光の射す方へ
別項「オーディオ評論をどう読むか(その2)」で、
太陽の光と月の光の違いについて、
そしてオーディオ評論(家)にも、太陽の光と月の光とがあることについて書いた。
その後も、「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(評論とブームをめぐって)」でも、
そのこと、その違いについて書いた。
光の射す方へ、人はめざす。
オーディオマニアも、またそうであろう。
けれど、太陽の光の射す方へめざすのか、
月の光の射す方へめざすのか。
太陽の光を思って、月の光の射す方向へとめざしてはいないだろうか。
昨夏書いたことを、ここでまた書いているのは、
「またか」と思われるだろうが、「3月のライオン」にハマっているからだ。
十一巻の巻末に「ファイター」という短篇が収録されている。
「3月のライオン」の主人公、桐山零の小学生時代が描かれている。
「ぼくの隣はいつも空席だ」という独白で始まる。
16ページの短篇の最後には、現在の主人公の独白がある。
*
僕が変わった訳では無い
──そして周りが変わってくれた訳でも無い
ただ気が遠くなりそうな日々を必死で
指して指して
ただ指し続けているうちに
ある日ふと
同じ光の射す方へ向かう人達と
一緒に旅をしている事に気付いた
──そして 今日も
目の前に座る人がいて
またひとつ新しい物語が始まる
光の射す方へ
僕らの旅は続くのだ
*
《同じ光の射す方へ向かう人達と一緒に旅をしている事に気付いた》
光の射す方へ向いながらも、その「光」が違うことに気づいている。
どちらの光の指す方へ向うのか。
それはその人しだいである。
それでもどちらが太陽の光の射す方なのかは、しっかりと見極めておかねばならない。