十分だ、ということはあり得るのか(その7)
マーラーを聴くにも十分だ、という言葉の裏には、
それ以前の音楽、具体的にはマーラーの交響曲ほど複雑でない交響曲、
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの交響曲を聴くのに十分でも、
マーラーを聴くには十分でないことがある──、
そういうニュアンスもこめられていることが多い。
これは私の独りよがりではなく、
1970年代以降マーラーの交響曲が積極的に録音されるようになり、
1980年代にはいりデジタル録音の登場とも重なって、さらにマーラーの録音は増えていっていたおりに、
この類の発言は目にしたこともあるし、耳にしたこともある。
ベートーヴェンの交響曲の名演として、いまでもフルトヴェングラーがよく聴かれる。
フルトヴェングラーの録音はすべてモノーラル。
しかも当時の録音の水準からすると、いくつかは音がいいとはいえない録音もある。
有名なバイロイトの「第九」にしても、ライヴ録音とはいえ、
もう少しまともに録れたのでは……、といいたくなる。
それでも私も、ほかの人もベートーヴェンを愛する人ならば、フルトヴェングラーの録音を聴く。
フルトヴェングラーのベートーヴェンだけではない。
他の指揮者の古い録音であっても聴く。
けれどベートーヴェンにはそれほどいい音は必要ではない、ということではない。