Archive for category 音楽性

Date: 9月 19th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その2)

駅のアナウンス、
それも特別なアナウンスではなく、ごく日常的なアナウンスを録音している人がいる。

写真を撮る鉄道マニアを撮り鉄というらしいが、
同じとりてつでも、こちらは録り鉄なのか。

けっこういい録音器材を使っている人もみかける。
録音しながらヘッドフォンでモニターしている。

録音が終り、帰宅してから、もう一度再生しているはずである。
駅での録音だから、どうしてもさまざまな雑音がまじっていることだろう。

だからこそ、雑音がほとんどなく、うまく録音できたのであれば、
相当に嬉しいはずだ。

でも、駅のアナウンスは、音楽はまったく関係ない。
あくまでも駅のアナウンスとして、であり、
録音している人たちも、音楽性なんてことはまったく考えていないはずだ。

うまく録れたときほど、何度も再生しては聴いて、にんまりするのだろう。
でも、それらの録音は、コレクションの一部と化してしまうのではないのか。

誰かに自慢するために、鳴らすことはある。
けれど、録音してから一年、五年、十年……、と経って、
どれだけの人がどれだけ以前の、そういった録音を聴き直すのか。

私の周りには、そういう録り鉄は一人もいない。
友人の知人にもいないようである。

なので、実際のところどうなのかはわからない。
あくまでも想像で書いているにすぎない。

そうなると、(その1)での放尿の録音と同じく忘れられていくのか。

放尿の音は趣味としての録音ではないはず。
駅のアナウンスの録音は、鉄道という趣味がバックグラウンドにある。

その違いがあるのはわかったうえで、これを書いている。

Date: 2月 6th, 2019
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その1)

音楽性という、時にはほんとうに都合のいいことば。
それだけに徹底的に考える必要のあることば。

音楽性に関係することで、五味先生の書かれていた文章を思い出した。
     *
 ステレオになった当座、電信柱や溝に放尿するのを自分で録音・再生して、おォ、小便から湯気が立ち昇るのが見える!……と、その音の高忠実度性に狂喜したマニアを私は知っている。しつこく誘いにくるので、一度、彼の部屋へ聴きに行き、なるほどモヤモヤと湯気の立ちのぼる放尿感が如実に出ているのには驚いた。モノーラルしか聴き馴れぬ耳には、ほんとうに、シャーと小便の落ちる其所に湯気が立っていたのである。
 このあいだ何年ぶりかに彼と会って、あのテープはどうした? とたずねたら、何のことだと問い返す。放尿さ、と言ったら、ふーん、そんなこともあったっけなあ……まるで遠い出来事のような顔をした。彼は今でもオーディオ・マニアだが、別段とぼけてみせたわけではないだろう。
 録音の嶄新さなどというものは、この湯気の立つ放尿感と大同小異、録音された内容がつまらなければしょせんは、一時のもので、すぐ飽きる。喜んだこと自体がばからしくなる。オーディオ技術の進歩は、まことにめざましいものがあり、ちかごろ拙宅で鳴っている音を私自身が二十年前に聴いたら、恐らく失神したろう。これがレコードか?……わが耳を疑い茫然自失しただろう。(「名盤のコレクション」より)
     *
放尿の音だから、そこに音楽性があるわけではない。
では鈴虫の鳴声は? 蒸気機関車の走る音は?
生録が盛んだったころ、音楽だけではなく、ジェット機のエンジン音なども録音の対象であった。

生録がブームだったころはとっくに過ぎ去っている。
そんないまの時代にみかける生録といえば、鉄道マニアの人たちだ。
それも日常的にみかけたりする。

ホームで電車をまっていると、
長い棒の先っぽにマイクロフォンをとりつけて、
ホームの天井近くに設置してあるスピーカーまで、マイクロフォンを接近させて、
アナウンスを録音している人を、年に数回みかける。

何も特別なアナウンスではない。
電車がまいります、黄色い線までお下がりください、
そういったアナウンスである。

Date: 11月 18th, 2018
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(オーディオショウにて・その2)

満足のいく音が出せなくとも、オーディオショウだから音を出さないわけにはいかない。
では、スタッフはどんな表情だったかというと、
決して不満げではなかった。
むしろ自信ありげだったように、私にはみえた。

少なくともスタッフの人は、そこで鳴っている音に、特に大きな不満は感じていなかった──、
そう思っていいだろう。

そこでスタッフが首を傾げていたり、神経質そうな顔をしていたら、
ここで、こんなことは書いていない。

そういえばオーディオショウで、神経質そうに耳をかしげているスタッフは見た記憶はない。
みな、自信あっての音なのだろう。

もっともそういう状態の音出しであっても、
それはやはり、音を出している人のオーディオ観がうかがえる、ともいえる。

今回、とあるブースで鳴っていた音は、空々しい、といえる音だった。
冷たい音というわけではなく、空々しい音だった。

耳を傾けようとするほどに、音楽が遠くに感じられる音(鳴り方)だった。
きっと五味先生が聴かれたら、肉体のない音といわれるだろう、とさえ思っていた。

確かに、そんな鳴り方だった。
オーケストラのそれぞれの楽器の自分のパートのところだけで、
ポッと浮んでは、鳴り終るとすっと、その存在までもなくなってしまう感じとでもいおうか。

それぞれの楽器の音はクリアーだ。
悪くはない。

この人は、こういう音で聴いているのか。
こういう音で聴いていて、この音楽を楽しめるのか。

音楽の楽しみ方は、人によって違うものだ。
この日、このブースでかかっていた曲を、こんなふうに聴いても楽しめる人もいよう。
私が、まったく楽しめない、というだけの話かもしれない。

Date: 11月 17th, 2018
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(オーディオショウにて・その1)

2018年のインターナショナルオーディオショウで、とあるブースに入った。
ある曲がかかっていた。
クラシックをあまり聴かない人でも、一度は耳にしたことのある曲が鳴っていた。

聴きながら、誰の指揮なんだろう、と考えていた。
少なくとも初めて聴く録音だった。

曲が終って、拍手の音がしてきた。
ライヴ録音だったのか、と気づく。

それにしても……、と同時におもっていた。
拍手は、熱狂的な演奏を聴いて拍手のようにおもえたからだ。

出展社のスタッフが、指揮者とオーケストラを伝えてくれた。
誰の指揮なのか書いてしまうと、そのブースが特定されるので書かないが、
その指揮者の別の演奏(録音)は聴いている。

その印象からすると、今回聴いた、その曲の演奏はあまりにも淡々としすぎていた。
もっと熱狂的な演奏だったのではないのか。
だからこその、演奏直後のあの拍手だったのではないのか。

そこで鳴っていた音は、特に大きな欠点はない。
低音もかなり低いところまで再生されていたし、
悪い音、ひどい音だった、という人はまずいないだろう。

私だって、そういうつもりはない。
けれど、あの演奏は、ほんとうにあんなふうなのか、という疑問だけは残りつづける。
自分で買って聴いてみればいいのだが、
買ってまで聴きたい曲でもないので、おそらく買わないだろう。

こんなことを書いていると、
その音には、音楽性が欠けていたんだろう、と受け止める人が出てくるかもしれない。
そういうことではないようにもおもう。

音楽性に欠けていた──、

そのひとことで片づけられるなら、楽である。
ただ、この音で、この音楽(録音)を、鳴らしていた人は聴いているのか。

もちろんその人は自宅では違うシステムで聴いているのであろう。
けれど、鳴らし方そのものは、その人のオーディオ観の顕れだとおもうから、
大きくは違っていないはず──、そういえるとも思う。

Date: 1月 28th, 2017
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その11)

ドキュメンタリーは、いわば記録である。
そう考えると、テレビは記録を写し出すに適しているのかもしれない。

映画でもテレビでも、ドラマがある。
映画でのドラマとテレビでのドラマの違いは、
記録を写し出すに適しているテレビでのドラマであり、
一方の映画は、記録ではなく記憶を映し出す、と考えれば、
同じドラマであっても、テレビでのドラマと映画でのドラマの違いが、
浮び上ってくるような気がする。

記録と記憶。
写し出すと映し出す。

そんなことを考えているところに、ステレオサウンド 130号を開いていた。
このころのステレオサウンドには、勝見洋一氏の連載があった。

「硝子の視た音」の八回目の最後に、こうある。
     *
 そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
     *
フェデリコ・フェリーニの、この言葉が映画の本質を見事言い表しているとすれば、
記録のような物語、記録のような光景、記録のような音を、映画は必要としていない、となる。

Date: 1月 26th, 2017
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その10)

テレビと映画の違いは、
映画は銀幕とも呼ばれるスクリーンに映写機によって映し出されるところにある。
つまり映画は、スクリーンに投影された反射像である。

サイズがどちらも100インチであったとしても、
液晶ディスプレイとスクリーンとでは、この点が決定的に違う。

昔、テレビはいまのように液晶ディスプレイではなかった。
ブラウン管だった。
だからテレビというモノ自体が、ひとつの箱だった。

テレビが登場したばかりのころ、
テレビの箱の中に人がいて、演じていると思っていた、というシーンが、
そのころを描いた映画やテレビドラマでもある。

ほんとうにそんなことがあったのだろうか、と思う。
すでに映画はあったのだから、そんなことを思う人がいるのか、と、
その時代を知らない私などは、そんなふうに捉えるわけだが、
でも、このことは映画とテレビの違いを、端的に表している。

つまりテレビは、家庭に入りこんできた。
つまり日常に入りこんできた。

日常の空間の中にテレビの空間(世界)がある。

映画館に行き、入場料を払って、暗い空間で観る映画と、
スイッチを入れてチャンネルを合せるだけで、居間で見れるテレビの世界とでは、
日常の生活(世界)との連続性を感じさせる点においての違いがある。

もしテレビが存在しなかったら、
ドキュメンタリーという手法はかなり違ったものになっていたかもしれない。

Date: 1月 24th, 2017
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その9)

液晶ディスプレイの大きなサイズが困難だった時代には、
複数の液晶ディスプレイを複数配置して、ひとつの大画面にしていた。

いまでは70インチ、80インチの液晶ディスプレイが製品化されているし、
100インチ超のサイズでも製造は可能になっている。

以前は100インチといえば、スクリーンに頼るしかなかったのが、
いまでは液晶ディスプレイでカバーできるサイズとなってしまった。

100インチのスクリーンと100インチの液晶ディスプレイ。
家庭で映画を観るのに適しているのは、どちらだろうか。

昔、東京には多くの名画座があった。
けっこう大きなスクリーンの名画座もあれば、かなり小さなスクリーンのところもあった。
もう記憶があやふやだが、こんなに小さいの? と思った映画館もあって、
それこそ100インチくらいのサイズだったろうか。

仮に100インチ程度の表示だったとしたら、
液晶ディスプレイの100インチの方が、部屋を暗くしないでも見られるし、
暗くしても見られるのだから、便利で手軽ということになる。

100インチのサイズで家庭で映画を観るのに、
価格を無視した場合、どちらを選ぶのか、液晶ディスプレイかスクリーンか。

この選択は、オーディオに通ずる。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その19)

アンドレ・シャルランの言葉は、
中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章にある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之——N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
 事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
別項「正しいもの(その4)」でも引用している。
若林駿介氏の録音について、あれこれ書こうとしているのではない。

60歳のアンドレ・シャルランは、30代なかばの若林氏のことを気に入っていた、とある。
少なくともシャルランは若林氏の録音技術を認めた上での、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」
であることに、読んでいて衝撃を受けた。

私の受けた衝撃は、若林駿介、中野英男、両氏がうけられた衝撃からすれば、
ずっと小さいものかもしれない。

私は、シャルランがたずねたことに若林氏がどう答えられたを知りたい。
けれど、そのところは中野氏は書かれていない。
若林氏は沈黙されたのか、
それとも何か納得のいく説明をされたのか。

いまとなってわからないことだ。
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
だからこそわれわれへの問いかけのように受けとめている。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
いま書いている「どちらなのか」にも深く関係してくる。

Date: 2月 27th, 2016
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その8)

映画は映画館で観ることを前提としている。
映画館のスクリーンは、テレビのサイズよりも大きい。
それもかなり大きい。
いまでこそテレビの大型化は当り前になっているが、
昔のテレビはいまよりもずっと小さなサイズで、映画館のスクリーンはずっと大きかった。

映画館は暗かった。暗い中での大きなスクリーン。
これだけでも茶の間で見るテレビと映画は違う。

さらに音が違う。
昔のテレビのスピーカーは小口径のフルレンジが一発だけだった。

このスピーカー(音)の違いは、テレビとスクリーンのサイズの違い以上の違いともいえる。

これらの違いが生み出すものを、観客は映画と認識するのだろうか。
これだったら映画にする必要を感じない、とか、テレビで充分の作品だ、といったことが言われる。

どの作品とはいわないが、映画館で観ていて、これだったらテレビでもいいかも……、と思うし、
映画館で見損ねた作品をテレビでみて、やはり映画館で観たかった、と思うことは、誰しも経験していることのはず。

いったいどういうところで、そう判断しているのか。
大作だから、ということは関係ない。
スケールの大きさもそうではない。
そうでない作品であっても、映画だ、と感じる作品は多い。
大作であっても、テレビで充分、というものも少なくないから。

結局、精度だと思う。
精度の高いものを、映画だ、と感じるし、
精度の低い、十分でないものはテレビ的と感じるのではないか。

そのことにスクリーンの大きさ、映画館という暗い場所、
テレビとは圧倒的に違う音が密接に関係している、と考えている。

Date: 1月 31st, 2015
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(人間性と音楽性)

人間性を辞書でひけば、
人間を人間たらしめる本性。人間らしさ、とある。

音楽性は載ってなかった。
けれど人間性の意味でいえば、
音楽を音楽たらしめる本性。音楽らしさ、ということになる。

音楽といっても、これまでに多くの(無数の)音楽が生み出されている。
あまりにも、音楽という言葉がカバーしている範囲は広い。

だからもう少し限定して、たとえばベートーヴェンの音楽、
もっと狭めればベートーヴェンの作曲した曲ひとつ、
ピアノソナタ第32番ということに限れば、
音楽性とは、
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番をベートーヴェンのピアノソナタ第32番たらしめる本性、
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番らしさ、ということになる。

音楽を聴くことは、聴いている音楽への共感でもある。
なにがしかの共感があるから、聴き手は、その音楽を素晴らしいと思ったり、感動したりする。

だが純粋な共感はあるのか、とも考える。
100%な共感ともいおうか、そういう共感はあるのか。

そんな純粋な共感をもって音楽を聴いている人もいるかもしれない。
けれど私はそうではない。
だから純粋な共感はあるのか、と考えるわけだ。

私はわたしなりの共感で音楽を聴くしかない。
ということは、そのわたしなりの共感というのは、私の人間性と深く関わっているといえるわけで、
そうなると、私がベートーヴェンのピアノソナタ第32番に感じている音楽性とは、
つまりは私の人間性と切り離すことはできない、ということになる。

純粋な共感をもって音楽を聴いている人であれば、そうはならないだろう。
だが、そんな人がどれだけいるのだろうか。
私のまわりに、そういう人はいるだろうか。

いないとすれば、私のまわりにいる人たちがいうところの音楽性とは、
この言葉を発した人の人間性と深く関わっているのではないか。

にも関わらず、音楽性ということばを、ひとつの共通認識として使いがちである。

Date: 1月 25th, 2015
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その15)

エキゾティシズムには、鼻孔をくすぐられる。
ときに、ころっとその魅力にまいってしまう。

何が、その人の鼻孔をくすぐるのかは、その人にしかわからないことであり、
だから私がエキゾティシズムと感じる何かを、別の人は、
歳が違っていたり生れた国が違っていたりして、特別なものを感じないことだってある。
その逆もある。

それでも共通していえるのは、その人にとって鼻孔をくすぐるものであるということだ。

こう書いておきながら、相反するようなことを書こうとしている。
この項の(その13)の最後に、
「じつはエキゾティシズムへの憧れではないのか。」と書いた。

私にとってどうしても認めることのできない、
いわば「欠陥」スピーカーとでも呼びたくなるスピーカーを、優れたスピーカーと高く評価する人がいる。

私が「欠陥」と感じるのは、
グレン・グールドが弾くヤマハのピアノをグランドピアノではなくアップライトの、
それもバカでかいアップライトピアノのように聴かせ、
ミサ・クリオージャを冒瀆するような歌い方で聴かせるからである。

よく「百歩譲って……」という言い方をするが、
百歩どころかその十倍、もっと譲っても、そんなふうに鳴らしてしまうスピーカーを、
まともなスピーカーシステムとは思えない。

ひとつはっきりといえるのは、あきらかにほかのまっとうなスピーカーとは異質の音を聴かせることだ。
この異質の音を、ある一部の人たちは、新しい音と勘違いしているのではないのか。
それをエキゾティシズムと勘違いしているのではないか。

鼻孔をくすぐるものがエキゾティシズムとすれば、
エキゾティシズムは本能的なものであろう。

だが、異質な音は、鼻孔をくすぐっているのだろうか。
くすぐっているのは、別のところではないのか。

Date: 7月 11th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その7)

スパイダーマンの映画については、あれこれ書いていきたいことはあるけれど、
オーディオとの関係性はほとんどないので、ここはがまんするとして、
「アメイジング・スパイダーマン2」を3D+ドルビーアトモスで観た人ならば、
「アメイジング・スパイダーマン2」は映画だな、と誰もが思うはずだ。

私が小学校にあがる前までごろはうちにあるテレビはモノクロだった。
ブラウン管のサイズも小さかった。
それがカラーになり、サイズも大きくなっていった。
それでも私が実家にいたころは21インチだった。

その数年後に三菱電機から37インチのテレビが登場した。
そのころはステレオサウンドで働いていたし、となりのHiVi編集部に、
この37インチが運ばれてきた日のことは、憶えている。

大きいことは予想していたけど、その奥行きは予想以上だった。
こんなにも大きいのか、37インチでこれだけの奥行きを必要とするのであれば、
もっと大きなブラウン管だと、どれだけ奥に長くなるのか。

技術は進歩していくから、同じインチでも奥行きは短くなっていくであろうが、
それでもブラウン管を使っているかぎり、テレビの大画面には無理がある、と思っていたし、
そのころは、いまのようにここまで家庭のテレビが大型化するとはまったく予想していなかった。

家庭のテレビはどこまで大きくなっていくのか。
大きくなっていくことで、昔以上に考えさせられるのは、映画とテレビの、
それぞれの作品の違いとはいったいなんなのか、である。

どちらも映像作品であるわけだが、何が映画としての作品であり、テレビとしての作品を、
われわれにそう認識させているのだろうか。

Date: 6月 8th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その6)

技術は進歩していくものだから、将来はどうなのかはっきりしたことはいえないが、
少なくともあと数年やそこらでドルビーアトモスと同等のものがホームシアターで実現できるようになると思えない。

となれば、私は映画館を足を運ぶ。
すべての映画がドルビーアトモス対応で制作されればいいとは思っていない。
ドルビーアトモスをそれほど必要としない映画もあれば、
ドルビーアトモスがあればこそ活きてくる映画もある。

5月にコレド室町にあるTOHOシネマズで観た「アメイジング・スパイダーマン2」は、格好の映画である。

「アメイジング・スパイダーマン2」がドルビーアトモスでなければ、
3D上映館でなくてもいいかな、とも少しは思っていた。
けれどドルビーアトモスの映画館で観れるのであれば、そこで観たい。

最初「スパイダーマン」三部作はサム・ライミ監督、
「アメイジング・スパイダーマン」シリーズはマーク・ウェブ監督。

どちらが優れているか、というより、サム・ライミの描くスパイダーマンは、
平面のスクリーン、つまり従来の上映で最大限に活きるスパイダーマンの撮影だったことを、
「アメイジング・スパイダーマン2」を3D+ドルビーアトモスで観て、思った。

2Dで完結しているといえるスパイダーマンの表現だからこそ、
サム・ライミは3Dでの撮影を拒否した、という噂は、ほんとうかもしれない、と思えてくる。

マーク・ウェブは、だから同じ土俵には立っていない。

Date: 6月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その5)

いまでこそ上映中の映画館はかなり暗い。
ずっと以前も暗かった。
けれど1980年代にはいってから、消防法の規制により上映中でもそれほど暗くなくなっていった。

座席の脚部には小さなライトが取り付けられ、上映中でも光っていてた。
ぼんやりと暗い中での上映という時代があった。
そのころは、いまのように音の良さを謳う映画館は、ほぼ皆無だった。
むしろひどい音のところも少なくなかった。

東京にはそれこそウェスターン・エレクトリックのシステムの映画館があったのは知っていた。
そういう映画館は、私が上京してときには完全に消え去っていた。

映画館のシステムは、少なくとも声(セリフ)の通りがいい、はずなのに、
1980年代の東京の映画館で、そういう印象を覚えたことはなかった。

日本語の映画を観るのは、時として億劫だった。
洋画ならば字幕があるから、セリフの明瞭が悪くてもまだなんとかなるが、
日本語の場合は字幕はないのだから、はっきりと聞き取れないのは、映画館の体をなしているとは言い難かった。

いまはそういう映画館はもうないだろう。
音もそのころよりは良くなっている。
椅子も良くなっている。

それでもすべての映画館が同じクォリティで上映しているわけではなく、
広さも新しさもばらばらである。
いいところもあればそうでないところもまだまだある。

いいところもそうでないところも入場料は同じであり、
周りに見知らぬ人が大勢イルなかで観るのが苦手な人もいるだろうから、
映画館で観るよりも、入念に調整したホームシアターの方がクォリティもよく、気兼ねなく観れるから、
映画館に行く価値・必要性を感じなくなった──、
それがわからないわけではないが、それでも最新の映画館はさすがに映画館と思わせる。

いま現在、3D+ドルビーアトモスによる上映がそうである。

Date: 6月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その4)

1980年代にはいってから、AVという言葉が出て来はじめた。
いうまでもなくAudio Visualの頭文字を並べた略語で、このころにはレーザーディスク、VHDなどが登場し、
音楽は本来音だけで楽しむものではない、ということを謳うメーカーや、
その尻馬に乗った評論家も出て来た。

ヴィジュアルつきのプログラムソースを楽しむことを否定したり、
それを楽しんでいる人たちを否定したいのではなく、
安易に音楽には視覚的要素が不可欠、映像無しの音だけの音楽は片輪、
的なことを言う人(メーカー)に対していいたいだけのことである。

AVはいつしかホームシアターと呼ばれるようになった。
Home Theater、家庭内劇場となるのか。
AVという言葉が登場したころから、ずっと進歩している。
当時は100インチのスクリーンを家庭に持ち込む人はそうそういなかったけれど、
いまではそう珍しくもないようである。

ホームシアター関連の雑誌も書店にはいくつも並んでいる。
オーディオは女性の理解を得にくいが、ホームシアターはそうでもない、という話も聞く。

私が知っている人で、ホームシアターに熱心にとりくんでいる人はいないから、
現在のホームシアターのレベルがどの程度なのかははっりきとは把握していない。
それでも、かなりのレベルらしいことは聞いているし、
そういうレベルで楽しんでいる人たちの中には、映画館を小馬鹿にしている人もいることも知っている。

その気持はわからないわけではない。