Archive for category 言葉

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その6)

ステレオサウンドのサイトに、昨年の12月10日、
季刊ステレオサウンド185号(2012年12月11日)に関するお詫びと訂正」が載った。

そこには、185号の新製品紹介のページに掲載されているトーレンスのTD309について、
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」という、
事実とは異る記述があるというもので、
「これは編集部の校正ミス」ということになっている。

185号発売日の前日に、これが載ったということは、
おそらく見本誌を見た輸入元から事実と異るというクレームがあったから、だと思う。

このお詫びと訂正に気づかれていた人も多いだろう。
でも、この「お詫びと訂正」はよく考えれば、実に奇妙なところがある。

校正ミスとある。
これをバカ正直に信じれば、TD309の試聴記事を書かれている高津修氏が書かれているわけだが、
高津修氏の原稿に「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあり、
そのことを編集部が見落していた、ということになろう。

でも、そういうことがあるだろうか。
トーレンスのプレーヤーはフローティング型で知られているし、
試聴で実際に触れれば、すぐにフローティング型がそうでないかとわかる。
資料がなくても、すぐにわかることであり、誰にでもわかることである。

つまり高津修氏の原稿に
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあったとは考えにくい。
となると編集部が高津修氏の原稿を書き換えた(それも間違っているほうにへと)ということになる。
でも、これも考えにくいことである。

Date: 4月 9th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その5)

いくつかの呼称がある。
オーディオマニア(audio mania)という呼称が一般だったが、
maniaの意味は、熱狂的性癖、……狂だから、これを嫌う人たちもいて、
1980年代にはいってから、もっとスマートな呼称としてオーディオファイル(audio phile)が登場してきた。
(それにしても最近の「性癖」の使い方は間違っていて、性的嗜好の意味で使われることが目につく)

そして菅野先生によるレコード演奏家も生れてきた。

古くには音キチという呼び方もあった。
音キチガイの略であって、いまこれを使っている人は稀であろう。

オーディオに、一般的な人には理解不能なぐらい情熱をかたむけている人をどう呼ぶか(呼ばれたいか)。
人によって違う。
私などは、何者か? と問われれば「オーディオマニア」とためらうことなく答えるけれど、
オーディオファイル、オーディオ愛好家という人もいるし、
私はそう名乗ることはないけれど、レコード演奏家と口にされる人もいる。

どう呼ばれるかには、こだわりがあるのだろう。
だからいくつもの呼び方が登場しているわけだ。

山口孝氏による「オーディスト」が、そこに加わるかたちとなった。

雑誌の編集者の仕事は実に雑多で多岐であり、
その仕事の中には、新語・造語に対しての判断も含まれている。

ステレオサウンド編集者は、179号の時点で、
山口孝氏からの原稿を届いた時点で、「オーディスト」について調べ、
すでに存在している言葉であるのならば、その意味を確認する必要があったわけだ。

けれどステレオサウンド編集者は、それを怠った。
なぜ怠ったのか。

それは山口孝氏の熱心な読み手と同じだったからではないのだろうか。

Date: 4月 8th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その4)

ようするに、山口孝氏の熱心な読み手である、その人は、
山口孝氏による造語ともいえる「オーディスト」を、なんら疑うことなく賞讃していたともいえる。

そこには、その人がいままで読んできた山口孝氏の文章によってその人のなかにつくられていった、
ある種の知名度が関係しているのかもしれない。

これがもし他の人、
たとえば山口孝氏とは正反対のところでの書き手による造語としての「オーディスト」であったなら、
山口孝氏の熱心な読み手は同じように「オーディスト」を疑うことなく受け入れ賞讃したであろうか。

この態度は、はたして読み手として正しいといえるのだろうか。
特に造語として登場してきた「オーディスト」に対して、それでいい、といえるのだろうか。
山口孝氏の熱心な読み手は、
山口孝氏による「オーディスト」だからということで、考えることを放棄しているようにも見える。

私は山口孝氏による「オーディスト」になんら感心しなかったから、
その意味を調べるまでに一年以上経ってしまった。
ゆえにあまり人さまのことはいえないといえばそうなのだが、
だからといって、いわずにすませておける問題ではなく、
それは読み手以上に、送り手である編集者にとっては致命的ともいえることにつながっているはず。

Date: 4月 7th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その3)

山口孝氏による「オーディスト」を見て、私がまず連想したことは語感のいごこちの悪さと、
オーディストとカタカナ表記したときに、なんとなくヌーディストと似ているところも感じていて、
山口孝氏が「オーディスト」に込められているものは理解できていても、
素直に「オーディスト」を自分でも使いたいとは、そしてそう呼ばれたいとも、まったく思わなかった。
(念のため書いておくが、まだこのときはaudistの意味を調べていなかった)

私はそう思っていたし、そう感じていたわけだが、
「オーディスト」を積極的に評価されている人がいたことも知っている。
熱い口調で「オーディスト」について語られたことも、実はある。

その人の気持は分らないでもないが、
正直、その熱い口調で語られれば語られるほど、
「オーディスト」がそれほどいいことばとは思えなくなっていっていた。

つまり私は「オーディスト」に対してまったく感心するところがなかった。
だから無関心であり、自分でオーディストの意味を調べようと思うまでには、一年以上経っていた。

私はそうだったわけだが、
「オーディスト」への感心をつよく持っている人もいたのも事実。
感心すれば関心も出てこよう、と私はおもう。
その人たちは、オーディスト(audist)が、すでに存在しているかどうか、
存在しているとしたら、どういう意味を持つのか、
いまではインターネットのおかげで調べようと思えば、すぐにわかることを調べなかったのか、とも不思議に思う。

私に「オーディスト」について熱い口調で語った人は、
山口孝氏の熱心な読み手である。
私はというと、山口孝氏の熱心な読み手とは、とてもいえない読み手でしかない。

私の場合、熱の無さが調べるまでに一年以上かかることにつながっていったわけだが、
熱心な読み手である、その人は山口孝氏による造語だからと、そのまま受け入れたといえよう。

Date: 4月 6th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その2)

ピアノ(piano)を弾く人をピアニスト(pianist)という、
ヴァイオリン(violin)を弾く人をヴァイオリニスト(violinist)という、
チェロ(cello)を弾く人をチェリスト(cellist)という。

オーディスト(audist)は、だからオーディオを弾く人、というように理解できる。
ステレオサウンド 179号に掲載されている山口孝氏の文章で、
私はこの「オーディスト」という言葉を目にした。

目にして、山口孝氏による「レコード演奏家」の表現でもある、と思った。

「レコード演奏家」は菅野先生が提唱されている。
ステレオサウンドから「新レコード演奏家論」が出ている。

レコードを演奏する、ということについては、拒否反応を示される人、
反論される人がいることを知っている。
ここでは「レコード演奏家」についてはこれ以上ふれないけれど、
「レコードを演奏する」という表現は、何も菅野先生が最初に使われていたわけではない。
菅野先生が「レコード演奏家論」を書かれるずっと以前から、
瀬川先生も「レコードを演奏する」という表現を使われている。
それも、かなり以前から使われている。

ということは、そのころにオーディスト(audist)という言葉を思いついた人もいたのではないか、と思う。
でも山口孝氏が「オーディスト」を使われるまで、私は目にしたことがない。

なぜだろうか。
誰も思いつかなかった、という理由もあげられるだろう。
けれど、どうもそうとは思えない。
「レコードを演奏する」という表現が使われていながら、
ヴァイオリンによって音楽を演奏する人をヴァイオリニスト、
ピアノによって音楽を演奏する人をピアニスト、というのならば、
オーディオによって音楽を演奏する人をオーディストと呼称する人があらわれてもなんら不思議ではない。

オーディストという言葉は、audioにistをつけただけであり、
ひねりも工夫もそこには感じられない。

なぜ、誰も使わなかったのか。
それは、オーディスト(audist)が、
聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われているからである。
それもかなり以前から、である。

Date: 4月 5th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その1)

昨年の8月13日に、
オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」というタイトルで書いている。
リンク先を読んでいただければわかるように、詳細についてはあえて書かなかった。
言葉狩りが目的ではなかったし、その言葉が使われなくなるのであれば、
それに私自身もその言葉を最初見た時に無関心であった──そのことへの反省もあった──、
そして、もうその言葉をそのオーディオ雑誌で見かけることは今後ないという保証に近いこともあったため、である。

他のオーディオ雑誌ではときどき使われていた(掲載されていた)、
その言葉は少なくともステレオサウンドの誌面には登場することはなかった。
だから、「オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」については、
もう書くこともないだろう、と思えていた。

けれど、いま書店に並んでいるステレオサウンド 186号に、その言葉が載っている。
「オーディスト」という、山口孝氏による、いわば造語としての「オーディスト」が、
編集部による記事ではなく、広告で何度も使われている。
リンジャパンの広告の文章は、今回山口孝氏が書かれている。

私が、この「オーディスト」をはじめて目にしたのは、
2011年6月発売のステレオサウンドだった。
この号は、2011年3月11日の三ヵ月後に出ている。
巻頭エッセイとして、「今こそオーディオを、音楽を」というタイトルで、
柳沢功力、菅原正二、山口孝、堀江敏幸の四氏が書かれていて、
山口孝氏の文章と見出しとしても、「オーディスト」は大きく誌面に登場している。

Date: 2月 16th, 2013
Cate: 言葉

ひたむき(音になる前の「音」)

約1年前に「ひたむき」ということを書いた。
そこでふれている「ちはやふる」の続き(「ちはやふる2」)が、いま毎週放送されている。

「ちはやふる」を読む(みる)まで、競技かるたについては、ほとんどといっていいほど知らなかった。
「ちやはふる」によって、どういうものなのか知りつつある。
一字決り、二字決りということも、「ちはやふる」で知った。

「ちはやふる」の主人公は、耳の良さをもつ。
競技かるたの世界では「感じがいい」という。

「ちはやふる」でも「ちはやふる2」でも登場する言葉に「音になる前の音」という表現がある。
「音になる前の音」がどういうものかは、「ちはやふる」を読む、もしくはみればわかる。

「音になる前の音」が聞こえるかどうか、
それにより一字決りの札の数が変ってくる。

「音になる前の音」──、
このことばが「ちはやふる」のなかで使われるたびに、
オーディオマニアの私は、どうしてもスピーカーのことをおもってしまう。

音になる前の「音」を再現可能な(と感じさせてくれる)スピーカーと、
そうでないスピーカーが、感覚的には「ある」と。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: 言葉

読み返してほしい、と思うもの

気が向いたときに、以前書いたことを思い出しては読み返すことがある。
書くことにつまってしまったときもそうしてるし、
書いていることをすこし整理しようと思ったときもそうしている。

今晩も書き始めたころ、つまり2008年に書いたことを読み返していた。
読み返して、これはもういちど読んでほしい、と思うのがいくつか出てくる。

そう思っても、あえてそれをここで書いたりはしてこなかったが、
今回はあえて書いておく。

どちらも2008年11月に書いたものだ。
ひとつは「石井幹子氏の言葉」、もうひとつは「かわさきひろこ氏の言葉」である。

光、あかり、照明について、ふたりの方が語られている言葉を引用して書いたものだ。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続・おもい、について)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか──、
私は、オーディオ思想家だと思っている。

2年前、この項の(その13)で、そう書いた。

あえて書くまでもなく、思想ということばは、思う・想うと思い・想いからなる。

五味先生の、音楽、オーディオについてのことばは重たい。

そう感じない人もいよう。
それでも私には読みはじめたときから、ずっと、まちがいなく死ぬまで「おもい」。

(その13)の最後には、こう書いた。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

だから私には瀬川先生の文章も、また「おもい」と感じる。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(おもい、について)

「おもい」とキーボードで入力すると、変換候補として、思い、想い、懷のほかに、重いも表示される。

思い、想い、懷、これら三つには、心があり、
重いには心はないから、「おもい」のなかで重いだけは、まったく別の言葉でもあるように思える。

けれど心は身体に宿っているもの、と捉えれば(心身という言葉もあるのだから)、
心+身(み)を「おもみ」とすれば、重みにつながっているようにも思えてくる。

思い、想い、懷は、けっして重いと無関係ではない。
「おもい」のない言葉には重みがない。

Date: 9月 6th, 2012
Cate: 「ネットワーク」, 言葉

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その2)

AとBのふたつがあり、
その差がほんのわずかであれば、どちらの量が多いかの判断では、
差がわからない、はっきりとしないということもある。
わずかな差に対して敏感な人もいれば、それほどでもない人もいる。

けれどあきらかな差があれば、敏感な人もそうでない人でも、
どちらかの量が多いということはすぐに判断できるのが普通である、と思っていた。

音に関する表現でも、量を表しているものはいくつかある。
最近では、多くの人が使うようになって「聴感上のS/N比」がある。
S/N比そのものが、信号とノイズの量の比であるわけだから、
物理的なS/N比のように90dBとか81dBといった数字でこそ表示できないものの、
ふたつのオーディオ機器、ふたつの音があり、比較試聴したうえでの聴感上のS/N比は、
はっきりと差が出ることも多い。

聴感上のS/N比のほかには、音場感に関する表現がある。
左右の広がりぐあい、奥への展開のぐあい、など、
ふたつのオーディオ機器、ふたつの音を比較して、どちらが左右の広がりが広いのか、
奥行き方向の再現性が深い、といったこともはっきりと差が出ることも多い。
もちろん音場感については、それだけですべてが語れるわけでもないものの、
音場感は、量に関係する要素がある。

けれど、このふたつ──、
聴感上のS/N比と音場感に関することでも、ときどき首を傾げたくなることがある。
なぜ、このオーディオ機器、この音を聴感上のS/N比が高い、といえるのだろうか、と思うことは少なくない。

量についてのものであっても「聴感上」とつくからそこには主観的なこともはいってくる、
だから聴く人によって、聴感上のS/N比の高い低いは異る、という人がいるかもしれないが、
私はそうは思わない。

聴感上のS/N比は、私の知る限り、井上先生が最初に使われているが、
井上先生が定義した「聴感上のS/N比」とはかなり違う「聴感上のS/N比」がいくつも現れてきているようだ。

「聴感上のS/N比」は、本来、そういう曖昧な性質のものではなかった。
それがいつしか、本来の定義、意味などをシロウトもせずに、
なんとなく感覚的に、安易に使われることが増えてきている言葉のひとつである、と思う。

Date: 9月 5th, 2012
Cate: 「ネットワーク」, 言葉

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その1)

インターネットが登場し普及し、
個人によるWebサイトの公開もまた一般的なこととなり、
さらにブログの登場・普及は個人による情報発信を、
インターネット登場以前では想像できなかったほどに容易にした。

結果、情報量は急激に増大したかのように見える。
情報の「量」は確実に増えているのだろうか。
情報の「質」の判断は難しい面があるが、
こと量の判断、つまり多いか少ないかの判断に何が難しいところがあろう、
量の判断において、判断する人によって多い少ないが逆転することなんか起こりえない。

基本的にはそうだと思う。
けれども絶対に逆転することはない、とは言い切れないことがあることを、
オーディオにおいて知っているからだ。

Date: 4月 2nd, 2012
Cate: 言葉

引用する行為について

昨夜のブログで引用した岩崎先生の文章。
この文章だけでなく、ほかにもいくつか、これまで引用してきた文章には、
一回だけでなく岩崎先生の文章のようにくり返して引用している。

同じ文章の引用だから、コピー&ペーストすれば楽だし、
もっと楽な方法としてはドラッグしてくるだけでもできる。
でも、昨夜もそうだけど、毎回キーボードのキーを叩いて入力している。

昨夜も引用した岩崎先生の文章は、2行ほどだから入力にそれほど時間を必要とするわけでもないというものの、
それでもドラッグしてくるだけのほうが圧倒的に速いし、手間もかからない。
にもかかわらず毎回毎回入力していくのは、
書き写すという行為が、どこかしら心地よいところがあるから、
引用のたびに毎回入力していっている。

そして、人は大事なことから忘れていく。
私だって、そうだ。オーディオの大事なこと、音楽の大事なことを忘れないためにも、
つまりは自分のために引用しているというところがあるからこそ、キーを叩いていく。

Date: 3月 23rd, 2012
Cate: 言葉

ふたたび「目的地」について

オーディオ(audio)ということばが好きで、
サイトの名前はaudio sharingにした。
サウンド(sound)、ステレオ(stereo)よりも、audioを、
何かの名前を考えるときには使いたい、と思っているから、このブログも当然audioにした。

audio identityだと、検索してみると2008年の時点ですでにいくつかのサイトやブログで使われていた。
だからaudio identityのあとに括弧でくくって、designingをつけ、
audio identity (designing)と、すこし長い名前とした。

audio identityをどう日本語に訳すのかは、人によって多少違ってくるだろうし、
私自身は、audio identityにいくつかの意味をこめて使っている。

そのaudio identityにあえてdesigningをつけた──、designedではなくて。

designingをつけると決めた当初は、そのことについてそれほど深く考えていたわけではなかった。
でも、audio identity (designing)というタイトルのもとに毎日書いていくことで、
はっきりしてきたことがある。

audio identity (designing)は、2008年9月3日に始めた。
翌4日に「目的地」というタイトルで書いている。

そこに書いたことのくり返しになるが、だから(designed)となることは、ないといえる。

Date: 1月 28th, 2012
Cate: 言葉

「器」

パッケージソフトは、器である。
アナログディスクならば、SP、LP、シングル盤、いずれも音声信号を溝に変換して記録した、音楽の器である。
デジタルになっても、CD、SACDどちらも、やはり音楽をおさめている器である。
テープも形状は異るものの、やはり音楽の器である。

これらパッケージソフトという器に、
音楽をおさめるための録音スタジオ、音楽ホールは、音楽が演奏される器である。

パッケージソフトを聴くための部屋(リスニングルーム)も、また器である。

そしてスピーカーシステムから出た音を受けとめる(聴いている)聴き手も「器」である、と思う。

器にはそれぞれ形と大きさがある、ということを、つい忘れがちになっていないだろうか。