Date: 8月 29th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク
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総テストという試聴のこと(その3)

レコード芸術の1981年5月号、瀬川先生が「音と風土、そして時の流れと」を書かれている。
それまでの約二年間、読者代表のふたりと試聴してきた連載の終りをむかえての、まとめ的な意味を含んでのものだ。
そこから、総テストに関係している部分を引用しておく。
     *
 メーカーを問わず国を問わず、多くのスピーカーを聴いてみる。はじめのうちは、そのひとつひとつの違いの大きさに驚かされる。が、数多く聴く体験を重ねてゆくうちに、同じメーカーの製品にはひとつの共通の鳴り方のあることに気づかされる。さらに、国によって、つまりその製品を生み育てた風土によって、大きな共通の傾向を示すことにも気づかされる。そのことは、料理の味にたとえてみるとわかりやすいかもしれい。
 同じ素材を使った料理でも、店の違い、料理人の違いによって、味は微妙にないしは大きく、違う。しかしそれを、大きく眺めれば、日本料理、中国料理、フランス料理……というように、国によって明らかに全く違う傾向を示す。細かくみれば、国、地域、店、料理人……とどこまでも細かな相違はあるが、大きくみれば、同じ国の料理は別の国と比較すれば間違いなくひとつの型を持っている。その〝型〟を育てたものが、その国の風土にほかならない。
 しかしまた、時代の流れによる嗜好の変化、そして国際間の交流によって影響を受け合うという点にもまた、料理と音に類似点が見出される。世界的に、酒が次第に甘口になり、交易の盛んになるにつれてその地域独特の地酒の個性が少しずつ薄められると同じことが、スピーカーの音色にも見出される。少し前までは、あれほど違いの大きかったアメリカの音とイギリスの音が、最近では、部分的によく似た味わいをさえ示すようになっている。その部分をみるかぎり、国によるスピーカーの違いなど、遠からず無くなってしまうのではないかとさえ思わせる。だが、風土の違いが無くならないのと同じように、仮に差が微妙になったとしてもその違いが無くなることはないと、私は思う。そして、オーディオを楽しみとするかぎり、こうした差の微妙さを味わい分けることは、むしろ本当の楽しみの部類に入る。ベルリン・フィルハーモニーの音が、いまやドイツ的と言えるかどうか、という説がある。たしかに、国際的に著名なオーケストラには、いまや国籍を問わず優秀な人材が送り込まれている。けれど、それならベルリン・フィルハーモニーの音が、シカゴの音になってしまうだろうか。ならないところが微妙におもしろい。逆にまた、ベルリンとウィーンの音の違いが無くなってしまったら、演奏を聴く楽しみは無くなってしまう。
 スピーカーの音はそれとは違う、と言われるかもしれない。スピーカーは、それ自体が性格や音色を持つべきではない。ベルリンとウィーンの違いを、スピーカーを通して聴き分けるには、スピーカー自体に音色があってはおかしいんじゃないか。スピーカーは、単に、入力の差をそのまま映し出す素直な鏡であるべきだ……。
 それは正論だが、そういう意見を本気で論じる人は、世界じゅうの数多くのスピーカーを、本気で比較したことのない人たちだ。ひとつひとつの音はたしかに大きく違う。が、一流のスピーカーであればどれをとっても、ウィーン・フィルとベルリン・フィルの違いは歴然と聴き分けられる。
 スピーカーの音の違いと、オーケストラや楽器の音色の違いとは、全く性質の違うもので、それを言葉の上では、あるいは机の上の理屈では混同しやすいが、聴いてみればそれは全く違うということがわかる。こればかりは、体験のない人にどう説明してもなかなかわかって頂けないが、たとえば、どんな写真を通してみても、ある人のその人らしさが写らないことはない、と考えれば、いくらか説明がつくだろうか。そういう意味では、こんにちのカメラやレンズや感光材料(フィルムや印画紙)もまた、決して理想的な段階に至っていない。だがそれだからといって、二人の違った人間のそれぞれ、その人らしさが写らないなどとは、誰も思わない。しかもなお、写真の愛好家は、日本の違ったレンズのそれぞれの描写の味の違いを楽しむ。
 音楽とスピーカーの関係もこれに似ている。
 私自身のそうした考え方を、第三者に立ち合って確かめて頂く、という意味もあって、これまで、Aさん、Kさんという、互いにその性格も音楽や音の好みも全く違う、二人の愛好家といっしょにいま日本で入手できる世界じゅうのスピーカーの、大部分を聴いてきた。
 ご両人とも、最初のうちは、同じレコードがときとしてあまりにも違うニュアンスで鳴ることに驚き、大いに戸惑ったこともしばしばあった。しかもその音の違い、音楽表現の違いを、言葉で説明することの難しさに、頭をかかえたらしい。だが二年も続けていると、お二方とも、次第に聞き上手、語り上手になってきたことは、この連載の最初からずっとお読み下さった読者諸兄にはよくおわかりの筈だ。
 その意味では、むしろ一般読者代表の形でご登場頂いたお二人が、少しずつプロに近い聴き方をするようになってきたことが、果してよいことなのかどうか、私自身少々迷っていた。お二人には、連載開始当時の純朴な耳をそのまま持ち続けて頂いたほうがよかったのではないだろうか、などと勝手な考えを抱かせるほど、A、K、ご両者の聴き方は変化していった。
 しかし私がひとつの確信を抱いたのは、当初の素朴な耳の頃からすでに、お二人によって、スピーカーの鳴らす音の味わいの違いが、メーカーや型番の違いよりももっと、風土による影響こそ本質的な違いであることに、賛意が得られたことだった。ある月はイギリスの音ばかり聴く。ひとつひとつ、みな違う。だがそこに一台でもアメリカやフランスを混ぜると、明らかに、たった一台だけ、違った血の混じったことが、誰の耳にも聴き分けられる。そうして一台だけの別の血を混ぜてみると、それまでずいぶん違うと思っていた個々が、全くひとつの群(グループ)にみえてきて、そこに同じ血の流れていることがまた確認できる。何度も何度も、そういう体験をして、血の違いのいかに大きくまた本質的であるかを、確認した。
     *
レコード芸術での、この連載企画はステレオサウンドの総テストと比較すると小規模といえるけれど、
それだけにじっくりと時間をかけて、瀬川冬樹という最適のアドヴァイザーがいての試聴であり、
そういう試聴だから、総テストと同じように見えてくることが、はっきりとある。

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