「オーディスト」という言葉に対して(その4)
ようするに、山口孝氏の熱心な読み手である、その人は、
山口孝氏による造語ともいえる「オーディスト」を、なんら疑うことなく賞讃していたともいえる。
そこには、その人がいままで読んできた山口孝氏の文章によってその人のなかにつくられていった、
ある種の知名度が関係しているのかもしれない。
これがもし他の人、
たとえば山口孝氏とは正反対のところでの書き手による造語としての「オーディスト」であったなら、
山口孝氏の熱心な読み手は同じように「オーディスト」を疑うことなく受け入れ賞讃したであろうか。
この態度は、はたして読み手として正しいといえるのだろうか。
特に造語として登場してきた「オーディスト」に対して、それでいい、といえるのだろうか。
山口孝氏の熱心な読み手は、
山口孝氏による「オーディスト」だからということで、考えることを放棄しているようにも見える。
私は山口孝氏による「オーディスト」になんら感心しなかったから、
その意味を調べるまでに一年以上経ってしまった。
ゆえにあまり人さまのことはいえないといえばそうなのだが、
だからといって、いわずにすませておける問題ではなく、
それは読み手以上に、送り手である編集者にとっては致命的ともいえることにつながっているはず。