2018年をふりかえって(その4)
今日は21日。あと10日で2018年が終るというのに、
この項は、まだ三本しか書いていない。
この調子だと、2019年になっても「2018年をふりかえって」を書いていることにある。
いくつか書きたいことはあるが、そのいくつかは省略しよう。
どうしても書きたいのは、しつこいといわれても、
やはりメリディアンのULTRA DACのことだ。
ULTRA DACのことは、ここでも書いておきたい。
まだULTRA DACの音を聴いていない人が目の前にいると、
ULTRA DACについて語るにあたって、つい力がはいってしまうようだ。
「ULTRA DACのセールスマンか(笑)」といわれるほどのようだ。
本人としては、淡々と話しているつもりなのに、そうではないようだ。
本人としては、セールスマンのつもりはなく、
ULTRA DACのエヴァンジェリストのつもりでいる。
ULTRA DACについては、書いている途中だ。
来年になっても書いているだろう。
書きたいことは、書くほどに出てくる。
そのULTRA DACの音を、もっと短く表現するならば、
ステレオサウンド 130号、
勝見洋一氏の連載「硝子の視た音」の八回目の最後にあるフェリーニの言葉を引用したい。
*
そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
*
再生音とは、決して記録音ではない。
記憶のような音だ、とおもっている。
けれど、記憶そのもの音ではない。
まだ知らぬ世界を聴かせてくれるからだ。
記録音、記録のような音しか求めない人にとって、
ULTRA DACの音は心に響かないことだろう。
けれど記録ではなく記憶。
記憶のような物語、記憶のような情景、記憶のような音を求める音楽の聴き手にとって、
ULTRA DACほど応えてくれるD/Aコンバーターは、いまのところ他にないように思う。