Archive for category 音楽性

Date: 7月 11th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その7)

スパイダーマンの映画については、あれこれ書いていきたいことはあるけれど、
オーディオとの関係性はほとんどないので、ここはがまんするとして、
「アメイジング・スパイダーマン2」を3D+ドルビーアトモスで観た人ならば、
「アメイジング・スパイダーマン2」は映画だな、と誰もが思うはずだ。

私が小学校にあがる前までごろはうちにあるテレビはモノクロだった。
ブラウン管のサイズも小さかった。
それがカラーになり、サイズも大きくなっていった。
それでも私が実家にいたころは21インチだった。

その数年後に三菱電機から37インチのテレビが登場した。
そのころはステレオサウンドで働いていたし、となりのHiVi編集部に、
この37インチが運ばれてきた日のことは、憶えている。

大きいことは予想していたけど、その奥行きは予想以上だった。
こんなにも大きいのか、37インチでこれだけの奥行きを必要とするのであれば、
もっと大きなブラウン管だと、どれだけ奥に長くなるのか。

技術は進歩していくから、同じインチでも奥行きは短くなっていくであろうが、
それでもブラウン管を使っているかぎり、テレビの大画面には無理がある、と思っていたし、
そのころは、いまのようにここまで家庭のテレビが大型化するとはまったく予想していなかった。

家庭のテレビはどこまで大きくなっていくのか。
大きくなっていくことで、昔以上に考えさせられるのは、映画とテレビの、
それぞれの作品の違いとはいったいなんなのか、である。

どちらも映像作品であるわけだが、何が映画としての作品であり、テレビとしての作品を、
われわれにそう認識させているのだろうか。

Date: 6月 8th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その6)

技術は進歩していくものだから、将来はどうなのかはっきりしたことはいえないが、
少なくともあと数年やそこらでドルビーアトモスと同等のものがホームシアターで実現できるようになると思えない。

となれば、私は映画館を足を運ぶ。
すべての映画がドルビーアトモス対応で制作されればいいとは思っていない。
ドルビーアトモスをそれほど必要としない映画もあれば、
ドルビーアトモスがあればこそ活きてくる映画もある。

5月にコレド室町にあるTOHOシネマズで観た「アメイジング・スパイダーマン2」は、格好の映画である。

「アメイジング・スパイダーマン2」がドルビーアトモスでなければ、
3D上映館でなくてもいいかな、とも少しは思っていた。
けれどドルビーアトモスの映画館で観れるのであれば、そこで観たい。

最初「スパイダーマン」三部作はサム・ライミ監督、
「アメイジング・スパイダーマン」シリーズはマーク・ウェブ監督。

どちらが優れているか、というより、サム・ライミの描くスパイダーマンは、
平面のスクリーン、つまり従来の上映で最大限に活きるスパイダーマンの撮影だったことを、
「アメイジング・スパイダーマン2」を3D+ドルビーアトモスで観て、思った。

2Dで完結しているといえるスパイダーマンの表現だからこそ、
サム・ライミは3Dでの撮影を拒否した、という噂は、ほんとうかもしれない、と思えてくる。

マーク・ウェブは、だから同じ土俵には立っていない。

Date: 6月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その5)

いまでこそ上映中の映画館はかなり暗い。
ずっと以前も暗かった。
けれど1980年代にはいってから、消防法の規制により上映中でもそれほど暗くなくなっていった。

座席の脚部には小さなライトが取り付けられ、上映中でも光っていてた。
ぼんやりと暗い中での上映という時代があった。
そのころは、いまのように音の良さを謳う映画館は、ほぼ皆無だった。
むしろひどい音のところも少なくなかった。

東京にはそれこそウェスターン・エレクトリックのシステムの映画館があったのは知っていた。
そういう映画館は、私が上京してときには完全に消え去っていた。

映画館のシステムは、少なくとも声(セリフ)の通りがいい、はずなのに、
1980年代の東京の映画館で、そういう印象を覚えたことはなかった。

日本語の映画を観るのは、時として億劫だった。
洋画ならば字幕があるから、セリフの明瞭が悪くてもまだなんとかなるが、
日本語の場合は字幕はないのだから、はっきりと聞き取れないのは、映画館の体をなしているとは言い難かった。

いまはそういう映画館はもうないだろう。
音もそのころよりは良くなっている。
椅子も良くなっている。

それでもすべての映画館が同じクォリティで上映しているわけではなく、
広さも新しさもばらばらである。
いいところもあればそうでないところもまだまだある。

いいところもそうでないところも入場料は同じであり、
周りに見知らぬ人が大勢イルなかで観るのが苦手な人もいるだろうから、
映画館で観るよりも、入念に調整したホームシアターの方がクォリティもよく、気兼ねなく観れるから、
映画館に行く価値・必要性を感じなくなった──、
それがわからないわけではないが、それでも最新の映画館はさすがに映画館と思わせる。

いま現在、3D+ドルビーアトモスによる上映がそうである。

Date: 6月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その4)

1980年代にはいってから、AVという言葉が出て来はじめた。
いうまでもなくAudio Visualの頭文字を並べた略語で、このころにはレーザーディスク、VHDなどが登場し、
音楽は本来音だけで楽しむものではない、ということを謳うメーカーや、
その尻馬に乗った評論家も出て来た。

ヴィジュアルつきのプログラムソースを楽しむことを否定したり、
それを楽しんでいる人たちを否定したいのではなく、
安易に音楽には視覚的要素が不可欠、映像無しの音だけの音楽は片輪、
的なことを言う人(メーカー)に対していいたいだけのことである。

AVはいつしかホームシアターと呼ばれるようになった。
Home Theater、家庭内劇場となるのか。
AVという言葉が登場したころから、ずっと進歩している。
当時は100インチのスクリーンを家庭に持ち込む人はそうそういなかったけれど、
いまではそう珍しくもないようである。

ホームシアター関連の雑誌も書店にはいくつも並んでいる。
オーディオは女性の理解を得にくいが、ホームシアターはそうでもない、という話も聞く。

私が知っている人で、ホームシアターに熱心にとりくんでいる人はいないから、
現在のホームシアターのレベルがどの程度なのかははっりきとは把握していない。
それでも、かなりのレベルらしいことは聞いているし、
そういうレベルで楽しんでいる人たちの中には、映画館を小馬鹿にしている人もいることも知っている。

その気持はわからないわけではない。

Date: 6月 6th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その3)

そんな私でも、3Dで観てみようと思った。
昨年11月に、インターネットでドルビーアトモスというものがあることを知った。
最新のドルビーであり、日本でもドルビーアトモスの映画館が船橋にできた、とあった。

ドルビーアトモスについての解説を読んでいるうちに、行ってみたいと思っていた。
しかもドルビーアトモス用につくられた映画はまだそれほど多くないようで、
ドルビーアトモスの映画館では、「パシフィックリム」と「イントゥ・ダークネス」を上映していた。

船橋は、いま住んでいるところからはけっこう距離があるけれど、
スタートレックの映画はすべて映画館で観てきた者としては、
ドルビーアトモスでの「イントゥ・ダークネス」はぜひとも観ておきたかった。

これが私にとって初の3D映画となった。

小学校のころに観た飛び出す映画とは相当に違うものだとわかっていても、
実際に目にする現代の3D映画には驚いた。
しかもドルビーアトモスとの相乗効果なのだろう、
映画を観ているという感覚よりも、体感しているという感覚のほうが強い。

3D+ドルビーアトモス。
実は体験するまでは、2Dでドルビーアトモスの方がいいんじゃないか、というところも少しはあった。
けれど、このふたつの技術は切り離せないようにも思えるほど魅力的であり、
映画はやはり映画館で観るものだ、と一部の人たちに強くいいたくもなった。

Date: 6月 6th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その2)

小学校低学年だったころだから、昭和40年代前半から半ばにかけてのことだが、
当時は子供向けに東映まんが祭り的な映画をやっていた。
子供に人気のテレビ番組を映画化したものなどを数本上映するスタイルだったと記憶している。

一時期、飛び出す映画ということで、
片方に赤の、もう片方に青のセロハンをはりつけた紙製のメガネをかけて観る、
そんな安易な3D映画をいくつか体験している。

少しも飛び出しては見えなかった。

そんな3Dと、いま最新の映画館で上映される3Dとは時間にして30年ほどの違いがあり、
技術的にも大きな違いがあることはわかっていても、
安易な3Dを体験してきた者は、映画は2Dでいいじゃないか、と思いもする。

それに3Dといっても、いわゆるホログラフィによる3Dではないわけだから、
そこに映し出される映像そのものが3D(立体)であるわけがない。

ほんとうに3Dならばスクリーンを中央から見たときと、
どちらか端っこに行って見た時とでは見えるものが違ってこなければならない。

いまスクリーンに映し出されているシーンを横からみれば、そこの壁に隠れているところも見えるのに……、
と思って頭を動かしたところで、もちろん見えないわけだ。

そんなことを理由に、3D上映の映画はこれまで避けていた。

Date: 6月 5th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その1)

昨年12月に、船橋のららぽーとに、ドルビーアトモスの上映館が出来、そこで映画を観てきたことを書いた

今年春に日本橋室町にもドルビーアトモスの上映館が出来た。
5月に「アメイジング・スパイダーマン2」をそこで観てきた。

スパイダーマンの映画は、サム・ライミ監督により2002年に公開、
2004年に続編「スパイダーマン2」、2007年に「スパイダーマン3」が公開された。

いずれも好調だったため、「スパイダーマン4」もサム・ライミによって制作される、という噂があった。
期待していたが、立ち消えになってしまった。
サム・ライミの降板理由については、
あくまでも学生時代のピーター・パーカー(主人公)を描くため、というものだった。

でも一方で製作会社のソニーが、サム・ライミに3Dによる撮影を要求し、
それを拒否したため、らしいと噂もあった。

それを裏付けるかのように2012年に公開された「アメイジング・スパイダーマン」は3Dで撮影されていた。

スパイダーマン・シリーズは映画館で観てきている。
「スパイダーマン2」はいい映画である。それたけにサム・ライミの降板にはがっかりしたし、
3Dで観る必要性もあまり感じなくて、「アメイジング・スパイダーマン」は2D上映館で観た。

「アメイジング・スパイダーマン2」も、
昨年12月、ドルビーアトモス上映館でスタートレック・シリーズの「イントゥ・ダークネス」を観ていなければ、
2D上映館で観ていたことだろう。

Date: 3月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その14)

その13)の最後で書いた「エキゾティシズムへの憧れ」とは、
これまで書いてきたエキゾティシズムとはまったく異るエキゾティシズムではないのか、と思うようになっている。

(その13)を書いたのが二年前なので、少しくり返すが、
1970年代、私がオーディオに関心をもち始めたころ、
オーディオ雑誌では国による音の違い、風土による音の違いが存在することを語っていた。

アメリカにはアメリカならではの音があり、ヨーロッパにはヨーロッパの音があり、
さらに同じアメリカでも西海岸と東海岸では、ひとつのアメリカンサウンドとして語られながらも、
はっきりとした性格の違いがはっきりとあり、
同じことはヨーロッパのスピーカーでも、イギリス、ドイツ、フランスでは違っている。

だからステレオサウンドは創刊15周年記念として、
60号ではアメリカ、61号ではヨーロッパ、62号では日本の、それぞれのスピーカーの特集を行っている。

この企画を、もしいま行うとしたら、ずいぶんと違う切り口が必要になる。
ステレオサウンド 60号の時代からの変化があるからだ。

このエキゾティシズムとは別に、時代の違いによるエキゾティシズムもある、といえるだろう。
原体験として聴いたことのない時代の音を若い人が求める理由のひとつには、
時代のエキゾティシズムが関係しているように感じられる。

このふたつのエキゾティシズムは、変な言い方になるが、まっとうなエキゾティシズムであるといえよう。
けれど、私がこの項でいいたいのは、もうひとつのエキゾティシズムがあり、
このエキゾティシズムはやっかいな性質のものであり、
このエキゾティシズムをもつスピーカーシステムの音を「新しい」と感じ高く評価する人もいれば、
私のように「欠陥」スピーカーとして受けとめる者もいるわけだ。

このエキゾティシズムは、私の耳には音楽を変質させてしまうエキゾティシズムであり、
認めることのできないエキゾティシズムである。

Date: 9月 1st, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その18)

音のみを純粋に追求しているのであれば、
そこで鳴ってくる音に対して、肉体を感じることこそ理屈に合わないことでおかしなこととなろう。

だが、演奏者──ここではグールドであったりアリス・アデールであったりするわけだが──の肉体を、
つまりは息吹を感じさせない音が、作曲者の息吹を伝えてくれるとは到底思えない。

この項の(その12)、(その13)にも書いているように、演奏者は作曲者の息吹を伝えてくれる。
だから、音を音楽の息吹として感じとり、その音をよりよい音で鳴らそうと、われわれはしているわけだ。

なのに、肉体を拒否し息吹も拒否した音を、聴きたいとは、私は思わない。
もちろん、スピーカーから鳴ってくる音に対して求めるものは各人各様だから、
そういう肉体という存在を不純物のように受けとる人がいても不思議ではないし、
そういう音しか鳴らせないスピーカーシステムが、一部では高く評価されているのは知っている。

だが、そういう音が、「ベートーヴェン(動的平衡・その3)」でふれた音の構築物を、
私の眼前に再現してくれようはずがない。

思い出すのは、アンドレ・シャルランが、ある日本人の録音エンジニアに言ったといわれることだ。

Date: 3月 26th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その17)

アリス・アデールのピアノによる「フーガの技法」の最初の一音を聴いて、そしてもう一音が鳴ったときに、
「グールドだ!」と感じてしまったときに、聴いていたのは、所有するスピーカーシステムであり、
自分の部屋において、である。

これがもし、(その5)に書いたスピーカーシステムで、
味気ない奇妙な世界を感じさせる音で聴いていたら、
はたしてアデールの「フーガの技法」を聴いて、どう感じただろうか。

「グールド!」とは思わなかった、はずだ。
そればかりか、アデールの「フーガの技法」を素晴らしいとも思わなかった可能性、
──というよりも怖ろしさもある。

つまり、グールドのゴールドベルグ変奏曲を、アップライトピアノのように聴かせ、
グールドの不在をも意識させてしまうような音は、
それがどんなに情報量の多い音であったとしても、
「音楽の姿」を聴き手に、できるだけ正確に伝えようとする音ではない、と断言できる。

肉体を感じさせる音、とは、まずは、音の姿をありのまま伝えようとする音でなければならない。

Date: 3月 11th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その16)

この問題については、別項の「Noise Control/Noise Design」にて、これから書いていくけれど、
簡単にふれておくと、
スピーカーシステムの、ある種の固有音(Noise)は、
録音の不備による欠落した情報をときとして補っている可能性がある、ということ。

スピーカーシステムが発するNoiseすべてが、そうだというのではない。
だから、基本的にはノイズ(雑音)を少なくしていく方向は、正しい。
とはいうものの、オーディオにおける録音系・再生系、そのどちらにもなにひとつ完璧なモノは存在しない。

完璧なモノが、もしひとつでも存在していれば、これを基本・基準にしてなんらかの推測が成り立つとは思うが、
結局のところ存在しない以上,すべては憶測にすぎない、ともいえる。

そういう世界で、われわれはオーディオについて、音について考え、語っているわけだ。

私のNoiseに関して、これから先書いていくことは、直感によるところが多くなるはずだ。
Noiseを、いまのまま抹消していく方向で進んでいくのであれば、
そこにあるのは、ひじょうに味気ない、そして奇妙な世界なのかもしれない。

Date: 3月 11th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その15)

グールドのゴールドベルグ変奏曲を、肉体を全く感じさせない音で、
しかもアップライトピアノで弾いているふうに聴かせたスピーカーシステムのほうが、
私がいいと思っているスピーカーシステムよりも、忠実度の点では優れていると仮定しよう。

つまり、私が、ほかのスピーカーシステムで聴いたときに感じた演奏者の肉体、
それからグランドピアノと感じた音は、じつはそのスピーカーシステムの固有音によってつくられたもので、
実際には、録音にそういう要素は含まれていなかった、と考えることも可能だ。

グールドが弾いたピアノはヤマハCF、もちろんグランドピアノだが、
録音の不備で、じつはアップライトピアノのような音で収録されていた。
ピアニストの肉体などというものは、マイクロフォンでは捉えることができない。

そんなことが、ほとんど脚色されずにストレートに再生されたために、
肉体のない音、アップライトピアノのような音に聴こえただけであって、
スピーカーシステムに欠陥がないばかり、むしろ非常に優秀といえるし、それだけ新しい時代のモノでもある、と。

マスターテープにどんな音が収録されているのかは、じつのところ誰にもわからない。
録音している人も、完全にわかっているわけではない。
マイクロフォンがとらえている音に関しても同じだ。

だからこそ、上に書いたような考え方もできる。
そんなことはない、と私は思っているけれど、でも、それを実証することはできない。
そういう可能性は、ある。

私が欠陥スピーカーと思っているスピーカーシステムの鳴らす世界こそ、正しいものだとしても、
それでも、私が、そういうスピーカーシステムを選びはしない。
どんなにそれが正しい、としても、
グールドのゴールドベルグ変奏曲をあんなふうに鳴らされるのは、おかしいと、判断する。

私が、ゴールドベルグ変奏曲を、肉体を感じさせる音でグランドピアノで弾いている音を、正しい音とする。

Date: 3月 9th, 2011
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その14)

結局、この項の(その6)で書いたスピーカーの音は、息吹をばっさりと拒否してしまったようにしか聴こえない。
ただ音だけが鳴っている、にしかすぎず、そこに誰の気配はない。

気配をまったく感じさせない音だから、そこにグールドを感じとることができず、
あれだけ聴いたゴールドベルグ変奏曲にも関わらず、
グールドみたいだけど、どうにも確信がもてない、というふうになってしまった、と考える。

気配はなにも演奏者だけのものではない。
優れた楽器、いわゆる名器といわれる楽器には、気配、もしくはそれに通ずるものがあって、
その楽器に見合った人によって弾かれることで、気配が発せられるのではないか。

そのどちらの気配をも、その高額なスピーカーシステムはばっさり削ぎ落としている。
皮肉ではなく、見事なまでに排除しているところに感心もする。

この気配は、単純にローレベルの再現性に優れている装置であれば再現できるものでもないから、やっかいだ。

皮肉なことに、このときのスピーカーシステムもアンプも、ローレベルの再現性では高い評価を得ている……。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その13)

ここで、また、こんな反論が来そうだ。

グールドのゴールドベルグ変奏曲がアップライトのピアノを弾いているふうに聴こえたのは、
それは、そのスピーカーが、それまでのスピーカーが出し得なかった情報まで音にすること、
そしてそれまでのスピーカーが附加してきた余分な音を徹底的に取り除いた結果としての、
録音の不備・未熟さが、はっきりとあらわれてきたのだろう、と。

ミサ・クリオージャにしても、他のスピーカーでは鳴らせなかった領域まで踏み込んだことによる結果であろう、と。

ヘブラーのピアノにしても、それほどたいしたレベルではなくて、
いままで録音の古さによって覆い隠されてきたものが、はっきりと音に出た結果であり、
日本のとある歌手の歌の下手さかげんについても、まったく同様だ、と。

スピーカーは、たしかに進歩してきている。
進歩してきているところもあれば、そうではないところも多々あるけれど、
それでも全体としては、進歩してきている、といっていい。

スピーカーの進歩によって、余分な音が減り、情報量が増え、
レコード側の、そんな微妙な・曖昧なところがはっきり描写され、
あばたがあばたとしてはっきり聴こえるようになった結果であり、
それをスピーカー側に責任・問題があるとするのはおかしい、という考え方もできる。

音が良くなっただけでなく、演奏の良否まではっきりとわかるようになった、と受けとめる人もいるかもしれない。
そして、そういったスピーカーの音を、新しい、と感じている人がいるように思えてならない。

ほんとうに、グールドのゴールドベルグ変奏曲をアップライトピアノで聴かせ、
ミサ・クリオージャを冒瀆するような歌い方で、
ヘブラーのピアノのおさらい会のレベルの聴かせるスピーカーは、「新しい」のだろうか。

じつはエキゾティシズムへの憧れではないのか。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その12)

スピーカーは、その原理そのものに革新的な進化はないものの、
物理特性的には、確実に進歩してきている。

測定に正弦波だけでなく、インパルス波が導入され、コンピューターによる解析の導入・進歩によって、
周波数特性も、振幅特性だけでなく位相特性においてもあきらかに改善されてきている。
その他の項目についても同様だ。

ステレオサウンド 54号がでたのは1980年。もう30年以上も前のことだ。
この54号でも、座談会で、スピーカーの物理特性が良くなってきたことが語られている。
確実に、その意味での完成度は高くなっている、といっていいのだろうか……。

それとも大きな欠点は、ほぼなくなりつつある、といったほうがより的確だろうか。

それでも「音楽の響かせ方、歌わせ方」にあきからに問題のある(と私には感じられる)スピーカーは、
やはり存在する。しかもこれは物理特性とは関係なく存在している、とともに、価格とも関係なく存在している。

ひじょうに高価なスピーカーシステムの中に、
どう聴いても「音楽の響かせ方、歌わせ方」がおかしいんじゃないか、と思わせるモノがある。
しかも、そういうスピーカーシステムが、ステレオサウンドで受賞していたりする。

すると、お前の耳、もしくは感性がどこかおかしいのだろう、と言われるだろう。

仮にそうだとしても、この項の(その1)や、「AAとGGに通底するもの」の(その6)に書いた例は、
決して譲ることのできない、音楽がひどく変質した実例だ。