粉飾した心とデザイン
粉飾した心のみが粉飾に動かされる──、
とは小林秀雄が「様々な意匠」のなかで語っていたことと記憶している。
《粉飾した心のみが粉飾に動かされる》は、
オーディオのデザインだけに限っても、そのままあてはまる。
粉飾した心には、デザインはまったく響かないのかもしれない。
粉飾した心を動かすものをも、いまではデザインとひと括りにしているのではいのか。
粉飾した心のみが粉飾に動かされる──、
とは小林秀雄が「様々な意匠」のなかで語っていたことと記憶している。
《粉飾した心のみが粉飾に動かされる》は、
オーディオのデザインだけに限っても、そのままあてはまる。
粉飾した心には、デザインはまったく響かないのかもしれない。
粉飾した心を動かすものをも、いまではデザインとひと括りにしているのではいのか。
とあるオーディオ店で、アキュフェーズのE800が使われていた。
E800もプリメインアンプとしては相当に高価なモデルなのだが、
E800が鳴らしていたスピーカーシステムは、さらに高価な、
相対的にはE800が普及クラスのプリメインアンプとなるほどのモデルだった。
このスピーカーシステムは、数箇所で、数回聴いている。
最初に聴いたのは数年前だった。
感心したことはなかった。
なのにE800での音は、好ましい鳴り方をしていた。
E800だけが、そのシステムのなかではいちばん安くて、
他は相当に高価なモデルばかりである。
これらのモデルを揃えることのできる経済的余裕のある人でも、
今回私が聴いた組合せはやらないだろう。
それでもE800は、よかった。
インターナショナルオーディオショウでも、わずかな時間ではあったが聴いている。
その時は、なかなか良さそうだな、という感触だけだったが、
今回聴いて、驚きも感じていた。
もっときちんとした状態で聴ければ、もっと好印象を抱くであろう。
だからこそ、E800のずんぐりむっくりしたプロポーションがよけいに気になってくる。
音さえ良ければ……、そう思える人はいいが、
私は、これだけの音を出せるアンプなのに……、と思ってしまう。
E800のプリメインアンプとして大きすぎるサイズにあれこれ書いているのではない。
あくまでの、あのずんぐりむっくりしたプロポーションについてだ。
もちろんそこにはサイズとの関係も含めて、ではあるが。
アキュフェーズのC240のデザインは、
JBLのSG520のデザインの、瀬川先生による翻訳なのかもしれない。
コントロールアンプのデザインの象徴の一つとして、
真空管アンプのマランツのModel 7があり、
トランジスターアンプのJBLのSG520がある。
Model 7は、あらゆる模倣デザインが生れてきた。
マランツのトランジスターアンプがまずそうだし、
ラックスのアンプも、その代表的例である。
けれどSG520は、というと、すぐに浮んでくるモデルはない。
SG520がそうであるように、あのデザインを模倣するということは、
内部構造も同じようになり、メインテナンスが困難になるということも、
模倣デザインが続いてこなかった理由として考えられる。
それにModel 7は基本的に左右シンメトリーの配置であるのに対し、
SG520はまったくそうではないことも、模倣デザインが生れてこなかった理由だろう。
そこにあえて挑戦されたのではないのか。
SG520が誕生したころから部品の進歩は続いている。
リレーを多用すれば、SG520と同じデザインであっても、
内部配線はずいぶんすっきりしてくるはずだ。
C240は1979年ごろに登場している。
SG520とは十年以上の開きがある。
SG520ではできなかったことも可能になる。
その意味での、瀬川先生の挑戦でもあった、と考えられる。
挑戦するには、SG520をまず理解しなければならない。
その理解に必要なのが、翻訳という作業だと考える。
SG520の、瀬川先生による翻訳と挑戦。
その結果が、C240である。
1963年生れの私にとって、
想像上のヒーローといえばウルトラマンと仮面ライダーが真っ先に浮ぶ。
しかも、この二つは、続編が昭和から平成、そして令和になってもつくられ続けている。
そして、初代にあったデザインが、次第にデコレーションへと変っていった、という点でも共通している。
(その2)で書いたように、ウルトラマン・シリーズにおいて、
ウルトラマン、ウルトラセブンまでがデザインの時代であり、
帰ってきたウルトラマンから、
特に四シリーズ目のウルトラマンAからは、はっきりとデコレーションの時代になってしまった。
ウルトラマンAは1972年4月から放送が始まった。
私は9歳。
デザイン、デコレーション──、
そんなことは知らずに見ていたわけだが、
それでもウルトラマンAからは、ゴテゴテしている、という感じを強く受けていて、
ウルトラマン、ウルトラセブンに感じたかっこよさは感じていなかった。
大人になり、ウルトラマンのことに再び興味をもって、
ウルトラマンとウルトラセブンが成田亨氏のデザインだということを知る。
そうか、そうか、やっぱりそうなんだ、とひとりごちた。
そして、成田亨氏のデザインがそのまま、
テレビ放送でのウルトラマン、ウルトラセブンの着ぐるみになったわけでないことも知る。
着ぐるみである以上、着脱に必要なファスナーの存在が、
ウルトラマンの背中に背びれとなってしまう。
それから役者が中に入るわけだから、目の部分にのぞき穴も必要となる。
これらは成田亨氏のデザインになかった要素であり、仕方なく生じたものである。
そしてウルトラマンといえばカラータイマーなのだが、
これも成田亨氏のデザインにはないことを、大人になって知った。
トリオのL07Cのことでは、瀬川先生の存在があった。
トリオの重役から、《殴りたいほど口惜しいよ》といわれるほどに書かれていた。
瀬川先生があれだけ書かなければ、L07CIIはL07Cと同じデザインだったであろう。
アキュフェーズのE800はどうか。
瀬川先生はいない。菅野先生もそうだ。
オーディオ評論家の誰も、E800のプロポーションのひどさについて書かないであろう。
ラックスのアンプのプロポーションに関しても、
それを擁護するようなことを書く人はいたが、プロポーションについて批判的なことを書く人は、
私が知る限り、誰もいなかった。
エソテリックのデザインに関しても、そうである。
むしろ褒める人がいる。
E800は12月発売のステレオサウンドに登場することはまちがいない。
ベストバイに選ばれるはずだし、ステレオサウンドグランプリでもそうであろう。
そこでE800のずんぐりむっくりのプロポーションについて触れる人はいるのか。
やんわりとでもいい、苦言を呈す人はいるだろうか。
後二週間ほどで、それははっきりする。
メーカーにとって、輸入元にとって、都合の悪いことは黙っておく方が、
オーディオ評論家(商売屋)にとっては都合がいい。
でも、それでいい、と本音で思っているのか、と問い質したい。
一人でも多くquality customerを増やしていくことを、
オーディオ評論家の役目だとは思っていないのか。
quality customerがいなくなることはない。
すでにE800のプロポーションのひどさにがっかりしている人たちはいる。
それでもquality customerではない人たちが増えてくれば、
メーカーはどうなっていくであろうか。
別項「オーディオがオーディオでなくなるとき(その9)」で書いたことを、くり返す。
マッキントッシュのゴードン・ガウの言葉だったと記憶している。
「quality product, quality sales and quality customer」だと。
どれかひとつ欠けても、オーディオの世界はダメになってしまう、と。
quality product(クォリティ・プロダクト)はオーディオメーカー、
quality sales(クォリティ・セールス)はオーディオ店、
quality customer(クォリティ・カスタマー)はオーディオマニア、
そういうことになる。
ステレオサウンドのウェブサイトの記事にある人、
大阪ハイエンドショウでE800の音を聴いて予約した人は、quality customerといえるのか。
アキュフェーズにとっては、すぐさま予約してくれる人、
しかもE800はプリメインアンプとしては高級品であるから、
そういう人は、いいお客さんであるはずだ。
いいお客さんが、quality customerかといえるかといえば、微妙でもある。
E800の音はいいのだろう。
インターナショナルオーディオショウで、
E800がファインオーディオのF1-12を鳴らしている音は聴いている。
短い時間だったが、まともな音で鳴っていた。
アクシスのブースでFMアコースティックスで鳴らした音を聴いた直後だっただけに、
印象にあまり残っていないということはあるが、
アキュフェーズらしい音であったし、きちんとした条件で聴いたら、
かなりいい評価をする可能性もある。
音はいいはずである。
少なくとも悪くはないはずだ。
だからしつこいぐらいに E800のプロポーションについて書いている。
音がよければ、それで満足するのか。
すぐさま予約することは、メーカーにとって、ほんとうにいいことなのか。
E800が売れた、としよう。
かなりのヒット作になれば、
アキュフェーズは、これからのアンプのデザインをどう考えていくのか。
quality productは、音さえ良ければ、優れていれば、それでいいのか。
オーディオ協会のfacebookが、
ステレオサウンドのインターナショナルオーディオショウの記事へリンクしている。
アキュフェーズの記事があるのを、それで知った。
《先般の大阪ハイエンドショウでも、E-800の音を聴いてすぐに予約をしたという方もいたそうだ》
とあった。
予約された人は、E800のずんぐりむっくりのプロポーションが気にならないのだろう。
それはそれでいい。
すべてのオーディオマニアが、私と同じように感じているわけでないことぐらい知っている。
またトリオのL07Cのことを持ち出すが、
L07CIIが出た、ということは、L07Cは売れていた、ということでもある。
瀬川先生はL07Cの音は認めても、デザインは酷評だった。
それでも抵抗なく使っている人はいたわけだ。
ステレオサウンド 49号で
《そのために私個人も多くの愛好家に奨めたくらいだが、ユーザーの答えは、いくら音が良くてもあの顔じゃねえ……ときまっていた》
と瀬川先生は書かれている。
瀬川先生の周りでは、L07Cのデザイン(顔)を認めていない人が少なからずいた。
結局、気にする人とまったく気にしない人がいる。
そのことは昔からそうだった。
けれど、そうだった……、ということで、これからも変らずでいいとは思っていない。
瀬川先生のステレオサウンド 49号の文章には、L07Cのデザインを批判したことに対して、
トリオのある重役から
《デザインのことをああもくそみそに露骨に書かれては、あなたを殴りたいほど口惜しいよ。それほどあのデザインはひどいか、と問いつめられた》
とある。
これは大事なことというか、絶対に見逃せないことである。
問いつめてきたトリオの重役は、L07Cのデザインをひどいとは思っていないことがうかがえる。
L07Cを商品として世に送り出した、ということは、
この重役だけでなく、開発、デザインに携わった人たちだけでなく、
おそらく営業や広報の人たちも、
少なくともL07Cのデザインをひどい、とは思っていないのではないか。
ひどい、と思う人がいたならば、もう少しまともなデザインでL07Cは商品化されたはずだ。
今度のアキュフェーズのE800にしても、同じなのかもしれない。
アキュフェーズだけではなく、一時期のラックスもそうだったのかもしれない。
あのずんぐりむっくりしたアンプのプロポーションを続けていたのだから。
一人でやっている小さなオーディオメーカーだったら、こういうことはありうる。
すべてを一人でやっているわけだから、
そこで独りよがりな面が強く製品に顕れてしまうことはあっても不思議ではない。
でもアキュフェーズもラックスもエソテリックもトリオも、そういう会社ではない。
なのに、ひどいデザインのモノを世に送り出すのは、
つまりは、誰一人として、ひどいデザインだ、とは感じていないからなのだろう。
一人くらいはいたのかもしれない。
でも、その一人が声をあげられない雰囲気、
あげたとしても、誰もふり返られないのであれば同じことだ。
ステレオサウンド 43号に、これが載っていた。
*
はじめて見たとき、この外観は試作品かと思ったほどで、デザインに関しては評価以前の論外といいたいが、その内容と音質は本格的な高級プリアンプで、ことに鳴らし込むにつれて音のデリカシーにいっそうの艶を加えながらダイナミックにステレオのプレゼンスを展開する音質の良さは特筆ものだ。それだけに、このデザインは一日も早く何とかしてもらいたい。いくら音が抜群でも、この形では目の前に置くだけで不愉快だ。
*
トリオのコントロールアンプL07Cについての瀬川先生の文章である。
この文章からは、瀬川先生の怒りが感じとれた。
でも、当時中学三年だった私は、瀬川先生の怒りを、完全に理解していたわけでもなかった。
確かにL07Cのデザインは、お世辞にも優れているとは思えなかった。
それでも、ここまでの怒りの理由が、どうしても理解できなかった。
わかろうとはした。
49号でも、L07CIIのところで、こう書かれていた。
*
しかし07シリーズは、音質ばかりでなくデザイン、ことにコントロールアンプのそれが、どうにも野暮で薄汚かった。音質ばかりでなく、と書いたがその音質の方は、デザインにくらべてはるかに良かったし、そのために私個人も多くの愛好家に奨めたくらいだが、ユーザーの答えは、いくら音が良くてもあの顔じゃねえ……ときまっていた。そのことを本誌にも書いたのがトリオのある重役の目にとまって、音質について褒めてくれたのは嬉しいが、デザインのことをああもくそみそに露骨に書かれては、あなたを殴りたいほど口惜しいよ。それほどあのデザインはひどいか、と問いつめられた。私は、ひどいと思う、と答えた。
*
《デザインに関しては評価以前の論外》、
《この形では目の前に置くだけで不愉快だ》、
《どうにも野暮で薄汚かった》、
L07Cのデザインを知らない人が読んだら、どれだけひどいデザインを想像するだろうか。
実を言うと、ごく短いあいだだったがL07Cを持っていたことがある。
友人が秋葉原のジャンクパーツ店で、数千円を売られていたのを買ってきて、
使わないからあげるよ、といってくれたモノだった。
L07Cが出て十年以上経っていた。
それでも瀬川先生の怒りの半分程度しか理解できていなかった、といまではいえる。
オーディオを特集としたSWITCH 12月号が、いま書店に並んでいる。
「アキュフェーズのデザイン そのプロダクトデザインは誰のため? オーディオにおけるスタンダートなデザインとは」という記事が載っている。
このタイトルを、そのままアキュフェーズのデザイン陣に投げ返したい。
《そのプロダクトデザインは誰のため?》、
誰のためと考えているのか、思っているのか。
《オーディオにおけるスタンダードなデザインとは》、
デザインとはプロポーションは関係なくなってくるのか。
アキュフェーズだけでなく、この記事にもいいたいことはまだまだある。
SWITCH 12月号を買わなかったのは、「アキュフェーズのデザイン」が提灯記事と思えたからだ。
E800の写真を見た時から、
二十年ほど前のBOSEのPLSシリーズのプロポーションに近い、と感じていた。
PLSシリーズはCDプレーヤー搭載のアンプで、ツマミ配置もアキュフェーズのアンプに近い。
ただしPLSシリーズは、BOSEの家庭用アンプらしい小型であったからこそ、
あのプロポーションがいい感じでまとまっている。
その点がE800はまるで違う。
E800は大型のプリメインアンプであるからこそ、
ずんぐりむっくりの、その筐体に愛矯は存在しない。
ただただずんぐりむっくりでしかない。
これで音が悪かったら、木偶の坊でしかない。
もう二十年以上、アキュフェーズのデザインを素晴らしいとは感じていなかった。
それでもアキュフェーズのデザインは、節度といえるようなところが、まだあった。
なので、特にアキュフェーズのデザインについては触れてこなかった。
アキュフェーズのプリメインアンプの新製品E800。
写真を見て、アキュフェーズもか、と思ってしまった。
それでも何かいうのは、
一応インターナショナルオーディオショウで実物を見てからにしよう、と決めていた。
見てきた。
プリメインアンプとしてやりたいこと、できることをやった結果としての、あのサイズ。
それは理解できないわけではないが、
それにしてもプロポーションはひどすぎる。
以前ラックスのアンプのプロポーションがずんぐりむっくりしたことに対し、
否定的なことを書いた。
ラックスのプロポーションについて触れて、
アキュフェーズのE800のプロポーションに触れないわけにはいかない。
ずんぐりむっくり度は、E800が上をいく。
E800のサイズならば、いっそのことセパレート化したほうがいいのではないか。
そういう意見はありそうだし、アキュフェーズもそのことはわかっていると思う。
それでもプリメインアンプのいいモノが欲しい、という人たちがいる。
セパレートアンプの方が音のいいのはわかっているが、
そこまで大袈裟なシステムにしたくない、プリメインアンプという形態が望ましい、
そういう人の要望に応えてE800であるはずだし、
技術者として、そしてアンプ専門メーカーとしても、
プリメインアンプの最高といえるモノを送り出したい、という意気込みもあったのだと思っている。
にしてもプロポーションがひどすぎる。
サイズがある程度大きくなるのは仕方ないとしても、
なぜ、あのプロポーションのまま製品化してしまったのか。
しかもずんぐりむっくりを恥とは思っていない、
そんなふうにも見えてしまう。
五年前の別項で、
ステレオサウンドは、オーディオのデザイン論をやってこなかった、と書いた。
これは私自身の反省もある。
私がいたときもやってこなかった。
企画をたてたところで、当時の私にどれだけの内容の記事がつくれたのか。
それでもやっておくべきだった、と後悔している。
やらずにすませてきた。
それから五年経った。
やはりステレオサウンドは、オーディオのデザイン論はやっていない。
おそらく、これから先もまったく期待できないはずだ。
オーディオのデザイン論、
そういう記事がどれだけ必要なのか、と疑問に思われるかもしれない。
ステレオサウンドがやってこなかったから、
エソテリックの、ああいうデザインが登場してくるし、
今回のタイムロード/ArchitecturaのAlinaのデザインが、
平気な顔して登場してくる──、そう思ってしまう。
ジョーダン・ワッツのflagonへのオマージュとリスペクト、
デザインや機能に意味合いを持った製品開発、
そういったことを謳いながらの、このかたちなのか。
特に青色のAlinaは、Flagonというよりドラゴンクエストのスライムである。
こんなことを記事になかったなら、
変な形のスピーカーが登場したな、とは思いつつも、ここで書くことはしなかった。
けれど違う。
それで書いている。
どうして、こんなデザイン(デザインとは呼べない)モノが、
日本のオーディオ製品として、ここに来てさらに目立つようになったのか。
続けてエソテリックについて書くつもりでいたが、
数日前に、首を傾げたくなるスピーカーシステムが登場したので、
まずこのことについて書きたい。
もうこれだけで、どのスピーカーのことなのか、わかった方はけっこう多いと思う。
タイムロードのオリジナルブランド、
Architectura(アーキテクチューラ)のスピーカー、Alina(アリーナ)だ。
Phile webの記事で知った。
記事には、《「デザインや機能に意味合いを持った製品」の開発をコンセプトに掲げる》とある。
古いオーディオマニアならば、このAlinaを見て、
ジョーダン・ワッツのFlagon(フラゴン)を思い出す。
記事にも、
《JORDAN WATTSの壺型陶器製スピーカー「FLAGON」の存在が大きいと説明。これを現代の技術で作ったらどうなるのかと考え、オマージュとリスペクトとして日本の伝統というオリジナル要素を加えて開発したとのことだ》
とある。
Flagonの存在を知ったのは、
1976年12月に出たステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
岡先生が、FlagonとQUADの33と303、FM3、それにデュアルの1228という組合せをつくられていた。
当時Flagonは、49,500円(一本)していた。
けっして安いスピーカーではなかった。
搭載ユニットはジョーダン・ワッツ独自の10cm口径フルレンジのModule Unit。
エンクロージュアは陶器製で、どこか東洋的な花瓶のようなスタイルをもつ。
こんな変ったスピーカーがあるのか、と思うだけでなく、
いつかお金に余裕ができたら、欲しいと思ったスピーカーでもある。
エンクロージュアが焼き物だったため、生産性が悪く、
1980年代には金属製に変更されたが、ロングセラーのスピーカーシステムである。
Alinaは、そのFlagonへのオマージュとリスペクトなのだそうだ。
9月12日から二ヵ月。
あの日感じたことで、ひとつ書かなかったことがある。
大きく的外れな解釈のように思えたからだった。
二ヵ月経っても、そう感じている。
WAVELET RESPECTは、一輪挿しである。
WAVELET RESPECTという一輪挿しの「花」は、人である。
エソテリックのデザイン担当者は、音楽好きなのだろうか。
音楽が好きだとして、いったいどんな音楽を聴いているのだろうか。
そして、どんな音楽の聴き方をしているのか。
そんなことを考えてしまうのは、
エソテリックのデザインからは、一切の調和という要素を感じないからだ。
(その19)でも書いているように、しつこくくり返すが、
オーディオというシステムはコンポーネントである。
他社製のオーディオ機器と組み合わせて使われる、ということだ。
エソテリックの製品だけで、音を鳴らすことはできない。
エソテリック聖のCDプレーヤーはある、
トランスポート、D/Aコンバーターもある、
コントロールアンプ、パワーアンプもある。
ここまではエソテリックだけで揃えられる。
けれど肝心のスピーカーシステムは、エソテリック製はない。
エソテリック扱いのスピーカー・ブランドは二つ、タンノイとアヴァンギャルドがあるが、
タンノイのスピーカーとエソテリックでまとめたプレーヤー、アンプ群、
これらのシステムにデザインの調和があるとは、私は感じない。
アヴァンギャルドにスピーカーをかえても、同じだ。
そこになんらかの、わずかでもいい、調和を感じる人はいるのか。
そんなことをおもうから、エソテリックのデザイン担当者は、
音楽に調和ということを感じていない人だと思ってしまう。
少なくともクラシックを聴く人ではないはずだし、
いやクラシックを聴いています、と反論されても、
ずいぶん、というか、私とはまったく違う聴き方をしている人としか思えない。