もここで文章論を展開しようというのではないから話を本すじに戻すが、今しがたも書いたように、言葉の不用意な扱いは、単に表現上の問題にとどまらない。それがひいては物を作る態度にも、いつのまにか反映している。
*
物とはオーディオ機器だけではない。
オーディオ雑誌も含まれている。
チョーク(コイル)をわざわざチョークトランス、
平滑コンデンサーを整流コンデンサーなどと、
技術的におかしい、言葉の不用意な扱いをしているのが、
いまのステレオサウンドである(他の雑誌も同じようなもの)。
瀬川先生が亡くなって三十年以上が経っている。
いまのステレオサウンド編集部にとって、瀬川先生は古い人なのだろうか。
そんな古い人の書かれたことを持ち出されても……、という声がきこえてきそうだ。
別項「オーディオ評論をどう読むか(その2)」で、
太陽の光と月の光の違いについて、
そしてオーディオ評論(家)にも、太陽の光と月の光とがあることについて書いた。
その後も、「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(評論とブームをめぐって)」でも、
そのこと、その違いについて書いた。
光の射す方へ、人はめざす。
オーディオマニアも、またそうであろう。
けれど、太陽の光の射す方へめざすのか、
月の光の射す方へめざすのか。
太陽の光を思って、月の光の射す方向へとめざしてはいないだろうか。
昨夏書いたことを、ここでまた書いているのは、
「またか」と思われるだろうが、「3月のライオン」にハマっているからだ。
十一巻の巻末に「ファイター」という短篇が収録されている。
「3月のライオン」の主人公、桐山零の小学生時代が描かれている。
「ぼくの隣はいつも空席だ」という独白で始まる。
16ページの短篇の最後には、現在の主人公の独白がある。
*
僕が変わった訳では無い
──そして周りが変わってくれた訳でも無い
ただ気が遠くなりそうな日々を必死で
指して指して
ただ指し続けているうちに
ある日ふと
同じ光の射す方へ向かう人達と
一緒に旅をしている事に気付いた
──そして 今日も
目の前に座る人がいて
またひとつ新しい物語が始まる
光の射す方へ
僕らの旅は続くのだ
*
《同じ光の射す方へ向かう人達と一緒に旅をしている事に気付いた》
光の射す方へ向いながらも、その「光」が違うことに気づいている。
どちらの光の指す方へ向うのか。
それはその人しだいである。
それでもどちらが太陽の光の射す方なのかは、しっかりと見極めておかねばならない。
(その2)で反知性と書いた。
書きながら、KK適塾での川崎先生が話されたことを思い出していた。
反・半・範(はん)について語られた。
ならば反知性、半知性、範知性となる。
本来、オーディオ雑誌の編集長は範知性であるべき。
なのに半知性であったりすれば、
その雑誌は範知性であることは絶対にない。
せいぜいが半知性、うっかりすれば反知性へと転ぶ。
反・半・範の他にも、「はん」の漢字はいくつもある。
販、汎、判、煩、犯などがある。
他にもまだまだある。
それらの漢字を知性の前につけていく。
販知性、汎知性……。
販知性。なるほど雑誌は知性で商売をすることといえよう。
「はん」の漢字を知性につけていくことで、気づくことがあった。
オーディオ雑誌における技術用語の乱れ、
それも基本的な技術用語の乱れは、オーディオが反知性主義へと向いつつあるのか──、
そんなことを感じてしまう。
そんな大袈裟な、と思われるかもしれないが、
技術用語の乱れは、ここ数年のことではない。
十年以上前から続いていることであり、
乱れが少なくなるのではなく、より多くなりつつある。
昨年暮のキュレーションサイトの問題では、
キュレーションサイトには編集長のいないから的なこともいわれていた。
ほんとうにそうだろうか。
オーディオ雑誌には、どの雑誌にも編集長はいる。
編集長のいないオーディオ雑誌はないにも関わらず、技術用語は乱れていく。
別項で「オーディオは科学だ」と声高に主張し、
ケーブルで音は変らない、と言い張る人たちのことを書いている。
以前は「オーディオの科学」というサイトについても書いた。
だからといって「オーディオは科学ではない」とはまったく考えていない。
オーディオは科学であり、科学がベースになっている。
オーディオには感性が重要だ、と多くの人がいう。
たしかにそうだが、オーディオと科学の関係を否定することは、誰にもできない。
感性を重視するあまり、反知性主義へと傾いていいわけがない。
それがどういう結果を招くことになるのか、
技術用語にいいかげんな編集者たちは想像すらしていないのだろう。
昨秋からKK適塾が開かれている。
川崎先生がコンシリエンスデザイン(Consilience Design)について、語られる。
以前もこのことは書いた。
コンシリエンスデザインについては、川崎先生のブログを読んでいただきたい。
コンシリエンスデザインについて説明される図こそ、
オーディオそのものである。
別項で触れた技術用語の乱れ。
他にも例がある。
パワーアンプの動作を表す用語に、A級、B級がある。
AB級もある。
AB級とは小出力時はA級動作を、
それ以上の出力ではB級動作に移行する。
どの程度の出力までA級動作をさせるかは、メーカーによっても、製品によっても違う。
だいたいは数Wから10W程度までA級で、これ以上の出力ではB級である。
けれど最近のオーディオ雑誌では、こんな表記があった。
小出力ではA級動作、それ以上ではAB級に移行する、と。
こんな間違いを平気で活字にしている例を見たことがある。
それも一度ではない。
これもおそらくメーカーからの資料にそう書いてあるからなのだろう。
いまではオーディオ雑誌の編集者でも、
A級、B級、AB級の違いがわかっていないようだ。
他にも技術用語の乱れの例は挙げられるが、
オーディオ雑誌の編集者が気づくべきことだから、このへんにしておく。
オーディオ雑誌も、いまや程度の低いキュレーションサイトと同じになっている。
オーディオの想像力の欠如によって、オーディオの音色の表現が失われつつある。
オーディオの想像力の欠如がしていては、あるべき世界(音)を聴くことはできない。