Archive for category ディスク/ブック

Date: 11月 13th, 2021
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタ

13歳の秋、「五味オーディオ教室」に、こうあった。
《モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さ》──、
グレン・グールドのことだ。

まだ、この時は、グールドのトルコ行進曲は聴いていなかった。

《目をみはる清新さ》、
この時は勝手に、こんな演奏なのかしら、と想像していた。

実際のグールドの演奏は、聴きなれていた演奏とは大きく違っていたし、
想像とも違っていた。

それからずいぶん月日が経った。
くり返し聴いた日々もあったし、
まったく聴かなくなったころもあった。

SACDでも出たので手に入れた。
SACDでも聴けるし、いまではTIDALでMQA Studioでも聴ける。

ついさっきまで聴いていた。MQA Studioで聴いていた。
聴いていて、いままで感じたことのないことを考えていた。

なにかものすごいつらい状況に追いやられた時、
音楽を聴く気力すらわいてこない時、
とにかく尋常ではない時に聴ける音楽は、こういう音楽なのではないか、と。

Date: 11月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen(その2)

私にとって、マーラーの「さすらう若人の歌」といえば、
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラーのアルバムが真っ先に浮ぶわけだが、
新しい録音の「さすらう若人の歌」をひさしく聴いていない。

いまは、誰の録音が評価が高いのか。

Kindle Unlimitedで、レコード芸術のバックナンバーが一年分読める。
いまちょうど名曲名盤500をやっているところだ。
マーラーは2021年5月号で取り上げられていて、Kindle Unlimitedで読める。

「さすらう若人の歌」は、
クリスティアン・ゲルハーヘルとケント・ナガノ/モントリオール交響楽団による
ソニー・クラシカルから出ているアルバムが一位である。

二位には、クーベリックとのフィッシャー=ディスカウの二回目の録音が入っている。
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラー盤は、
ハンプソンとバーンスタイン盤と同じ三位である。

けっこう変ってきているのだな、と思って、コメントを読むと、
フィッシャー=ディスカウ/フルトヴェングラー盤は不動の一位だったことがわかる。

前回三位だったゲルハーヘル/ナガノ盤が、今回初の一位とのことだ。
そうなると「さすらう若人の歌」に関しては、
フィッシャー=ディスカウ/フルトヴェングラー盤を聴かずして、
何を聴くのか──、そう思っている私でも、
ゲルハーヘル/ナガノ盤を聴きたくなる。

TIDALにある。
ソニー・クラシカルだから、このアルバムもMQA Studio(44.1kHz)で聴ける。

Date: 11月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen(その1)

マーラーの「さすらう若人の歌」。

1980年代後半のレコード芸術での「名曲名盤300」で、
このマーラーの「さすらう若人の歌」は、
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラーのアルバムが、
ダントツの一位だったことをはっきりと憶えている。

二位、三位のアルバムもフィッシャー=ディスカウで、
二位はクーベリックの指揮で、三位はフルトヴェングラーだがライヴ録音である。

手元に本がないので確認のしようがないが、
選者全員が、一位のディスクを選んでいた。

しかも黒田先生は、フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラーのアルバムだけを選ばれていた。

一生に一度しか歌えない歌が、いかなる名歌手にもあるようだ──、
そんなことを書かれていた。

フィッシャー=ディスカウほどの名歌手でも、一生に一度の歌唱はあるのだろう。

この「さすらう若人の歌」も、MQA Studio(192kHz、24ビット)で、
e-onkyoで購入できる。

TIDALでも、MQA Studioで聴ける。

Date: 11月 7th, 2021
Cate: ディスク/ブック

サンソン・フランソワのショパン

昨年11月のaudio wednesdayで、サンソン・フランソワのショパンをかけた。
そのことがあって、今年は例年になくショパンを聴いている。

といっても、それまであまり聴いてこなかったショパンだから、
それまでよりも聴いている、というぐらいで、そんなに多く、というわけではない。

20代のころ、ショパンを聴くとお尻のあたりがムズムズしてしまうことが多かった。
つまり嫌いな作曲家なのではなく、苦手な作曲家だった。
それが消えていったのは、40ぐらいのころ。

なのでショパンは、40すぎてから、少しずつ聴くようになっていったが、
ショパンのCDを積極的に買うようになったとは言い難かった。

それまで購入していたCDで、
ショパンの曲がおさめられているディスクを聴くようになった、といったほうがいい。
新しいショパンの録音を聴くようになったのは、TIDALを使うようになってからだ。

かなりの数のショパンのアルバムがTIDALで聴ける。
比較試聴もすぐにできる。

クラシックを聴くようになって四十年以上経って、
これまでになくショパンを聴いていた。

そんな一年を過ごして、サンソン・フランソワのショパンに惹かれる。

Date: 11月 2nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

BACH UNLIMITED(その2)

クラシックに興味を持ち始めたばかりのころ、
バッハの作品に、イギリス組曲、フランス組曲、
そしてイタリア協奏曲があるのを知った。

いずれも鍵盤楽器の曲なのに、イギリスとフランスは組曲で、
イタリアだけが、なぜ協奏曲? と思った。

いまならばすぐにインターネットで検索して、その理由を知ることができるが、
当時はそんなものはなかったし、まわりにクラシックに詳しい人もおらず、
イタリア協奏曲が、協奏曲の理由がすぐにはわからなかった。

しばらくして二段鍵盤楽器のための曲ということを知り納得したわけだが、
だからといって、イタリア協奏曲とおもえる演奏は、そう多くはない。

私が聴いたイタリア協奏曲は、グールドの演奏が最初だった。
グールドは右手と左手の音色を変えている。
グールドの演奏で聴けば、協奏曲だと理解できるし、納得できる。

では、市販されているイタリア協奏曲の録音がすべてそうなわけではない。
達者に弾いていても、協奏曲とは感じられない演奏もある。

リーズ・ドゥ・ラ・サール(Lise de la Salle)の“BACH UNLIMITED”、
ここにおさめられているイタリア協奏曲は、たしかに協奏曲である。

Date: 10月 31st, 2021
Cate: Kathleen Ferrier, ディスク/ブック

KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL” を聴いて、
もう三十年以上が過ぎている。

1985年にCDで初めて聴いたその日から、
“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は愛聴盤である。

EMI録音のフェリアーはMQAで聴けるけれど、
デッカ録音の“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、MQAではいまのところ聴けない。
聴ける日がはやく来てほしい。

三日前に、バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”を、ひさしぶりに聴いた。
いいアルバムだと感じたので、そのことを書いている。

ながいことレコード(録音物)で音楽を聴いていると、こういうことはあるものだ。
“Negro Spirituals”の例がある一方で、
一時期、熱心に聴いていたのに、いまはもうさっぱり聴かなくなってしまった──、
ということだってある。

そういうものである。

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”も、
もしかする、聴いても何も感じなくなる日がやってくるのかもしれない。

絶対に来ない、とはいいきれない。

そんな日が来たら、私は「人」として終ってしまった──、そうおもう。
そんな日が来たら、もう自死しか選択肢は残っていない──、
私にとって“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、そういう愛聴盤だ。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ROOTS: MY LIFE, MY SONG

バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”をきいた私は、
そういえばジェシー・ノーマンも黒人霊歌集を録音していたはず、とTIDALを検索していた。

あった。
その他にキャスリーン・バトルとのライヴ盤もあった。

もう一枚、気になるジャケットがあった。
それが“ROOTS: MY LIFE, MY SONG”である。

こちらもライヴ録音で、二枚組。
どんな歌が謳われているか(収録されているか)は、検索してほしい。

ジェシー・ノーマンは好きになれない歌手の一人だった。
嫌いなわけではない。
でも、のめり込んで聴くことのなかった歌手だった。

それでもカラヤンとのワーグナーの一枚は、いまでもときおり聴いている。
なのでソニー・クラシカルから、こんなディスクが出ていたことを、昨晩まで知らなかった。

私は、ジェシー・ノーマンという歌い手を少し誤解していたようだ。
そのことに気づかせてくれた一枚である。

出逢うべくディスクとは、いつか必ず出逢えるものなのだろう。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Negro Spirituals

ずいぶん昔、一度聴いただけでそれっきりというディスクは少なくない。
最初に聴いた時に、なにか感じるものがなかったりしたのか、
心に響かなかったのか、聴き手として未熟だったのか、
理由は他にもあるだろうし、その時その場合によって違っていようが、
とにかく、そういうディスクがある。

昨晩は、そういうディスクの一枚を、たまたまTIDALで見かけたので聴いていた。
バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”である。

1983年の録音、当時、評判にもなっていたので一度だけ聴いている。
自分で買って聴いたわけではない。
どこで聴いたのかも、もうおぼろげだ。

そんな“Negro Spirituals”を聴いていた。
ほんとうにいいアルバムだ。
いまごろになってそのことに気づいた。

私の知人に、理想の女性は待っていてもダメだ、という男がいる。
とにかく女性との出逢いに関しては、かなりというよりも、おそろしく積極的である。
具体的にどんなことをやっていたのかは、
いまの時代、同じ行動をすれば、間違いなくストーカー扱いされるはずだ。

昭和という時代だったから、
そんなやり方もストーカー呼ばわりされることなく、くり返せたのだろう。

知人がいわんとするところはわからないでもない。
でも、私はほんとうにそうだろうか、と思う男だ。

実は、すでに出逢っているのかもしれない──、
ただそのことに、こちらが気づかないだけである。

彼は音楽に関しても、ものすごい量のCDを買って聴いている。
おそらく音楽に関しても、女性に対する考えと同じなのだろう。

理想の音楽を求めて、ただ待っているだけではダメ、
こちらから積極的に行動しなければ、ということなのだろう。

完全に受身では、生涯をともにできる音楽とは出逢えないだろう。
ある程度の積極性はむろん必要である。
けれどそれも限度というものがあるはずだ。

理想の女性、理想の音楽を求めて、
それまで出逢っていない女性、音楽を追い求める。

彼はおそらく、これまで聴いてきた音楽に、
すでにあったことに気づかないかもしれない。

“Negro Spirituals”に気づいた私は、よけいにそうおもっている。
さいわいなことに録音された音楽とは、再会できる。

Date: 10月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

カラヤンのマタイ受難曲(その6)

カラヤンのバッハを積極的に聴きたいかというと、そうではない。
カラヤンのマタイ受難曲(ドイツ・グラモフォン盤)も一度聴いたきりである。

一ヵ月ほど前、TIDALであれこれ検索していて、カラヤンのフーガの技法を偶然見つけた。
1944年の録音である。

こんな録音があったのかと、Googleで検索すると、
五年ほど前に録音が発見されてCDが発売になっていることを知る。

気づいていなかった。
気づいていたら、おそらくCDを買って聴いていただろう。

TIDALで聴いた。

カラヤン指揮によるバッハのマタイ受難曲は、
ドイツ・グラモフォンによる1972-73年にかけてのステレオ録音のほかに、
1950年のモノーラルのライヴ録音がある。

1950年録音は、カスリーン・フェリアーが歌っているので、
アナログディスクでももっていた(ただし音はひどかった)。
CDになってからも購入した(まだこちらの方が音はまともになっていた)が、
くり返し聴くことはほとんどしていない。

1944年のフーガの技法は、これから先、何度か聴いていくように感じている。

Date: 10月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック

This One’s for Blanton

デューク・エリントンとレイ・ブラウンによる“This One’s for Blanton”。

私が、このディスクの存在を知った(聴いた)のは、ステレオサウンドの試聴室。
ここまで書けば、昔からの読者、
記憶力のいい方だと、長島先生の試聴だな、と気づかれるだろう。

長島先生の試聴、
それも確か組合せの試聴だったはずだ。

アナログディスクだった。
A面一曲目の“Do Nothin’ Till You Hear from Me”。
出だしの強烈なピアノの音。

長島先生による組合せからの音だったことも、その強烈さを一層増して聴こえた。
それからというもの、私にとって、
“Do Nothin’ Till You Hear from Me”がどういう音で鳴るべきなのか、は、
この瞬間に決ったといっていい。

頻繁に聴いているわけではない。
でも、スメタナの「わが祖国」のように、無性に聴きたくなるときがふいに訪れる。
そういう時は、できるだけ大きな音で聴く。

それだけでなく、音の判断で少し迷ったとき、
“Do Nothin’ Till You Hear from Me”を聴くと、よくわかる。

数日前、ChordのMojoをいじった。
基本的にはメリディアンの218に施したことと同じなのだが、
スペースの都合上、やれなかったことも少なくない。

それでも満足できる音になった。
この音ならば──、とおもい、“Do Nothin’ Till You Hear from Me”を鳴らした。

ヘッドフォンで聴いた。
ヘッドフォンから、あの時、聴いた音が出てきた。

Date: 10月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック
1 msg

シフのベートーヴェン(その11)

五味先生が、「日本のベートーヴェン」でこう書かれているのを、
私は20代のころ、何度も読み返している。
     *
 ピアノ・ソナタのほかに、たとえば『ディアベリの主題による変奏曲』を音楽史上に比類ない名曲という人がある。私には分らない。比類ないのはやはり『ハンマークラヴィーア』と作品一一一だと私は思う。『ハンマークラヴィーア』といえば、いつか友人の令嬢(高校二年生)が温習会で弾くのに招待され、唖然とした。十代の小娘に、こともあろうに『ハンマークラヴィーア』が弾けるとおもう、そんなピアノ教師が日本にはいるのだ。技術の問題ではない。ベートーヴェンのソナタの中でも最も深遠なこの曲を、本当に、弾けるピアニストが日本に何人いると教師は思っているのだろう。だいたい日本の専門家には、レコードなど、ろくにきかない人が多いが、だからオーボエが何本ふえたなどと言っていられるのだろうが、そういうピアノ教師たちに教育ママは子供を習わせ、音楽的教養が身につくと思っている。あわれと言うも愚かで、済む問題ではない。ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない。晩年のベートーヴェンの歳になって、やっと、限られた、世界でも数人のピアニストがその心境を弾き得るだろう。そういう曲である。恐らく当の教師にだって満足に弾けはすまい。それが、こともあろうに発表会で少女に演奏させる。どういう神経なのか。こんな教師たちで日本の楽壇は構成され、ベートーヴェンが語られる。日本はその程度のまだ、水準でしかないのだろうか。
     *
《ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない》とある。
《晩年のベートーヴェンの歳になって、やっと、限られた、世界でも数人のピアニストがその心境を弾き得るだろう》
ともある。

そうだ、と私も思っている。
作品一一一の第二楽章を聴いていると、
五味先生が書かれていることを実感する。

極端な意見だ、という人がいてもいい。
私だって、少しはそう思うところもあるが、
それでもくり返すが、作品一一一の第二楽章だけでもいいから聴いてほしい。

聴けばわかるはずだ。
お前は、五味先生の文章に洗脳されすぎだ、といわれるだろう。

でもアニー・フィッシャーのベートーヴェンを聴いていると、
五味先生は、どういわれただろうか、と思ってしまう。

作品一一一の第二楽章。
ベートーヴェンの心境を描ききったと思えるピアニストは、
私にとっては、ほんとうに少ない。

そのなかの一人にアニー・フィッシャーは入っている、
アンドラーシュ・シフは入っていない。

Date: 10月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック
1 msg

アレクシス・ワイセンベルク(その4)

カラヤンとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴いたあとで、
ジュリーニとのブラームスのピアノ協奏曲も聴いていた。

このブラームスにも驚いた。

ジュリーニは好きな指揮者だし、よく聴いている。
なのにワイセンベルクとのピアノ協奏曲は知ってはいても、
なんとなく遠ざけていて、聴いたのはついこのあいだが初めてだった。

どう驚いたのかは書こうと思いながら、一ヵ月以上が経っていた。
どんなふうに書こうかな、と考えているうちに、
ここ数ヵ月、ワイセンベルクの演奏にいままでにない関心をもつようになったし、
すごい演奏だ、とも感じている。

それでもワイセンベルクのディスクが、
これから先、私にとって愛聴盤となっていくのだろうか──、
そんなことを考えるようになってきた。

いまのところ、答は、おそらく愛聴盤とはならないだろう、なのだが、
それでは、どうして愛聴盤とならないのかについて考えることになる。

同時に、私にとって愛聴盤といえるのは、どのディスク(演奏・録音)なのか。
そのことを改めて考えることになる。

こんなことを考えている(書いている)と、五味先生の文章を引用したくなる。
     *
最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。
(「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」より)
     *
ワイセンベルクの演奏が、ここでのティボーにあたるといいたいのではない。
《レコードの愛し方》。ここである。

Date: 10月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック

スメタナ 交響詩「わが祖国」(その3)

スメタナの「わが祖国」を、いろんな指揮者で聴いているわけではない。
数える程しか聴いていない。

先日、ふと、そういえばカラヤンは「わが祖国」は録音していないのでは? と思った。
カラヤンの「わが祖国」といえば、
モルダウだけをベルリンフィルハーモニーで録音しているディスクがある。

日本盤には、「モルダウ〜カラヤン/ポピュラーコンサート」とつけられていた。
それからウィーンフィルハーモニーとのドヴォルザークの交響曲第九番にも、
モルダウだけがカップリングされている。

カラヤンのモルダウ(ウィーンフィルハーモニー)を聴いていた。
TIDALにあるから、思い立ってすぐ聴けるのは、ほんとうにありがたい。

流麗なモルダウだった。
カラヤンは、モルダウだけを演奏しているわけだから、
モルダウだけということでは、名演といえるだろうな、と思う。

クラシックに強い関心のない人でも、モルダウのフレーズは耳にしている。
日本語の歌詞がつけられていたりするからだ。

そういう人にとっては、カラヤンのモルダウは名演となるだろう。
けれど「わが祖国」を聴いている人にとっては、
モルダウは交響詩「わが祖国」の第二曲であるわけだがら、
モルダウだけを聴いていたとしても、「わが祖国」と切り離して聴くということはないはずだ。

カラヤンのモルダウを聴いていると、そこのことがひっかかる。
カラヤンのモルダウは、モルダウだけ、なのだ。

「わが祖国」は思い出したように数年おきに聴くぐらいである。
全曲通して聴くことは、いまではほとんどない。
モルダウだけを聴いて、ということが多い。

だったらモルダウだけの演奏で完結してしまっているカラヤンの演奏でもいいのではないか──、
自分でもそんなことを思ったりする。

なのにカラヤンのモルダウを聴いて、これは「わが祖国」ではないと憤ったりする。

Date: 10月 3rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Falstaff(その3)

真剣に音楽を聴く、
まじめに音楽を聴く、
音楽と向きあいながら聴く、
そんなふうに音楽を聴く態度を表現するわけだが、
これらと「夢中になって聴く」とは、同じとはいえそうなのだが、
違うといえば違うところがある。

何をしながら音楽を聴く、ということからすれば、どちらも同じことである。
まじめに音楽を聴いているのだから。

それでも夢中になって音楽を聴くは、少し違う。

その演奏をまじめに聴く人と、その演奏を夢中になって聴く人とは同じではない。
一人の聴き手に、まじめに音楽を聴くと夢中になって音楽を聴くとがある。

ジュリーニによる「ファルスタッフ」を、これまでまじめに聴いてきた。
少なくとも私のなかではそうであった。
けれど夢中になって聴いてきただろうか、と、
今回バーンスタインの「ファルスタッフ」を聴き終って、そんなことを考えていた。

TIDALにバーンスタインの「ファルスタッフ」があった。
あったのは知っていたけれど、今回初めて聴く気になったのは、
MQA Studioで配信されるようになったからだ。

とりあえずどんな演奏なのか聴いてみよう、
そんな軽い気持からだった。
聴き始めた時間も遅かった。

十分ほど聴いたら、きりのいいところで寝るつもりだった。
なのに、最後まで、二時間ほど聴いてしまった。
夢中になって聴いていたからだ。

Date: 9月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Falstaff(その2)

ステレオサウンド 47号は、1978年夏に出ている。
私は高校一年だった。

クラシックは聴いていたけれど、主に聴いていたのは交響曲とピアノ曲であって、
オペラに関しては、小遣いではオペラのレコードは高くて買えなかった。
つまり、高校時代、まともにオペラ全曲を聴いてはいなかった。

そんな時期に、47号掲載の「イタリア音楽の魅力」を読んでいる。
キングレコードのプロデューサーの河合秀明氏、
黒田恭一氏、坂 清也氏による座談会である。

黒田先生が語られている。
     *
 さっき坂さんが、物語は荒唐無稽でバカバカしいといわれたけれど、まさにそのとおりで、たとえばぼくの大好きなオペラの一つにヴェルディの『トロヴァトーレ』があるんです。このオペラなんかは、荒唐無稽さではかなり上位にくるもので、しかも作品としてよく書けているかというと、かならずしもそうではない。ところがこのオペラが、一流の歌い手、一流のオーケストラ、一流の合唱団、一流の指揮者によって演奏されたときのすばらしさは、ほかにちょっと類がないと思えるほどなんですね。
 べつなことばでいうと、もともと芸術でもないでもないんだけれど、すばらしく見事に演奏され、そしてその演奏を夢中になって聴くひとがいるときに、そこにえもいわれぬ芸術的な香気とかぐわしさが生まれるわけですよね。もともと徹底的にエンターテイメントであっても、結果として、第一級の芸術になりうるんだ、ということでしょう。
     *
黒田先生が語っておられることは、とても大事なことだ。
イタリアオペラに関してだけのことではない。

《その演奏を夢中になって聴くひと》の存在があってこそ、である。
高校生の私は、まともにイタリアオペラを聴いていたわけではなかった。
夢中になる、ずっと手前で踏み止まっていた。