ぼくのベストバイ これまでとはひとあじちがう濃密なきき方ができる

黒田恭一

ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「’78ベストバイ・コンポーネント」より

 再生装置を、自分の部屋にむかえ入れるときには、いささかの緊張がある。それがスピーカーだろうと、アンプだろうと、プレーヤーだろうと、同じことだ。逆の面からいえば、むかえ入れるにあたっていささか緊張するようなスピーカーやアンプやプレーヤーだからこそ、自分の部屋にはこびこもうと思ったといえなくもない。しかし、その緊張は、いずれにしろ、わるいものではない。それは、たまたまの機会に知りあい、意気投合した友人を、じっくりはなしあうために、自分の部屋にまねいたときと、似ていなくもない。
 少しぐらい片づけたり、掃除したりしてどうなるわけでもない部屋だが、それでもやはり、せいいっぱいきれいにして、その到着を待つことになる。テクニクスの、プリアンプSU-C01、パワーアンプSE-C01、それにチューナーST-C01をむかえいれる前には、特に、その気持が強かった。あらかじめ、その瀟洒な姿は、みてしっていたので、ふんばっておよぶものでないことがわかっていても、一応、それらしい部屋にしておこうと思い、部屋のあちこちを片づけたりした。ここんとこ忙しくて、かれこれ一週間ぐらい風呂に入っていなんだ──というような、衿あしに垢をうかべたうすぎたない男(そのたぐいの友人が、なぜかぼくには多いのだが)と会うのだったら、こっちもたいして気にしなくてすむが、さもなければ、相手に失礼にならないように、それなりの努力をすることになる。今回は、そのような意味で、それなりの努力をしたことになる。
 むかえ入れたのは、プリアンプとパワーアンプ、それにチューナーだから、当然、それだけでは、音がでない。とりあえず、スピーカーをつながなければ、音がきけない。それで、たまたま手元にあって、そのくっきりしたひびきが気にいっていたビクターのS-m3というスピーカーをつなぎ、やはりFMやAMだけではなく、レコードもききたいので、ベオグラム4000を、つないだ。それらを、ありあわせの、しかしそれらがうまい感じに配置できる、白い、キャスターのついた台に、のせた。
 ベオグラム4000は、12キロほどあって、ちょっとした重さだが、スピーカーはふたつあわせて4・1キロ、SU-C01が3キロ、SE-C01が3・5キロ、それにST-C01が2・9キロだから、合計で約26キロということになる。キャスターのついた台にのっている26キロは、別にどうということもない。容易にあちこちに動かすことができる。しかもその台からげてているコードは、電源コードが一本だけだ。
 そうすることがよかったのかどうかわからぬが、いずれにしろ、プリアンプ、パワーアンプ、それにチューナーのそれぞれが、297ミリ(幅)×49ミリ(高さ)という小ささゆえに、それに先にしるしたような軽さゆえに、そのような設置方法が考えられたということはできるだろう。奥行だけは、わずかばかりずつちがっていて、プリアンプ(241ミリ)、パワーアンプ(250ミリ)、チューナー(255ミリ)となっている。
 ともかく、そのように、白いキャスターのついた台の上に、それらのものを、一応みばえも考えて、設置した。電源コードもつないだ。オーディオに対していささかの興味と関心を抱いている方ならわかっていただけると思う。たのしい、胸ときめく瞬間をほんの少しでもながびかせたいと、プリアンプのパワー・スイッチに一度はふれた手をはなして、あたりをみまわした。普段つかっている再生装置のあれこれが、妙にごろっとしているように感じられた。あたかも、運動選手のきりっとひきしまった身体と、運動などおよそしないで、ただぶくぶくと醜くふとった男の身体とを、みくらべたときに感じるようなへだたりがあった。なんでぼくは、このような大きなものを、毎日使っているのだろうと思ったりもした。
 SU-C01のパワー・スイッチを入れた。プリアンプの、パワー・スイッチをの上の赤いあかりがつくのと同時に、パワーアンプのインジケーターの、星のまたたきを思わせるあかりが左から右へ走った。なるほどと思い、しばらくは、そのままの招待で、ながめていた。パワーアンプの窓の左はじには、小さなあかりが、じっと動かずに光っていた。チューナーの赤い針の両脇には、針の方向をむいて、二つの矢印がついていた。どこの放送局にも同調できていないことがわかった。チューナーからきこうか、それともレコードからきこうか、そのことでの迷いはなかった。まずレコードから──と、はじめから考えていたからだった。
 それぞれの装置の呼ぶレコードがある。カートリッジをとりかえた、さて、どのレコードにしようかと、そのカートリッジで最初にきくレコードは、おそらく、そのカートリッジを選んだ人の、そこで選ばれたカートリッジに対しての期待を、無言のうちにものがたっていると考えていいだろう。スピーカーについても、アンプについても、同じことがいえる。ともかく、あのカートリッジを買ってきたら、このレコードをきこうと、あらかじめ考えていることもあり、カートリッジを買ってきてしまって、後から、レコードを考える場合もある。いずれにしろ、最初のレコードをターンテーブルにのせるときは、実にスリリングだ。
 今回は、それらをむかえ入れる環境づくりにせいいっぱいで、レコードのことまで考えがおよばなかった。したがって、パワー・スイッチを押したまではよかったが、さて、なにをかけたものかと、そこで困ってしまった。しかし、そんなに長い時間をかけて考えるまでもなかった。そうだ、あれにしよう──と、かけるべきレコードは、すぐに思いついた。
 その数日前、輸入レコード店で買ってきた、シンガーズ・アンリミテッドのレコードだった。それには、「フィーリング・フリー」というタイトルがついていた。フィーリング・フリーという言葉も、この場合、マッチしているように思った。シンガーズ・アンリミテッドのレコードは、好きで、大半のものはきいているはずたったが、ジャケット裏の説明によると、一九七五年の春に録音されたという、その「フィーリング・フリー」は、それまできいたことがなかった。ベオグラム4000のターンテーブルにのせたのは、ドイツMPS68・103というレコード番号のレコードだった。
 A面の最初には、「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」という、スティービー・ワンダーのすてきな歌が、入っていた。音楽がはじまると、パワーアンプの、星のまたたきを思わせるあかりは、それぞれのチャンネルに二つか三つずつついて、右方向への動きを示した。
 シンガーズ・アンリミテッドの声は、パット・ウィリアムス編曲・指揮によるビッグ・バンドのひびきと、よくとけあっていた。「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」は、アップ・テンポで、軽快に演奏されていた。しかし、そのレコードできける音楽がどのようなものかは、すでに、普段つかっている、より大型の装置できいていたので、しっていた。にもかかわらず、これがとても不思議だったのだが、JBL4343できいたときには、あのようにきこえたものが、ここではこうきこえるといったような、つまり両者を比較してどうのこうのいうような気持になれなかった。だからといって、あれはあれ、これはこれとわりきっていたわけでもなかった。どうやらぼくは、あきらかに別の体験をしていると、最初から思いこんでいたようだった。
 もし敢て比較すれば、たしかに、クォリティの面で、JBL4343できいたときの方が、格段にすぐれていたというべきだろう。しかし、視点をかえて、JBL4343で、そのキャスターのついた白い台の上にのっていた装置できくようなきき方ができるかといえば、ノーといわざるをえない。
 結局、そのキャスターのついた白い台の前で、5時間ほどすごした。当然、その間に、さまざまなレコードをきいた。最初は、シンガーズ・アンリミテッドだったが、それがイ・ムジチのモーツァルトにかわり、ベン・シドランにかわり、さらに最近気にいっているケイト・ブッシュのレコードにかわりといったように、まさに気ままに、いろんなレコードをきいた。実にたのしい5時間だった。夢中ですごしてしまった5時間で、気がついたら、あれっ、もうこんなに時間がたったのかといった感じだった。
 したがって、これから書こうとしていることは、ききながら考えたことではなく、きき終って後に考えたことだ。なにぶんにも、きいているときは、夢中できいていたので、考える余裕など、まるでなかった。
 そうなれば、なぜ、そのように夢中になったのかを、まず書いておくべきだろう。出口と入口、つまりスピーカーとカートリッジからおして(書きおとしていたが、そのとき、ベオグラム4000のアームには、MMC6000がついていた)、そこできこえた音は、おのずと推測が可能だろう。いかにアンプの性能がよくとも、その音は、ある限界内のものだった。
 後に、プリアンプSU-C01+パワーアンプSE-C01を、JBL4343につなぎ、カートリッジをオルトフォンMC20にしてきいてみて、これらのアンプの質的高さを、あらためて確認することができた。が、ここでの質的高さについて、たちいってのべるつもりはない。理由は簡単だ。これだけの質的高さを誇るアンプは、他になくもないが、これだけのクォリティを確保しながら、それでいて、特にパワーアンプについていえば、297ミリ(幅)×46ミリ(高さ)×250ミリ(奥行)という大きさ、3・5キロという重量にとどめ、このような瀟洒な様子でまとめられているものが、ほかにみあたらないからだ。
 だかといって、質的な面を軽視しているわけではない。むしろ、質的に充分な水準まで達しているという安心があればこそ、超小型スピーカーをドライブさせて、そこでつかうスピーカーの最良の点でつかうことができる。たしかに、ビクターのS-M3は、かつてそのスピーカーからきいたことがないような、きりっとした音をきかせた。たとえば、ふくよかなといったような言葉でいえる音の感じには、そこではききとりにくい。上質なフロア型スピーカーのきかせるたっぷりとしたひびきもまた、そこでは望むべくもない。そのようなものをそこで求めたとしたら、それはあきらかに、見当はずれのところで、ないものねだりをしたことになるだろう。
 でも、ぼくは、それらをむかえ入れた日に、5時間、その前ですごした。実にたのしい、充実した5時間だった。その後も、折にふれて、そのキャスターのついた白い台の前で、すごした。
 いかなる再生装置できく場合でも、誰もが、そのとききくレコードできける音楽の性格にあわせて、音量を調整する。もしブロックフレーテの音楽を、マーラーのシンフォニーをきくような音量できくような人がいたとすれば、その人の音楽的センスは疑われてもやむをえないだろう。音楽が求める音量がかならずある。それを無視して音楽をきくのはむずかしい。
 ただ、多くの場合、リスニング・ポジションは、一定だ。ということは、スピーカーからききてまでの距離は、常にかわらないということだ。ブロックフレーテの音楽をきくときも、マーラーのシンフォニーをきくときも、音量はかえるが、リスニング・ポジションは、かえない。すくなくともぼくは、かえないできいている。それはそれでいい。
 ところが、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、そのときかけるレコードによって、耳からスピーカーまでの距離をさまざまにかえた。もっとも、それは、かえようとしてかえたのではなく、後から気がついたらそれぞれのレコードによって、台を、手前にひきつけたり、むこうにおしやったりしてきいていたのがわかった。むろん、そういうきき方は、普段のきき方と、少なからずちがっている。そのちがいを、言葉にするとすれば、スライドを、スクリーンにうつしてみるのと、ビューアーでみるのとのちがいといえるかもしれない。
 それが可能だったことを、ここで重く考えたいと思う。若い世代の方はご存じないことかもしれぬが、ぼくは、子供のころ、ラジオに耳をこすりつけるようにして、きいた経験がある。そんなに近づかないとしても、ともかくラジオで可能な音量にはおのずと限度があったから、たとえば今のように、スピーカーからかなりはなれたところできくというようなことは、当時はしなかった。いや、したくとも、できなかった。そこで、せいいっぱい耳をそばだてて、その上に、耳を、ラジオの、ごく小さなスピーカーに近づけて、きいた。
 当然、中波だったし、ラジオの性能とてしれたものだったから、いかに耳をすまそうと、ろくでもない音しかきけなかった。にもかかわらず、そこには、というのはラジオとききての間にはということだが、いとも緊密な関係があった──と、思う。そのためにきき方がぎごちなくなるというマイナス面もなきにしもあらずだったが、あの緊密な関係は、それなりに今もあるとしても、性格的に変質したといえなくもない。リスニング・ポジションを一定にして、音量をかえながら、レコードをきく──というのが、今の、一般的なきき方だとすれば、あのラジオのきき方は、もう少しちがっていた。
 そういう、昔のラジオをきいていたときの、ラジオとききてとの間にあった緊密な関係を、キャスターのついた白い台の上にのった再生装置一式のきかせる音は、思いださせた。それは、気持の上で、レコードをきいているというより、本を読んでいるときのものに近かった。
 ここに二冊の画集がある。一方は、17センチ×18センチの、いわゆるスキラバンの画集で、もう一方は、28センチ×32センチもある、かなりの大きさの画集だ。当然、それらをみるときの、それらをみる人の、画からの距離は、微妙にかわる。その場合には、そこに印刷されている画の性格、内容とも無関係ではないが、小さな画集のときには、どうしても目が近づいていくだろうし、大きな画集のときには、小さな画集をみるときよりはなれぎみになるにちがいない。ただ、いずれにしろ、ふたつの目と画との間にできる空間には、ある種の濃密な空気がただよう。その濃密な空気は、ラジオとききての間の空間にあったものと、似ていなくもない。
 それなら、ふたつのフロア型スピーカーとききてとの間の空間にだってあるだろう──と、お考えかもしれない。たしかに、それは、ある。しかし、その空間は、画集の印刷された画と、それをみる人の間の空間と較べて、あまりにも大きいために、まったく同じ濃密さがあるとは、いいがたい。
 5時間の間、キャスターのついた白い台を、むこうにおしやったり、手前にひいたりして、つまり、ラジオをきくようにきいたということになるのかもしれない。当然、音質的には、かつてぼくがきいていたラジオのそれなどとは較べものにならないほどの、すばらしいものだったが、再生された音と、それをきく人間の関係という、ごく基本的なところでは、すくなからぬ共通点があった。
 そういうことで、キャスターのついた再生装置一式は、あらたな──というより、これまでとかく忘れがちだった、もうひとつのレコードのきき方に気づかせた。しかし、それだけのことならなにも、アンプが小さくなくてもいいだろう。小型スピーカーをキャスターのついた台の上にのせさえすれば、そんなことは可能なはずだ──と、お考えかもしれない。たしかにその通りだ。だが、それは、あくまでも、理屈でしかない。小さく、軽いからこそ、手もとにおいて音量の操作ができる。キャスターのついた台の上に一式がのってしまうからこそ、その台を画集のごとくに考えられるということを忘れるわけにはいかない。
 小さいからこそ、そして軽いからこそ、そしてこれはいわずもがなのことながら、音質の点で充分に水準に達していればこそ、そういうきき方が可能だった。小さければいいたろう、軽ければいいだろう、粋なスタイルでまとめられていればいいだろう──ということではない。これは、JBL4343の方につないだときにわかったことだが、誇張や無理のない、SU-C01+SE-C01の音は、なかなかどうして、その小ささが信じられないほどのものだった。ひとことでいえば、すなおな音ということになるだろう。

 ただ、このテクニクスのC01のシリーズが、プリアンプとパワーアンプと、それにチューナー(このチューナーがFM/AMなのはありがたい)だけで終ってしまうのだとしたら、残念だ。こちらとしては、やはりどうしても、この大きさのカセット・デッキがほしい。それに、これらのアンプやチューナーと大きさや性能の点で充分にフィットするプレーヤーも、できることならほしいものだ。なるほど、プレーヤーは、一般のレコードの直系が30センチあるということで、むずかしい点が多々あるのだろうが、使い手は勝手に、LP初期につかわれていた、あの小さなターンテーブルの、しごく簡単なプレーヤーのことなどを、思いだしたりしてしまう。今日の技術をもってすれば、みかけはあのようなものでも、かなりの水準のものがつくれるのではないか。そのような期待を抱かせずにおかないSU-C01であり、SE-C01であり、ST-C01だった。
 チューナーのST-C01について、少しふれておけば、使い勝手は、大変にいい。小さいから、ダイヤルを読みにくいのではないかと思われかもしれないが、ぼくはほとんど不自由を感じなかった。先にもふれたように、どっちに動かせという指示が矢印で示されるので、それにしたがえば、なんなく同調させることができる。
 コンパクトにできていることは、あらためていうまでもないが、コンパクトにしたために使い勝手の点で問題が生じているかというと、そうではない。おすもうさんのような大きな手の人だとどうかわからぬが、普通の手の人なら、それぞれのつまみの大きさなど、これで充分だ。しかも、スイッチ類にしても、カチッときまって、感触の上で、一種の高級感がある。こういうものは、その辺がいいかげんになると、小さいだけに、どうしてもおもちゃめいてくるが、そこから見事にのがれているのは、そのためだ。
 小形装置・イコール・サブ装置──と考える考え方が強い。たしかに、ビクターS-M3のスピーカーをつないできくかぎり、大編成のオーケストラによって演奏されたものなどでは、幾分むずかしいところがある。そういう音楽を中心にききたいという人にはあるいはむかないかもしれない。第一、これらのアンプにつなぐスピーカーとして、ビクターS-M3がベストだったかどうかは、断言できない。それにむろん、プレーヤーやカートリッジについても、選択の余地があるはずだ。したがってここでは、あくまでも、スピーカーにビクターS-M3をつかい、プレーヤーにベオグラム4000をつかった場合のこととしていわせていただくが、もし小編成のグループによって演奏された、ことさらダイナミックな表現力を必要としない音楽をおもにきくという人なら、この一式をメインの装置としてつかえるにちがいない。
 もっとも、SU-C01+SE-C01を、一般的な使い方で──ということは、フロア型スピーカーにつないで、ききてが一定のリスニング・ポジションできくという使い方のわけだが、そういう使い方でということなら、その限りではない。しかし、先にものべたように、これだけの小ささで、これだけ軽量だという、このアンプやチューナーの最大の美点をいかしてつかおうということになれば、これまでの一般的な使い方でとどまっていては、いかにもつまらないと思う。
 真に新しい道具は、その使い手の考え方をもゆさぶることがある。このテクニクスの新しいアンプやチューナーには、それがあった。小さくて軽く、あつかいやすいなどという、音が眼目のオーディオ機器では副次的と思われやすいことで、その使い手は、音とのふれあい方という、これはごく基本的なところでゆさぶられたことになる。おそらくぼくは、このコンパクトなアンプやチューナーを手にしなければ、画集で画をみるように音楽をきくことを、あるいはかつてラジオをきいたときのように自分の耳をスピーカーの方によせていってレコードをきくことに、気づかなかったのかもしれない。
 たしかに、キャスターのついた白い台の前ですごした5時間の間、マーラーのシンフォニーも、ハードなロックもきかなかった。結局、そういうレコードは、それらの装置が呼ばなかったからだろう。きいたレコードのうちの多くがきかせたのは、どこかにインティメイトな表情のある音楽だった。
 まだつかいはじめたばかりで、断言することはできないが、これからも、ぼくは、そのキャスターのついた白い台の前で、少なからぬ時間をすごすにちがいない。仕事の関係で、マーラーのシンフォニーをきくことも、リヒャルト・シュトラウスの楽劇をきくこともあるから、そのときは、より大がかりな装置できくことになるのだろうが、レコードによっては、スピーカーとききての間に生じる濃密な空気を求めて、キャスターのついた白い台の一式できくことになるだろう。だからといって、その小形の装置を副次的に考えているわけではない。ただぼくは、そこで、レコード=音楽の求めにしたがい、そうしたことになる。つまり、今度は、そういうきき方もできるようなったので、そのようにきくということだ。
 さて、これを書いてしまったら、オルネラ・ヴァノーニの歌を、スクリーンにうつすのではなく、ビューアーでみるように、キャスターのついた白い台の前で、きくことにしよう。いかにすてきにきこえるか、すでに先刻きいて、わかっているので、あのたのしみをもう一度、じっくりあじわうことにする。

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