Archive for category ディスク/ブック

Date: 7月 16th, 2020
Cate: ディスク/ブック

伝説の歌姫 李香蘭の世界(その1)

今日、たまたま寄った書店でみかけた「川島芳子」の名前。
続けて思い出したのが李香蘭だった。

といっても、すぐに思い出せたわけではなかった。
そうだ、そうだ、と頭のなかでくり返しながら、どうにか思い出せた。

李香蘭(山口淑子)を、それで聴きたくなった。
李香蘭の歌、といっても、はっきりとした記憶があるわけではない。

ずっと以前にテレビでみたのかもしれない──、
その程度の記憶でしかない。

まったく聴いたことがない、というわけでもないが、それに近い、ともいえる。
なのに川島芳子の名前にふれた途端に聴きたくなったわけだから、
なんらかの記憶が、どこかにあるのかもしれない。

検索してみると、日本コロムビアから何枚か出ている。
そのなかで「伝説の歌姫 李香蘭の世界」を選んだ。
理由は、ジャケットの写真である。

注文したばかりで、まだ聴いたわけではない。
リンク先のサイトでは、いくつかの曲が試聴できるけれど、あえて聴いていない。

李香蘭の名前を思い出したのも、
もしかするとコーネッタを聴いたからなのかもしれない──、
とそんなこともおもったので、8月のaudio wednesdayでかけるつもりだ。

Date: 7月 11th, 2020
Cate: ディスク/ブック

WOOD BASS

ブライアン・ブロンバーグの「WOOD BASS」、7月17日に発売される。

ブライアン・ブロンバーグの名前は知っていたけれど、
そのCDを買って聴いたのは「HANDS」だった。

なぜ、「HANDS」だったかというと、帯に菅野先生の推薦文があったからだった。
それを読めば、とにかくほしくなった、聴きたくなった。

今回の「WOOD BASS」に先に発売されている三枚のアルバム、
「WOOD」、「WOOD II」、それに「HANDS」からそれぞれ四曲ずつ選んでSACDにしたものだ。

「HANDS」は愛聴盤ではない。
でも、買った当初は頻繁に聴いていた。
それからは、さっぱり聴いていない。

「WOOD BASS」の帯には、菅野先生の推薦文はない(はずだ)。
それでも、SACDとなると、やっぱり聴きたくなる。

期待したいのは、またか、と思われるだろうが、MQAでの配信である。
キングはMQAにわりと積極的なレコード会社である。
可能性はゼロではない。

Date: 6月 26th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Frans Brüggen Edition(余談)

小学校の音楽の授業でハーモニカとリコーダーを、私の世代は習った。
吹き方を教わって、指定された曲をみんなで吹く。
実技のテストもあった。

とはいえ小学生だから、飛び抜けてうまいやつはいなかったし、
とてつもなくヘタなやつもいなかった。

そのためか、私はなんとなく、ハーモニカとリコーダーを、
小学生向けの楽器と受け止めていたところがあった。

ハーモニカもリコーダーも、一流の演奏家に手にかかれば、
ものすごい表現力をもつ楽器だとわかる。

けれど小学生の私には、そんな想像力はなかった。
オーディオに興味をもつようになってから思うようになったのは、
小学校の音楽の授業で、
ハーモニカとリコーダーの一流の演奏家のレコードを、まず生徒に聴かせた方がいい。

誰もがそうなれるわけではないけれど、そこまで到達できるということを、
まずはっきりと示してほしかった、といまは思う。

ハーモニカならウーゴ・ディアス、
リコーダーならフランス・ブリュッヘン、
この二人のレコードをきかせるところから、
ハーモニカとリコーダーの授業は始めてほしかった。

Date: 6月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Frans Brüggen Edition

フランス・ブリュッヘンの名前を知ったのは、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」でだった。

大村櫻子さんという女性の(架空)読者からの手紙に、愛聴盤のしてあげられていたのが、
ブリュッヘンの「涙のパヴァーヌ」だった。

他には、ミルシテインのメンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、
シャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」、ジム・ホールのアランフェス協奏曲だった。

この四枚のなかで、「涙のパヴァーヌ」がとても気になっていた。
1976年12月の時点で、四枚のうち、聴いていたのは一枚もない。

ブリュッヘンは、私にとってカザルスと同じで、
指揮者としての活動のほうに強い感心がある。

ブリュッヘンを熱心に聴くようになったのは、
フィッリプスから出た一八世紀オーケストラによるベートーヴェンとモーツァルトがきっかけである。

それまでは古楽器によるオーケストラの演奏に、あまり関心をもつことはなかった。
コレギウム・アウレウム合奏団のコンサートは、
ブリュッヘン/一八世紀オーケストラを聴く数年前に行っている。

私のなかで、がっかりしたコンサートの数少ない一つであるから、わりと記憶に残っている。
だからといって古楽器にアレルギーのようなものを持ったわけではないが、
積極的に聴こう、とうい姿勢は持てなくなっていた。

そこにブリュッヘンのモーツァルトとベートーヴェンは、新鮮だった。
それからブリュッヘンに夢中になった数年間が続いた。

ふたたびブリュッヘンのリコーダー演奏を聴くようになったのは、それからである。

Frans Brüggen Edition」は十二枚組のアルバムである。
すでに持っていたものとダブるけれど、
持っていないものもあったし、それに再発ボックスの例にもれず、
この「Frans Brüggen Edition」はとても安価だ。

メリディアンの218で聴くようになってから、ブリュッヘンのリコーダーをまだ聴いてなかった。
昨晩遅く、久しぶりに聴いてみた。

聴いていたら、今度のaudio wednesdayに持っていくことに決めた。
コーネッタで聴きたい、と思ったからだ。

Date: 6月 23rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER

キングインターナショナルから、
フィルクシュニー名演集(Rudolf Firkušný SOLOIST AND PARTNER)が、
7月に発売になる。十枚組である。

ルドルフ・フィルクシュニーは、菅野先生がお好きだったピアニストだ。
日本ではフィルクスニーと表記されることが多いようだが、
菅野先生はフィルクシュニーと書かれていたし、
話の中に出てくるときも、フィルクシュニーと発音されていた。

フィルクシュニーの演奏は菅野先生による録音もある。
なので名前は聴いたことがある、という人は少なくないだろうが、
フィルクシュニーの演奏をじっくりと聴いたことがある、
聴き込んでいる、という人は意外と少ないように感じている。

かくいう私も、フィルクシュニーの演奏は、菅野先生が録音されたものぐらいしか聴いていない。
今回発売になる名演集の詳細を眺めていて、
いまさらといわれようが、じっくり聴いてみようという気になっている。

菅野先生の音をきいたことのある人は、どのくらいいるのだろうか。
聴いたことのある人のなかには、既に亡くなっている方もいると思う。
菅野先生の音を聴いている人は、これから少なくなっていくだけで、
増えることは絶対にない。

菅野先生がいわれたことをおもいだす。
菅野先生の音を聴いた人は、
もちろん「素晴らしい音ですね」とか「すごい音ですね」と、菅野先生にいう。

それは本心からのことばであっても、
ほんとうに菅野先生の音のすごさを理解していた人は、そうとうに少ない──、
そんなことをもらされたことがある。

オーディオ業界の人でも、数える程しかいない、ともきいている。
それが誰なのかもきいて知っているが、ここで書くことではない。
みんな、自分がそうだ、と思っている(信じている)ほうがシアワセだろうから。

菅野先生の音を聴く機会がなかった人のほうが、聴く機会があった人よりもずっと多いはずだ。
聴けなかった人のなかにこそ、菅野先生の音のすごさをわかる人がいた可能性はある。

こんなことを書いても、もう菅野先生の音は誰も聴けない。
けれど、菅野先生が愛聴されていた演奏家の録音は、誰でもが聴ける。

そうやって聴いていくことで、菅野先生がどういう音を実現されていたのか、
その手がかりは、きっとつかめるはずである。

どれだけ聴いてもつかめない、という人は、
菅野先生の音を聴いていたとしても、菅野先生の音をわかっているとはいえない──、
私は、そうおもっている。

Date: 6月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その4)

ヘンリック・シェリングの無伴奏は、1967年の録音だから、
私がクラシックに興味をもったころにはすでに名盤として存在していた。

皆川達夫氏の評価を読んで、シェリングの無伴奏を買おう(聴こう)と決めたのはおぼえている。
にもかかわらず、あとまわしにしてしまっていた。

初めて聴いたクラシックのコンサートがシェリングだったにもかかわらず、
ふしぎと、そのころの私にとってシェリングは特別な存在ではなかった。

いつかは買おう、そんなことをおもっていると、ずるずるそのままになってしまうことがある。
シェリングの無伴奏が、私にとって、まさにそうだった。

三十年以上聴かずに過ごしてしまった。
なんと堕落した聴き手なんだろう……、と自分でも呆れてしまうけれど、
MQAになっていることで、こうやってであえた。
聴くことがかなった。

CD化されたばかりのころに聴いていたら、どう感じていただろうか。
数字によって何かが決ってしまうわけではないのはわかっている。

それでも44.1kHz、16ビットのCDと、
192kHz、24ビットのMQA。

優劣をうんぬんするつもりはないが、どちらを選ぶかと問われれば、
迷うことなくMQAを、わたしはとる。

e-onkyoには、DSF(2.8MHz)もある。

1967年録音ということは、おそらく録音器材の多くは真空管が使われたモノだろう。
これが数年後の録音ということになっていたら、
トランジスター式の器材もけっこう使われるようになっていたことだろう。

Date: 6月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その3)

別項「218はWONDER DACをめざす(ENESCO PLAYS BACH SONATASを聴く)」で、
バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータについて書いている。

そこではエネスコの演奏について、だった。
エネスコの無伴奏はめったに聴かない。

それでは誰の無伴奏をよく聴いているのかというと、シゲティが多い。
といっても、そんなに頻繁に聴いているわけではない。

エネスコにしろシゲティも、モノーラル録音である。
ヴァイオリン・ソロの録音、そして再生はなかなか難しいところがある。
へたなステレオ録音よりも、良質なモノーラル録音のほうがいい、と思うこともある。

それでもステレオでの無伴奏を聴くとなると、誰なのか。
クレーメル、ミルシテイン、アッカルドあたりなのか(にしても古いな、と自分でも思う)。
全曲でなければ、他にもいる。

最近ではファウストか。
CDは、わりとすぐに買って聴いた。

そのあとにLPとSACDが出てきた。
そこまで買おうとは思わなかった。

ファウストを絶賛する人がいるけれど、私はそこまで夢中になって聴けなかった。

私にとって、バッハの無伴奏のステレオ録音で、
エネスコ、シゲティに肩を並べる存在にであえてなかった気がしていた。

世の中には、どれだけのバッハの無伴奏の録音が出ているのか。
すべてを聴くことは、もう無理だと思っている。

そのなかに、であえた、とおもえる一枚があるのかもしれないけれど、
20代のころのように聴きまくる、ということは……、とも思うところがある。

そんな時だった。
e-onkyoでMQAでクラシックを検索して、シェリングの無伴奏を見つけたのは。

こういうのを灯台下暗しとでもいうのか。
シェリングの無伴奏は、私が20代のころ、評価が高かった。
特に皆川達夫氏は、畏敬の念をさえ禁じえない、
とまで高く評価されていた、と記憶している。

そうだ、シェリングがあったのだ。

Date: 6月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その2)

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのレコードで最初に買ったのは、
シェリングとイングリット・ヘブラーによる演奏だった。

シェリング盤を選んだ理由として、これといった大きなものはなかった。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聴きたかった。

誰の演奏(ヴァイオリン奏者)にしようか、と迷っていたはずだ。
そしてシェリングにしたわけだが、何故シェリングにしたのかは、思い出せない。

そのころはヘンリク・シェリングではなく、ヘンリック・シェリングと表記されていた。
外国人の名前のカタカナ表記は、時代によって少し変化することがある。

ヘンリック・シェリングも、ヘンリク・シェリングのほうが、実際の発音に近いのだろう。
それでも、私がシェリングの演奏と出逢った時には、ヘンリック・シェリングだった。

なのでヘンリク・シェリングと書いていると、ちょっとの違和感がある。

シェリングとヘブラーによる演奏は、どこかに強烈なところがあるわけではなかった。
ほかの演奏のレコードも、まだ持っていなかった。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、この盤だけを聴いていた。

シェリング盤を選んだのも、
シェリングのコンサートを選んだのも、同じだったように、いまなら思う。

レコードとのであいには、強烈なであいもある。
私にとって、ケイト・ブッシュがそうであったし、他にもあるけれど、
シェリングはそういうのと無縁だった。

そうではなかったし、シェリングのレコード(録音)をその後、熱心に聴いてきたかといえば、
そうとはいえない。

シェリングのコンサートも、1988年に来日するということで、
行こうかな、とは思っていた。
シェリングは来日前に亡くなっている。

シェリングも、ずいぶん聴いていない。
これも特に、これといった理由はなかった。
なんとなく聴かなくなっていた。

なのに、シェリングのことを書き始めたのは、これもMQA絡みである。
e-onkyoで、クラシックのMQAを検索していたら、シェリングはかなり出ている。

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタもある。
ヴァイオリン協奏曲もある。
モーツァルトもある。

シェリングの人気からすれば、かなりの数揃っている、といえるほどだ。

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータもある。

Date: 6月 17th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その1)

東京で暮すようになって、初めて行ったクラシックのコンサートは、
ヘンリク・シェリングだった。

いま思うと、なぜシェリングを選んだのか、もう定かではない。
クラシックのコンサート、それも海外の演奏家のコンサートには、
それまでの熊本での暮しでは行っていなかった。

39年前のことである。
あのころ、東京を感じさせてくれたのは、雑誌のぴあだった。
こんなにも東京では、あちこちで毎日いろんなことが催されているんだ──、
とにかく驚いていた。

ぴあも毎号買っていたわけではなかった。
学生で、しかもロクにアルバイトもしていなかった。
年中金欠だった。

ときどきぴあを買っては、東京を感じていた、ともいえる。
関心あるのはクラシックのコンサートと映画だった。

それ以外のページも眺めていた。
お金さえあれば、今日はここに行って、明日はあそこ……、楽しいだろうなぁ、
そんなことを妄想していた。

シェリングのコンサートを知ったのは、ぴあだったような気がする。
シェリングのコンサートがあるんだ、くらいで受け止めていたのではないだろうか。

ぴあも毎号買えなかったのだから、オーケストラのコンサートのチケットは高くて無理だった。
それでもシェリングはS席を、かなり無理して買ったものだった。

そうやって聴きに行ったにも関らず、演奏された曲をすっかり忘れてしまっている。
それでも、この日聴いたヴァイオリンの音は、
初めて聴くヴァイオリンのナマの音だった。

Date: 6月 11th, 2020
Cate: ディスク/ブック

鉄腕アトム・音の世界(その2)

鉄腕アトム・音の世界」は、5月のaudio wednesdayに持っていくつもりでいた。

でも、誰も来ないだろうことは予想できていたし、
実際に誰も来なかったのだから、持っていかないことを選択した。

6月のaudio wednesdayには持っていくつもりは、最初はなかった。
前の晩に用意していて、ふと「鉄腕アトム・音の世界」が目に留った。

200Vの昇圧トランスが持っていくモノに加わってからは、
CDの枚数は少なくしたい、と思うようになってきた。
それにiPhoneには、MQAのライブラリーが充実してきているから、
CDを持っていかなくても済むといえば、そうなりつつある。

audio wednesdayに来る人の大半は、
私と同世代か上の世代の人たちである。
「鉄腕アトム」のアニメも、きっと見ていた人たちのはずだ。

その人たちがどういう反応をするのかに興味があったし、
5月のaudio wednesdayに持っていこうとしたのは、
音楽ではなく、こういうCDをアルテックはどんなふうに鳴らしてくれるか、
という点に興味があったからだ。

喫茶茶会記のアルテックで聴いてると、私のシステムで聴くよりも楽しい。
音そのものもそうだが、いっしょに聴いている人たちの反応があるから、
よけいに楽しい。

大きな驚きがあった、という感想を伝えてくれた人がいた。
翌日、amazonで注文した、とのことだった。

「鉄腕アトム・音の世界」に収録されている音たちは、
それまで世の中に存在しなかった音である。

Date: 5月 4th, 2020
Cate: ディスク/ブック

鉄腕アトム・音の世界(その1)

鉄腕アトム・音の世界」は、音楽の世界ではない。
「音の世界」である。

「鉄腕アトム」とのであいは、マンガよりも先にアニメだった。
モノクロの「鉄腕アトム」が古い記憶だ。

「ブラック・ジャック」の連載が始まったころから手塚治虫のマンガに夢中になった私は、
そのころ「鉄腕アトム」もマンガで読むようになった。

原作のマンガよりも先に、しかもかなり幼いころにアニメに接していた。
しかも、そのころ私が住んでいた熊本には民放の放送局が一局しかなかった。

種々雑多ななかの一本というのではなく、
数少ないなかの一本としての「鉄腕アトム」でもあった。

あのころの「鉄腕アトム」を見ていた人ならば、
アトムの歩く音は、どんな内容かだったよりも、印象に残っていよう。

決して硬いものが床に接する音ではなく、
ゴムのような柔らかい素材による音であるからだ。

ロボットの足音とは思えない音だった。

「鉄腕アトム・音の世界」には、音効の世界である。
しかも現実の世界よりも、鉄腕アトムで描かれている世界は、数十年後の未来だ。

「鉄腕アトム」の時代設定では、
すでにアトムは存在している時代をわれわれは生きているわけだが、
現実にはまだまだである。

そんな時代に「鉄腕アトム・音の世界」を聴いている。

Date: 4月 30th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その2)

パブロ・カザルス指揮によるモーツァルトを聴いていると、
「細部に神は宿る」について、あらためて考えさせられる。

なにもモーツァルトでなくてもいい、
カザルス指揮のベートーヴェンでもいい、シューベルトでもいい、
私にとって指揮者カザルスによって生み出された音楽を聴いていると、
これこそ「細部に神は宿る」と実感できる。

「細部に神は宿る」ときいて、どんなことを思い浮べるか。
細部まで磨き上げた──、そういったことを思い浮べる人が多いかもしれない。

そういう人にとって、カザルスが指揮した音楽は、
正反対のイメージではないか、と思うかもしれない。

丹念に磨き上げられ、キズひとつない──、
そういった演奏ではない。

それなのに「細部に神は宿る」ということを、
指揮者カザルスの音楽こそ、そうだ、と感じるのは、
すみずみまで、血が通っているからだ。

太い血管には血が通っていても、
毛細血管のすべてにまで十分に血が通っているわけではない、ときく。

毛細血管の端っこまで血が通っていなくとも、
指先の手入れをきちんとやり、爪も手入れも怠らない。
そういう演奏は少なくない。

そういう演奏を「細部に神は宿る」とは、私は感じない。

カザルスの音楽は、そうじゃない。
毛細血管の端っこまで充分すぎるくらいの血が通っている。

Date: 4月 21st, 2020
Cate: ディスク/ブック

Cherokee Morning Song

ここ数日、スキャン作業をずっとやっている。
昼から夜までやっている。

ただただスキャン作業ばかりなので、退屈しのぎにSpotifyをBGMにしている。
聴くのに集中してしまうと、スキャン作業のほうがおろそかになるので、
耳あたりのよさそうなジャンルから適当に選んで聴いていた。

気分をかえようと、少し検索してみる。
検索結果に応じて、おすすめも表示される。

そこになつかしい名前があった。
リタ・クーリッジだった。

10代のころ、一枚だけアルバムを買って聴いていた。
肌に合わなかったわけではないが、強烈に好きになるということもなく、
それから自らすすんで聴くことはしなかったし、
そうなると不思議なものでどこかで聴く機会もなかった。

なつかしいなぁ、だけで、リタ・クーリッジを選択した。
最初に鳴ってきたのが、“Cherokee Morning Song”だった。

こんな歌を歌っていたとはまったく知らなかった。
ロビー・ロバートソンの“Music for the Native Americans”に収録されている曲ということも、
さきほど知ったばかりだ。

1994年に発売されているCDで、
今日の時点で注文可能だったのはamazonだけだった。

もちろん注文した。

Date: 4月 20th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その1)

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか。

グレン・グールドはコンサート・ドロップアウトした。
グレン・グールドは演奏家として、コンサート・ドロップアウトをした。

こういう状況下は、聴き手がコンサート・ドロップアウトしている、ともいえる。
もちろんコンサートが中止、もしくは延期になっている。

主体的なコンサート・ドロップアウトとはいえないかもしれないが、
こういう状況下が続く、もしくはくり返すことになれば、
聴き手の、主体的なコンサート・ドロップアウトもあたりまえのことになっていくのか。

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか──、
ひとによって違っていることだろう。

耳あたりの良い音楽を、こういう状況下だから聴く機会が増えた、という人もいるだろう。
不安を癒してほしい、そういう音楽を選ぶ人もいるだろう。
それまでとかわりなく──、という人もいよう。

カザルスのモーツァルトを聴いた。
指揮者カザルスのモーツァルトを聴いた。

ぐいぐいと押しだしてくるカザルスによるモーツァルトの音楽を聴いていると、
こういう状況下だからこそ、カザルスによる音楽を聴きたい、という、
裡なる声に気づく。

優美な音楽、優美な表現、優美な音、
優美さこそ──、という音楽の聴き手には、
カザルスによる音楽は、野暮に聴こえてくることだろう。

いまどきのオーディオは、カザルスの剛毅な音楽を鳴らせなくなりつつあるのかもしれない。

優美な音楽、優美な表現、優美な音は、
ほんのいっとき、聴き手をなぐさめてはくれよう。
けれど、そこに祈りはない。

Date: 4月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Solo

菅野先生の録音によるセシル・テイラーの「Solo」。
amazonでは中古盤が、そこそこの値段で出品されている。

5月20日に、リマスター盤が出る。
amazonの中古盤の約半分の値段である。

「Solo」に関しては、菅野先生からおもしろいエピソードをきいている。
いつか書こうと思っている。