Archive for category ディスク/ブック

Date: 10月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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アレクシス・ワイセンベルク(その4)

カラヤンとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴いたあとで、
ジュリーニとのブラームスのピアノ協奏曲も聴いていた。

このブラームスにも驚いた。

ジュリーニは好きな指揮者だし、よく聴いている。
なのにワイセンベルクとのピアノ協奏曲は知ってはいても、
なんとなく遠ざけていて、聴いたのはついこのあいだが初めてだった。

どう驚いたのかは書こうと思いながら、一ヵ月以上が経っていた。
どんなふうに書こうかな、と考えているうちに、
ここ数ヵ月、ワイセンベルクの演奏にいままでにない関心をもつようになったし、
すごい演奏だ、とも感じている。

それでもワイセンベルクのディスクが、
これから先、私にとって愛聴盤となっていくのだろうか──、
そんなことを考えるようになってきた。

いまのところ、答は、おそらく愛聴盤とはならないだろう、なのだが、
それでは、どうして愛聴盤とならないのかについて考えることになる。

同時に、私にとって愛聴盤といえるのは、どのディスク(演奏・録音)なのか。
そのことを改めて考えることになる。

こんなことを考えている(書いている)と、五味先生の文章を引用したくなる。
     *
最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。
(「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」より)
     *
ワイセンベルクの演奏が、ここでのティボーにあたるといいたいのではない。
《レコードの愛し方》。ここである。

Date: 10月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック

スメタナ 交響詩「わが祖国」(その3)

スメタナの「わが祖国」を、いろんな指揮者で聴いているわけではない。
数える程しか聴いていない。

先日、ふと、そういえばカラヤンは「わが祖国」は録音していないのでは? と思った。
カラヤンの「わが祖国」といえば、
モルダウだけをベルリンフィルハーモニーで録音しているディスクがある。

日本盤には、「モルダウ〜カラヤン/ポピュラーコンサート」とつけられていた。
それからウィーンフィルハーモニーとのドヴォルザークの交響曲第九番にも、
モルダウだけがカップリングされている。

カラヤンのモルダウ(ウィーンフィルハーモニー)を聴いていた。
TIDALにあるから、思い立ってすぐ聴けるのは、ほんとうにありがたい。

流麗なモルダウだった。
カラヤンは、モルダウだけを演奏しているわけだから、
モルダウだけということでは、名演といえるだろうな、と思う。

クラシックに強い関心のない人でも、モルダウのフレーズは耳にしている。
日本語の歌詞がつけられていたりするからだ。

そういう人にとっては、カラヤンのモルダウは名演となるだろう。
けれど「わが祖国」を聴いている人にとっては、
モルダウは交響詩「わが祖国」の第二曲であるわけだがら、
モルダウだけを聴いていたとしても、「わが祖国」と切り離して聴くということはないはずだ。

カラヤンのモルダウを聴いていると、そこのことがひっかかる。
カラヤンのモルダウは、モルダウだけ、なのだ。

「わが祖国」は思い出したように数年おきに聴くぐらいである。
全曲通して聴くことは、いまではほとんどない。
モルダウだけを聴いて、ということが多い。

だったらモルダウだけの演奏で完結してしまっているカラヤンの演奏でもいいのではないか──、
自分でもそんなことを思ったりする。

なのにカラヤンのモルダウを聴いて、これは「わが祖国」ではないと憤ったりする。

Date: 10月 3rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Falstaff(その3)

真剣に音楽を聴く、
まじめに音楽を聴く、
音楽と向きあいながら聴く、
そんなふうに音楽を聴く態度を表現するわけだが、
これらと「夢中になって聴く」とは、同じとはいえそうなのだが、
違うといえば違うところがある。

何をしながら音楽を聴く、ということからすれば、どちらも同じことである。
まじめに音楽を聴いているのだから。

それでも夢中になって音楽を聴くは、少し違う。

その演奏をまじめに聴く人と、その演奏を夢中になって聴く人とは同じではない。
一人の聴き手に、まじめに音楽を聴くと夢中になって音楽を聴くとがある。

ジュリーニによる「ファルスタッフ」を、これまでまじめに聴いてきた。
少なくとも私のなかではそうであった。
けれど夢中になって聴いてきただろうか、と、
今回バーンスタインの「ファルスタッフ」を聴き終って、そんなことを考えていた。

TIDALにバーンスタインの「ファルスタッフ」があった。
あったのは知っていたけれど、今回初めて聴く気になったのは、
MQA Studioで配信されるようになったからだ。

とりあえずどんな演奏なのか聴いてみよう、
そんな軽い気持からだった。
聴き始めた時間も遅かった。

十分ほど聴いたら、きりのいいところで寝るつもりだった。
なのに、最後まで、二時間ほど聴いてしまった。
夢中になって聴いていたからだ。

Date: 9月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Falstaff(その2)

ステレオサウンド 47号は、1978年夏に出ている。
私は高校一年だった。

クラシックは聴いていたけれど、主に聴いていたのは交響曲とピアノ曲であって、
オペラに関しては、小遣いではオペラのレコードは高くて買えなかった。
つまり、高校時代、まともにオペラ全曲を聴いてはいなかった。

そんな時期に、47号掲載の「イタリア音楽の魅力」を読んでいる。
キングレコードのプロデューサーの河合秀明氏、
黒田恭一氏、坂 清也氏による座談会である。

黒田先生が語られている。
     *
 さっき坂さんが、物語は荒唐無稽でバカバカしいといわれたけれど、まさにそのとおりで、たとえばぼくの大好きなオペラの一つにヴェルディの『トロヴァトーレ』があるんです。このオペラなんかは、荒唐無稽さではかなり上位にくるもので、しかも作品としてよく書けているかというと、かならずしもそうではない。ところがこのオペラが、一流の歌い手、一流のオーケストラ、一流の合唱団、一流の指揮者によって演奏されたときのすばらしさは、ほかにちょっと類がないと思えるほどなんですね。
 べつなことばでいうと、もともと芸術でもないでもないんだけれど、すばらしく見事に演奏され、そしてその演奏を夢中になって聴くひとがいるときに、そこにえもいわれぬ芸術的な香気とかぐわしさが生まれるわけですよね。もともと徹底的にエンターテイメントであっても、結果として、第一級の芸術になりうるんだ、ということでしょう。
     *
黒田先生が語っておられることは、とても大事なことだ。
イタリアオペラに関してだけのことではない。

《その演奏を夢中になって聴くひと》の存在があってこそ、である。
高校生の私は、まともにイタリアオペラを聴いていたわけではなかった。
夢中になる、ずっと手前で踏み止まっていた。

Date: 9月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

レンミンカイネン組曲

シベリウスのレンミンカイネン組曲。
いま、誰の演奏が高く評価されているのだろうか。

ほとんど、というか、まったく知らない。
私にとってのレンミンカイネン組曲は、
ユッカ=ペッカ・サラステ/トロント交響楽団による演奏でストップしたままだ。

菅野先生のところで、このディスクを初めて知って、初めて聴いた。
驚いた。
スピーカーから、こういう表情でシベリウスが響いてくるとは、
まったく想像できていなかったからだ。

オーケストラもトロントならば、録音場所もトロントである。
なのに北欧とは、こんな感じなのか、と錯覚できるほどに、
フィンランディアによる録音は素晴らしい。

今日、ふと思い出して、またTIDALで検索したところ、
MQA(44.1kHz)で配信されている。

こんな時間なので、ヘッドフォンで聴いていたけれど、
スピーカーで、しかも大きな音で聴いてこそだ。

それでも思うのは、ピストニックモーションを追求しただけのスピーカーからは、
絶対に、あの日、菅野先生のリスニングルームで響いていたシベリウスは再現できないこと。

Date: 9月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

薬師丸ひろ子 40th Anniversary BOX

8月29日に、薬師丸ひろ子、歌手デビュー40周年記念CDボックスが出ることが、
発表になっていた。
十枚組で、すべてリマスターされている、ということだった。

聴いてみたいけれど、それだけなのか、とも半分くらい思っていた。
ユニバーサルミュージックなのだから、MQA-CDで出さないのか、と思ったからだ。

今日、新たな発表があった。
MQA-CDとのことである。

今月になって(私が気づいたのが9月であって、もっと前からだったのかもしれない)、
TIDALで、薬師丸ひろ子の「時の扉」が配信されるようになった。
MQA(48kHz)である。

どうしてだろう? と思っていたら、こういうことだったのか。
おそらく176.4kHzでのMQA-CDなのだろうと、勝手に期待している。

e-onkyoでの配信も始まるであろう、
TIDALでも始まるかもしれない。

「花図鑑」を、個人的にはいちばんMQAで聴きたい。

Date: 9月 1st, 2021
Cate: ディスク/ブック

Elena Fischer-Dieskau(その2)

エレナ・フィッシャー=ディスカウの録音は、海外でも評価が高いようである。

dCSの本国のウェブサイトに、“The dCS Edit”というページがある。
8月31日の記事は、“dCS Classical Choices August 2021”で、
四枚のディスクが選ばれている。

その中の一枚が、エレナ・フィッシャー=ディスカウである。
そこには、こうある。
     *
All three pieces are thematically tight, big-boned and emotionally wild, and abounding in contrapuntal textures and technical complexities.
     *
《big-boned》である。
骨太である。

やはり、そう感じるのか、と読んでいて嬉しくなる。

この人のベートーヴェンを、早く聴きたい。

Date: 8月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

1992 New Year’s Concert in the 150th Jubilee Year of the Wiener Philharmoniker

TIDALで聴けるようになったソニー・クラシカルのMQA。
いったいどれだけのアルバムがMQAで聴けるようになったのかは、数え切れない。

クラシックだけでも、SACDのタイトル数を超えているような感じすら受ける。

MQAの恩恵をもっとも受けるのは、44.1kHz、16ビットのデジタル録音かもしれない。
優れたアナログ録音も、MQAでなら、さらに驚くことが多い。

それでも44.1KHz、16ビットのデジタル録音のなかには、
MQAになったことで、こんなにも音が良かったのか、と、もっと驚くことがある。

デジタル録音におけるフォーマットは器そのものであり、
フォーマットの制約を受けるわけだが、
同じフォーマットであっても、優れた録音とそうでない録音とがあるように、
フォーマットだけで音の良し悪しが決定するわけではない。

そんな当り前のことを、カルロス・クライバーの1992年のニューイヤーコンサートを、
MQA Studioで聴くと、こんなにも凄かったのか、とあらためて驚き直している。

カルロス・クライバーのブラームスの四番は、当時よく聴いていた。
でもカルロ・マリア・ジュリーニの四番を聴いたあとでは、
クライバーの(音楽の)呼吸は、どこか浅いように感じてしまった。

オーケストラはどちらも同じだけに、よけいにそんなことを感じていた。
それも1989年のニューイヤーコンサートを聴いて、消えてしまった。

カルロス・クライバーにこんなことを書くのは失礼なのは承知で、
クライバーも一皮剥けた、とそう感じた。

ブラームスの四番に感じた、呼吸の浅さのようなものは、もうなくなっていた。

クライバーの1992年のニューイヤーコンサートも、
少し前にMQAになった。
今日、MQAで聴いた。

もう驚くしかなかった。
それに、音が素晴らしい。

聴いていて、音楽好きの友人たちに、
クライバーの1992年のニューイヤーコンサート、MQAで聴いてみてよ、
そんなメールを送りたくなるほどだった。

ソニー・クラシカルは、44.1kHz、16ビットのデジタル録音も、MQAにしている。
けれどほかのレーベルは、そうではない。
ドイツ・グラモフォンも、やっていない。

ドイツ・グラモフォンには、
ブラームスの四番、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」がある。

「トリスタンとイゾルデ」だけでもいい。
カルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」を、MQAにしてほしい。

TIDALではMQAのマークが、クライバーの「トリスタンとイゾルデ」についているが、
MQAではなく、ついているだけである。

でも、これがいつか本当になってほしい。

Date: 8月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その9)

いままで、そうおもったことは一度もなかったのが、
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ集を聴いてからというもの、
アンネ=ゾフィー・ムターのバッハの無伴奏が聴きたくなった。

ムターはバッハをまったく録音していないわけではないが、
無伴奏は録音していない。
理由はわからない。

ムターほどのキャリアならばとっくに録音していてもおかしくない。
レコード会社からもオファーがあるはずだ。

バッハの無伴奏を、いまどれだけの人が録音しているのか検索してみると、
かなりの数が表示される。

まったく知らない人もけっこういる。
TIDALでも、けっこうな数のバッハの無伴奏が聴ける。

第一番のソナタの冒頭だけを、いろんな人の演奏で聴いた。
聴いていて、なぜ、この程度の腕で、バッハの無伴奏を録音するのか?
そう思う演奏が少なくなかった。

そういう人(ヴァイオリニストとは呼びたくない)が少なくないのに、
ムターは録音していない。

ムターも内田光子と同じで、ある年齢に達するまで録音しないつもりなのか。
1963年生れのムターは、2023年に60になる。
このあたりで、バッハの無伴奏を録音するのか。

そうしてほしい。

Date: 8月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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アレクシス・ワイセンベルク(その3)

その1)で書いているように、
私はアレクシス・ワイセンベルクを好きでもないし、嫌いでもなかった。
TIDALで集中的に聴くまでは、関心がほとんどなかったのだから。

私の周りのクラシック好きの人で、
ワイセンベルクが好きという人はいない。

私の周りだけなのかもしれないが、
積極的にワイセンベルクが好きという人は、あまりいないように感じている。
実際のところ、どうなんだろうか。

好きという人がいないように、
嫌いという人も、少なくとも私の周りにはいない。

だからといって、注目に価しないピアニストなわけではない。

TIDALで聴けるワイセンベルクの録音は、
ソニー・クラシカルの分(もちろんMQA Studio)も加わって、少し増えた。

といってもそれほどの数ではないが、すべてを聴いているわけではないが、
そのなかで、驚いたのはチャイコフスキーのピアノ協奏曲(EMI録音)だった。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲を、熱心に聴いてきたわけではない。
これまでに何枚か聴いてきているものの、いま手元に残っているのは、
アルゲリッチとコンドラシンのSACDのみである。

そのアルゲリッチとコンドラシンのレコード(録音)が出たころ、
レコード芸術の名曲名盤では、やはりアルゲリッチが一位になっていた。
つづいてリヒテル、ホロヴィッツの順だったと記憶している。

そして、そこにワイセンベルクの名前はなかった(はずだ)。
カラヤン/パリ管弦楽団とのチャイコフスキーは、どうだったのだろうか。

1970年の録音である。
このレコードが出たころ、私はまだ小学生でクラシックを聴いていなかった。
当時の評価は知らないが、いま聴くと(というよりもいま聴いても)驚く。

この演奏は、いまどんな評価なのだろうか。
レコード芸術の「新時代の名曲名盤500」は今月号でシューベルトまで。
チャイコフスキーはまだである。

ワイセンベルクとカラヤン/パリ管弦楽団による、この演奏(録音)に、
点を入れる人はいまいるのだろうか、と野次馬根性で興味がある。

Date: 8月 24th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その4)

オーマンディのディスクも、TIDALで次々とMQAになっている。
“Vocalise”もMQAで聴けるようになった。

1967年10月18日録音の“Vocalise”は、少し前からMQAで聴けるようになっていた。
1954年11月28日録音の“Vocalise”は、しばらく待たされた。

昨晩ようやくMQAで聴けるようになった。
96kHzのMQA Studioである。

バカの一つ憶えのようにまた書いてしまうが、
いい時代になった、と思う。

MQAで聴くと、モノーラル録音の演奏のよさが、よりきわだつ。

Date: 8月 20th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その4)

二ヵ月前に、e-onkyoで、ミヨーの「子と母のカンタータ」が、
96kHz、24ビットのflacでの配信が始まっていることは、(その3)で触れている。

TIDALでも同時期に聴けるようになっていたのだけれど、こちらは44.1kHzだった。

6月の時点では、ソニー・クラシカルなのだから、
MQAで聴けるようになるとは思いもしなかった。

すでに書いているように8月になり、毎日、ものすごい数のアルバムがMQAになっていて、
TIDALで聴けるようになっている。

ジュリアード弦楽四重奏団のアルバムもMQAになり始めている。
ミヨーの「子と母のカンタータ」がいつMQAになるのか。

ほとんど毎日チェックしていた。
ようやく今日、TIDALで「子と母のカンタータ」がMQAで聴けるようになった。
96kHzのMQA Studioである。

Date: 8月 19th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Falstaff(その1)

ヴェルディの「ファルスタッフ」。
最初に聴いたのはジュリーニの指揮だった。

そのころは若さゆえのいきがりがあって、
イタリアオペラよりもドイツオペラ、
つまりワーグナーこそ、そんなふうに思い込んでいたから、
ヴェルディ、プッチーニのレコードよりも、
ワーグナーのレコードを優先して買っていたから、
ジュリーニのレコードが出るまで聴いたことはなかった。

しかもジュリーニの演奏は、レコードではなく、
LD(レーザーディスク)での鑑賞が先だった。

「ファルスタッフ」に前奏曲がないのは知ってはいた。
知っていたけれど、いきなり聴くと、びっくりする。
そうだったと、前奏曲、序曲もないことを思い出す。

ジュリーニの演奏はテンポが遅い。
とはいっても、ほかの指揮者の演奏を聴いていないのだから、
そんなこともわからず聴いていた(観ていた)。

LDだから、対訳がある。
あってよかった。
ないまま、ジュリーニの「ファルスタッフ」を聴いていたら、
退屈していたかもしれない。

それからも「ファルスタッフ」のディスクを数多く聴いているわけではない。
カラヤンを聴いて、アバドを聴いて、数えるぐらいである。

なんとなくバーンスタインの「ファルスタッフ」は聴かずにいた。

Date: 8月 18th, 2021
Cate: ディスク/ブック

秋吉敏子リサイタル

TIDALでMQAになったアルバムばかり聴いているわけではない。
MQA化されたソニー・ミュージック、ソニー・クラシカルのアルバムを、
確かに重点的にいまは聴いている。

でも検索している途中で、こういうアルバムもTIDALにあるのか、という発見がある。
「秋吉敏子リサイタル」も、そういう一枚だ。

ジャケットの写真からでも、ジャケットにある朝日ソノラマの文字からでも、
かなり古い録音であることはすぐにわかるのだが、
聴いてみると、楽しい音がしてくる。

ジャズにうとい私は、秋吉敏子のアルバムが、朝日ソノラマから出ているのを知らなかった。
TIDALで見つけなければ、ずっと気づかなかったかもしれない。

CDは2010年に二十数年ぶりに復刻されている、とのことで、
いまも入手できるようである。

友人に確認したのだが、「秋吉敏子リサイタル」は、菅野先生の録音である。

Date: 8月 16th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ソニー・クラシカルのジュリーニ

カルロ・マリア・ジュリーニが、ギュンター・ブレストの招きで、
1989年にソニー・クラシカルに移った時、すこしイヤな予感があった。

ソニーの音で、ジュリーニのよさが活きるのか。
ベートーヴェンの交響曲が最初に出た。
一番と七番のカップリングだった。

もちろんすぐに買って聴いた。
それから続けてベートーヴェンの交響曲が出た。
これらも買って聴いた。

九番は出なかった。
録音の予定はあったようだが、全集完成とはならなかった。

その時は残念とは思わなかった。
ドイツ・グラモフォンから、
ベルリンフィルハーモニーを指揮しての素晴らしい第九がでていたからである。

理由はそれだけではなく、ソニー・クラシカルの録音に満足できなかったこともある。
これがひどい録音ならば、あきらめもつくのだが、大きな欠点がある録音ではない。

優秀な録音なのだろうが、何かが欠けている感じがつきまとう。
それかジュリーニの良さを捉え切れていない(活かし切れていない)ように感じられる。

演奏もすこし精彩を欠くようにも感じられた。
とにかく、聴いていてもどかしい。
それをどうすることもできない。

ソニー・クラシカルに、ジュリーニは、いい演奏を残している。
なのに夢中になれない。

TIDALでソニー・クラシカルがMQA化に積極的である。
ジュリーニに関しても、MQAが出ている。
そしてやっとベートーヴェンが出た。

1990年前後の録音だから、44.1kHzでの録音である。
けれど、MQAで聴くソニー・クラシカルのジュリーニは、みずみずしい。
量感もきちんとある。

CDで聴いた時に感じた欠けているものが、MQAで聴いていると明らかになる。
そして、ソニー・クラシカルでも第九を録音してほしかった……、
いまそう思っている。