オーディオ評論の本と呼ぶ理由(その1)
これまで何度か、ステレオサウンドはオーディオ評論の本だった、と書いている。
残念なのは過去形でしか書けないことだが、
いまのステレオサウンド編集部は、
おそらくステレオサウンドを、オーディオ評論の本とは思っていないだろう。
私は見ていないのだが、いま書店に並んでいるステレオサウンド 204号の編集後記に、
ある編集者が、ステレオサウンドを「オーディオの本」としている、らしい。
少し前に、ステレオサウンドはオーディオ評論の本、と書いたことに対し、
facebookにコメントがあり、ステレオサウンドは雑誌コードがついている雑誌であり、
コメントをくださった方は、出版に関係する仕事をされていて、
私が、ステレオサウンドを「本」と称することが気になっていた、とある。
ステレオサウンドはオーディオ雑誌である。
それは私も、そう思っている。
だから、いまのステレオサウンドを、オーディオ評論の本とは絶対に書かないし、
オーディオの本とも思っていない。
あくまでもオーディオ雑誌として捉えている。
本という言葉は単行本を、まずイメージさせる。
単行本と雑誌、どちらが出版物として上位かということは関係ない。
上も下もない。
どちらも本であるわけだが、
本はbookであり、bookからイメージされるのは単行本であり、
雑誌はmagazineであり、magazineからは単行本がイメージされることはない。
ここまで書いていて、ふと思い出したのが、黒田先生の文章である。
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最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本ばかりが多くて──と、さる出版社に勤める友人が、あるとき、なにかのはずみにぼそっといった。もうかなり前のことである。その言葉が頭にこびりついていた。
その頃はまだぼくの書いたものをまとめて出してくれる出版社があろうとは思ってもいなかった。なるほど、そういうこともいえなくはないななどと、その友人の言葉を他人ごとのようにきいた。
三浦淳史さんが強く推薦してくださったために、この本が東京創元社から出してもらえることになった。むろん、うれしかった。ところが、それこそあちこちに書きちらしたものをいざ集める段になって、かの友人の言葉が頭の中で去来しはじめた。作業を進めながら、うれしくもあったが、気が重かった。
最初に雑誌のために文章を書いたのは一九五九年である、と書いて自分でも驚いているところである。四半世紀近くも書いてきたことになる。もうそんなになるのか。信じがたい。
書いたものの整理はまったくしていなかった。この本をまとめるために、やむをえずある程度は整理しなければならなかった。雑誌の切りぬきをまとめてみたら、ダンボール箱に五箱あった。へえーと、これまた驚かないではいられなかった。
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東京創元社から出ていた「レコード・トライアングル」のあとがきからの引用だ。
ここでの本とは、「レコード・トライアングル」のことでり、それは雑誌ではなく単行本である。