「音は人なり」を、いまいちど考える(その8)
出てくる音と出せる音との違い、と前回の最後に書いた。
同時に、出したい音と出したくない音もある。
出したい音は、自己肯定の音、
出したくない音は、自己否定の音、
そういう言い換えもできると思う。
出したい音(自己肯定の音)、出したくない音(自己否定の音)は、
聴く音楽(かける音楽)とも深い関係をもっている。
出したくない音(自己否定の音)を聴きたくなければ、
そうすることもできなくはない。
そういう人を知らないわけではない。
本人は無意識にそうしているのかもしれないから、何もいわない。
けれど、私は聴かなければならない音がある、と信じている。
聴かなければならない音を聴くために聴く音楽(かける音楽)がある、ともいえる。
オーディオは趣味なのに……、そんなことしなくてもいいじゃないか。
そういわれれば、そのとおりだと答えるけれど、
それだけではないと、口には出さないけれど思っている。
どちらの姿勢でオーディオに臨むのか、をふくめての、「音は人なり」のはずだからだ。