Archive for category 「オーディオ」考

Date: 10月 1st, 2015
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その7)

「音は人なり」。
確かにそうだと思っている。

思っているけれど、「音は人なり」が根本的なこと、根源的なことであれば、
いかなる環境においても「音は人なり」であるはずである。

音のために専用の空間とシステムを用意する。
その環境の中で音を良くしていこうとやっていく。

そうやって音は良くなっていく。
その意味で「音は人なり」である。

ではそうやって積み重ねてきた環境を捨てて、
まったくゼロから、しかもまるで違う環境におかれたとして、
その音は「音は人なり」となるのだろうか。

いいや、これは自分の音ではない、という考えもできるし、
いかなる環境においても出せる音こそが「音は人なり」であるとも考えられる。

出てくる音と出せる音との違いがある。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: 「オーディオ」考

潰えさろうとするものの所在(その1)

ずっと以前は、ハイエンドという言葉の使われ方は違っていた。

ハイエンドまで素直に伸びた音といった使われ方だった。
つまり高域の上限という意味だった。
だからローエンドも使われていた。

いまハイエンドといえば、そういう意味ではなく、
非常に高額な、という意味である。
辞書にも、同種の製品の中で最高の品質や価格のもの、とある。
大辞林には例として「ハイエンドのオーディオ製品」とあるくらいだ。

英語のhigh-endをひくと、高級な、高級顧客向けの〈商品·商店〉とあるから、
いまの使われ方が正しいわけだが、
私は、このハイエンドオーディオという表現がイヤである。

このハイエンドオーディオを頻繁に使う人も嫌いになってしまうほど、
ハイエンドオーディオの使われ方には、この時代のいやらしさを感じとれるからなのだろうか。

ハイエンドオーディオとは、いったいどのくらい高級(高額)であれば、そう呼べるのか。
まだハイエンドが高域の上限として使われていたころは、
スピーカーならば一本100万円をこえるモノであれば、誰もがハイエンドオーディオだと認めていた。

いまは一本100万円の価格が付けられたスピーカーシステムを、
どのくらいの人がハイエンドと認めるのだろうか。

100万円のスピーカーはミドルレンジだよ、という人も少なくないと思う。
そう言う人たちがもっと高価なスピーカーを使っていなくとも、
いまの、一部のオーディオ機器の価格は高くなりすぎている、とはっきりといえる。

以前(ステレオサウンド 56号)で、
トーレンスのリファレンスの記事の最後に、瀬川先生はこう書かれていた。
     *
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
考え込むか、唸るか、へらへらと笑うか……。
おそろしいことになったものだ、というしかない。

こんなふうに書いていくと、ハイエンドオーディオそのものを否定するのか、と受けとめられるかもしれない。
けれど、ここで書いていこうと考えているのは、そんなことではない。

おそろしいことになっているオーディオ機器の価格の上昇、
そのことによって失われていったものがあると考えているし、
その失われていったものは、オーディオ雑誌からも見出せなくなっているし、
オーディオ評論家からも感じられなっている──、
そんなふうにおもえてくる。

Date: 6月 19th, 2015
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その5)

オーディオは音楽を聴く道具である──、
このことについてもきっちりと書いていこうと考えているが、
ここでは一応、オーディオは道具である、ということにしておく。

録音された音楽を聴くには、なんらかの再生装置(オーディオ)が最少限必要であり、
そこでのオーディオは道具ということになる。

道具を辞書でひくと、いくつかの意味があり、
ここでの道具とは、他の目的のための手段・方法として利用される物や人、ということになる。

別項「background…」でも書いているが、
音楽も場合によっては、道具となってしまう。

たとえばヒーリングミュージック。
音楽(ミュージック)の前に、何かをつけてしまうことで、
音楽は音楽そのものではなくなってしまうおそれが生じてくる。

モーツァルトの音楽が、バックグラウンドミュージックとして使われる。
ヒーリングミュージックとして使われる。

ここでのモーツァルトの音楽は、道具としての音楽となってしまう。

10年くらい前からか、もっと前からだったか、
日本酒の製造過程でモーツァルトの音楽を流していると、より美味しくなるとか、
牛にモーツァルトの音楽を聴かせると、肉が美味しくなるとか、
そういったことが騒がれたことがある。

ここでのモーツァルトの音楽もまた、道具としての音楽になっている。

モーツァルトの音楽が、ヒーリングミュージック、バックグラウンドミュージック、
何かを美味しくするために使われる場合には、
実演のモーツァルトが鳴らされることはまずない。
ほぼすべて何らかの再生装置になって、モーツァルトの音楽が流され、
バックグラウンドミュージックとして使われたり、ヒーリングミュージックとして使われたりする。

となると、この場合の再生装置、つまりオーディオは、
モーツァルトの音楽を道具としての音楽にするための道具ということになってしまう。

Date: 6月 18th, 2015
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その7)

数ヵ月前、友人と思われる学生ふたりが電車で話しているのが耳に入ってきた。
スマートフォンに関する話題だった。
ひとりはAndroidのスマートフォンを使っているようだった。
しかもいろいろと情報を積極的に得ているようでもあった。

もうひとりはiOS、つまりiPhoneを使っている人だった。
この人は、積極的にiOSについての情報を得ているわけではないようだった。

Androidに詳しい方が、iPhoneユーザーに自慢していたのが、そこでの会話だった。
「iPhoneでは、こういうことができないだろう」ということをくり返していた。

iPhoneユーザーは、AndroidユーザーがAndroidに詳しいほどにはiOSに詳しくないから、
何ひとつ反論できずに、ただ黙っていた。

Androidユーザーは、だからiPhoneよりもAndroidのスマートフォンが優秀だ、といいたげだった。
これと同じ話は、インターネットでも目にすることがある。

iPhoneには、こういう機能がない、Androidにはある。
だからAndroidが優秀なのだ、という。

実際に機能的に比較したら、Androidの方が多機能なのだろう。
そのことでAndroidを優秀を思う人がいるわけだ。

けれどスマートフォンのOSとしての優秀性は、機能の多さだけで決るものではない。
そんなことは明白なことだと思っていた。
けれど、どのくらいの割合なのかはわからないけれど、
多機能であることが優秀であること、と思ってしまっている人がいるのは確かだ。

多機能だから良しとする考えが、
選択肢が増えれば良し(豊かになっている)と捉えてしまうのではないか。

Date: 3月 27th, 2015
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(あるツイートを知って)

奈良県奈良市にジャンゴレコードがあるのを知った。
このレコード店が三月いっぱいで、新譜CDの店頭陳列販売を終了することも知った。

正直、ここまで厳しくなっているのかと驚いてしまった。
詳しくはリンク先を読んでほしい。

日本は世界でいちばんCDが売れている国だといわれている。
それは誇っていいことなのか、とも、ジャンゴレコードの今回の件は考えさせられる。

豊かになっているのだろうか。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その6)

サンスイのプリメインアンプAU-D907 Limitedを買ったことは何度か書いているとおり。
それからSMEの3012-R Specialも無理して買った。

AU-D907 Limitedは型番からもわかるように台数限定だった。たしか1000台だったはず。
3012-R Specialも、ステレオサウンドに最初広告が載った時には、限定、と書いてあった。
結局、SME(もしくはハーマンインターナショナル)が思っていた以上に売行きが良かったのだろう、
限定ではなく通常の製品になっていた。

オーディオ機器にはLimitedの型番がモノが他にもいくつもある。
Limitedとつかなくとも限定のオーディオ機器もいくつもある。

マニアの心理としてLimitedの文字には弱い。
それはなぜなのか。
「いい音で聴きたい」という気持よりも「人よりもいい音で聴きたい」という気持が、
時として強く、その人自身を支配しているからではないのか、と思う。

AU-D907 Limitedも3012-R Specialも、かなり無理して買っている。
これらが限定ではなかったら、そこまで無理はしなかったであろう。

いま買わないと、もう手に入らなくなる。そんなあせる気持もあった。
しかもAU-D907 Limitedも3012-R Specialも、音を聴かずに買っている。

なぜそこまでして買ったのだろう。
「いい音で聴きたい」という気持からだ、とは、もちろんいえる。
オーディオマニアのほとんどの人が、おそらくそういうだろう。

でも、やはり「人よりいい音で聴きたい」という気持があったからだ、ともいえる。

このことだけではない、オーディオマニアとしての「いい音で聴きたい」ための行動を、
少し違う視点からふり返ってみると、どうしても「人よりいい音で聴きたい」という気持があったことを、
少なくとも私は否定できない。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その5)

オーディオにおける音の追求は、あくまでもいい音で聴きたい、なのであって、
人よりいい音で聴きたい、と思う気持ちが、人よりもいいモノを持ちたい、という気持を生んでしまう。

人よりいい音で聴きたい、という気持を全否定はしたくない。
こんな気持も、必要な時期が人にはあるだろうし(私にはあった)、
この気持を持ったことがない、という人よりも、そんな時期があったな……、という人の方がいい。

けれど、そんな気持も行き過ぎてしまうと、別項で書いた人のようになってしまうかもしれない。

誰かに自分の音を聴いてもらう、
今度は誰かの音を聴かせてもらう、
けっこうなことではある。

けれど、このことが「いい音で聴きたい」気持よりも「人よりいい音で聴きたい」気持を肥大させはしないだろうか。
そして「人よりもいいモノを持ちたい」気持へとなっていく。

この「人よりもいいモノを持ちたい」気持をもってしまった人を見逃さない人がいる。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その4)

価格も数字である。はっきりとした数字である。
これも数字なのだ、と実感している。

数字といえば、カタログに記載されているスペックがある。
周波数特性、歪率、S/N比、インピーダンスなど、さまざまな項目の数字(数値)が並ぶ。

価格もカタログ・スペックも数字が並んだものだ。

スピーカーシステムのスペックに、再生周波数帯域がある。
これをとても気にする人がいる。
たとえばあるスピーカーシステムが25Hz〜20kHz、別のスピーカーシステムが30Hz〜20kHzだとしよう。
こんな差は、私はまったく気にしないけれど、
そうでない人にとっては、前者のスピーカーシステムの方が低域の再生能力に優れている、
ということになるようだ。

これはほんの一例で、他にもいくつかの例を聞いたり見たりすることがある。
数字のもつ力を無視できない、と思う。

数字(数値)によって、選択が決定されることもあるように感じられる。
つまり重要な判断材料なのだろう。

そうであれば、価格という数字(数値)もそうなのだろう。
人よりもいいモノを持ちたい、という気持が、どこかで、人より高いモノを持ちたい、
そんなふうにすり変ってしまうのだろうか。

そうでなければ「もっと高くした方が売れますよ、高くしましょう」ということにならないはずだ。

Date: 10月 22nd, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その3)

同等のクォリティであれば、競合製品よりも高い値付けの方が売れる──、
そんな時代がオーディオにもあった。

ケーブルを作っているメーカーが、新製品(新素材)のケーブルをあるところにもちこんだ。
ケーブル会社の人たちは、このくらいの価格で売り出そうと考えています、
そういったところ、「もっと高くした方が売れますよ、高くしましょう」と言われたそうだ。

これはその場に居合わせた人から直接聞いた話で、
ケーブル会社がどこなのか、持ち込み先がどこで、誰が言ったのかも聞いている。

晒し者にしたいわけではないから、そういった細かなことは書かないが、
そういう時代がオーディオにあった、ということは確かなことである。

メーカーも利益をあげなければ事業を継続していけなくなるのだから、
適正価格である必要がある。無理に安くしてくれなくともいい。
メーカーにとっても、高く売れれば、それだけ利益が上るのだから商売としてはいい、ということになる。

それでもメーカー側がこれだけの価格で、といっているのを、もっと高くして売れ、
というアドバイス(?)するのは、おかしなことである。

これと同じような話は、他にも聞いている。
それらは又聞きだったりするので書かないけれど、高くしても売れる、
高くした方が売れた、というのは、豊かな時代だったのだろうか。

Date: 6月 18th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その7)

マーラーを聴くにも十分だ、という言葉の裏には、
それ以前の音楽、具体的にはマーラーの交響曲ほど複雑でない交響曲、
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの交響曲を聴くのに十分でも、
マーラーを聴くには十分でないことがある──、
そういうニュアンスもこめられていることが多い。

これは私の独りよがりではなく、
1970年代以降マーラーの交響曲が積極的に録音されるようになり、
1980年代にはいりデジタル録音の登場とも重なって、さらにマーラーの録音は増えていっていたおりに、
この類の発言は目にしたこともあるし、耳にしたこともある。

ベートーヴェンの交響曲の名演として、いまでもフルトヴェングラーがよく聴かれる。
フルトヴェングラーの録音はすべてモノーラル。
しかも当時の録音の水準からすると、いくつかは音がいいとはいえない録音もある。
有名なバイロイトの「第九」にしても、ライヴ録音とはいえ、
もう少しまともに録れたのでは……、といいたくなる。
それでも私も、ほかの人もベートーヴェンを愛する人ならば、フルトヴェングラーの録音を聴く。

フルトヴェングラーのベートーヴェンだけではない。
他の指揮者の古い録音であっても聴く。
けれどベートーヴェンにはそれほどいい音は必要ではない、ということではない。

Date: 5月 22nd, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その6)

このテーマを書く気になったのは、twitterで、
私のシステムでも、マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たからだった。

私がフォローしている人が書いたことではなく、
私がフォローしている人がリツイートしたもの。

それを見た時に、いまも、こういうことを書く人がいるのか、が正直な気持だった。
いったいどういう人なのだろう、と、リツイート先の人のところを見てみた。

だが、マーラーを聴くにも十分だ、ということに関係するツイートはなかった。

まったく面識のない人の書き込み。
それも短い書き込み。
それゆえにあれこれ想像してしまい、このテーマを書くことにした。

マーラーを聴くにも十分だ、という人は、いったいどこまでのマーラーを聴いているのだろうか。

1947年録音のワルターのマーラーぐらいまでなのか、
1963年のバーンスタインのマーラーぐらいまでなのか、
1973年のカラヤンのマーラーぐらいまでなのか。
それとも最新録音のマーラーを含めての、「マーラーを聴くにも十分だ」なのかがはっきりしない。

おそらくこの人のいわんとしていることは、
自分は音ではなくマーラーの音楽を聴いている、だから最新の、大がかりなシステムでなくとも十分である、
そういうことを主張したいのだとは思う。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その5)

1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムであれば、
1963年録音のバーンスタインのマーラーも、
1947年録音のワルターのマーラーも過不足なく聴かせてくれる、といえる。

1963年録音のバーンスタインのマーラーを過不足なく聴かせるシステムは、
1947年録音のワルターのマーラーも過不足なく聴かせてくれるけれど、
1973年録音のカラヤンのマーラーとなると、必ずしもそうとはいえない。

1963年録音のバーンスタインのマーラーを過不足なく聴かせるシステムの中には、
1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムもあれば、そうでないシステムもある。

1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムが、
1980年録音のアバドのマーラーを、1986年録音のインバルのマーラーを過不足なく聴かせてくれるとはかぎらない。

今日のマーラーを過不足なく鳴らせたとしても、
それは明日のマーラーを過不足なく鳴らせるという保証とはなり得ない。

レコード(録音されたもの)をオーディオを介して聴く、という行為には、常にこの問題がつきまとう。
これから先、どれだけ時間が経ち、技術が進歩しようとも、この問題がなくなることはまずありえない。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その4)

「レコードにおけるマーラーの〈音〉のきこえ方」に、こう書いてある。
     *
 レコーディング・エンジニア側での思いやりがあってできたレコードであるから、ききての側で、そのレコードをかけるにあたってのことさらの苦労はいらない。そのレコードをきくかぎり、再生装置についての心配は、ほとんどいらない。ロジャースLS3/5Aモニターという、幅十八・五センチ×高さ三十センチ×奥行き十六センチという小さなスピーカーできこうと、JBL4343というフロア型スピーカーできこうとその一九四七年に録音されたワルターのレコードをきいているかぎりでは、そのいずれできいてもことさらの差はない。
 ところが、一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードとなると、事情は少なからず変わってくる。たいした差はないとはいいがたい。ロジャースできいたものと、高さが一メートル五センチあるJBL4343できいたものとでは、あきらかに違う。ここでは、先ほどの言葉でいえば、レコードを録音する側でのききてに対しての思いやりが薄れている。あたかもそこでの音は、これだけの大がかりなシンフォニーをきこうとしているあなたなら、それ相応の再生装置でおききになるのでしょう——とでもいいたがっているかのようである。
 大太鼓のとどろきだけを取りだしていうと、そのバーンスタインのレコードでは、からppへ、そしてppからpppへの変化が、歴然である。ただそれは大きい方のスピーカーできいたときにいえることで、小型スピーカーできいた場合には最後のpppによるとどろきはひどく暖昧なものとなってしまう。
     *
1947年のワルターと1963年のバーンスタインにおいて、これだけの差がある。
バーンスタインの10年後のカラヤンにおいてはどうなのか。
     *
 大太鼓の三つのとどろきのうちののとどろきとppのとどろきは小型スピーカーのほうでも、どうやらききとれるが、最後のpppのとどろきは精一杯に音量をあげてもほんの気配程度にしかきこえない。そこにその音があるということを知っていれば、耳をすましてなんとか感知できなくもないが、さもなければききのがしても不思議はないほどの微妙な音である。大きいほうのスピーカーできけば、そのようなことはない。バーンスタインのレコードでよりも、さらにはっきりと、ppの差を、pppppの差を、示す。大太鼓がオーケストラの一番奥にいることも、誰がきいてもわかるように、きこえる。そこで示されるひろがりは大変なものである。
 しかし——、そう、しかしといわなければならない。最後のとどろき、つまりpppのとどろきをきくためには、かなり音量をあげなければならない。このレコードのレコーディング・エンジニアには、ワルターのレコードのレコーディング・エンジニアにあったききてに対しての思いやりが欠けているとでもいうべきか。本来は微弱であるべき音を少し大きめにとってききてにその音の存在をわかりやすくさせようとするより、できるかぎりもともとの強弱のバランスに近づけようとしている。むろんそれは間違ったこととはいえない。ハイ・フィデリティの考えにたっての録音というべきであろう。たしかにその一九七三年に録音されたカラヤンのレコードは、一九四七年に録音されたワルターのレコードより、そして一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードより、録音ということでいえば、抜きんでて素晴らしい。
     *
引用ばかりになるけれど、もうひとつステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’76」の巻頭、
岡先生と瀬川先生、黒田先生による座談会、「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」で、
カラヤンのマーラについてふれられている。
     *
黒田 最近出たカラヤンのマーラーの第五番、この第一楽章の結尾で大太鼓の音が入っているんだけど、あるレコードコンサートでたいへん優れた録音の例としてその部分をかけたら、なぜか大太鼓が鳴らない(笑い)。
(中略)
 ぼくの装置だとちゃんとピアニッシモに入っているんです。ここのところでこのレコードの録音がよいのかわるいのかというのが、ひじょうに微妙になってくる。
     *
1947年のワルターから26年のあいだで、これだけ違ってきている。
1973年のカラヤンのあとに、アバド/シカゴ交響楽団による第五交響曲が出て、
インバル/フランクフルト放送交響楽団による録音が出、その後も多くの第五交響曲がいま市場にはある。

Date: 5月 13th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その3)

黒田先生の著書「レコード・トライアングル」に「レコードにおけるマーラーの〈音〉のきこえ方」がある。
1978年に書かれた、この文章で、黒田先生は三枚のマーラーの第五交響曲のレコードをとりあげられている。

一枚目は、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィルハーモニーによるもので、1947年録音。
二枚目は、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーで、
ワルターと同じコロムビアによるもので、1963年録音。
三枚目は、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーで、
1973年、ドイツ・グラモフォンによる録音。

一枚目は二枚目には16年、二枚目と三枚目には10年の開きがある。
一枚目のワルターによるマーラーは、当然モノーラルで、録音機材はすべて真空管式。

二枚目のバーンスタインからステレオ録音になるわけだが、
バーンスタインのころだと録音機材のすべてがトランジスターになっているかどうかは断言できない。
一部真空管式の機材が含まれていてもなんら不思議ではない。

三枚目のカラヤンにおいては、おそらくすべてトランジスター式の録音機材といえるだろう。
それにマイクロフォンの数も、同じステレオでもバーンスタインよりも増えている、とみていい。

録音機材、テクニックは、カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーのマーラー以降も、
変化(進歩)しつづけている。

カラヤンの10年後の1983年ごろにはデジタル録音が主流になっているし、
さらに10年後の1993年、もう10年後の2003年、2013年とみていくと、
ワルターのマーラーから実に半世紀以上経っている。

マーラーの音楽に興味をもつ聴き手であれば、ワルターによるものももっているだろうし、
バーンスタイン、カラヤンも持っていて、さらに結構な枚数のマーラーのレコード(LP、CD)を持っている。
そして、それらを聴いている。

Date: 3月 22nd, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その2)

1970年代後半は、50万円をこえていれば、そのオーディオ機器は高級機であり、
100万円をこえているモノは超高級機という認識だった。
これはこの時代のオーディオを体験してきた人ならば、同じはずだ。

1980年代にはいり、200万円をこえるモノ、300万円をこえるモノが登場してきた。
トーレンスのリファレンスが350万円をこえていた。
スレッショルドのSTASIS1も350万円をこえていた。

瀬川先生はステレオサウンド 56号のリファレンスの記事の最後に書かれている。
     *
であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
時代が30年以上前のことではあるけれど、オーディオ機器ひとつの価格が350万円というと、
とんでもない価格であり、「おそろしいことになった」と私も感じながらも、
それでもいつの日か、リファレンスを買える日が来るのではないか、とも思えていた。

リファレンスは買えなかったけれど、927Dst(すでに製造中止になっていたので中古だったが)は買える日が来た。

このころは350万円がオーディオ機器の最高価格といえたし、
1980年代も350万円あたりで落ち着いていた。