Archive for category 1年の終りに……

Date: 12月 31st, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年の最後に

2017年はマリア・カラス没後40年だったことは知っていた。
けれど「四十年かぁ……」ぐらいのおもいだった。
40年を記念してSACDが出たことも知ってはいたが、それ以上の関心をもったわけではない。

それが、どうしてか今年の後半になってから、マリア・カラスに対する熱が高まっている。
これまでにないくらい高まってきている。

きっかけはいくつかあった。
すでに書いているように、メリディアンのULTRA DACの音もそのひとつだ。
でも、それだけで、ここまで高まっているとは思えない。

他にも小さなきっかけが二,三ある。
そこに映画「私は、マリア・カラス」の公開を知った。

映画も観た。
さらに火がついたのかもしれない。

今日(12月31日)、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。
夕方からの回で、こんな時間に帰宅しての、今年最後のブログを書いている。

「ボヘミアン・ラプソディ」からもマリア・カラスの歌が聴こえてきた。

なぜ、いまごろになってマリア・カラスなのか。
2019年への宿題になってしまったようだ。

Date: 12月 26th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その9)

今年はCHORDのMojoとメリディアンのULTRA DAC、
この二つのD/Aコンバーターについて多く書いている。
まだ書き終っていないので来年も続きを書くわけだが、
2018年をふりかえって思うことは、
いまの時代、D/Aコンバーターの選択は、
スピーカーシステムの選択に近いところにある、ということ。

オーディオはコンポーネントゆえに、
スピーカー、アンプ、プレーヤーが最低でも必要になる。
スピーカーにはスピーカーならではの選択の難しさ、面白さがあり、
アンプにはアンプの、プレーヤーにはプレーヤーの、それぞれの選択の難しさと面白さがある。

スピーカー選びの難しさとアンプ選びの難しさは、かなり違うともいえる。
ではD/Aコンバーターはどうだろうか。

電子機器だから、アンプ選びと共通するのかといえば、
私は、この一年で、なんとなくスピーカー選びと共通するものがあるように感じはじめている。

以前からそうだったとは、いまふりかえってもそうは思わない。
ここ数年の変化ではないだろうか。

すべての機器の選択に、その人のオーディオ観がうかがえるわけだが、
それでもスピーカーシステムの選択ほど、その人のオーディオ観をはっきりと出すものはない。

これと同じことを、D/Aコンバーターの選択にも感じているところだ。

Date: 12月 26th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その8)

その2)で、手を動かした年だと書いた。
動かしているから思いつくこともあった。

半年くらい前から試してみたいと考えているだけで、
まだやっていないのだが、カホンをエンクロージュアにしてみたい。

カホンとは打楽器である。
ここでいうカホンとは、ペルー式カホンと呼ばれるタイプで、箱型のもののことだ。
楽器店に行けば、たいていのところに展示してある。

カホンについて詳しいわけではないが、
ほんとうに四角い箱で、丸い穴が開けられている。

サイズもいくつかあって、小口径から中口径のフルレンジユニットが収まるような感じである。
打楽器だけに叩いて音を出すための造りなので、
すべての面がしっかりとしているわけではない。

ペコペコと鳴る面もある。
でも、その鳴る面もうまく利用して、10cmくらいの小口径のフルレンジを取り付ければ、
音量を上げると盛大に箱鳴りがしそうだが、
音量を絞った状態ならば、逆にうまいこと中低音あたりが補われるかもしれない。

楽器だけに仕上げもきちんとされている。
そんなに高価なわけでもない。

遊び的要素が大きくなるが、
カホンとフルレンジユニットの組合せはおもしろそうである。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その7)

今年のaudio wednesdayには数人の方が初めて来られた。

別項「音の悪食(その2)」で書いたように、
5月に来られた二人組の方たちは、わずかな時間で帰られた。
おそらく二度と来られないであろう。

こういう会をやっているから、できれば多くの人に来て欲しい、とは思っている。
喫茶茶会記のためにも一人でも多くの人に来てほしい、とおもう。

今年初めて来てくれた人で、これからも来てくれそうな人はいまのところ一人だけである。
寂しい会だな、と思われても、それでいい。
一人いてくれれば、それでいい。

別項で書いているように、来年はわがままでいる。
これまで抑えてきたけれど、わがままをはっきりと出して行く。

そういう私だから、来ない人は来ないでいいし、
来て欲しくない人がいるのも本音だ(その人は来なくなってけっこう経つから、もう現れないであろう)。

わがままでいることで、イヤなヤツと、これまで以上に思われても、
それでいい、と言い切れるようになれたのが2018年である。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その6)

Kate Bush – Remastered。
このセットの登場も私にとっては、2018年で起ったことで静かなインパクトをもっている。

Kate Bush – RemasteredはCDだけでなく、LPでも出ている。
そしてe-onkyo musicでの配信も始まっている。

44.1kHz、24ビットという微妙な配信ではあるが、
flac形式だけでなくMQAも用意されている。

ケイト・ブッシュのリマスターが、MQAで聴けるわけだ。
ULTRA DACを聴いていなければ、それほど魅力を感じなかっただろう。
けれど、すでに二度聴いている。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その5)

今年はフルレンジユニットを久しぶりにいくつか聴くことができた一年でもあった。
1月からは写真家の野上眞宏さんのところでSICAの13cm口径のダブルコーン、
7月のaudio wednesdayではグッドマンのAXIOM 402、
その数週間後に、友人のOさんのところでBeymaを聴いている。

グッドマンとBeymaは30cm口径で、
SICAを含めて、いずれもダブルコーンである。

SICAはイタリア、グッドマンはイギリス、Beymaはスペインと国は別々、
SICA、Beymaは現行製品だが、グッドマンはずいぶん以前に製造中止になっている。

聴いた場所もすべて違う。
鳴らしているアンプも違う。
なにもかも違っているけれど、
フルレンジの音は、いつでも聴けるようにしておきたい、と思わせる何かがある。

それはすべての人にとってそうであるわけではないかもしれない。
こんな音のどこによさがあるのか、と感じる人もいるだろうが、
私はフルレンジの音は、ずっと忘れたくない、と思う人間である。

もっといえばフルレンジのよさを、ずっと感じとれる人間でありたい、と思う。

Date: 12月 21st, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その4)

今日は21日。あと10日で2018年が終るというのに、
この項は、まだ三本しか書いていない。

この調子だと、2019年になっても「2018年をふりかえって」を書いていることにある。
いくつか書きたいことはあるが、そのいくつかは省略しよう。

どうしても書きたいのは、しつこいといわれても、
やはりメリディアンのULTRA DACのことだ。
ULTRA DACのことは、ここでも書いておきたい。

まだULTRA DACの音を聴いていない人が目の前にいると、
ULTRA DACについて語るにあたって、つい力がはいってしまうようだ。
「ULTRA DACのセールスマンか(笑)」といわれるほどのようだ。

本人としては、淡々と話しているつもりなのに、そうではないようだ。
本人としては、セールスマンのつもりはなく、
ULTRA DACのエヴァンジェリストのつもりでいる。

ULTRA DACについては、書いている途中だ。
来年になっても書いているだろう。
書きたいことは、書くほどに出てくる。

そのULTRA DACの音を、もっと短く表現するならば、
ステレオサウンド 130号、
勝見洋一氏の連載「硝子の視た音」の八回目の最後にあるフェリーニの言葉を引用したい。
     *
 そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
     *
再生音とは、決して記録音ではない。
記憶のような音だ、とおもっている。
けれど、記憶そのもの音ではない。
まだ知らぬ世界を聴かせてくれるからだ。

記録音、記録のような音しか求めない人にとって、
ULTRA DACの音は心に響かないことだろう。

けれど記録ではなく記憶。
記憶のような物語、記憶のような情景、記憶のような音を求める音楽の聴き手にとって、
ULTRA DACほど応えてくれるD/Aコンバーターは、いまのところ他にないように思う。

Date: 12月 18th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その3)

この一年で大きく変ったのは、
毎月第一水曜日に喫茶茶会記で行っているaudio wednesdayでの音である。

昨年の秋からトゥイーターをJBLの075に変更した。
今年になって、正式に喫茶茶会記導入となった。
それにあわせて075のネットワークも変更している。

1月からはマッキントッシュのMCD350が加わり、
SACDの再生が可能になった。

ネットワークも今回新たに直列型を作った。
以前試用していた直列型ネットワークとは、定数も変更しているし、
結線の仕方も大きく変更している。
実験的要素を含んだモノになっている。

アルテックのホーンにバッフルを加えた。
同時に075と806Aドライバーとを同じ部材に取り付けるようにし、
ユニットはインライン配置にした。

スピーカーのセッティングも、12月から変更している。
いままでのセッティングは、他の人では再現が難しかった。
通常の喫茶茶会記の音とaudio wednesdayでの音との違いは、
どうしても大きくなってしまう。

これをなんとか小さくしたい、とつねづね思っていた。
バッフルをつけたのも、ひとつにはそのことを考慮して、である。

2016年1月のaudio wednesdayから音を鳴らすようになった。
その前、2015年の12月に実験的に鳴らしていた。

その時の音は、常連のHさんと私だけが聴いている。
メリディアンのULTRA DACを迎えての12月のaudio wednesdayの音を聴いて、
Hさんがいわれた。
「最初の音とはまるで別物」と。

今年一年の変化も、かなり大きい。

Date: 12月 16th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その2)

今年は、手を動かした一年でもあった。
自分のオーディオではないけれど、スピーカーの自作、
パワーアンプの改良、それから喫茶茶会記のスピーカーにバッフルを用意したりと、
ハンダゴテもよく握ったし、木工の工具もよく使った。

これが自分のシステムだと面倒臭いという気持が先にあったりする。
逆ではないか、と思われそうだが、
自分のシステムだと、ここをこういうふうにすれば、こんなふうな変化をするであろう──、
そういう予測だけで満足してしまうところが、実はある。

ところが、誰かのシステムだとそういうわけにはいかない。
いい音を期待している人が、すぐそばにいるわけだから、
面倒臭いという気持は、ほとんど起きない。

実際に作業を始めると、予想以上に面倒なことがあったりする。
そこでも自分のシステムだったら、キリのよいところで中断するということもあるが、
誰かのシステムだから、ここでせそうそうわけにはいかない。

こういう時は、モノーラルならば片チャンネルで済むのに……、と思いながら、
作業を進めていく。

わかっていてもやってしまうのが、パーツの大きさを都合のいいように捉えてしまうことだ。
実際は大きいのに、ここに入るだろう、このパーツを簡単に置き換えられるだろう、と甘い予想をする。
予想は外れることは、ある程度わかっている。

少しばかり無理があるか、と思いながらも、そこでやめるわけにもいかず作業をする。
もっと小さなサイズであれば、こんな苦労はしなくも済むけれど、
使いたいパーツ以外は、交換しようとは思わない。

もう頼まれてもやらない、と思いながら作業を終えて音を出す。
予想が外れることはない。
それでも音が鳴ってくるまでは、どきどきするものだ。
これで鳴ってきた音は、以前とたいして変らなかったら……、
それどころか悪くなっていたら……、
そんな心配がまったくないわけではない。

このどきどき感は、実際に手を動かしたからのものである。
今年は、だから楽しかった。

Date: 12月 1st, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その1)

今日から12月。
月日の経つのをはやく感じた、かというと、
そうでもなかったりする。意外と長かった、と感じているところもある。

あっという間だった、と感じたときもあれば、そうでなかったときもあるし、
長いと感じていたときもある。

今年も、新しく知りあえた人たちがいる。

オーディオがもたらしてくれた人とのつながりである、と一年前にも書いた。
一年後も、同じことを書いている、とおもう、とも書いた。

まったくそのとおりだ。
そして来年もいまごろも、また同じことをきっと書いているだろう。

2018年の始まりは、
1月14日、杉並区の中央図書館の視聴覚ホールで行われた
オクタヴィア・レコードの江崎友淑氏による講演会「菅野録音の神髄」といえる。

ある人から、もしかすると菅野先生が来られる、ということをきいていた。
でも、可能性は低いだろう、とききながら思っていた。
当日も、まったく期待していなかった。

その日のことは別項「「菅野録音の神髄」(その1)」に書いている。
最前列の中央に菅野先生がおられた。

短い時間ではあったが、話すことができた。
このとき、予感はしていた。
こういう予感だけは、なぜだかあたる。

これが最後だ、という予感は、あたってほしくないのに、あたってしまう。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年の最後に

四谷三丁目のジャズ喫茶、喫茶茶会記での音出し。
「THE DIALOGUE」をしつこいぐらいに鳴らしてきた。

「THE DIALOGUE」をひとりで、自分のシステムで聴くのと、
喫茶茶会記のシステムをセッティングしなおして、来てくれた人たちといっしょに聴くのは、
同じではない。

ひとりなのか、複数なのか、という違いではない。
自分のシステムの音を誰かに聴かせるのとも違うからだ。
といっても私自身の音を、誰にも聴かせなくなってもう30年近くになる。

ジャズ喫茶という場での「THE DIALOGUE」、
特にこの組合せでの音は、かかってこい、という気持のあらわれでもある。

誰に対しての「かかってこい」かというと、聴いている人たちに対して、である。

最初から、そのことに気づいていたわけではなかった。
後半になってきて、気づいてきた。
この「かかってこい」は、圧倒的であれ、にもつながっていく。

「かかってこい」という気持に気づかせてくれたという意味でも、
私にとって「THE DIALOGUE」はジャズであり、
2018年も、この「かかってこい」という気持をより強くしていく。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: 1年の終りに……, High Resolution

2017年をふりかえって(その10)

今年の1月に「オーディオがオーディオでなくなるとき(その5)」の中で、
ハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない、と書いた。

昨年よりも今年はHigher Resolutionといえなくもない。
今年のインターナショナルオーディオショウでも、
Higher Resolutionといえる録音ソースが鳴らされてもいた。

Higher Resolutionといえるソースを、じっくり聴いているわけではないが、
なんとなく、そこに感じるのはドキュメンタリー的な色をつよく受けてしまう。

録音はスタジオプロダクト(studio product)だ、と私は考えている。
Higher Resolutionといえるソースで、
スペックをつよくうち出しているもののなかには、
スタジオプロダクトなのか、と思いたくなる感じのものがあった。

Date: 12月 20th, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その9)

待ち遠しい日があると、子供の時のように、時間が経つのが遅く感じられる。
大人になると、それも50もすぎると、一年が短く感じられる、とは誰もがいう。

心をワクワクドキドキさせて待つ日が、年に数回あれば、
意外に一年は長く感じられるものかもしれない、ということを、
私は2002年の夏におもっていた。

今年はどうだったか。例年よりもながく感じていた。
待ち遠しいと思う日が、例年よりも多かったからである。

私にとってaudio wednesdayも、待ち遠しい日の中に入っている。
音出しをするようになって、待ち遠しい、と感じるようになった。

昨年も音出しをしていたから、そう感じてもよさそうなのに、
今年のほうが、待ち遠しく感じている。

待ち遠しく感じるようになった理由はいくつか考えられるが、
来てくれる人の反応が楽しいから、というのがある。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その8)

今年の4月、メガネを替えた。
といっても、新たに買ったわけではなく、
以前かけていたメガネのレンズを交換して、ふたたびかけるようにした。

1998年に買った増永眼鏡のMP649である。
私が最初に買った川崎先生デザインのフレームである。

アンチテンションのMP690が出るまで、これをかけていた。
二年ほどかけていた。

十数年、ケースにしまったままのフレームを、おもうところあって再びかけている。

Date: 12月 18th, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その7)

一年ほど前に「タンノイがふさわしい年齢」というタイトルで書いている。

今年は「ヴァイタヴォックスがふさわしい年齢」というタイトルで、
一本書こうかな、と思うほどに、
ヴァイタヴォックスのことを考えることが、日常的といえるほどに増えてきた。