「音楽性」とは(を考えていて思い出したこと・その2)
駅のアナウンス、
それも特別なアナウンスではなく、ごく日常的なアナウンスを録音している人がいる。
写真を撮る鉄道マニアを撮り鉄というらしいが、
同じとりてつでも、こちらは録り鉄なのか。
けっこういい録音器材を使っている人もみかける。
録音しながらヘッドフォンでモニターしている。
録音が終り、帰宅してから、もう一度再生しているはずである。
駅での録音だから、どうしてもさまざまな雑音がまじっていることだろう。
だからこそ、雑音がほとんどなく、うまく録音できたのであれば、
相当に嬉しいはずだ。
でも、駅のアナウンスは、音楽はまったく関係ない。
あくまでも駅のアナウンスとして、であり、
録音している人たちも、音楽性なんてことはまったく考えていないはずだ。
うまく録れたときほど、何度も再生しては聴いて、にんまりするのだろう。
でも、それらの録音は、コレクションの一部と化してしまうのではないのか。
誰かに自慢するために、鳴らすことはある。
けれど、録音してから一年、五年、十年……、と経って、
どれだけの人がどれだけ以前の、そういった録音を聴き直すのか。
私の周りには、そういう録り鉄は一人もいない。
友人の知人にもいないようである。
なので、実際のところどうなのかはわからない。
あくまでも想像で書いているにすぎない。
そうなると、(その1)での放尿の録音と同じく忘れられていくのか。
放尿の音は趣味としての録音ではないはず。
駅のアナウンスの録音は、鉄道という趣味がバックグラウンドにある。
その違いがあるのはわかったうえで、これを書いている。