Archive for category ワーグナー

Date: 11月 23rd, 2016
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その22)

BBCモニターのLS3/5Aは好きなスピーカーである。
いまも好きなスピーカーといえる。

私にとってのLS3/5Aとは、ロジャース製の15ΩインピーダンスのLS3/5Aである。
そのLS3/5Aを初めて聴いた時から、
この音のまま、サイズが大きくなってくれたら……、
そんな無理なことを考えたし、LS3/5Aと共通する音色を聴かせてくれるスピーカーが登場すると、
これはLS3/5Aの延長線上にあるスピーカーかどうかを判断するようになっていた。

メリディアンのM20。
LS3/5Aと同じ口径のウーファーを上下二発配し、中間にトゥイーター。
ユニットのそのものはLS3/5Aのそれと近い。

M20はパワーアンプを内蔵していたアクティヴ型だった。
専用スタンド(脚)が最初からついていた。

M20をメリディアンのCDプレーヤーと接いで鳴ってきた音には、ころっとまいってしまった。
私には、LS3/5Aの延長線上にはっきりとあるスピーカーと感じた。

LS3/5Aよりも音量も出せるし、その分スケールもある。
反面、小さなスケールから感じる精度の高さはやや薄れたように感じても、
音色は共通するところがあり、この種の音色に当時の私は弱かった。

M20はずいぶん迷った。
買いたい、と本気で考えていた。
買っておけばよかったかな、と思ったこともある。

その後、数多くのスピーカーが登場し、そのすべてを聴いたわけではないが、
めぼしいモノは聴いてきた。
LS3/5A、M20、ふたつのスピーカーがつくる線上に位置するスピーカーは、
私にとってはひさしく登場しなかった。

同じLS3/5AとM20がつくる線上であっても、
人によって感じる良さは共通しながらも違ってくるだろうから、
あのスピーカーは延長線上にある、という人がいても、
私にとってはベーゼンドルファーのVC7まではなかった。

VC7を初めて聴いた時、LS3/5A、M20の延長線上にある。
しかもずいぶん時間がかかったおかげか、
LS3/5AとM20の距離よりもずっと離れた位置にVC7はいるように感じた。

Date: 4月 13th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その3)

ワグナーの楽劇にかぎってレコード演出ということをおもうのは、
カルショウによるショルティの「ニーベルングの指環」があるからのようにも思う。

カルショウが行ったのは、レコード演出のひとつと呼べるものであった。
それは当時として効果的であり、
また「ニーベルングの指環」全曲を初めて、
しかも音だけのレコードで聴く者にとってはきわめて有効であっても、
レコードはくり返し聴くわけであり、
その後も新しい「ニーベルングの指環」が登場してくるようになると、
時代の変化とともに、行き過ぎた行為とも受けとれる。

カルショウが行った是非よりも、
なぜカルショウは、ここまでレコード演出と呼べる手法を行ったのか。

「ニーベルングの指環」はワグナーの作品であり、ワグナーはドイツ人であり、
「ニーベルングの指環」はドイツのオペラであり、イタリアのオペラではない。

ステレオサウンド 47号の音楽のページに「イタリア音楽の魅力」という記事がある。
黒田恭一、坂清也、河合秀朋(キングレコード第二制作室プロデューサー)三氏の座談会だ。

ここではイタリア・オペラだけでなくカンツォーネについても語られている。
この記事のころは高校生だった。
何の根拠もなしに、イタリアよりもドイツが、その音楽においても上位にあるように思い込んでいた。

そんな時に「イタリア音楽の魅力」が読めたのはよかった、といまも思っている。
モノクロ7ページで、ここで使われている写真はレコード会社から提供されたものであり、
お金も取材の時間もかかっていない記事である。地味な記事ともいっていい。

そういう記事だが、これを読んでいなければイタリアオペラだけでなく、
イタリア音楽の魅力に気づくのがどれだけ遅くなっていただろうか。

Date: 3月 9th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その2)

オペラの実演には演出家がいる。

オペラは歌劇であり、ワグナーの作品は楽劇といわれるが、
ワグナーの作品もまたオペラである。

その意味では、ワグナーの楽劇をレコード(録音物)で聴くのと同じように、
ヴェルディやモーツァルト、その他の作曲家のオペラをレコードで聴くときにも、
レコード演出ということが気になってくるかというと、私の場合そうではない。

なぜワグナーの作品だけに、レコード演出ということが気になってくるのだろうか。

オペラにおける演出とは、視覚的なものである。
視覚的なものがなく、聴覚的な録音物でオペラを聴く際には、
そこには演出は無関係ということになる。

ライヴ録音を聴くのであれば、多少は演出による音への関係性があったとしても、
スタジオ録音であれば、演出は録音とは無関係になる。
スタジオ録音のオペラのレコードには、演出家は存在しない。

そういうレコードを聴いても、ワグナーであれば、レコード演出という要素が頭をかすめる。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その1)

「西方の音」を読んでいると、ワグナーのことが出てくる。
オーディオを介してワグナーを聴くことについて、いくつ書かれている。

「タンノイについて」では、次のように書かれている。
     *
 最近になって、ワグナーのステレオ盤が相ついで欧米でも発売されている。ステレオは、ワグナーとマーラーを聴きたくて誰かが発明したのではあるまいか? と思いたくなるくらい、この二大作曲家のLPはステレオになっていよいよ曲趣の全貌をあらわしてくれた。それでも、フルトヴェングラーとラインスドルフを聴き比べ(フルトヴェングラーのは米国では廃盤。ショルティやカラヤンのワルキューレ全曲盤は、この時はまだ出ていなかった)ステレオのもつ、音のひろがり、立体感が曲趣を倍加するおもしろみを尊重しても、なお私はフルトヴェングラーに軍配をあげる。音楽のスケールが違う。最もステレオ的な曲と思えるワグナーでさえ、最終的にその価値をとどめるのは指揮者の芸術性だ。曲の把握と解釈のいかんであって、これまた、当然すぎることだが、しばしばそれがレコードでやってくる場合、装置の鳴り方いかんが指揮者の芸術を変えてしまう。
     *
「ワグナー」では、こう書かれている。
     *
 ドイツ民族のサーガ神話は、楽劇のストーリーとして興味があるにすぎない私は聴衆だから、膨大な『ニーベルンゲンの指輪』の序夜に、ファーフナーなる巨人が登場したことなど、二日目の『ジークフリート』を聴く時には綺麗に忘れている。ジークフリートの剣に刺される大蛇が実はファーフナーだと、解説を読んでもぴんとこないくらいだ。神話に対しては、それほど私はずぼらな聴衆である。つまり真のワグネリアンでは断じてない。いつかはワグナーの楽劇の膨大さそれ自体にうんざりする日がくるかも分らない。
 が今はまだ、ワグナーの楽劇をその完璧なスケールの大きさで再生してくれる、わが家のステレオ装置をたのしむ意図からだけでも、繰り返し聴くだろう。ドイツ的なワグナーがテレフンケンではなくて英国のタンノイでよりよく鑑賞できるのは、おもえば皮肉だが、バーナード・ショーは死ぬまで、イギリスは自国のワグナー音楽祭を持つべきだと主張していたそうだ。前にも書いたことだが、タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。
     *
いうまでもなく《タンノイの folded horn》とは、五味先生のオートグラフのことである。
オートグラフでワグナーを聴いた経験は、私にはない。
けれど、五味先生がいわんとされることはわかる。

オートグラフの現代版といえるウェストミンスター。
構造的には同じといえる、このふたつのスピーカーシステムの違いは、
私にはオートグラフはベートーヴェンであり、ウェストミンスターはブラームスである、と以前書いた。

その意味でいえば、ワグナーを聴けるのはオートグラフともいえる。

このことはひどく主観的なことであり、賛同される人はいないであろうが、私にはいまもそう感じられる。
おそらく死ぬまで変らないのではないだろうか。

五味先生の書かれたものを読みすぎたせいかもしれない、と思いつつも、
ワグナーをオーディオで聴くという行為は、
他の作曲家の作品をオーディオで聴くという行為とは違う面があるように感じてしまう。

それはなんだろうか、と考えていた。
単なるワグナーへの思い入れ、思い込みからきているだけのものとは思えない。
だから考え続けていた。

答らしきものとして出てきたのは、演出である。
菅野先生はレコード演奏といわれた。

たしかにそのとおりである。
そこにワグナーの場合、レコード演出が加わってくるのではないだろうか。

Date: 11月 30th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その21)

ベーゼンドルファーのVC7については、「Bösendorfer VC7というスピーカー」という項を立てて書いているように、
このスピーカーシステムには出た時から注目していたし、いいスピーカーシステムだといまも思っている。

いまはベーゼンドルファーのVC7ではなく、Brodmann AcousticsのVC7になっている。
輸入元もノアからフューレンコーディネイトに変っている。

昨年のインターナショナルオーディオショウから、
フューレンコーディネイトのブースに展示されるようになった。
今年のショウでVC7の音が聴けるかな、と思い期待していたものの、
タイミングが悪かったのか、聴けずじまいだった。

ショウの初日と二日目に一度ずつフューレンコーディネイトのブースに入ったけれど、
どちらも鳴っていたのピエガのスピーカーシステムだった。
VC7は鳴らしていなかった、と思っていたら、ショウに行った知人の話では鳴らしていたそうである。
なのでBrodmann AcousticsのVC7になってからの音は、まだ聴いていない。

ベーゼンドルファー・ブランドのVC7に私が感じた、
このスピーカーシステムならではの良さは引き継がれているようである。
だから、ここでの組合せにはベーゼンドルファーのではなく、Brodmann AcousticsのVC7として書いていく。

Date: 9月 28th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その20)

カラヤンの「パルジファル」をそう受けとめるようになっているのだから、
それ以前とはスピーカーの選び方そのものが大きく変ってしまった。
以前だったら、もっと簡単にスピーカーを決めてしまっていただろう。

実を言うと、この項を書き始めた時、スピーカーシステムに何を選ぶかは決めていなかった。
なぜ、いまカラヤンの「パルジファル」をとりあげようと思ったのか、
そのこと自体を私自身が知りたかったから、書き始めた。

これだ、と思えるスピーカーシステムが思い浮ばなかったら……、と思わないわけではなかった。
しかも過去のスピーカーシステムではなく、いまのスピーカーシステムから選びたかった。

クナッパーツブッシュの「パルジファル」のためにはシーメンスのオイロダインがすぐに思い浮んだ。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」は私が生れる前の演奏である。
私が「パルジファル」を知った時、クナッパーツブッシュはすでに亡くなっていた。

カラヤンの「パルジファル」はそこが私にとって違うところだ。
カラヤンは、まだ生きていた。
「パルジファル」は私がまだハタチになる前、青臭い少年だったときに出ている。

それだけでもクナッパーツブッシュの「パルジファル」とカラヤンの「パルジファル」は、
私にとっての意味合いが違ってくる。

これはだめだ、というスピーカーシステムは次々に浮んでいった。
それらのスピーカーシステムについて書いてもつまらない。

これだ、と思えるスピーカーシステムは、ほんとうにあるのだろうか……、
ほんとうに思い浮んでくるスピーカーシステムはあるのか……、
そんなふうにならなかったら、現行製品をひとつひとつ消去法で消していくしかないのか、
それで残ったスピーカーシステムは、カラヤンの「パルジファル」を聴くのにふさわしいといえるのだろうか。

いまは思い浮ばないだけで、きっとあるはず。そのおもいもあった。
ひとつあったことに、やっと気づいた。

ベーゼンドルファーから出ていたVC7である。

Date: 9月 25th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その19)

「70歳になったらパルジファルを録音したい」であっても、録音のためには演奏するのだから、
「70歳になったらパルジファルを録音したい」も「70歳になったらパルジファルを演奏したい」も、
同じではないか、と考えることはできないわけでもない。

けれど、録音は残る。
10年、20年、さらには50年……、と残っていく。

その録音が世に登場したときは、最新録音であり、優秀録音だったのが、
古い録音といわれるようになったとしても、一度録音されたものは残っていく。

カラヤンが「70歳になったらパルジファルを録音したい」と常々口にしていたのは、
「パルジファル」をのこしたかったからなのだ、と思う。

だからカラヤンがいつのころから「70歳になったらパルジファルを録音したい」というようになったのかを知りたい。

同じ、このテーマで30のころ書いていたとしたら、違う書き方をしたように思う。
「70歳になったらパルジファルを録音したい」についてもとりあげなかったかもしれない。

でも、もう30歳ではない。
30歳ではないから、カラヤンの「パルジファル」について書いているようなところがある。

カラヤンは「パルジファル」を遺したかった。
30の時にはそう思えなかっただろうし、仮に思ったとしても、そのことの意味は20年前といまとでは違う。

「パルジファル」はカラヤンの遺言かもしれない。

Date: 9月 25th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その18)

カラヤンの「パルジファル」は、1979、1980年の録音。
カラヤンは1908年4月5日生れだから、70をこえてからの録音ということになる。

カラヤンは「70歳になったらパルジファルを」と常々口にしていたということは、以前何かで読んでいるし、
HMVのカラヤンの「パルジファル」の紹介ページに書いてある。

「70歳になったらパルジファルを」だが、出典は知らない。
正しくどう言っていたのかまではわからない。

「70歳になったらパルジファルを」の後に続くのは、「録音したい」なのだと思う。
どこかのオペラ劇場で演奏したい、ではなかった、と思う。

私は、だからカラヤンは「70歳になったらパルジファルを録音したい」と常々口にしていたのだと思っている。

Date: 4月 7th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その17)

この項の(その15)で引用した黒田先生の文章。
そこにある「そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりない色調の変化」、
これこそワーグナーの音楽(ここでは「パルジファル」の前奏曲)が、重層的であることをあらわしているし、
重層的であるからこそ、それぞれの層(レイヤー)がそれぞれに変化していくことで、
全体の「微妙きわまりない色調の変化」へとなっていく──、
そう読みとることができる。

カラヤンの「パルジファル」を聴いた後では、
「ニーベルングの指環」を録音したときに、「パルジファル」と同じレベルの録音が可能であったならば、
カラヤンはもう少し編成を大きくしての「ニーベルングの指環」を録音したのではないだろうか、
とさえおもえてくる。

カラヤンが「ニーベルングの指環」を録音した時代は、あれが限界だった。
重層的なワーグナーを表現しようとした場合、どうしても編成を小さくせざるを得なかった面がないわけではない。

録音技術、テクニックの進歩がカラヤンの「パルジファル」を生んだ。
だからこそ「パルジファル」を聴けば、
カラヤンが録音したかったであろう(あの時代では適わなかった)「ニーベルングの指環」の輪郭が、
聴き手の中に朧げながらではあっても浮んでくるような感じすら受ける。

ここまで書いてきて、やっと本題にはいれる。
カラヤンの「パルジファル」に焦点をしぼった組合せについて書いていける。

Date: 4月 7th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その16)

中学生だったころ、まだクナッパーツブッシュの「パルジファル」も、
その存在を知ってはいても聴いていなかったころ、
ワーグナーのレコードは一枚も持っていなかったころ、
断片的に耳にしたことのあるワーグナーの旋律──、
そんな未熟としかいいようのないワーグナーの音楽の聴き手(聴き手ともいえない)は、
活字によってワーグナーの音楽のイメージをかたちづくっていた。

勝手にワーグナーの音楽は重厚なのだ、と。
そんな思い込みはワーグナーの音楽は重厚でなければならないにつながっていく。

耳はそんなイメージの影響をたやすく受ける。
そんな耳の持主のワーグナーの音楽の聴き手には、
カラヤンの「ニーベルングの指環」は重厚には聴こえない。

聴こえないけれど、聴きつづけていくことで、
ワーグナーの音楽は重層的なことに気づかせてくれる。

重層的だからこそ重厚である、といえよう。

私に、そのことを音で気づかせてくれたのはカラヤンの指揮によるワーグナーだった。
このことに気づいて、ステレオサウンド 59号の黒田先生の文章を読み返してみると、
カラヤンの「パルジファル」を聴かずに過ぎていくわけにはいかなくなる。

Date: 2月 10th, 2014
Cate: ワーグナー

ワーグナーはなぜ長いのか

ワーグナーの作品は、ほとんどが長い。
これらの作品の時代にあっても、おそらく長いと思われていたことだろう。

感覚的な長さよりも、物理的に長い。
ワーグナーの作品を通しで聴くには、
しかも誰にも何ものにも邪魔されずに一気に聴き通すには、
いまではそれなりの準備が必要となる。

「ニーベルングの指環」を四夜にわたって連続して聴こうとしたら、
それなりの準備がかなりの準備になってしまう。

なぜワーグナーはこれほど長いのか。

ワーグナーの作品が大きいから、というしかない。
その大きさについて考える時、空間と時間は結局のところ同じなのではないかと感じる。
だからワーグナーには、ワーグナーの大きさに見合った時間を必要とする。

ワーグナーを聴くということは、
この大きさと対決することであり、
ワーグナーをオーディオを介して聴くということは、
その大きさを感覚的に再現できなければ意味がない。
再現できなければ対決のしようがないからだ。

Date: 1月 6th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その15)

私にとってカラヤンの「パルジファル」は、
ステレオサウンド 59号に載った黒田先生の文章と結びつく。

59号が出たのは1981年。もう30年も経つのに、
私にとっては、カラヤンの「パルジファル」についておもうとき、この文章が思い浮ぶ。

少し長くなるが、「パルジファル」に関するところ書き写しておこう。
     *
 きっとおぼえていてくれていると思いますが、あの日、ぼくは、「パルシファル」の新しいレコードを、かけさせてもらいました。カラヤンの指揮したレコードです。かけさせてもらったのは、ディジタル録音のドイツ・グラモフォン盤でしたが、あのレコードに、ぼくは、このところしばらく、こだわりつづけていました。あのレコードできける演奏は、最近のカラヤンのレコードできける演奏の中でも、とびぬけてすばらしいものだと思います。一九〇八年生れのカラヤンがいまになってやっと可能な演奏ということもできるでしょうが、ともかく演奏録音の両面でとびぬけたレコードだと思います。
 つまり、そのレコードにすくなからぬこだわりを感じていたものですから、いわゆる一種のテストレコードとして、あのときにかけさせてもらったというわけです。そのほかにもいくつかのレコードをかけさせてもらいましたが、実はほかのレコードはどうでもよかった。なにぶんにも、カートリッジからスピーカーまでのラインで、そのときちがっていたのは、コントロールアンプだけでしたから、「パルシファル」のきこえ方のちがいで、あれはああであろう、これはこうであろうと、ほかのレコードに対しても一応の推測が可能で、その確認をしただけでしたから。はたせるかな、ほかのレコードでも考えた通りの音でした。
 そして、肝腎の「パルシファル」ですが、きかせていただいたのは、前奏曲の部分でした。「パルシファル」の前奏曲というのは、なんともはやすばらしい音楽で、静けさそのものが音楽になったとでもいうより表現のしようのない音楽です。
 かつてぼくは、ノイシュヴァンシュタインという城をみるために、フュッセンという小さな村に泊ったことがあります。朝、目をさましてみたら、丘の中腹にあった宿の庭から雲海がひろがっていて、雲海のむこうにノイシュヴァンシュタインの城がみえました。まことに感動的なながめでしたが、「パルシファル」の前奏曲をきくと、いつでも、そのときみた雲海を思いだします。太陽が昇るにしたがって、雲海は、微妙に色調を変化させました。むろん、ノイシュヴァンシュタインの城を建てたのがワーグナーとゆかりのあるあのバイエルンの狂王であったということもイメージとしてつながっているのでしょうが、「パルシファル」の前奏曲には、そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりない色調の変化があります。
 カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニーを指揮して、そういうところを、みごとにあきらかにしています。こだわったのは、そこです。ほんのちょっとでもぎすぎすしたら、せっかくのカラヤンのとびきりの演奏を充分にあじわえないことになる。そして、いまつかっているコントロールアンプできいているかぎり、どうしても、こうではなくと思ってしまうわけです。こうではなくと思うのは、音楽にこだわり、音にこだわるかぎり、不幸なことです。
      *
黒田先生は”Parsifal”をパルシファルと書かれる。
パルジファルなのかパルシファルなのか。ここではパルジファルにしておく。

私は、この59号の文章を読んで、
黒田先生は、いわばカラヤンの「パルジファル」に挑発されたのかもしれない、と思った。
だからコントロールアンプを、それまでのソニーのTA-E88からマークレビンソンのML7にされたのだ、と。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その14)

カラヤンの「ニーベルングの指環」。

私はCDになってからはじめて聴いた。
カラヤンのワーグナーということで、ネガティヴな先入観がないわけではなかった。
けれどいざ聴いてみると、そこで聴けるワーグナーは、
それまで他の指揮者が前面に打ち出していたようにも感じていた壮大な印象が、
カラヤンにおいては奥にさがり、どちらかといえば室内楽的な感じすら受けた。

抒情的なワーグナーとは、こういう演奏のことをいうのだろうか。
そうも思いもした。

悪くない、とおもって聴きつづけていく。
悪くないどころか、いいと感じはじめているのに気づく。

カラヤンの「ニーベルングの指環」を、
いわゆるワーグナーらしくない、といって切り捨てることはできなくもない。

だがワーグナーらしくない、というのは、
それまで聴いてきたレコードによって、その人の中に形成されたものでもある。
そういうワーグナーと違うから、いいレコード(演奏)とはいえないわけではない。

カラヤンのワーグナーには、カラヤンならではの美しいワーグナーがあるのではないか。
このことがあったから、「パルジファル」をカラヤン盤で聴きたくなったのだ。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その13)

「五味オーディオ教室」から始まり、
五味先生の音楽、オーディオに関する著書はくり返し読んできた私は、
いまでもアンチ・カラヤンというところから脱し切れていないところがある。

アンチ・カラヤンといっても、カラヤンのすべてが嫌い、
なにもかも気にくわない、というわけではない。
カラヤンの私生活のことなどどうでもいいことであって、
どれだけいいレコードを残してくれているかだけが、重要である。

それにアンチ・カラヤンが、
学生のころ苦労して金の工面をつけて、ベルリン・フィルハーモニーとの公演に行ったりはしないだろう。
アンネ=ゾフィ・ムターをともなっての来日だった。

その後も、最後の来日公演となった1988年のコンサートにも、
チケットをなんとか都合してもらい行っている。

五味先生の書かれているように、
モノーラル時代のカラヤンの録音はいいものが多い。
いまでも輝きを失っていない演奏が、モーツァルトの「フィガロの結婚」「魔笛」から聴くことができる。
他にも、いまでも愛聴盤として聴いている、この時代のカラヤンの録音はある。

まめにカラヤンのすべての時代の録音を聴いてきたわけではない。
あまり聴かない時代のレコードもある。
その時代の録音でも、リヒャルト・シュトラウスの演奏(録音)を聴けば、唸ってしまう。

カラヤンの残したすべての録音を聴いてみたい、とは思っていない。
それでもカラヤンの残したものには、
(その必要はないのだけれど)声をひそめて、いいものはいい、といえるものがいくつもある。

私にとってカラヤンのワーグナーは、まさにそうである。
カラヤンのワーグナーはいい。

Date: 1月 3rd, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その12)

何回目に聴いたときだったのかは、もう憶えていない。
クナッパーツブッシュのバイロイト盤でだけ「パルジファル」を聴いていた時期、
マーラーの第二交響曲の第二楽章の美しい旋律に、ある日ふと胸打たれたように、
「パルジファル」に美しい旋律がある、ということよりも、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づいた。

気づいた、というよりも、そう感じるようになった。
それまでは宗教的な気配に意識がどうしても行きがちだった。
だからこそクナッパーツブッシュのバイロイト盤は、
シーメンスのオイロダインで聴きたい、と強くおもってしまう。

クナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴いていたから、
「パルジファル」そのものが美しい、ということに気づくのに時間がかかったのか、
それともクナッパーツブッシュのバイロイト盤でのみ聴きつづけてきたから、そう感じられるようになったのか、
正直どちらでもいい。

とにかく気づくことができた。

「パルジファル」はワーグナーの作品中、もっとも美しいのかもしれない。
そうおもうよになって、カラヤンの「パルジファル」を聴きたい、と思った。
聴かなければならない、と思うようになっていった。