Date: 1月 18th, 2016
Cate: 「オーディオ」考
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「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(その4)

音をよくしたいがためにアンプを買い換える。
その場合の選択肢(候補となるアンプ)は、
予算が多ければ多いほど、制約が減ってくるし、数は増えていく。

予算がかなり制限されていれば、ごく限られた選択肢しかない。
場合によっては、ほとんど選択肢はないことだってあろう。

では予算が制限がある人のアンプの選択には、主体性がない、
もしくは主体性がほとんどない、弱いといえるのだろうか。

反対に予算の制限のない人であれば、選択肢の数は製品の数だけといえるわけで、
その中からアンプを一台選ぶことは、より主体性がある、もしくは主体性が強いといえるのだろうか。

二台の候補から一台のアンプを選ぶのと、
百台の候補から一台を選ぶのとでは、そこにはどういう違いがあるといえるのか。

いまは市場に数多くのアンプがあふれている。
けれど、これが三十年前、さらにはもっと昔(五十年、六十年前)だったらどうなるか。

五十年前といえば、ステレオサウンドが創刊された年だ。
ステレオサウンドの創刊号を持っている人はそう多くはないだろうが、
もし手に取る機会があればみてほしい。

当時どれだけの選択肢があっただろうか。
予算に制約のない人であっても、どれだけの選択肢があっただろうか。

予算に制約のない人がいる。
ひとりは2016年のオーディオマニアで、もうひとりは1966年のオーディオマニアだ。
オーディオマニアだから、アンプを持っている。
選んだ結果としてのアンプが手元にあるわけだが、
その選択において、2016年のマニアのほうが主体性がある、といえるだろうか。

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