Archive for category ディスク/ブック

Date: 6月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その2)

聴きたい、とおもうときには、聴けないことが多かったりするものだ。
そういうものだ、となかばあきらめていた。

それでもAmazon Music HDを使い始めたのだから、
こっちでも、検索してみよう、と思った。
すんなり見つかった。

五味先生が聴かれていたのと同じである。
私がずっと以前に手離したのと同じ、
ミヨー夫人による朗読の「子と母のカンタータ」である。

素晴らしい時代を迎えつつある、という感触がある。
ほぼ三十年ぶりに聴いた。

あのころは、ミヨー夫人の朗読が心に沁みてくるという感じではなかったけれど、いまは違う。

五味先生の個人的事情と私の個人的事情とではずいぶん違うけれど、
三十年のあいだに、いろんな個人的事情はあった。

そんなことがあったから、「子と母のカンタータ」が聴きたくなったのだろうし、
いま、こうやって聴くことができて、よかった。

あいかわらずミヨー夫人が、なにを言っているのか、まんたくわからない。
けれど、あのころと違って、インターネットがある。

インターネットがあるからこそ、こうやって「子と母のカンタータ」が聴けているわけで、
「子と母のカンタータ」の詩を検索すれば、きっとすぐに見つかるだろう。
翻訳も見つかるもしれない。

見つからなかったとしても、いまはDeepLという翻訳サイトがある。
そこを使えば、日本語に訳してくれる。

そこにかかる労力はわずかなものであり、
やろうとおもえばすぐにできることだ。

でも、知らないままでいいのかもしれない、といまはおもっている。

《音楽のもたらすこの種の空想》、
そのためにあえてやらないことだってある。

Date: 6月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その1)

TIDALを使うようになって、わりとすぐに検索した曲がある。
けれど、検索の仕方をいくつか試してみたけれど、TIDALにはなかった。

ナクソスのサイトで聴けるのは知っている。
ただしmp3音源だ。

昔、LPを持っていた。
廉価盤だった、と思う。
水色の背景のジャケットだった。
もちろんフランス盤だ。

この曲を知ったのも、聴きたいとおもったのも、
五味先生の文章を読んだから、である。
     *
 〝子と母のカンタータ〟は、フランス語の朗読に、弦楽四重奏とピアノが付いている。朗読は、私の記憶に間違いなければミヨー夫人の声で、こちらは早稲田の仏文にいたがまるきりフランス語はわからない。だからどんな文章を読んでいるのか知りようはないのだが、意味は聴き取れずとも発声を耳にしているだけで、何か、すばらしい詩の朗読を聴くおもいがする。フランス語はそういう意味で、もっとも詩的な国語ではないかとおもう。カタログをしらべると、ピアノはミヨー自身、弦楽四重奏はジュリアードが受持っているが、なまじフランス語がわからぬだけに勝手に私自身の作詩を、その奏べに托して私は耳を澄ました。空腹に耐えられなくなるとS氏邸を訪ねては、〝幻想曲〟とともに聴かせてもらった曲であった。
 私たち夫婦には、まだ子はなかった。妻は私が東京でルンペン暮しをしているのを何も知らず、適当な職に就いて私が東京へ呼び寄せるのを、大阪の実家で待っていた。放浪に、悔いはないが、何も知らず待ちつづける妻をおもうと矢張り心が痛み、もしわれわれ夫婦に子供があって、今頃、こんなふうに妻は父のいない我が子に詩を読んできかせていたら、どんなものだろうか。多分、無名詩人の私の作った詩を、妻はわが子よりは自分自身を励ますように朗読しているだろう……そんな光景が浮んできて、いつの間にか私自身のことをはなれ、売れぬ詩を書いている貧しい夫婦の日常が目の前に見えてきた。どんな文学書を読むより、音楽のもたらすこの種の空想は痛切であり、まざまざと現実感をともなって私を感動させる。
 いつもそうである。
 貧乏物語をしたいからではなく、音楽が、すぐれた演奏がぼくらに働きかけ啓発するものの如何に多いかを言いたくて、私は書いているのだが、ついでに言えば私が今日あるを得たのは音楽を聴く恩恵に浴したからだった。地下道や、他家の軒端にふるえながらうずくまって夜を明かした流浪のころ、おそらく、いい音楽を聴くことを知らねば私のような男は、とっくに身を滅ぼしていたろう。
 そういう意味からも、とりわけ〝子と母のカンタータ〟は私を立直らせてくれたことで、忘れようのない曲である。遂に未だにミヨー夫人の朗読したその詩の意味はわからない。私にはただ妻が私たち夫婦のために読んでいる詩と聴えていた。どうにか世に出るようになってこのレコードを是非とり寄せたいとアメリカに注文したら、すでに廃盤になっていた。S氏のコレクションの中にまだ残されているかも知れないとおもうが、こればかりは面映ゆくて譲って頂きたいとは言えずにいる。ステレオ盤では、たとえ出ていても、ミヨー夫人の朗読でのそれは望めまい。それなら別に聴きたいと私は思わない。ぼくらがレコードを、限られた名盤を愛聴するのは、つねにこうした個人的事情によるだろう。そもそも個人的関わりなしにどんな音楽の聴き方があるだろう。名曲があり得よう。
(オーディオ巡礼「シューベルト《幻想曲》作品一五九」より)
     *
五味先生が注文されたときには廃盤になっていたようだが、
私が20代前半のころは、手に入れられた。
五味先生以上に、私はフランス語はまったくわからない。

ミヨー夫人の朗読の意味は、なにひとつわかっていなかった。
当時、調べようとしたけれど、手がかりもなくあきらめてしまった。

「子と母のカンタータ」のLPは、無職時代に、
背に腹は替えられぬ、という理由で、ほかの多くのディスクとともに売り払った。

その時は、特に惜しい、とは感じていなかった。
ここ十年くらいである。
もう一度聴きたい、とわりと頻繁に思うようになってきたのは。

Date: 6月 11th, 2021
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その7)

いろんな指揮者のモーツァルトの演奏を聴いていると、
ふと、こんな演奏じゃなくて……、と思ってしまうときがある。

そういう時に聴きたくなるモーツァルトは、きまってカザルス指揮のモーツァルトである。
そして、もうひとりフリッツ・ライナーのモーツァルトである。

ライナー/シカゴ交響楽団によるモーツァルトを聴いていると、
これこそがモーツァルトだ、と心でつぶやいている。

カザルスのモーツァルトもそうなのだが、こういうモーツァルトは聴けそうで聴けない。

ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトの交響曲を聴く、ずっと前に、
ライナー/メトロポリタン歌劇場による「フィガロの結婚」を聴いていた。

録音は、私が手に入れたCDはかなり悪かった。
それでも演奏は素晴らしかった。

五味先生はカラヤンの旧録音(EMIでのモノーラル)を高く評価されていた。
五味先生はライナーの「フィガロの結婚」は聴かれていないのか。

「フィガロの結婚」の記憶があるから、
ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトには期待していた。

期待は裏切られるどころか、こちらの勝手な期待を大きくこえたところで、
モーツァルトのト短調が鳴り響いていた。

五味先生の表現を借りれば、
《涙の追いつかぬモーツァルトの悲しい素顔》が浮き上ってくる演奏とは、
ライナーやカザルスの演奏のような気がしてならない。

Date: 6月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

COMPLETE DECCA RECORDING Friedrich Gulda

タワーレコードから届いた新譜案内のメール。
そこに、フリードリッヒ・グルダの「デッカ録音全集」があった。

41枚のCDとBlu-Ray Audioで、7月下旬に出る。
192kHz、24ビットでのリマスターということだ。

Blu-Ray Audioで聴けるのは、
ホルスト・シュタイン/ウィーンフィルハーモニーとのベートーヴェンである。

それ以外は、44.1kHz、16ビットになるわけだが、
おそらくe-onkyo、TIDALでも扱うことになる、と思っている。

すべてが、となるのかどうかはなんともいえないが、
私としてはベートーヴェンのピアノソナタが、
192kHz、24ビットのMQAで聴けるようになれば、それでそうとうに満足できる。

その日がおとずれるのが、待ち遠しい。

Date: 6月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その6)

「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」といった知人宅では、
児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンは、ベートーヴェンの音楽ですらなかった。

菅野先生は、この二人のベートーヴェンを、けっこう大きめの音量でかけられた。
知人宅では、まず音量もあがらない。

もちろん、ボリュウムのツマミを時計回りに廻せば、音量はあがる。
けれど、しなびた音は、どこまでいってもしなびた音でしかない。
不思議なもので、まったく音量が増したように感じられないのだ。

赤塚りえ子さんのところでは、どう鳴ったのか、というと、
厳しいところを感じたりもしたけれど、少なくとも私の耳にはベートーヴェンの音楽であった。

知人宅のシステムは、赤塚さんのシステムよりも、
ずっと大型で、マルチアンプで規模も大がかりだった。
いろいろと音をいじってもあった。

本人いわくチューニングの結果としての音である。
知人宅のシステムも、もっとストレートに鳴らしていれば、
ここまで破綻することはなかったはずなのに、と思うけれど、
本人は「瀬川先生の音を彷彿させる」ほどの音に聴こえているわけだから、
その世界に閉じ籠もったままで、シアワセなのだろう。

私にはまったく関係ない、興味ない世界でしかない。
私は、ベートーヴェンの曲をかける時は、ベートーヴェンの音楽を聴きたい。
もっといえば、ベートーヴェンという花を咲かせたい。

ベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音の構築物である。
まさしく児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンは、そうだった。
菅野先生のところで聴いた音は、そうだった。

それには、あの音量が必要不可欠のように思われる。
私のところでは、その必要な音量で、いまのところ鳴らせない。

赤塚さんのところは違う。
だから、この二人のベートーヴェンを聴いてみたい気になったのだろうし、
本筋は外していないだけに、これからチューニングをやっていけば──、
という可能性も感じていた。

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その5)

audio wednesdayでは、たしか二回かけている。
でもそれ以外では、聴いていない。

先日、ひさしぶりに聴いた。
赤塚りえ子さんのところで聴いた。

セッティングがあらかた終って、あれこれ聴きたい曲を聴いていた。
6月2日は、赤塚さん、私のほかに野上さん、それともう一人、四人いた。

TIDALとroonがあるから、それぞれのiPhoneで選曲して鳴らせる。
そんなふうに、それぞれが聴いてみたい曲をかけていた。

私もいくつかの曲を聴いた。
そしてバーンスタイン/ウィーンフィルハーモニーのマーラーの五番を聴いた。
前々回でも聴いている。

これを聴いていたら、
ふと児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンがどう鳴ってくれるのか、
という興味が沸き起ってきた。

TIDALに、この二人のベートーヴェンはある。
聴きたいと思った時に、手元にディスクがなくとも聴ける時代になっている。

私にとって、この二人のベートーヴェンの音は、
菅野先生のところで聴いた音であり、
このベートーヴェンが、菅野先生のところできいた最後の音であり、音楽である。

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その4)

宿題としての一枚といえるディスクは、一枚だけではない。
それでも(その1)でふれた児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
菅野先生からの宿題のような一枚である。

十年ちょっと前、
ある知人宅でかけてもらったことがある。
その知人は、別項で書いているように、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った男だ。

このCDを手に入れて、そう経っていなかった。
だからこそ、知人宅で、どんなふうに鳴ってくれるのか、興味もあった。

けれど、知人がかけた数枚のCDを聴いているうちに、
うまく鳴ってくれないだろうことは十分予想できた。

それでも持参したCDだし、うまく鳴らないとわかっていても、
どんなふうにうまく鳴らないのかには興味があった。

鳴ってきた音は、予想以上にひからびたような音だった。
生気もない音は,逆に、どうしたら、これだけのシステムでこういう音が出せるのか、
その秘訣をききたいものだ、と思うほどだった。

それでも知人は満足していたようだった。
知人の音の好みは知っていた、知っているつもりだった。

それでも、ここまでひどい音を出す男ではなかった。
なのに、現実は、瀬川先生の音を彷彿させる音とは、まったくかけはなれていた。

菅野先生は、児玉麻里/ケント・ナガノの演奏を、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」といって聴かせてくれた。

知人の音は、ベートーヴェンの音ではなかった。
知人の音を聴いたのは、これが最後である。

それ以来、誰かのリスニングルームで聴くことはしなくなった。

Date: 5月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

MQAで聴きたいアルゲリッチのショパン(その7)

昨年8月に、アルゲリッチの“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”を、
MQAで聴きたい、と書いた。

三ヵ月後、TIDALを始めて、44.1kHzのMQAで“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”を聴いた。

5月21日、e-onkyoで、“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”の2021年リマスターの配信が始まった。
MQA Studio(192kHz、24ビット)で聴けるようになった。

いい時代になった、という以上に、楽しい時代になってきた、と感じている。

Date: 5月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

クルレンツィスのベートーヴェン(その3)

アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団によるベートーヴェンが出たのは、
いまからほぼ二十年ほど前のこと。

私がアーノンクールの、このベートーヴェンを聴いたのは、
発売後けっこう時間が経ってからだった。
それも吉田秀和氏の文章を読んだのがきっかけになっている。
     *
 しかし、アーノンクールできくと、もう一度、当初の目印“madness”が戻ってくる。それに、第二楽章のあの重く深い憂鬱、悲嘆を合せてみると──いや、この演奏を論じて、第三楽章スケルツォで随所にはさまれた例の「吐息」のモティーフに与えられたpppの鮮やかな効果、あるいは主要部とトリオの対比の見事さといったものも、全くふれずに終るわけにはいかない──、これは、フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏であり、その新しさは、ベ日トーヴェンの音楽のもつ原初的なすさまじさ、常軌を逸したもの、ドストエフスキーやムソルグスキーやニーチェを含む十九世紀の人たちだったら「神聖な狂気」と呼んだであろうような重大な性格を、もう一度、音にしてみせた点にあるといっていいだろう。くり返すが、これはモーツァルトの音楽とは全く違うものだ。
     *
吉田秀和氏の、この文章は、河出文庫「ベートーヴェン」で読める。

これを読んだからこそ、アーノンクールのベートーヴェンを聴きたくなった。
読んでいなければ、いまも聴いていないかもしれない。

吉田秀和氏の文章は、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団による七番を聴いてのものだ。

ベートーヴェンの七番は、カルロス・クライバーの素晴らしい演奏がある。
他にも、いい演奏はある。

それでも《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》といえるのは、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団だと、聴くと納得する。

フルトヴェングラーからアーノンクールまでに録音された七番のすべてを聴いているわけではない。
七番は好きだから、かなりの数聴いているつもりでも、
吉田秀和氏が聴かれた数からすれば、私の聴いてきたのはわずかといっていい。

その吉田秀和氏が《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれている。

ベートーヴェンの交響曲は、特に三番以降は、それまでの交響曲とはまったく違う。
モーツァルトの音楽とも全く違うものなのは、
アーノンクールの演奏を聴かずとも、ベートーヴェンの音楽を聴いてきた人ならばわかっている。

フルトヴェングラーの演奏が、そのことを明らかにした、ともいえる。
だから《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれているのだろう。

クルレンツィスの七番は、その意味では私は「新しい」とは感じなかった。

Date: 5月 5th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(余談)

e-onkyoのサイトでは、
ジャンル関係なしのアルバムランキングとシングルランキング、
ジャンル別のアルバムランキングとシングルランキングが載っている。

クラシックの、今日現在のシングルランキングの五位に、
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”が入っている。

どれだけ売れての五位なのかまだはわからない。
そう多くはないのかもしれないが、この結果は嬉しい。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その3)

4月30日に購入したオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”を、
さっき聴いた。

最初の音が鳴ってきて、えっ、と思った。
モノーラルだったからだ。

私がこれまで聴いてきたのはステレオ録音だった。
どういうことなの? と調べてみると、
オーマンディは1954年11月28日、1967年10月18日に“Vocalise”を録音している。

ということは、五味先生が聴かれていた“Vocalise”は、モノーラルのほうである。
今回e-onkyoで購入したほうである。

私がこれまでCDで聴いてきた“Vocalise”はステレオだから、
同じ演奏ではなかったわけだ。

五味先生はステレオ録音のほうは聴かれていないように思う。

五味先生は《こんなにも甘ったるく》と表現されていた。
今回聴き較べてみると、ステレオのほうがさらに甘ったるい。

Date: 5月 3rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Piazzolla, Schubert, Schittke)

キャサリン・フンカ(Katherine Hunka)のピアソラを聴いた。
キャサリン・フンカ、今日初めて知った。

Googleで“Katherine Hunka”で検索すると、
「もしかして:Katherine 噴火」と表示されたりする。

ロンドン生れのヴァイオリニスト/指揮者であることぐらいしか、結局わからなかった。

Piazzolla, Schubert, Schittke”は、
日本では「ピアソラ:ブエノスアイレスの四季」とつけられている。

一年前に発売になったCDであるけれど、
今日、TIDALであれこれ検索して出逢うまで、まったく気づかなかった。

“Piazzolla, Schubert, Schittke”も、
ピアソラ生誕百年ということで企画されたアルバムなのかもしれない。

TIDALで、Piazzollaで検索すると、けっこうな数のアルバムが表示される。
すべてを聴いているわけではないし、聴きたいと思ってもいない。
でも、まあまあ聴くようにはしている。

初めて知る演奏家によるピアソラを、けっこう聴いている。
彼・彼女らが弾いているのは、確かにピアソラの曲なのだが、
聴いて、ピアソラだ、ピアソラの音楽が! とすべてに対して感じているかというと、
むしろ少ない。

誰とは書かないが、けっこう名の知られている演奏家であっても、
しかもレコード会社が推していても、聴いて、これがピアソラ? と感じることのほうが、
残念ながら多い。

別項「正しいもの」で、吉田秀和氏の「ベートーヴェンの音って?」について触れた。
まったく同じことを、ピアソラに関して感じる。

「ピアソラの音って?」ということだ。

Date: 4月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その3)

エッシェンバッハのブラームスの四番を聴いて、驚いていた。
聴き終ってから、その驚きは何を孕んだ驚きなのか、ということを思っていた。

つい最近聴いたエッシェンバッハの演奏は、
一ヵ月ほど前の「バイエル」、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」などである。
TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)である。

つまりピアニスト・エッシェンバッハである。
今回は指揮者・エッシェンバッハである。

ずいぶん違う、というよりも、まったく違う。
同じ人とは、まずおもえない。

“Piano Lessons”での演奏は、
ピアノを練習している子供たちの手本となるものだから、
そこで個性の発揮となっては、手本として役に立たない。

ブラームスの四番は、手本とかそういところから離れての演奏である。
比較するのがもともと間違っているわけなのはわかっていても、
聴いてそれほど経っていないのだから、どうしても記憶として強く残ったままでの、
今回のブラームスの四番であり、
それも“Piano Lessons”はスタジオ録音、ブラームスの四番はライヴ録音である。

エッシェンバッハのブラームスの四番は、
ミュンシュ/パリ管弦楽団のブラームス 交響曲第一番に近い、というか、
そこを連想されるものがある。

宇野功芳氏は、このミュンシュ/パリ管弦楽団の一番を、
フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーと、高く評価されていた。

宇野功芳氏ばかりでなく、福永陽一郎氏も、最上のフルトヴェングラーという、
最大級の評価をされていた、と記憶している。

フルトヴェングラーの録音にステレオはない、すべてモノーラルだけである。
ミュンシュ/パリ管弦楽団は、ステレオである。

エッシェンバッハ/シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団の四番も、
あたりまえだがステレオだ。

ミュンシュの一番は、たしかにすごい。
完全燃焼という表現は、この演奏にこそぴったりであり、
特に最終楽章の燃焼は圧巻でもある。

エッシェンバッハの四番は、そこまでとは感じなかったけれど、
フルトヴェングラー的なのだ。

Date: 4月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その2)

オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団によるラフマニノフの交響曲第二番が、
一週間前に、moraとe-onkyoで配信が始まった。

そろそろ交響曲第三番と“Vocalise”のカップリングが出るころかな、と思っていたら、
今日、やはり配信が始まった。

ソニー・クラシカルだから、MQAは期待できない。
flac(96kHz、24ビット)である。

それでもいい。
さっそく“Vocalise”だけを購入した。
交響曲第三番を聴きたいとは思わないからで、
どうしても聴きたければTIDALで聴ける。

TIDALで、ラフマニノフの“Vocalise”を検索すると、意外とあった。
ラフマニノフ自演の“Vocalise”もあった。
アンドレ・プレヴィンによる“Vocalise”もあった。
こちらはMQA Studio(96kHz、24ビット)である。

五味先生の文章と一切関係ないところで“Vocalise”のことを知って聴いたのであれば、
プレヴィンをとったかもしれないが、
管弦楽曲版“Vocalise”のことは五味先生の文章で、なのだから、
もうどうしてもオーマンディの“Vocalise”のほうを、私はとる。

とる──、そう書いているけれど、
どちらが名演といったことではない。

Date: 4月 27th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その3)

そういえば、あの、ちょっと憶えるのが難しい名前の人──、
そんなふうに思い出した。

Zuzana(ズザナ)だけは憶えていた。
これだけで、検索は可能だった。
けっこうな数のアルバムが表示される。

バッハがやはり多い。
黒田先生の文章の冒頭にも、
ズザナ・ルージィチコヴァのバッハのチェンバロの全集のことがある。

ほかにもいくつかあった。
そのなかで、なんとなくモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集を選んだ。
ヨセフ・スークとの協演である。

きいた瞬間に、ぐいぐいひきこまれる演奏ではない。
黒田先生は《誠実なルージィチコヴァ》と書かれている。

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いていると、
黒田先生の文章をもういちど読みたくなって、だから、今回書いている。

黒田先生のズザナ・ルージィチコヴァの文章を読んでなかったら、
ズザナ・ルージィチコヴァを聴くことはなかったかもしれない。

思い出すこともなかっただろうし、TIDALがなければ、また聴きのがしていただろう。

ならば、もっと早く聴いておけば、と後悔しているかというと、
そうでもない。
三十年前は、いまほどズザナ・ルージィチコヴァのよさがわからなかったかもしれない。
出逢うべき演奏とは、いつかきっとそうなるようになっている──、
私はそう思っている、というより信じている。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァと表記されているが、
いま日本ではズザナ・ルージチコヴァが一般的なようである。

そしてe-onkyoに、バッハ全集(Bach: The Complete Keyboard Works)がある。
MQA Studio(96kHz、24ビット)である。