Archive for category ステレオサウンド

Date: 2月 7th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その5)

ステレオサウンド 43号の表紙を飾るのは、
セレッションの小型スピーカーUL6とAGIのコントロールアンプ511。
UL6の上に511、これを真正面からとらえた写真が使われている。

この表紙をみるたびに思うことがある。
コントロールアンプとスピーカーシステムということは、
ここには写っていないけれどパワーアンプの存在を意識する、ということだ。

そのパワーアンプとはQUADの405のことである。
AGIの511にはペアとなるパワーアンプがなかった。
開発中という噂はあったけれど、ついに実現することはなかった。

QUADの405に関しても、33というコントロールアンプがあったけれど、
開発年代の違いから、405のペアとなるコントロールアンプととらえている人は少なかった。

誰もが405とペアとなるコントロールアンプ44の登場を期待していた。
44が登場するのはまだ先であった。

そんなこともあって511と405は組み合わされること多かった。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」でも511と405の組合せは何度か登場している。

スピーカーシステムが決まり、アンプの候補として登場し、
最終的な組合せとしても、瀬川先生のKEFの104aBの組合せ、
井上先生のキャバスのブリガンタンとロジャースのLS3/5Aの組合せの両方に選ばれている。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」を何度も何度も読み返していた私には、
43号の表紙には、そこには写っていなくとも、QUADの405を感じる。
43号を手にしたときも、いまも、である。

AGIの511、QUADの405、セレッションのUL6の組合せ、
小粋なシステムだと思う。

42号の表紙も同じことを想像させる。

Date: 2月 6th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その4)

ステレオサウンド巻末にあるバックナンバー紹介のページ。
41号のこのページには33号から40号までと、岡先生の「レコードと音楽とオーディオと」が、
42号には33号から41号までが紹介されていた。

けれど41号、42号とも35号は載っていない。
35号は売り切れとある。

そうなると35号が気になる。
バックナンバー紹介のページを見ると38号が興味深く感じられた。
その38号よりも35号は面白いのか。
いったい特集は、どういう企画だったのか。
想像しても、何の手がかりもなかった。

35号の特集がわかったのは43号が出てからだった。
43号の特集はベストバイである。

43号がベストバイであることは42号のアンケートはがきが、ベストバイの投票用紙であったし、
はがきのところに、43号の特集はベストバイだと書いてあったからだ。

アンケートはがきにはベストバイと考える機種を、各ジャンルごとに一機種ずつ記入していく。
ステレオサウンドを一年くらい読んでいればすぐに記入できただろうが、
まだ41号と42号、それに別冊の三冊しか読んでいない。

市場に出廻っている製品も知っているモノのほうが少ない。
それでもベストバイ(Best Buy)の意味を調べて、
中学生が考えるベストバイ機種と記入していった。

4月10日が締め切りだった。
だったらもう少し早く発売してほしい、と思いながら、
あれこれ悩みながらの記入だった。
参考にしたのは41号ではなく、もっぱら「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。

ベストバイ。
これだけでは43号のどういう内容なのか、
それ以上のことはわからなかったし、想像もそんなにはできなかった。

何度も書店に通い、ようやく発売になったステレオサウンド 43号。
これがベストバイなのか、と思ったことをいまでも憶えている。
あのころのベストバイは面白かった。
夢中になって読んでいた。

Date: 2月 5th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その3)

ステレオサウンド 41号には、次の号がいつ出るのかという予告はなかった。
巻末にバックナンバーの紹介ページがあって、年に四冊出ていることはわかったから、
春には42号が出るのはわかっても、正確な発売日がわかったわけではなかった。

1977年春、42号が書店に並んでいた。
表紙はヤマハのCA2000とラックスのPD121にSMEの3009S2の組合せ。
手前にはハーマンミラーの椅子。
迷わず購入した。

42号の特集はプリメインアンプだった。
岡先生、菅野先生、瀬川先生が試聴を担当され、実測データが載っていた。
一機種あたり五ページが割かれていた。

写真とスペック、機能一覧表で一ページ、
三氏の試聴記で一ページ、
実測データと、井上先生と上杉先生によるテクニカルリポートが三ページあった。

プリメインアンプだけで、ずっしりとボリュウムのある特集だった。
試聴記もテクニカルリポートも、実測データも何度も読み、何度も見た。

一台のアンプをどう捉えるのか。
そのことを学べた一冊だった。

まだ中学生だった私には、当時のステレオサウンドは読み応えがほんとうにあった。
次の号が待ち遠しいという気持とともに、三ヵ月というスパンはちょうどいいようにも感じていた。

42号の奥付には、43号の予告があった。
そこには6月上旬発売予定、とあった。

ここでステレオサウンドの発売日がなんとなくわかった。
3月、6月、9月、12月なのだ、と。

上旬とあるから、43号は6月10日までには出るものだと思った。
6月になると、毎日のように書店に行った。
10日になっていないのだから、まだ出ていなくともしょうがないのはわかっていても、
上旬だから5日ごろに出てもおかしくはない。

今日もない……、そう思う日が続き、
10日になった。まだ書店には並んでいない。
そうなると、さらに一日一日が待ち遠しい。
当時は20日すぎが発売日だった。上旬ではなく中旬でもなく、下旬だった。

Date: 2月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その2)

「ステレオのすべて」を選ばなかった理由は、自分でもはっきりとしていない。
最後まで迷っていた。

そうやって選んだステレオサウンド 41号と別冊の二冊を、
冬休みの二週間、朝から夜までずっと読んでいた。
記事を読み、広告も読み、また最初から読みなおす。

このときの私には、オーディオに関する知識はほとんどなかった。
「五味オーディオ教室」を読んで得たものだけだった。

具体的な製品名やメーカー名に関しても、
「五味オーディオ教室」に登場してくるモノは知っていても、
それ以外の多くのモノについては何もしらないに等しかったし、
オーディオ評論家に関しても、何も知らなかった、といえた。

だからステレオサウンドか「ステレオのすべて」かで迷ったときに、
誌面に登場するオーディオ評論家の名前は何の参考にもならなかった。

本を書店に手に取り、そこから感じるものを選んだ。
こう書いていくと、「五味オーディオ教室」で出発したのだから、
ステレオサウンドを選ぶのは当然と思われる人もいるだろうが、
このころのステレオサウンドには五味先生は登場されていなかった。

手にした二冊のステレオサウンドで私が、より熱心に読んでいたのは、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」のほうだった。

Date: 2月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その1)

私が最初に手にしたステレオサウンドは、何度か書いているように、
41号とと同時期に発売になっていた別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」の二冊である。
1976年の12月だった。

その数ヵ月前に、私は「五味オーディオ教室」と出逢っていた。

中学二年の冬休みを、オーディオの本をじっくり読みながら過ごしたいと思っていた。
当時は地方の個人経営の書店にもオーディオの雑誌は並んでいた。

ステレオサウンドはそのころ1600円だった。
別冊も1600円だった。二冊あわせて3200円。

働いている人にとってはたいしたことのない金額であっても、
中学生が小遣いで買うには、けっこう大きな金額だった。

書店にはステレオサウンド以外のオーディオ雑誌も並んでいた。
音楽之友社の「ステレオのすべて」もあった。

ステレオサウンドがB5版、「ステレオのすべては」はA4版だった。
価格も同じか少し高かったかもしれない。

「ステレオのすべて」も買いたかった。
ステレオサウンド 41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」は、
書店で見つけてすぐに買ったわけではなかった。
三冊すべて買えるほどの余裕はなかった。
どれかをあきらめなければならなかった。

どれにするかを決めるのに、三日ほど書店に通っては悩んでいた。
そして選んだのがステレオサウンドであり、
「ステレオのすべて」はあきらめた。

こうやってステレオサウンドを読むようになっていった。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド創刊号

今朝、本が届いた。
オーディオ関係の雑誌が段ボール箱で届いた。
どんな本が入っているのかは知らなかった。

箱を開けて積み重ねてある本を一冊一冊取り出して、パラパラめくっていた。
一冊目、二冊目、三冊目……、中ほどに来たときに、えっ、と思った。

ステレオサウンドの創刊号が、そこにあった。
しかもおどろくほどきれいな状態の創刊号である。
49年前のステレオサウンドであり、私にとって20数年ぶりに手にする創刊号である。

久しぶりに創刊号を読んでいた。
巻頭には五味先生の「オーディオと人生」が載っている。
「オーディオと人生」はオーディオ巡礼でも読める。何度も読んでいる。
それでもまた読み返していた。
     *
体験のある人なら分ってもらえると思うが、当時はベートーヴェンに私はきき耽った。おもに交響曲と、ピアノやヴァイオリン協奏曲、それにパデレフスキーやシュナーベルの弾くピアノ・ソナタ、カペエのクヮルテットなどだが、弦楽四重奏曲ばかりはトーキー用スピーカーでは醍醐味が味わえない。ピアノ・ソナタも同様である。クレデンザで、竹針を切って鳴らすほうがしんみり、曲趣を味わえる。そこで今度はサウンドボックス用のラッパをこしらえようと、ラッパの開口部までの拡がり(断面積)を数式で割出そうと受験勉強ほったらかしで頭を痛めた。——そういう当時の《青春時代》といったものが、ベートーヴェンのレコードを聴くと四十過ぎの現在でも、彷彿と眼前に泛んでくる。《音楽は過去を甦えらせる》というのは本当だ。過去ばかりか、感動を甦えらせるものだ。
     *
《音楽は過去を甦らせる》とある。
同じことを「芥川賞の時計」でも書かれている。
     *
音楽は、誰にもおぼえがあるとおもうが、むかしそれを聴いた頃の心境や友人や出来事を甦えらせる。何年ぶりかに聴く曲は、しらべとともに《過去》をはこんでくる。
     *
つねに音楽が《過去》をはこんでくるわけではないし、甦らせるわけではないが、
たしかに《過去》をはこんでくることがあるし、甦らせることもある。

音楽は《過去》に光をあてている、ともいえるかもしれない。
その光は一条の光であり、一瞬の光でもある。

音楽によって、どちらの光は違ってくるのかもしれない。
どちらの光かによってはこばれてくる《過去》、甦ってくる《過去》は違ってこよう。

読み返しながら、こんなことを考えていた。

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

今月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

明日(9月2日)、ステレオサウンド 196号が書店に並ぶ。
ステレオサウンドのウェブサイトに196号の告知が公開されている。

特集1は《ハイエンド・デジタル》。
これよりも私が、おやっ、と思ったのは、特集2の方である。
タイトルは《DIG 聴いて解く「注目機の魅力」》。

「聴いて解く」とある。
ここに興味を持った。

いま別項で、ステレオサウンド編集部は間違っている、ということについて書いているところだ。
川崎先生がブログで書かれている「応答・回答・解答」、
それから川崎先生が以前からいわれている「機能・性能・効能」、
これらに受動的試聴、能動的試聴を加えれば、ステレオサウンド編集部について語れる。

私がステレオサウンドがつまらなくなったと感じている理由のひとつには、
記事の大半が応答記事になってしまったことにある。
そのことについて、これから書くつもりのところに、
今回の《DIG 聴いて解く「注目機の魅力」》というタイトルである。

編集部がどういう意図で、このタイトルにしたのか、
つまりタイトルに「解く」をいれたのか、
まだ記事を読んでいないし、読んでも伝わってくるのかどうかもなんともいえない。

だが、タイトルに「解く」とある。
この「解く」を編集部は理解しているのか、とも思う。
応答記事ばかりをつくってきて、いきなり「解く」である。

川崎先生は8月26日のブログ『デザインは解である』で、
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solution
と書かれている。

196号の特集2のタイトルは、聴いて解くのあとに「注目機の魅力」と続いている。

注目機とは、いわば話題であり、そこにステレオサウンド編集部は「解」を当てている。
しかもDIGが頭についている。

仮に充分に理解しているとしよう。
特集2は、傅信幸氏、三浦孝仁氏、小野寺弘滋氏が書かれている。
この三人に、編集部の「聴いて解く」の意図は伝わっているのか、
書き手は「聴いて解く」をどう解釈しているのか。

これまでのような書き方であっては、「聴いて解く」には到底ならない。
「聴いて解く」とつけられた記事を書くのであれば、
かなりの覚悟が書き手には必要だし、いうまでもなく能力も求められる。

ほんとうに「聴いて解く」なのか、
読み手は「読んで解く」ことができるわけだ。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

ステレオサウンドの「第一世紀」の始まりとなった創刊号。
「第二世紀」の始まりとなった101号。

この二冊のステレオサウンドは、そこから始まる「次の世紀」の100冊を見据えての存在だったのか。

創刊号は、日本ではじめてのオーディオ専門誌としての登場ということもあって、
原田勲編集長の方針は、かなりはっきりしていたように感じる。

このことはステレオサウンド 50号の巻頭座談会で岡先生も述べられている。
     *
 いま創刊号を見直してみると、原田編集長は初めからかなりはっきりした方針をたてて、この雑誌を創刊されたように思います。それは、コンポーネント志向ということですね。もちろん創刊号では、当時の主力製品だった、いわゆるセパレートステレオみたいなものを、総括的に紹介するなど、かなり雑然としたところは見受けられるけれども、中心的な性格としてはコンポーネントを主力としている。こういう打ち出し方をした雑誌は、当時はほとんどなかったといってもいいわけで、だからほくはひじょうに新鮮な印象を受けたのです。
     *
101号はどうだろうか。
101号は24年前(1991年12月)に出ている。
特集はコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー(現在のステレオサウンド・グランプリの前身)とベストバイ。
残念だが、101号に「第二世紀」の始まりとなる内容は見受けられない。

ならば来年冬に出る201号も、101号同様でいいのではないか。
なぜ201号に、「第三世紀」の始まりにふさわしい内容を求めるのか。

101号のころはバブル期真っ只中だった。
インターネットも普及していなかった。
雑誌はそれまでの時代と違うモノへと変っていた時代でもある。
広告収入と本が売れることによる利益との差が拡大していった。

いまはどうだろう。
インターネットが驚くほどのスピードで普及していった。
10年前までは、インターネットは自宅か会社でパソコンの前に坐り利用するものだった。
それがいまではスマートフォンの登場で、いつでもどこでも快適に利用できる。

ウェブサイトの数も大きく増え、SNSの登場と普及、
それに雑誌の売行きの変化、書店数の減少、広告の減少(101号と最新号を比較してみれば一目瞭然だ)など、
雑誌の周囲は、「第一世紀」と「第二世紀」との違いとは比較ならないほど、
「第二世紀」と「第三世紀」と違ってきている。

だからこそ201号はステレオサウンド「第三世紀」の始まりであることを、
創刊号、101号よりももっともっと深く考えていかなければならない、と思うのだ。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

9月2日は、ステレオサウンド 196号の発売日である。
あと一年(四冊)で、ステレオサウンドは200号(50年)を迎える。

「暮しの手帖」は、初代編集長の花森安治氏の「100号ごとに初心に立ち返る」のもと、
発行号数は100号ごとに「第n世紀」と区分けされている。

つまり来年冬(201号)からステレオサウンドの「第三世紀」が始まる。

ステレオサウンド編集部は200号(50年記念号)の特集を、
すでに企画していることだろう。
それがどんな企画で、どういう構成でまとめられるのか楽しである(期待はしていない)。

だが大事なのは、その次の号(201号)ではないのか。
201号から「第三世紀」が始まるのだから、
そこから始まるステレオサウンドの100冊のための大事な出発点となる。

だが残念なことに冬号の企画はすでに決っている。
ステレオサウンド・グランプリとベストバイである。
このふたつだけで相当なページが割かれる。

「第三世紀」が始まる号で、いきなりステレオサウンド・グランプリとベストバイ……。
ステレオサウンド編集部が真剣に考え取り組まなければならないのは、ここではないだろうか。

今回はステレオサウンド編集部は、何が間違っているのかについて話したい。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 17th, 2015
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その2)

人脈とは、姻戚関係・出身地・学閥などを仲立ちとした,人々の社会的なつながり、辞書には書いてある。
とうぜんだが、その辞書には、人脈力は載っていない。

人脈に「力」をつけるわけだから、
人々の社会的なつながりのもつ力が、人脈力なのかというと、
ステレオサウンド 193号に登場した人脈力は、そうではなく、人脈をつくっていける力と読める。

人と人のつながりは大事だよ、と諭されれば、そのとおりだと私だって思う。
けれど人脈は大事だよ、といわれると、同じ意味でいわれたとしても、違和感をまったく感じないわけではない。

人脈力は大事だよ、といわれたら、そこにははっきりと気持悪さを感じる。
年老いた人が、人脈力は大事だよ、といったのであれば、
ああ、この人はそういう人生を送ってきたのか……、と思うぐらいだが、
同じ言葉を、私よりも若い世代の人がいうのであれば、受け取り方も違ってくる。

なぜ、こんなにも人脈力という言葉に反応しているのか。
いま、2020年東京オリンピックに関することが騒がれている。
毎日のように、新たなネタがインターネットで見つけ出され、画像の比較が行われている。

問題が発覚してから半月以上が経っても、まだまだ勢いはやむどころか、むしろ増しつつある。
最初のころ、擁護していた人たちがいた。
この人たちの書いたものを読んでいて感じたものも、人脈力を目にして感じたものと同種のものだった。

Date: 6月 4th, 2015
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド(195号)

ステレオサウンド 195号の第一特集は、「オーディオ評論家の音~評論家による評論家宅訪問〜」、
小野寺弘滋、三浦孝仁、柳沢功力、和田博巳の四氏がそれぞれのリスニングルームを訪問するという企画。
本来は傅信幸氏も参加予定だったけれど体調不良のため四氏になったそうだ。

まだ読んでおらずパラッと見ただけなので内容についてはふれない。
ただ、うまい企画だな、と思った。
いい企画だな、ではなく、あくまでも、うまい企画だな、と思った。

今回は小野寺氏のところに柳沢氏が、柳沢氏のところに三浦氏が……、といった具合である。
ということは、この企画には次があるということでもある。
次回は小野寺氏のところに柳沢氏以外の人(三浦氏か和田氏)が、
柳沢氏のところに和田氏か小野寺氏が訪問する──。

今回の企画が好評であれば、ほぼ間違いなく次回も予定されているだろう。
おそらく一年後の199号の特集は、「オーディオ評論家の音~評論家による評論家宅訪問~」第二回か。
今回と同じ四人のままでも三回目(203号)まで同じ企画のままいける。

次回では傅氏も参加ということになれば、あと四回はできる。
ステレオサウンドは年四回。
12月発売の号はステレオサウンド・グランプリとベストバイで固定されている。
残り三冊の企画を考えればいい。

今回の特集がしばらく続くのであれば……、
そう考えて、うまい企画だな、と思った次第。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・「含羞」)

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」というマンガがある。
1990年代に週刊誌モーニングに連載されていた。
曽根富美子氏が作者だった。

この「含羞」が読みたくてモーニングを購入していた、ともいえるし、
単行本になるのが待ち遠しかった。

タイトルからわかるように、中原中也、小林秀雄が、
この物語の中心人物であり、ここに長谷川泰子が加わる。

これは読み手の勝手な想像にすぎないのだが、
「含羞」を描いて、作者は燃え尽きた、というよりも、精根尽き果てたのではないか、
そんな感じを受けた。

これは文字だけでは表現できない世界であり、
同じ絵であっても、動く絵のアニメーションよりも動かぬ絵のマンガゆえの表現だとも思う。

ここで描かれているのは、少し事実とは違うところもある。
それをわかったうえで読んで、小林秀雄に対する印象が、私の場合、大きく変化した。
そうだ、このひとには「乱脈な放浪時代」があったことも思い出した。

「含羞」は残念なことに絶版のままである。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その4)

「音楽談義」をきいていると、どうしてもいろんなことを思い考えてしまう。

「人は大事なことから忘れてしまう。」

これは2002年7月4日、
菅野先生と川崎先生の対談の中での、川崎先生の発言である。

残念なことに、ほんとうに人は大事なことから忘れしまう。
最近のステレオサウンドを見ていても、そう思ってしまう。

そう書いている私だって大事なことから忘れてしまっているのかもしれない。
そう思うから、毎日ブログを書いているのかもしれない。
大事なことをわすれないために、である。

別項でも書いているのだが、
ステレオサウンドの現編集長は、創刊以来続く、とか、創刊以来変らぬ、がお好きなようである。

でも大事なことから忘れてしまっているからこそ、創刊以来変らぬ、といえるのだろう。
大事なことを忘れずにいようとしていたら、そんなことはとてもいえない。

「音楽談義」は、他のオーディオ雑誌に掲載されたわけではない。
ステレオサウンド 2号に載ったものだ。

「音楽談義」そのものも忘れてしまっているのだろうか。
そんなふうに思えてしまう。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その3)

「音楽談義」には小林秀雄氏と五味先生の「対談」(あえて対談としたい)だけでなく、
五曲のSP盤復刻による音楽もふくまれている。

R.シュトラウス指揮ベルリン・フィルハーモニーによるモーツァルトの交響曲第40番の第一楽章の一部、
エルマンによるフンメルのワルツ イ長調、
ハイフェッツ、チョツィノフによるサラサーテのチゴイネルワイゼン、
クライスラー、ブレッヒ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団とによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、
フーベルマンとシュルツェによるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ピアノ伴奏、第三楽章縮小版)、
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニーによるワーグナー「ジークフリートの葬送行進曲」、
これらが聴ける。

最初にかかるのはモーツァルトのト短調である。
「音楽談義」を最初に聴いた1987年では確信がもてなかったことがある。
あまり気にもしていなかったということもある。
けれど、ステレオサウンド 100号の特集「究極のオーディオを語る」、
ここで岡先生の文章を読んで、やっと気がついた。

《僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。》
小林秀雄氏の「モオツァルト」である。

このとき小林秀雄氏が聴いていたレコードが、
リヒャルト・シュトラウスがベルリン・フィルハーモニーを振ったものである。

岡先生は、なぜかという理由について、こう書かれている。
     *
「道頓堀を歩いていたら、突然『ト短調のシンフォニー』の終楽章の出だしのテーマが頭の中で鳴った……」という、あの有名な書出しで、彼の聴いたレコードはリヒャルト・シュトラウスがベルリンフィルを振ったものらしいことがわかる。なぜかといえば、昭和22年に入手出来たこの曲のレコードはシュトラウス盤とワルター盤で、ワルターとベルリンシュターツカペレによる日本コロムビア盤は出だしの1小節めで始まるヴァイオリンのテーマが全然聴こえない。2小節めから、まずチェロとコントラバスが2分音符を、1拍遅れて第2ヴァイオリンとヴィオラが3連4分音符を奏するが、2小節目後半でいきなりヴァイオリンが聴こえてくる。
 もし、小林がワルターの演奏で聴いていたら、『ト短調シンフォニー』終楽章の出だしのテーマの冒頭は聴くこともできなかったし、頭の中で鳴ることもなかっただろう。
     *
小林秀雄氏は「終楽章の出だしのテーマ」とは書かれていない。
「有名なテエマ」とだけあるが、新潮文庫の「モオツァルト・無情という事」を開けば、
終楽章であることがすぐにわかる。

小林秀雄氏の頭の中で鳴っていたのは、シュトラウスの演奏だったのか……、
とステレオサウンド 100号を気づかされた。

だからちょっと残念なのは、「音楽談義」では終楽章はおさめられていないことだ。

Date: 5月 7th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その2)

「音楽談義」は1967年春、鎌倉で行われた。
当時のことだからオープンリールのポータブルデッキでの録音だと思う。
当然モノーラルである。
それを編集してカセットテープ二巻におさめたのが「音楽談義」である。

そのことからわかるように、音は良くない。悪いといってもいい。
かなり聞き取りづらいところもある。
それでも聞いていると、話の面白さに引き込まれて、
まったく気にならないといえばウソになるけれど、がまんならないというほどではない。

この「音楽談義」から小林秀雄氏の発言だけを抜粋して、
「音楽談義」で語られているレコードを収録したものが、
いまも新潮社から発売されている「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」だ。

こちらはCD二枚組であり、収録されている音楽は「音楽談義」に収録されている数よりも多い。
けれどここでは小林秀雄氏の発言の抜粋であり、「音楽談義」そのものを聞くことができるわけではない。

このことを勘違いされていて、
「音楽談義」そのものが「小林秀雄講演【第六巻】」で聞けると思っている人がいる。

「音楽談義」には、ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」をおさめた冊子ついている。
その冒頭には、
このカセットブックの開設資料として、ステレオサウンド誌2号(昭和42年5月1日発行)に掲載されたものを、著作権者の許可を得て全文掲載いたします。
なお、両氏の加筆訂正を経て文字化された誌面と肉声のテープ内容とでは、表現等で多少の違いがありますことを予めお断りしておきます。
と書いてある。

小林秀雄氏は、話したものに対してかなり加筆訂正をされるときいている。
だからステレオサウンド 2号を読んでいるから「音楽談義」は聞く必要がないわけではないし、
「音楽談義」を聞いたからステレオサウンド 2号掲載の「音楽談義」を読まなくていいわけでもない。

ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」は、
新潮文庫「直観を磨くもの―小林秀雄対話集―」で全文が読める。