Archive for category ディスク/ブック

Date: 3月 29th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その4)

“Hotel California”だけではない。
チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez”もそうだ。

私にとって“Children of Sanchez”も“Hotel California”も、
JBLの4343で聴いた音こそが、リファレンス(基準)となっている。

“Hotel California”はステレオサウンドの試聴室で聴いた音、
“Children of Sanchez”は、熊本のオーディオ店で瀬川先生が鳴らされた音が、
そうである。

これまで聴いてきたすべてのディスクがそうなのではない。
それほど数は多くはないが、そのディスクを最初に聴いた音が圧倒的であったり、
強烈であったりしたら、どうしてもその音がリファレンスとして焼きつけられる。

特に10代のころの、そういう体験は、いまもはっきりと残っている。
バルバラの「孤独のスケッチ」も、そういう一枚だ。

これも瀬川先生がセッティングされたKEFのModel 105の音を、
ピンポイントの位置で聴いた音が、いまも耳に残っている。

コリン・デイヴィスの「火の鳥」は、トーレンスのReference、マークレビンソンのLNP2、
SUMOのThe Gold、JBLの4343という組合せで聴いた、
文字通りの凄まじい音が、私にとってリファレンスであり、
この音が、瀬川先生が熊本で鳴らされた最後の音であり、
瀬川先生と会えたのも、この日が最後だった。

最初に聴いた音がリファレンスとなっているのは、
私の場合、いずれも自分のシステム以外での音である。

Date: 3月 26th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その3)

いまも“Hotel California”のディスクは持っていない。
そんな私にとっての、記憶の中にある“Hotel California”の音は、
つまりはJBLの4343で聴いた“Hotel California”である。

黒田先生の文章には、
《ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい》、
それから《ドラムスが乾いた音でつっこんでくる》、
《声もまた乾いた声だ》とある。

それに《12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと》とも書かれている。
音が重く引きずらずに、乾いて爽やかに鳴ってくれるのが、
私のなかにある“Hotel California”の音のイメージであり、
それは一般的な4343の音のイメージとも重なってくるだけに、
よけいに“Hotel California”の、そんなイメージを相乗効果で植え付けられた、ともいえる。

それに曲名が“Hotel California”である。
カリフォルニアに行ったことはないが、湿った空気のするところではない。

それがこの二年のあいだに聴いた“Hotel California”は、ずいぶんと印象が違ってくる。
もちろんスピーカーは、JBLの4343ではない。
けれど、そのことだけが、“Hotel California”の音の印象が違ってくる理由にはならない。

昔4343で聴いたことのある他のレコードを、
いま別のスピーカーで聴いても、音のイメージはそう大きくは変らない。
ところが“Hotel California”は、そうではない。

自分のCDではないので、こまかなところまで見ているわけではないが、
私が耳にした“Hotel California”は、2000年ごろにリマスタリングされたもののようだ。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その2)

それまで耳にしたことがなかったわけではないが、
“Hotel California”を聴いて、なるほど、たしかにそうだ、と感じたのは、
1982年になっていた。

録音が必ずしもモニタースピーカーの音と逆の傾向に仕上がるわけではないことは知っている。
モニタースピーカーの性格を熟知しているレコーディングエンジニアならば、
そのへんのことも自動的に補正しての録音を行う。

おそらくゲーリー・マルゴリスもそのへんのことはわかったうえでの、
ステレオサウンド 51号の発言なのだろうし、
確かにハイ上りといえばそうだし、
黒田先生が指摘されているように重低音を切りおとした、とも聴こえる。

重低音がそうだから、ハイ上りに聴こえるのかもしれない。
といって、いまとなっては確認のしようがない。
“Hotel California”は、何度か試聴室で聴いていたけれど、
自分でレコードを買うことはしなかった。

“Hotel California”を聴いたのは、もう36年ほど前であり、
“Hotel California”の音がどうだったのか、なんとなくの全体の印象は残っていても、
細部がどんなふうだったのか、そこまで記憶が残っているわけではない。

audio wednesdayで音を出すようになって、
“Hotel California”を聴く機会が、これまでに何度もあった。
別の場所で、ヘッドフォンでも聴いている。
つい先日もそうだった。

そこで疑問が湧いた。
こんな音だったかな? と。

私の中にかすかに残っている“Hotel California”の印象は、
当時のLPによるものである。
そのディスクが国内盤だったか、輸入盤だったかも、記憶は定かではない。

それでも聴いていると、かすかとはいえ記憶はよみがえってくる。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その1)

イーグルスの“Hotel California”のことを知ったのは、
ステレオサウンド 44号だった。

ロック小僧でなかった私は、イーグルスの名前は知っていても、
どのレコードもきいたことはなかった。

ステレオサウンド 44号の特集はスピーカーシステムの総テストで、
黒田先生が使われた十枚の試聴レコードの一枚が、“Hotel California”だった。

なので、当り前のように優れた録音のレコードだ、と思うようになっていた。
黒田先生は、こう書かれていた。
     *
 イーグルスの、レコードできける音は、重低音を切りおとした独特のものだ。そのために、ベース・ドラムなどにしても、決して重くはひびかない。そういう特徴のあるサウンドが、あいまいになっては、やはり困る。そして、ここでとりあげた2分の、前半の50秒は、インストルメンタルのみによっているが、その後、ヴォーカルが参加するが、そこで肝腎なのは、うたっている言葉が、どれだけ鮮明にききとれるかだ。なぜなら、「ホテル・カリフォルニア」はまぎれもない歌なのだから。
     *
さらに試聴ポイントして、五つあげられてもいた。

冒頭:左から12弦ギターが奏しはじめるが、この12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと、イーグルスのサウンドが充分にたのしめないだろう。

冒頭から025秒:ツィン・ギターによって、サウンドに厚みをもたせているが、その効果がききとれるかどうか。イーグルスの音楽的工夫を実感できるかどうかが問題だ。

冒頭から37秒:ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい。ギターによるひびきの中から、すっきりとハットシンバルの音がぬけでてきた時に、さわやかさが感じられる。

冒頭から51秒:ドラムスが乾いた音でつっこんでくる。重くひきずった音ではない。ドン・ヘンリーのヴォーカルがそれにつづく。声もまた、乾いた声だ。

冒頭から1分44秒:バック・コーラスが加わる。その効果がどれだけ示されるか。”Such a lovely place, such a lovely face” とうたう際の、言葉のたち方も問題になる。

“Hotel California”は、ステレオサウンド 51号にも登場している。
この号から始まった#4343研究で、
JBLプロフェッショナル・ディヴィジョンのゲーリー・マルゴリスとブルース・スクローガンが、
ステレオサウンド試聴室にて4343をセッティングしていく際に使ったレコードの一枚でもある。

“Hotel California”についてのマルゴリスの発言が載っている。
     *
イーグルスのホテル・カリフォルニアについては「このレコードはアルテックの604でモニターした音がしていますね。データは書いてありませんが、おそらくそうでしょう。」という。どうしてわかるのかと尋ねると「アルテックは帯域を少し狭めて、なおかつ中域が少し盛り上がり気味の周波数特性をしていますから、ミキシングのバランスとしては中域が引っ込みがちになることがあります。モニターの音と逆の傾向になることがあるのです。その分、高域が盛り上って聴こえます」と教えてくれた。そう思って聴くとたしかにハイ上りの音に思えてくる。
     *
私が“Hotel California”をきちんとしたかたちで聴くのは、
ステレオサウンドで働くようになってからだった。

Date: 3月 17th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ソング・オブ・サマー

ソング・オブ・サマー」が出ていたのを、
つい先日知った。

エリック・フェンビーによるディーリアスの本だ。
ディーリアスの名前だけは知っていた。
けれど、まだきいたことがなかった高校生のころ、
ケイト・ブッシュの三枚目のアルバムに「Delius」があった。

その歌詞に、フェンビーの名が出てくる。
フェンビーの名前を初めて知ったのは、ケイト・ブッシュの「Delius」のおかげだ。

とはいえフェンビーのことについて、すぐに何かを知ることができたわけではない。
二、三年して、やっとフェンビーのとディーリアスの関係について知った。

それでもフェンビーによるディーリアスを聴けたわけではない。
そのころの日本では、ビーチャム、バルビローリによる演奏が、
ディーリアスの定番となっていた。

どちらも聴いた。
でも、私は、ビーチャム、バルビローリによるディーリアスの音楽を聴く前に、
ケイト・ブッシュの「Delius」を聴いている。
その影響があるのは自分でもわかっている。

もっと違うディーリアスがあっていいのではないか──、
そんなふうに感じるところがあった。
何かもどかしさを感じていたともいえる。

フェンビーによるディーリアスのCDが出たのはいつだった。
1985年、もう少し前だったか、
六本木のWAVEで見つけたときは、嬉しかった。
やっとフェンビーの演奏でディーリアスが聴ける。

一方的な期待を持ちすぎて、初めてのディスクを聴いてしまうのは、おすすめしない。
フェンビーのディーリアスは、よかった。

ケイト・ブッシュの「Delius」で、私の中になにかが出来上っていたディーリアス像、
それにぴったりとはまるような感じを受けた。

正直にいおう、フェンビーのディーリアスを聴いて、
初めてディーリアスの音楽がいい、と思えた。

フェンビーの「ソング・オブ・サマー」は、評価も高いようだが、
残念なことにフェンビーによるディーリアスのCDはほとんどないのが現状だ。

CD-Rの七枚組を見つけた。
20代前半に聴いたフェンビーのディーリアス、
30年後に、もう一度聴けるだろうか、どう感じるのだろうか。

Date: 3月 14th, 2018
Cate: ディスク/ブック

針と溝 stylus&groove

本の雑誌社から齋藤圭吾氏の「針と溝 stylus&groove」が出ている。

写真集だ。
「カートリッジとアナログディスク」ではなく「針と溝」の書名があらわしているように、
カートリッジの針とアナログディスクの溝をマクロ撮影した写真がおさめられている。

Date: 3月 4th, 2018
Cate: ディスク/ブック

椿姫

私がステレオサウンド編集部にいたころは、
編集顧問をされていたYさん(Kさんでもある)がいた。

Yさんは、熱狂的なカルロス・クライバーのファン(聴き手)だった。
聴き手というだけでなく、カルロス・クライバーについての些細な情報についても、
すべてを知りたい、という人だった。

私よりずっと年上(父よりも上のはずだ)で、ほんとうに教養のある人だ。
そのYさんも「椿姫」といっていたな、と思い出したのは、
昨晩引用した黒田先生の文章を読み返したからだ。
     *
「椿姫」は、このオペラの原作であるデュマ・フィスの戯曲のタイトルであって、ヴェルディのオペラのタイトルではない。
 ヴェルディのオペラのタイトルは「ラ・トラヴィアータ」という。にもかかわらず、日本では昔から、慣習で、「ラ・トラヴィアータ」とよばれるべきオペラを「椿姫」とよんで、したしんできた。ことばの意味に即していえば、「ラ・トラヴィアータ」を「椿姫」とするのは、間違いである。
 デュマ・フィスの戯曲「椿姫」とヴェルディのオペラ「ラ・トラヴィアータ」とは、別ものであり、同一の作品とはみなしがたい、ということで、ヴェルディの作曲したオペラに対する「椿姫」という呼称をもちいない人がいる。その主張は正しい。オペラ「ラ・トラヴィアータ」は、正確に「ラ・トラヴィアータ」とよばれるべきであって、「椿姫」とよばれるべきではないとする考えは、正論である。
 正論であるから、つけいるすきがない。にもかかわらず、ここでは、正論より、慣例に準じる。「ラ・トラヴィアータ」という呼称より「椿姫」という呼称のほうが、より多くの方に馴染みがある、と考えられるからである。せっかく「椿姫」という呼び方でしたしんでいるのに、いまさら「ラ・トラヴィアータ」と、わざわざいいかえるまでもあるまい、というのがぼくの考えである。このオペラを、インテリ派オペラ・ファンの多くが正確に「ラ・トラヴィアータ」とよぶのに反し、素朴なオペラ好きたちは「椿姫」とよぶ傾向がある。ちなみに書きそえれば、ぼくは「椿姫」派である。
     *
「ラ・トラヴィアータ(La Traviata)」は、堕落した女、道を踏み外した女であり、
椿姫とするのは、確かに間違いということになる。

そんなことはYさんも知っていたはず。
それでもYさんは、「椿姫」派だった。

ずっと以前、ある人と話していた時に、「椿姫」と言ったことがある。
「あぁ、ラ・トラヴィアータね」とわざわざいいかえられた。

インテリ派オペラ・ファンが、ほんとうにいた、と思って聞いていた。

Date: 2月 24th, 2018
Cate: オーディオ入門, ディスク/ブック

オーディオ入門・考(マンガ版 オーディオ電気数学・その1)

オーディオ関連書籍のコーナーには、数ヵ月に一回くらいの割合で行く。
いくつかの書店の、そのコーナーをざっと見て、面白そうな本が出ていたら手にとる。

今日行った書店には、「マンガ版 オーディオ電気数学」があった。

奥付には、2013年8月20日発行とある。
四年半以上前に出ていた本に、今日初めて気づいた。
あまり期待していなかったが、「オーディオ電気数学」が示すように、
虚数の説明から始まる。

ここ数年、オーディオ入門書として発売されている本からすれば、
マンガ版とはいえ、数式はけっこう出てくるし、回路図ももちろん出てくる。

マンガ版と謳っているが、マンガとしての出来はそれほど高いとはいえないし、
そのせいで、本としての出来を少しスポイルしているかな、と感じなくもないが、
それでも、ここで紹介したいと思うだけの内容はもっている。

すべての説明がわかりやすい、とはいわないが、
この本を読んで、「あれって、そうだったのか」と気づく人はいるはずだ。

私も、この本に書かれていることをすべてを知っていたわけではないし、
知っていることでも、こういう説明の仕方もあるのか、と感心するところもある。

マンガ版だからといって偏見をもたずに、一度手にとって見てほしい、と思う。

Date: 2月 20th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Claudio Arrau (Complete Philips Recordings)

岡先生がクラシック・ベスト・レコードで、
アシュケナージに次いでよく取り上げられていたのが、クラウディオ・アラウという印象がある。

実際に数えたわけではないが、
あまりにも頻繁に、つまりアラウの新譜が出るたびに、高い評価をされていたから、
このころからアラウのレコードを集中的に聴くようになっていった。

ベートーヴェンの後期のソナタ、バッハ、モーツァルト、シューベルト、
どれも素晴らしかった。

けれどそれらのディスクは、以前書いているように、
切羽詰った時に、オーディオ機器をまず手離し、そしてディスクの大半も……、というときに、
私は手離した。

そのときは、これだけの名演なのだから、
しばらくして余裕ができたら買いなおそうと思っていた。

ところがいざ買いなおそうとしたときに、
アラウのCDは古い録音がいくつか出ているぐらいになっていた。

私がもっとも聴きたい、1980年代に入ってからの録音のほとんどが廃盤になっていた。
いつ再発売してくれるのか、と思い続けてきた。
もう諦めかけていて、中古CDを探そうか、と思ってもいた。

先週の金曜日(2月16日)、帰りの電車でfacebookを見ていたら、
クラウディオ・アラウ全集発売の投稿があった。

いまはもうフィリップス・レーベルはないから、デッカから80枚ボックスで出る。
やっと登場した。
ベートーヴェンも、モーツァルトもバッハもシューベルトもある。

Date: 1月 22nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

「かくかくしかじか」

かくかくしかじか」というマンガがある。
東村アキコの作品だ。

「かくかくしかじか」」の二話目の最後のページ、
     *
今の私には
分かります。

今さらもう
遅いよね

怒らないでね
先生
     *
というセリフ(独白)がある。
ここで直感した。

「先生」はもう亡くなっているんだ、と。

恩師と呼べる人をもち、
返事がないのはわかっていても、問いかけている人ならば、
すぐに気づくことだ。

三話目の最後のページにも、ある。
     *
そうだよ

最初から
お人好しだったんだよ
先生は

そうじゃなきゃ
バカなんだよ

大バカだよ

ねえ
先生
    *
作者の東村アキコ氏の気持がわかる人は、
恩師がいた人だ。

Date: 1月 11th, 2018
Cate: ディスク/ブック

超画期的木工テクニック

特に用事がなかったけれど、ぶらっと新宿の東急ハンズに行っていた。
六階に上ったら、「木工、やられてます?」と声をかけられた。

毎週木曜日、15時から六階の工具売場で行われている木曜木工という実演販売だった。
電動工具がなければ、正確な木工は難しいと思いがちである。

けれど木曜木工の人は、手引鋸でいとも簡単にまっすぐに角材を切っていく。
鋸が特殊なわけではなく、ノコギリガイドを使っていた。
といっても、このノコギリガイドも特殊なものではない。
ただ側面にマグネットシートが貼られているだけである。

マグネットシートに鋸がくっつく。
だから刃が湾曲することもなく、まっすぐに切ることができる。
たったこれだけのことなのに、効果は確かですごい。

いままでスピーカーの自作を考えながらも、切断のことで二の足をふんでいる人は、
一度、木曜木工の実演を見たら、いい。

実演されていた方は、杉田豊久氏で、
「超画期的木工テクニック」と「杉田式・ノコギリ木工のすべて」の筆者でもある。

Date: 1月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

NEW YORK-HOLY CITY

NEW YORK-HOLY CITY」は写真集だ。
どんな写真が、そこに収められているかは、タイトルが示している。

オーディオとはなんの接点もないように思えるだろう。
音楽とは……、
細野晴臣氏が「ニューヨークは聖地」というエッセーを寄せられているし、
「NEW YORK-HOLY CITY」の写真家、マイク野上(野上眞宏)さんは大の音楽好きで、
オーディオマニアだから、接点がないわけでもない。

それでも、ここで「NEW YORK-HOLY CITY」について書いているのは、
別項「情報・情景・情操(8Kを観て・その7)」で、
8×10(エイトバイテン)についての瀬川先生の文章を引用したのと関係してのことだ。

大型カメラとしか書いてないが、8×10で撮られた写真が、
「NEW YORK-HOLY CITY」にはおさめられている。

写真集だからカバーがついている。
カバーの端が内側に折れているところに、野上さんの文章がある。
     *
 この写真集は、私が1978年ヴァージニアにいるときに思いついた「趣味の写真」のアイデアをもとに、79年から94年までのニューヨーク在住中に撮った写真のうち、大型カメラで撮ったものから選んだ「ニューヨークの秘境案内」の写真集です。
 19世紀後半、アメリカ東部のフォトグラファーが大型カメラを馬車に積み込んで、当時の東部人にとってはまだまだ未知の世界だった西部を撮るためにオレゴンやカリフォルニアを旅して回りました。同じ頃、ヨーロッパのフォトグラファーは、汽車や船に機材を積んで遠い中国の宮殿やインドの虎狩りやアフリカのジャングルの巨大な滝などを撮りました。当時の人達はまだみぬ世界を一枚の写真の中に驚きをもって発見していたのです。時代は変わり、東洋人の僕が西洋文明の秘境の風景を大きなエキゾシズムをもって撮ってみたのがこの写真集です。かといって西洋文明を批評する気はなく、見る楽しみ、ディテールとテクスチャーの快楽の写真であります。参考に、地図も載せておきましたので興味のある方は各自の責任で行ってみるのも一興でしょう。
     *
《ディテールとテクスチャー》とある。
まさにそうだ、とおもった。
瀬川先生が、「いま、いい音のアンプがほしい」で書かれていることも、まさにそうである。
と同時に、《ディテールとテクスチャー》が、
私のなかでは、1976年12発行「ステレオのすべて」で、
黒田先生が《瀬川さんはプレゼンスだと。全くそうだと》につながっていく。

Date: 12月 30th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ニュー・アトランティス(その3)

『「もの」に反映するジョンブル精神』から、あと一本書き写しておきたい。
     *
最初の「拡声器」を作った人は、イギリス人、サミュエル・モーランド卿であると、ヨハン・ベックマンは言う(『西洋事物起源』特許庁内技術史研究会・ダイヤモンド社)。サミュエルは、数年にわたって多くの実験を行なった後、1671年に拡声器に関する本を発行した。この器具は、口が広いトランペットのような形状のもので、彼は最初、これをガラスで作らせ、後に、種々の改良を施して銅で作らせた。彼はこれを用い、王(チャールスII世)や、ルパート(Rupert)皇子らの人びとの隣席の下でさまざまな実験を行ったが、人びとはその効力に驚嘆したのであった。ベーコンの予言、『ニュー・アトランティス』の約半世紀あとのことであった。サミュエル・モーランドと、ほぼ同時代人だったのが、ニュートンである。ニュートンによって象徴されるように、17世紀は、数学や物理や化学の基礎研究が積み重ねられていった時代である。それが18世紀前半から、せきを切ったように、発明ラッシュとなり、やがて産業革命のクひとつの要因となっていく、そういう世紀を準備していた時代でもある。『電気音響学』の名著(1954)で知られるフレデリック・ハントは、その学問の契機となった重要な発見として、1729年のステファン・グレイによる電気の導体と不導体の区別を挙げている。もちろん、グレイもイギリス人である。次の世紀にあらわれたマイケル・ファラデーの名前はあまりにも有名である。かれが発見した電磁誘導の現象を、さらに深く追求したのが、ジェームス・マックスウェルであり、その後継者、ジョン・ウィリアム・ストラット・レーリイは今日もなお復刻されている名著『音の理論』を著わした(1877年)。これだけの種がまかれてきたのだから、20世紀のイギリス人のオーディオでの分野の収穫が、その質において、きわめてたこかいものも充分にうなずけるのである。
     *
THE BRITISH SOUNDのカラー口絵ということを差し引いても、
底の深さのようなものを感じる。

そしてくり返しになるが、情報革命は劇場から、ということも深く実感する。

THE BRITISH SOUNDには、「英国製品の魅力を語る」というページもある。
井上卓也、上杉佳郎、岡俊雄、菅野沖彦、長島達夫、柳沢功力の五氏によるものだ。

井上先生が、こんなことを書かれている。
     *
 英国のオーディオは、その歴史も古く、趣味性豊かでオリジナリティのある製品を、SP時代の昔から原題にいたるまでつくり続けてきた点で、特異な存在である。
 英国のオーディオの独自性を示す一つの例がある。去年の八月末に西独デュッセルドルフで開かれたテレビ・ラジオ・ショー(日本のオーディオフェアに相当する)で、各国のジャーナリストが集まり良いオーディオ製品とは何か、をメインテーマとして話し合いをする催しが開かれた。これに西独のオーディオ誌から四名、英国のフリーランスの評論家二名、それに日本から三名が参加したときのことである。西独側が測定データをチェックし、それに補足的に試聴を加えて、基本的に測定データの優れた製品が良いオーディオ製品である、雑誌にもデータ類を優先し、主にグラフ化して発表するという立場を主張するのに対して、英国側は同様に測定データを優先させながらも、かなり試聴にも重点を置き、良い製品をセレクトし、リポートする立場をとる。このように、文字として記せば大差ないことのように思われがちな主張の差であるが、西独側の発言で、ヨーロッパでは一般にこのような考え方をする……というと、英国側から間髪を入れずに、我々は異なった見解であるという意味の反論が飛び出してきた。穏やかな話し合いの場でさえも、明確に自己の主張を通す態度は、少なくともこの催しの場では英国側の際立った特徴であり、西独側のほうが論理的ではあるが、むしろ、主張の鋭さにいま一歩欠けた点が感じられるようであった。
     *
イギリスのふたりのフリーの評論家が誰なのかはわからないし、
彼らがフランシス・ベーコンの「ニュー・アトランティス」を読んでいたのか、
サミュエル・モーランド、ステファン・グレイ、
ジョン・ウィリアム・ストラット・レーリイといった人たちのことを、
どれだけ知っていて、彼らを関連付けて捉えているのか、そんなことは一切わからないが、
それでも「イギリスこそが……」という自負のようなものがあるのではないのか。

それはシェークスピアの国だからなのか。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ニュー・アトランティス(その2)

『「もの」に反映するジョンブル精神』の文章は、
私の記憶違いでなければ、Kさんである。

私よりかなり年上のKさんは、知識欲旺盛な人である。
こういうひとが、あの大学に行くのだな、と納得させられるほど、
あらゆる勉強を楽しまれている感じを、いつも受けていた。

しかもマンガもしっかり読まれている、というのが、私には嬉しかった。

「ニュー・アトランティス」について書かれた次のページには、こうある。
     *
シェークスピアの同時代人であるベーコンが音響工学に興味を持った理由を想像してみる。そこで、思いつくのは、この時代のロンドンのひとたちの演劇についての異常なまでの熱狂ぶりである。木造で、数千人を収容できる公衆劇場が、1600年当時、すくなくとも5つか6つ存在した、と推定されている。この店ではヨーロッパの他の都市にはくらべるものがなく、ロンドンをおとずれた外国人をおどろかせたという。この話を紹介しているフランセス・イエイツ(『世界劇場』藤田実訳・晶文社)は、これらの劇場が、いずれも〝古代ローマ人の方式にならった木造の〟劇場であったと述べている。〝これらの建物には屋根がなく、座席が階段状についた桟敷(ギャラリー)が、劇場のまんなかの上に開いた空間「中庭(ヤード)」を取り囲み、この中庭に開け放しの舞台(オープン・ステージ)がつき出ている。〟イギリスのルネッサンスは、劇場と演劇というかたちで、その独自の発現を見せたようである。その頂点に、私達は、あのウィリアム・シェークスピアの名を見ることができる、そう言ってよいだろう。数千人を収容できる公衆劇場が、PA装置もなく用いられるとしたら、これはどうしても音響工学と直面しなければならなくなってしまう。これらの劇場の下敷となったと思われる、古代ローマの建築家、ヴィトルヴィウスの著述のことをも、イエイツは指摘している。このヴィトルヴィウスは劇場の音響効果にも、すでに大きな関心をはらっていた。ヴィトルヴィウスの建築書を、歴史のなかから、ルネッサンスのヨーロッパに持ちこんだのはイタリア人だったが、それを、故大劇場の復活というかたちで、もっともよく生かしたのはイギリス人だった。それは、同時に、音響工学のルネッサンスでせあった。イギリス人は、その歴史を受け継いでいるのである。
     *
こうやって書き写していても、Kさんでなければ書けない文章だ、と思っていた。

同時に、農業革命は農場から、工業革命は工場から、
情報革命は劇場から、という川崎先生のことばも思い出していた。

Date: 12月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ニュー・アトランティス(その1)

1622年から24年にかけてフランシス・ベーコンが「ニュー・アトランティス」を書いている。
17世紀、いまから400年ほど前に、フランシス・ベーコンは音響研究所について書いている。
     *
 また音響研究所ではあらゆる音を実際に発生させ実験している。われわれにはあなた方にはない和音、四分の一音やそれ以下の微妙な違いの音によるハーモニーがある。同じくあなた方の知らぬさまざまな楽器があり、あるものはあなた方のどの楽器も及ばぬ甘美な音色を出す。典雅な音を奏でる鐘、鈴の類もある。小さな音を大きく、深く響かせ、大きな音を弱め、鋭くすることも、本来は渾然一体てある音を震わせ、揺るがせることも、あらゆる明瞭な音声と文字、獣の咆哮、鳥の歌声を模倣し、表現することもできる。耳に装着して聴覚を大いに助ける器具もあれば、音声を鞠でも投げ返すように、何度も反響させて、種々の奇妙な人工木霊を作り、来た音声を前より大きくして返したり、高くも低くもする装置もある。あるものは、もとの綴りとも発音とも明らかに違う音声に変えてしまう。筒や管を用い、奇妙な経路を経て遠くに音声を運ぶ手段もある。
(「ニュー・アトランティス」 川西進訳・岩波文庫より)
     *
初めて読まれる方もいるはずだ。
どう思われただろうか。
驚かれた、はずだ。

「ニュー・アトランティス」に音響研究所についての記述があるのは、1983年に知った。
ステレオサウンド別冊THE BRITISH SOUNDのカラー口絵。
『「もの」に反映するジョンブル精神』とつけられた10ページの記事。

この記事で、音響研究所の箇所を読んだ。
驚いた。

THE BRITISH SOUNDでの引用は、中橋一夫訳・日本評論社から、である。
当時、「ニュー・アトランティス」を読もうと思ったのに、
なぜかいまごろ読んでいるのは、手に入らなかったから忘れてしまったのか……。
もうはっきりとは憶えていない。

それから今日までTHE BRITISH SOUNDは何度も開いている。
その度に、「ニュー・アトランティス」のところを読んでいたわけではないが、
何度かは読み返している。

それでも、いまになって、あらためて、すごい予見だ、と思っている。