Archive for category 試聴/試聴曲/試聴ディスク

Date: 7月 6th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(その4)

オーディオ機器の評価の難しさは、それ単体では音が出せない(出ない)というところにある。
パワーアンプの試聴をするにも、
パワーアンプだけを用意すれば試聴が可能になるわけではない。

必ずアナログプレーヤーなりCDプレーヤーが必要になり、
コントロールアンプ、スピーカーシステムも用意しなければならない。
そしてこれらの機器を接続するためのケーブルも、である。

パワーアンプの音を聴くといっても、
実際にはそこでのトータルの音を聴いているわけである。
いうまでもなく、そこでのトータルの音には、オーディオ機器だけでなく部屋も含まれる。

だからこそ馴染んだ環境がなければ、実のところ試聴は成立しない。
ステレオサウンドの筆者にとっては、ステレオサウンドの試聴室がそういうことになる。

同じ場所で、その試聴室のリファレンス機器での音を何度も聴いて知っているからこそ、
試聴は成り立つといえる。

つまりパワーアンプの試聴は、
同じ場所での同じ機器での音の一部(パワーアンプ)を交換した音を聴いているわけで、
交換した一部以外は、いっさい変更してはならない。
そして交換する一部は、すべての機種を可能なかぎり同条件のセッティングが前提となる。

つまり置き場所、置き方、電源のとり方、その場所、
コントロールアンプとの接続ケーブルの引き回し、スピーカーケーブルの這わせ方など、
すべての機種で同じになるように注意しなければならない。

パワーアンプにはステレオ仕様とモノーラル仕様がある。
注意したいのはモノーラル仕様の場合である。
たいていの壁コンセントには挿込み口が二つある。

私がいたころはステレオサウンドの試聴室では、
ステレオアンプは上の挿込み口から、
モノーラルアンプの場合は、左チャンネルを上、右チャンネルを下の挿込み口からとるようにしていた。

左チャンネルを上、右チャンネルを下にしていたのは、
これがすべての場合において音が良いから、ということではなく、
常に同じセッティングをどの機種に対しても行うための、いわばルールである。
いうまでもないが、電源の極性は合せている。

Date: 7月 4th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(その3)

ブラインドフォールドテストを絶対視し、
いわゆるオープンテストは信用できないと主張している人の多くは、
ステレオサウンドがやってきた試聴というものを一度も体験したことのない人なのだろう。

試聴というものは、オーディオ雑誌を読んでいた時と、
実際に試聴室という現場で仕事をするようになってからでは、認識がそうとうに変ってくる。

これはいくら言葉で説明しても伝わりにくいものであるようで、
私も読者だった時代、
ステレオサウンドの特集記事のテストの方法は毎回きちんと読んでいた。
それでも、試聴という仕事をあまく捉えていたことを、
ステレオサウンドで働くようになって気づいた。

試聴の方法として、どういうやり方がいいのか。
ブラインドフォールドテストがいちばんいいやり方ではない。
そのことははっきりしている。
他のやり方すべてに問題点があることもわかっている。

これはすべてのテスト(試聴)方法に共通していえることだが、
いったい何をテストしているのかを明確にしていかなければならない。

何をバカなことをいっているんだ、と思われた方は、
試聴というものがよくわかっていないといえる。

例えばパワーアンプのテスト。
試聴順(ステレオサウンドの場合、価格順が多い)にアンプを聴いていく。
CDプレーヤー、コントロールアンプ、スピーカーシステムは試聴の間、変更はしない。
変っていくのはパワーアンプのみである。

そうやってかなりの数のパワーアンプを聴く。
果して、この試聴はパワーアンプの試聴とはっきりといえるだろうか。
パワーアンプの試聴だといえるには、どういうことが条件となってくるのか。

Date: 7月 3rd, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(その2)

2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドでリンクされていた個人のサイトには、
ステレオサウンドは172号で初めてブラインドフォールドテストを行った、と書いてあった。

172号のアンプの試聴が、ステレオサウンド初めてのブラインドフォールドテストではない。
それ以前にも数回行ってきている。
調べればすぐにわかることなのに、調べもせずに書く。

その1)で書いた、
172号のブラインドフォールドテストに参加しなかったから小野寺弘滋氏は信用できないという人、
この人も調べればすぐに分ることなのに調べもせずに書いている。

このふたりが同じ人なのか違う人なのか、
2ちゃんねるは匿名の掲示板だからわからない。
おそらく違う人だろうが、
ブラインドフォールドテストが絶対で、
ブラインドフォールドテスト以外の試聴は信用できない、と主張する人たちの中に、
このふたりのような人がいるのだろうか、と思ってしまう。

わずかなサンプルだから、
ブラインドフォールドテストを支持する人、もっといえば絶対視している人が、
すべてそうだとはいえないことはわかっている。

けれどブラインドフォールドテストにはブラインドフォールドテストゆえの問題点もあり、
通常の試聴(オープンテスト)よりも、その結果が信頼できるわけではない決してない。

ブラインドフォールドテストは、何をテストしているのか、誰をテストしているのか、
この点が曖昧になってしまう。

Date: 6月 30th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(その1)

友人からのメールに、
「2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドが伸びているぞ」とあった。

ステレオサウンドのスレッドがあるのは知っているけれど、
あまり書き込みがなされていないから一ヵ月に一度くらいのアクセスで十分だった。

それが今日は、友人のメールにあるように書き込みが多い。
ステレオサウンドの最新号は約一ヵ月前に出ているから、
そのことが話題になっているのではなく、ブラインドフォールドテストが話題になって伸びていた。

2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドでは、ブラインドテストとあるが、
正確にはブラインドフォールドテストと書くべきである。

一般的な試聴、つまり目の前に試聴機種を置くやり方は先入観がはいるため信用できない。
信用できる試聴はブラインドフォールドテストだけである、というのは、かなり以前からいわれていることだ。

今日、2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドを読んでいて気づいたことがある。
ステレオサウンドは2009年9月発売の172号で、ひさしぶりにアンプのブラインドフォールドテストを行っている。
これについての書き込みもいくつかあった。

このブラインドフォールドテストに参加したのは柳沢功力氏と和田博巳氏。
ブラインドフォールドテストのみを信用できると信じきっている人は、
だから、ステレオサウンドの筆者でこのふたりだけが信用でき、
ブラインドフォールドテストから逃げた小野寺弘滋氏は信用できない、とある。

それにしても……、と思ってしまう。
172号の編集長は小野寺弘滋氏である。
小野寺氏がオーディオ評論の活動を始めたのは2011年からである。

小野寺氏は逃げたわけではない。
編集者だったのだから。

こんな簡単なことを確認すらしない人が、
ブラインドフォールドテストこそが……、と主張することのおかしさを感じてしまう。

Date: 11月 15th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴ディスク考(ステレオサウンド別冊・魅力のオーディオブランド101)

1986年、ステレオサウンド創刊20周年記念別冊として、「魅力のオーディオブランド101」が出ている。
その名のとおり、国内外のオーディオブランドを101社紹介した内容。
海外メーカーに関しては菅野沖彦、柳沢功力、山中敬三の三氏による座談会形式だが、
国内メーカーに関しては、取材方法が違っている。

井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、長島達夫、柳沢功力、山中敬三、
この中から二氏、または三氏がメーカーの試聴室を訪ねての構成となっている。
すべての国内メーカーを訪問しているわけではないが、
アキュフェーズ、アカイ、オーディオテクニカ、デンオン、ダイヤトーン、フォステクス、ケンウッド、
京セラ、ラックス、マランツ、ナカミチ、NEC、オンキョー、パイオニア、サンスイ、ソニー、ティアック、
テクニクス、ビクター、ヤマハのに関しては、
試聴室の写真と試聴機器のラインナップ、それに試聴ディスクが紹介されている。

「魅力のオーディオブランド101」は、この部分だけでも資料としての価値がある、といえる。
ステレオサウンド創刊20周年だから、1986年当時、
国内メーカーがどういうスピーカーシステムで、どういうアンプを使い、
どういうプログラムソースを鳴らしているのかが、その一部とはいえ知ることができる。

このことは少し時間が経ってから眺めるほうが興味深い、と私は感じている。
個人的におもしろいな、と感じたのはダイヤトーンだった。

できれば上記メーカーすべての試聴機器と試聴ディスクについて書き写しておきたいが、
意外と面倒な作業なので、ダイヤトーンだけにしておく。

試聴システムは、オープンリールデッキがアンペックスの440C、
デジタルレコーダーが三菱のX80、CDプレーヤーはフィリップスのLHH2000。
入力系はすべて業務用機器に統一されている。

アンプはパワーアンプがスレッショルドのStasis1である。
すでに製造中止になっているモノを使い、
コントロールアンプは無しで、P&GのPAF3022W(パッシヴフェーダー)でレベルコントロールをしている。

スピーカーシステムはダイヤトーンのDS10000と2S305。

試聴プログラムソースは、
CDがハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるマーラーの交響曲第四番、
PCMテープは三菱オリジナル録音のもの、
オープンリールのアンペックス用は、2S305をモニター使用したオリジナルテープ「ティファナ・タクシー」。

このことから見えてくるものは人によって違ってくるかもしれない。
おそらく違うだろう。
こんなことが何の役になるのか、と思う人もいるだろうけど、見えてくるものがはっきりとあることは確かである。

Date: 10月 7th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その3)

四コマ・マンガと複数頁にわたるマンガの違いがあるとしたら、
コマ割りだと思う。

四コマ・マンガはその名の通り四つのコマしかない。
しかもコマの大きさは同じで、コマの形も同じである。

複数頁にわたるマンガ(面倒なのでマンガと略す)の場合、
一ページ当たりのコマ数に、何コマまでという決りはない。
二ページ見開きで一コマというものから、こまかくコマ割りしてあり十コマ以上ものも珍しくない。
しかもコマの大きさ、形も実にさまざまである。

コマの形はたいていは長方形だが、正方形である場合もあるし、
長方形でも縦横の比率が大きく違う場合もある。
台形や三角形のコマもある。

四コマ・マンガではコマの枠線は必ず描かれているが、
マンガの場合、コマによっては枠線を省略していることもある。

そういうマンガの読み方とは、どういうことなのか。
ひとつ言えるのは、右頁の上段右端のコマから読みはじめる、ということぐらいである。
コマの進み方も、場合によって違ってくる。

私が読んできたなかで、こんなコマ割りもあるのか、と感心するのが多かったのは、石森章太郎のマンガだった。
当時読んでいたのは、サイボーグ009、仮面ライダー、人造人間キカイダーなどだ。

これらのマンガのコマ割りは、それまでのマンガの通例からは大きく離れていることもあった。
初めて見るコマ割りも少なくなかった。

そういうコマ割りでは、コマの順序という決り事に捕われていては、戸惑うばかりではないだろうか。

マンガは二ページ、もしくは一ページ全体をまず見ることから、読むことは始まるといえる。
つまり最初から右頁の上段右端のコマを凝視してしまっては、
マンガを読むという行為を強く意識してしまうような気がする。

理解しようと凝視すればするほど、難しくなっていくから、
文字から先に読んだらいいのか、絵を先に見たらいいのか、ということになるのではないだろうか。

Date: 10月 6th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その2)

マンガの読み方がわからない、というのは、世代によるものではない、と思う。
私の親も(数は少ないけど)マンガは読んでいた。ふつうに読んでいた。

だいたい私が夢中になってマンガを読みはじめたころ、
マンガを描いていたのは、親と同じ世代かそれより上の世代なのだから、
世代によってマンガの読み方がわからない、ということはありえない、と断言できる。

数日前までマンガをどう読んでいるのか、について特に意識したことはなかった。
それでも今回、私はどうマンガを読んでいるのだろうか──、と意識してみた。

いまはiPad、iPhoneなどでもマンガを読める。パソコンでも読める。
けれど私が最初に読んだマンガは紙の本に印刷されたマンガである。
正確にいえば、新聞の四コマ・マンガかもしれない。

新聞の四コマ・マンガといえば、マンガの読み方がわからないという人でも新聞は読んでいたはずである。
四コマ・マンガは読んでいなかったのだろうか。

四コマ・マンガは読んでいても、複数頁にわたるマンガとなると、読み方がわからなくなる、ということなのか。

Date: 10月 5th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その1)

先日、twitterで非常に興味深いツイートがあった。

石ノ森章太郎が「マンガ日本の歴史」を描いていたころの話だった。
この「マンガ日本の歴史」を生れてはじめてマンガを読むという年配の人から、
「マンガって、文字から先に読むんですか、それとも絵から先に見るんですか」
という質問が来た、というものだった。

これは意外だった。
これまで意識したことがなかったことだから、である。

マンガは幼いころから読んできている。
誰かに読み方を教わったわけではない。
苦労して読み方をおぼえたわけでもない。

自然と読んでいた。
マンガとはそういうものだと、だからずっと思ってきていた。
これは何も私だけではない。
小学生、中学生だったころ、同級生もマンガは読んでいた。
誰も「マンガの読み方がわからない」といってはいなかった。

誰かが誰かにマンガの読み方を教わっていた、ということはなかったはずだ。
これまでに、どれだけのマンガを読んできたのか、数えられないくらい読んできている。
けれど、ただの一度も、
文字から先に読んだらいいのか、絵を先に見たらいいのか、といったことは考えたことがない。

Date: 9月 7th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(その2)

一緒に音を聴いていて、後からであっても、どういう音の聴き方をしているのか聞いてくる人もいれば、
まったくそんなことに関心のない人もいる。

オーディオは趣味だから、好きなように聴いて好きな音を出すものでしょう、という人を知っている。
別にひとりではない。
そういう人が多数なのかどうなのかははっきりとしないけれど、私の感覚では意外に多い、と受けとめている。

オーディオが趣味であっても、そういうものではない、と私は考えているわけだが、
このことは音の聴き方に関係してくることだし、
その結果がインターネットの普及とともに目にすることが増えてきている。

好きなように聴く──、それがその人のオーディオの楽しみ方、やり方、
さらには音楽の聴き方であるのなら、第三者である私がとやかくいうことではないのはわかっている。
それでも、あえてこんなことを書いているのは、
好きなように聴いていては、どこまでいっても、その人にいえることは好きか嫌いかの範疇にとどまる。

このことに気づいている人に対しては、私は何もいわない。
そうであれば、その人の楽しみ方であるのだから。

だが、中には好きなように聴いてきているだけなのに、良し悪しについて語る人が少なくない。
これは別項「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」で、これから書いていくことと関係しているが、
好きなように聴いていて、良し悪しは語れない、ということをはっきりとさせておきたい。

好きな音は、その人にとって良い、嫌いな音が悪い──、
これはあくまでもその人の中にあってのみかろうじて成り立つことであって、
ひとたび言葉にして誰かに語った時点で、
どんなに言葉をつらねても、好き嫌いはどこまでいっても好き嫌いでしかなく、
決して良し悪しにはならない。

にも関わらず、あれは良いとか、悪いとか、といい、
しかもそういう人に限って、誰かのことばを聞こうともしない。

Date: 9月 6th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(その1)

一緒に音を聴いたことのある人から、ときどき受ける質問が、
「どこに注意して音を聴いているのか」である。
いわゆる音のチェックポイントはどこなのか、についての質問だ。

こういうところに注意して聴いている、と答えられるようでいて、
実はそうでない。

自分の愛聴盤を持ってきての試聴でも、
いわゆる聴きどころを決めているわけではない。
まして、その場で聴かされたディスクでは、聴きどころなど最初からない。

意識せずとも聴感上のS/N比、音のひろがり方はチェックポイントといえばそうだが、
これに関しては、いまはほとんどの人がそうしているはず。

その他には、というと、五年以上前に書いたことを、もう一度書くことになる。
井上卓也氏のこと(その11)」を読んでいただければいいことだが、
リンクをはったところで読んでくれる人はそう多くないことはわかっているので、
もう一度書いておこう。

ここ(チェックポイント)を聴いてやろう、という意気込みをまず捨てることである。
前のめりに構えてしまうことが、音を聴くとき、いちばんやっかいである。

Date: 8月 29th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

総テストという試聴のこと(その3)

レコード芸術の1981年5月号、瀬川先生が「音と風土、そして時の流れと」を書かれている。
それまでの約二年間、読者代表のふたりと試聴してきた連載の終りをむかえての、まとめ的な意味を含んでのものだ。
そこから、総テストに関係している部分を引用しておく。
     *
 メーカーを問わず国を問わず、多くのスピーカーを聴いてみる。はじめのうちは、そのひとつひとつの違いの大きさに驚かされる。が、数多く聴く体験を重ねてゆくうちに、同じメーカーの製品にはひとつの共通の鳴り方のあることに気づかされる。さらに、国によって、つまりその製品を生み育てた風土によって、大きな共通の傾向を示すことにも気づかされる。そのことは、料理の味にたとえてみるとわかりやすいかもしれい。
 同じ素材を使った料理でも、店の違い、料理人の違いによって、味は微妙にないしは大きく、違う。しかしそれを、大きく眺めれば、日本料理、中国料理、フランス料理……というように、国によって明らかに全く違う傾向を示す。細かくみれば、国、地域、店、料理人……とどこまでも細かな相違はあるが、大きくみれば、同じ国の料理は別の国と比較すれば間違いなくひとつの型を持っている。その〝型〟を育てたものが、その国の風土にほかならない。
 しかしまた、時代の流れによる嗜好の変化、そして国際間の交流によって影響を受け合うという点にもまた、料理と音に類似点が見出される。世界的に、酒が次第に甘口になり、交易の盛んになるにつれてその地域独特の地酒の個性が少しずつ薄められると同じことが、スピーカーの音色にも見出される。少し前までは、あれほど違いの大きかったアメリカの音とイギリスの音が、最近では、部分的によく似た味わいをさえ示すようになっている。その部分をみるかぎり、国によるスピーカーの違いなど、遠からず無くなってしまうのではないかとさえ思わせる。だが、風土の違いが無くならないのと同じように、仮に差が微妙になったとしてもその違いが無くなることはないと、私は思う。そして、オーディオを楽しみとするかぎり、こうした差の微妙さを味わい分けることは、むしろ本当の楽しみの部類に入る。ベルリン・フィルハーモニーの音が、いまやドイツ的と言えるかどうか、という説がある。たしかに、国際的に著名なオーケストラには、いまや国籍を問わず優秀な人材が送り込まれている。けれど、それならベルリン・フィルハーモニーの音が、シカゴの音になってしまうだろうか。ならないところが微妙におもしろい。逆にまた、ベルリンとウィーンの音の違いが無くなってしまったら、演奏を聴く楽しみは無くなってしまう。
 スピーカーの音はそれとは違う、と言われるかもしれない。スピーカーは、それ自体が性格や音色を持つべきではない。ベルリンとウィーンの違いを、スピーカーを通して聴き分けるには、スピーカー自体に音色があってはおかしいんじゃないか。スピーカーは、単に、入力の差をそのまま映し出す素直な鏡であるべきだ……。
 それは正論だが、そういう意見を本気で論じる人は、世界じゅうの数多くのスピーカーを、本気で比較したことのない人たちだ。ひとつひとつの音はたしかに大きく違う。が、一流のスピーカーであればどれをとっても、ウィーン・フィルとベルリン・フィルの違いは歴然と聴き分けられる。
 スピーカーの音の違いと、オーケストラや楽器の音色の違いとは、全く性質の違うもので、それを言葉の上では、あるいは机の上の理屈では混同しやすいが、聴いてみればそれは全く違うということがわかる。こればかりは、体験のない人にどう説明してもなかなかわかって頂けないが、たとえば、どんな写真を通してみても、ある人のその人らしさが写らないことはない、と考えれば、いくらか説明がつくだろうか。そういう意味では、こんにちのカメラやレンズや感光材料(フィルムや印画紙)もまた、決して理想的な段階に至っていない。だがそれだからといって、二人の違った人間のそれぞれ、その人らしさが写らないなどとは、誰も思わない。しかもなお、写真の愛好家は、日本の違ったレンズのそれぞれの描写の味の違いを楽しむ。
 音楽とスピーカーの関係もこれに似ている。
 私自身のそうした考え方を、第三者に立ち合って確かめて頂く、という意味もあって、これまで、Aさん、Kさんという、互いにその性格も音楽や音の好みも全く違う、二人の愛好家といっしょにいま日本で入手できる世界じゅうのスピーカーの、大部分を聴いてきた。
 ご両人とも、最初のうちは、同じレコードがときとしてあまりにも違うニュアンスで鳴ることに驚き、大いに戸惑ったこともしばしばあった。しかもその音の違い、音楽表現の違いを、言葉で説明することの難しさに、頭をかかえたらしい。だが二年も続けていると、お二方とも、次第に聞き上手、語り上手になってきたことは、この連載の最初からずっとお読み下さった読者諸兄にはよくおわかりの筈だ。
 その意味では、むしろ一般読者代表の形でご登場頂いたお二人が、少しずつプロに近い聴き方をするようになってきたことが、果してよいことなのかどうか、私自身少々迷っていた。お二人には、連載開始当時の純朴な耳をそのまま持ち続けて頂いたほうがよかったのではないだろうか、などと勝手な考えを抱かせるほど、A、K、ご両者の聴き方は変化していった。
 しかし私がひとつの確信を抱いたのは、当初の素朴な耳の頃からすでに、お二人によって、スピーカーの鳴らす音の味わいの違いが、メーカーや型番の違いよりももっと、風土による影響こそ本質的な違いであることに、賛意が得られたことだった。ある月はイギリスの音ばかり聴く。ひとつひとつ、みな違う。だがそこに一台でもアメリカやフランスを混ぜると、明らかに、たった一台だけ、違った血の混じったことが、誰の耳にも聴き分けられる。そうして一台だけの別の血を混ぜてみると、それまでずいぶん違うと思っていた個々が、全くひとつの群(グループ)にみえてきて、そこに同じ血の流れていることがまた確認できる。何度も何度も、そういう体験をして、血の違いのいかに大きくまた本質的であるかを、確認した。
     *
レコード芸術での、この連載企画はステレオサウンドの総テストと比較すると小規模といえるけれど、
それだけにじっくりと時間をかけて、瀬川冬樹という最適のアドヴァイザーがいての試聴であり、
そういう試聴だから、総テストと同じように見えてくることが、はっきりとある。

Date: 8月 29th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

総テストという試聴のこと(その2)

いまではあまりいわれなくなっているが、
1970年代はアメリカの音、イギリスの音、日本の音……、といったことがよくいわれていたし、
ステレオサウンドでも創刊15周年記念の企画として、
60号でアメリカンサウンド、61号でヨーロピアンサウンド、62号で日本の音を特集のテーマとしている。
つまり三号にわたっての企画である。

アメリカの音は西海岸の音と東海岸の音というように、大きく分けられていたし、
ヨーロッパの音といっても、イギリスの音とドイツの音とでは大きく違う傾向だし、
フランスの音も、イギリス、ドイツの音ともまた違う。

国が違えば音は違う。つまり気候・風土の違いが音にあらわれている、ということだ。

だが、この国による音の違いがさかんにいわれていた時期でも、
そんなことはない、国による音の違いなどなく、あるのはメーカーの違いだけである、という意見もあった。
いまもそういうことを主張する人は少なくない。

なぜなのか、というと、総テストの経験があるかないか、といえる。
スピーカーシステムだけを数十機種集中して聴くことでみえてくることがあるからこそ、
総テストの意味がいまもあるわけだし、
ひとつのスピーカーシステムを時間をかけてじっくりと聴く試聴とは、また違う試聴であるのが総テストである。

総テストの経験の有無が、時として話が噛み合わない原因になることもある。

Date: 8月 29th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

総テストという試聴のこと(その1)

いろいろなところに出掛けては音を聴いている人は多い。
個人のリスニングルームを訪ねては、音を聴かせてもらう。
オーディオ販売店に出掛けては、気になる製品をいくつか聴かせてもらう。
オーディオショウに行き、それぞれのブースの音を聴いてくる。
ジャズ喫茶、名曲喫茶と呼ばれているところへも、音を聴きに足を運ぶ。

だが、そうやって数多くの音を聴くようにしていても、
なかなか体験できないのが、いわゆる総テストと呼ばれる試聴である。

総テストとは、例えばスピーカーの試聴なら、その時点で集められるスピーカーシステムをできるだけ集め、
ごく短期間で試聴する。
そこで集められるのは、少ない場合でも20機種ぐらい、多くなれば60機種をこえることもある。

つまり60機種のスピーカーシステムなりアンプなりを、数日間で一気に聴き通す。
ステレオサウンドが3号で、アンプの総テストをしたのが、その始まりといえよう。

ステレオサウンド 3号で集められたアンプの数は35機種となっている。
1967年、こういう試聴テストを行っていたところはひとつもない、ときいている。

総テストはステレオサウンドの試聴のやり方、というイメージが私の中にはできあがっている。
他にもオーディオ雑誌はあるが、月刊誌では総テストと呼べるだけの機種数を集めての試聴は難しい。
総テストは三ヵ月に一冊という、季刊誌だからうまれてきた試聴のやり方でもある。

Date: 8月 4th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴ディスク考(その10)

黒田先生がステレオサウンド 44号、45号で試みられた試聴記は、
試聴記の前に7ページにわたる「スピーカー泣かせのレコード10マイの50のチェックポイントグラフ」がある。

この7ページ(扉を入れると8ページ)があるからこそ、即物的な言葉での試聴記が成り立っている。
それに、もし44号、45号でのスピーカーシステムの試聴を黒田先生ひとりだとしたら、
おそらく、こういう試聴記にはされなかったのではないか。

44号、45号での試聴は黒田先生の他に岡先生、瀬川先生も試聴記を書かれている。
試聴は岡先生と黒田先生が一緒に、瀬川先生はひとりで行なわれている。

黒田先生にとって、ここでの岡俊雄、瀬川冬樹は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界」で鼎談のメンバーでもある。

このころの黒田先生と瀬川先生のレコード音楽に対しての聴き方・接し方に違いはあっても、
信頼関係があったはずだ。

それらがあっての、44号、45号での、あの試聴記であるということを忘れてはならないし、
これらを抜きにして、似たような試聴記といっしょにするわけにもいかない。

このことがわからない人が、このディスクのこの部分がこう鳴った、という、
いわば印象記にすぎない、もっといえば試聴メモの写し書きを、具体的な試聴記とありがたがっている──、
私にはそう見えてしまう。

Date: 7月 9th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴ディスク考(その9)

具体的な試聴記とは、いったいどういうものなのか。

インターネットでみかけるのは、試聴機材について述べていること。
できればケーブルについても、何を使ったかを書いている。

それから試聴ディスクのタイトル(できればレーベル、CD番号も)、
そのCDのどの曲を聴いたのか、
その曲のどの部分が、こう鳴った、ときちんと書いてあるのが、具体的な試聴記ということになるようだ。

どんな試聴機材だったのかは、目安にはなる。
だが、あくまでも目安程度にとどまる。
そこで、それらの試聴機材がどういうふうにセッティングされ、どんな調整が施されているのか、
そういったことまではわからないし、
仮にそういった細かな事柄まで書いてあったとしても、そこでの音が誌面から聴こえてくるわけではない。

読んでいて、あまりにもおかしな(不思議な)試聴記だと、
いったいどういうシステムで聴いたのか、と気になるけれど、
まともな試聴記であれば、試聴機材については、あっ、こういうシステムで聴いたんだ、程度の認識である。

それから試聴ディスクに関しても、このディスクの、この曲の、この部分が……、と書いてあるのは、
ステレオサウンド 44号、45号で黒田先生が試みられた試聴記と同じではないか、と思う人がいよう。

似ているといえば似ているけれど、いわゆる似て非なる試聴記ということになる。
そこに気づかずに、試聴記を読んでいて、
これは具体的だから信用できる、
具体的な試聴記を書く人だから信用できる、は、
単に一見わかりやすそうに見えるだけで、実のところ、具体的なことはほとんど書かれていないことが多い。