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Date: 12月 26th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その12)

田中一光氏のハークネスについては以前も書いている。
くり返しになるとわかっていても、氏のハークネスの使い方については何度も書きたくなる。
私が言葉を尽くすよりも、ステレオサウンド 45号に載っている写真を見ていただく方が、
その使い方の見事さを伝えてくれる。

オーディオ関係の雑誌には、昔から読者訪問記事がある。
ステレオサウンドにも、いまはなくなってしまったが、
菅野先生によるベストオーディオファイルがあり、レコード演奏家訪問があった。
その前には五味先生によるオーディオ巡礼があった。
ほかの雑誌にも、定期的だったり不定期だったりするが、
オーディオマニアのリスニングルームは記事になることが多い。

それにインターネットが普及して、ウェブサイトやブログをつくり公開することがそれほど難しいことではなくなり、
リスニングルームの実例をみようと思えば、いくつも見ることができる。

古くからあるオーディオマニア紹介(読者訪問)の記事だが、
以前といまとでは、読者の興味の対象が変って来つつあるのかもしれない、と思うこともある。

昔は、この人はこういうオーディオ機器を使い、こういう使い方をしているんだ、
といったことに関心が向いていたのではないだろうか。
いまは、この人はこういう使いこなしをしているんだ(それはあくまでも写真でわかる範囲のことではあるが)、
そのことに読者の関心は向きつつある、もしくは向いているし、
編集者側の発信の仕方としても──記事の内容とももちろん関係していてのこともある──、
使いこなし方にまでふれるようになってきているようにも感じることがある。

ステレオサウンド 45号の田中一光氏のリスニングルームの写真が伝えてくれるのは、
田中一光氏の使い方であるからこそ、当時中学3年だった私は憧れたのだ。

Date: 12月 25th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その6)

ステレオサウンド 43号に載っている岡先生の文章は、最初に読んだとき以上にいま読み返すと胸にほんとうに響く。
     *
岩崎千明さんとふかいおつき合いできるという機会にはついに恵まれなかった。彼が、どんなにものすごい大音量で鳴らすかということも伝聞でしか知らない。しかし、どこで会っても、いつもにこにこしているけれど口数がすくない岩崎さんと大音量ということが、ぼくのイメージでは最後までむすびつかなかった。オーディオ仲間の撮影会でも二、三度一緒になったことがある。彼のとった写真は、そういう角度と構図の発想がよくもできるものだとおもわせるような雰囲気をもった抒情がただよっていて、びっくりするとともに、これも大音量とむすびつかないものだった。だから、ぼくの知っている限りの岩崎さんは、とてもセンシティブで心優しい感じだった。いつか彼のジープに乗せてもらったことがある。寒い冬の曇り日に吹きっさらしのジープで風を切ってぶっとばされて心身ともに凍りついてしまったのだけれど、そのとき運転している彼の表情をみていると、大音量で鳴らしているときもそんな顔をしているのだろうとおもった。岩崎さんの生甲斐をそこにかい間みた感じだった。岩崎さんとオーディオは心優しいひとが生甲斐のありたけを噴出させたような執念と壮烈さがあったとおもう。
     *
今日は、二度、岡先生の文章を読んだ。
読んだあとで書き写すときにもう一度読み、最後の数行、ほんとうにじーんと胸を打つものがあった。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その5)

マランツのModel 7のパネルデザインに言及していた人が、もうひとりいたのを知ったのが、
ほんの2年ほどの前のことである。
書かれていたのは岩崎先生だった。
シンメトリーをほんの少し、絶妙といえるバランスでくずしているからこその美しさ、と書かれていた。
正直驚いた。瀬川先生よりもずっと前に、同じことを書かれていた。
岩崎先生はデザインの専門家ではなかったはず。
(いまのところ瀬川先生がマランツModel 7のパネルデザインについて書かれた、古いものはまだ見つけていない。)

岩崎先生の文章を見つけたとき、驚きだけでなく、なぜ? もあった。
そして、そういえば、と思い返すことがあった。
岩崎先生は大音量というイメージがあるため、そのためのスピーカーとしてJBLのD130、パラゴン、
ハーツフィールド、ハークネス、エレクトロボイスのパトリシアンなどが結びついているけれど、
D130の前に使われていたのは、グッドマンのAXIOM80である。

ここから、岩崎先生と瀬川先生の共通点が、じつはあることに気づいたわけである。

瀬川先生といえば、リスニングルームを横長に使われる。
つまり長辺の壁側にスピーカーシステムを設置される。
私も、ずっとこのやり方をとおしている。
実は岩崎先生も、この設置方法の良さを古くから説かれている。

また、えっ、と思う。

そして、ステレオサウンド 43号の岡先生が書かれた追悼文にもどる。
そこには、こうある。
「とてもセンシティブで心優しい感じだった」と。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その4)

マランツのModel 7のパネルデザインについて語るとき、
多くの人が、シンメトリーのバランスをほんのちょっとくずしているところに、絶妙さがある、という。
こう語る人は、私も含めて、おそらくステレオサウンドから1981年夏に出た
「別冊セパレートアンプ ’81」の巻頭に載っていた
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」を読まれた方のはず。

こう書かれている。
     *
そうなのだ。マランツの音は、あまりにもまっとうすぎるのだ。立派すぎるのだ。明らかに片寄った音のクセや弱点を嫌って、正攻法で、キチッと仕上げた音。欠点の少ない音。整いすぎていて、だから何となくとり澄ましたようで、少しよそよそしくて、従ってどことなく冷たくて、とりつきにくい。それが、私の感じるマランツの音だと言えば、マランツの熱烈な支持者からは叱られるかもしれないが、そういう次第で私にはマランツの音が、親身に感じられない。魅力がない。惹きつけられない。だから引きずりこまれない……。
また、こうも言える。マランツのアンプの音は、常に、その時点その時点での技術の粋をきわめながら、音のバランス、周波数レインジ、ひずみ、S/N比……その他のあらゆる特性を、ベストに整えることを目指しているように私には思える。だが見方を変えれば、その方向には永久に前進あるのみで、終点がない。いや、おそらくマランツ自身は、ひとつの完成を目ざしたにちがいない。そのことは、皮肉にも彼のアンプの「音」ではなく、デザインに実っている。モデル7(セブン)のあの抜きさしならないパネルデザイン。十年間、毎日眺めていたのに、たとえツマミ1個でも、もうこれ以上動かしようのないと思わせるほどまでよく練り上げられたレイアウト。アンプのパネルデザインの古典として、永く残るであろう見事な出来栄えについてはほとんど異論がない筈だ。
なぜ、このパネルがこれほど見事に完成し、安定した感じを人に与えるのだろうか。答えは簡単だ。殆どパーフェクトに近いシンメトリーであるかにみせながら、その完璧に近いバランスを、わざとほんのちょっと崩している。厳密にいえば決して「ほんの少し」ではないのだが、そう思わせるほど、このバランスの崩しかたは絶妙で、これ以上でもこれ以下でもいけない。ギリギリに煮つめ、整えた形を、ほんのちょっとだけ崩す。これは、あらゆる芸術の奥義で、そこに無限の味わいが醸し出される。整えた形を崩した、などという意識を人に抱かせないほど、それは一見完璧に整った印象を与える。だが、もしも完全なシンメトリーであれば、味わいは極端に薄れ、永く見るに耐えられない。といって、崩しすぎたのではなおさらだ。絶妙。これしかない。マランツ♯7のパネルは、その絶妙の崩し方のひとつの良いサンプルだ。
パネルのデザインの完成度の高さにくらべると、その音は、崩し方が少し足りない。いや、音に関するかぎり、マランツの頭の中には、出来上がったバランスを崩す、などという意識はおよそ入りこむ余地がなかったに違いない。彼はただひたすら、音を整えることに、全力を投入したに違いあるまい。もしも何か欠けた部分があるとすれば、それはただ、その時点での技術の限界だけであった、そういう音の整え方を、マランツはした。
     *
これを読んだとき、なんと見事な表現だろう、と感心していた。
そして工業デザイナーだった瀬川先生だから指摘できる、
マランツModel 7のパネルデザインのことだな、とも思っていた。
ずーっとそう思っていた。ほんの2年ほど前まで、こういう指摘ができるのは瀬川先生だけだな、と思っていた……。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その3)

「オーディオ彷徨」を読んだときは、ステレオサウンドで働いていた。
試聴のあいまに、ときどきではあったが、岩崎先生のことが話題になることもあった。
「オーディオ彷徨」を読んでもわかるが、
とにかく強烈な印象の人であったことが、少しずつではあるが実感できてきた。
それでもジャズをあまり熱心な聴かないことがあってか、
「オーディオ彷徨」の面白さにのめり込むには、もう少し時間を必要とした。
いわば「遅れてきた読者」であった。

だから2000年にaudio sharingをつくったときに、「オーディオ彷徨」を公開した。
じつはこのとき、岩崎先生のご家族と連絡がとれずに、無断公開だった。
でも、しばらくしてご家族の方からメールをいただいた。許諾を得られた。

audio sharingを公開したとき、私の手もとにあった本で、岩崎先生の文章が載っているのは、
ステレオサウンド 41号と「オーディオ彷徨」だけだった。
もっともっと岩崎先生の文章を公開したいと思っていても、すぐにはどうすることもできなかった。

けれどaudio sharingを公開していると、本を提供して下さる方がいらっしゃる。
その方たちのおかげで、岩崎先生の書かれた文章をここ数年まとめて読むことができた。
そして気づくのは、意外にも瀬川先生と共通するところが多い、ということだった。

ジャズを大音量で聴く岩崎先生と、
クラシックを小音量で聴かれていた瀬川先生。
以前ならば、ふたりに共通性をみつけることは、ほとんどできなかった。
というよりも、できる、とは思っていなかった。

共通するところといえば、JBLのスピーカーを愛用されていたこと、であっても、
岩崎先生のJBLといえばD130でありパラゴンである。
瀬川先生は4341、4343、4345といった4ウェイのスタジオ・モニターだし、
レコードの扱いもふたりは対照的だった、ときいていた。

でも、それは、私が岩崎先生の書かれたものをほとんど読んでいなかったから、であった。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その2)

私が初めて手にした(買った)ステレオサウンドは、1976年12月に出た41号と、
ほぼ同時に出ていた「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
つまり、私が岩崎先生が書かれたものを同時代に読むことができたのは、
ステレオサウンド 41号に掲載されたものだけである。

41号には、JBLのパラゴン、アルテックの620A、クリプシュのK-B-W、SAEのMKIBとMark2400、
アキュフェーズのT100とM60、アムクロンのDC300A、オーディオリサーチのD76A、ダイナコのMKVI、
ダイヤトーンDA-A100、デンオンPOA1001とDH710F、ラックスCL32、マランツの150、
デュアルCS721Sと1249、トーレンスTD125IIAB、マイクロのDDX1000について書かれている。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」には書き原稿はない。

1977年3月のステレオサウンド 42号には岩崎先生の文章は載ってなかった。
そして6月発売のステレオサウンド 43号には、岩崎先生への追悼文が載っていた。

このころはまだ中学生だったから、新しく出るステレオサウンドやその他のオーディオ雑誌、
それにレコードを買うのがせいいっぱいで、ステレオサウンドのバックナンバーを購入する余裕はなかった。
だから、岩崎先生の文章をまとめて読むことになるのは、もうすこし先のことになる。

そうであっても、ステレオサウンド 43号に載っていた「故岩崎千明氏を偲んで」は何度か読み返しては、
井上先生、岡先生、菅野先生、瀬川先生、長島先生、山中先生による追悼文と、
パラゴンの前で椅子の上で胡座を組んで坐っている岩崎先生の写真をみて、なにか強烈なものを感じていた。

岩崎千明という人がどういう人であったのかは、亡くなられたときにはほとんど何も知らなかった。
ジャズを大音量で聴く人、というぐらいでしかなかった。
そのせいか、遺稿集「オーディオ彷徨」が出てもすぐには買わなかったし、買えなかった。
私が「オーディオ彷徨」を手にしたのは、復刊されてからである。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その1)

まず、この文章をお読みいただきたい。
     *
 8月のまだ暑さの厳しい、ある日の昼下り、SJ試聴室にふと立寄った時、見なれぬブランドのパワー・アンプが眼に入った。〝Stax〟と小さく、しかし、鮮やかな文字がパイロット・ランプ以外に何もない、そのスッキリとしたパネルにあった。知る人ぞ知る個性派ナンバー・ワンのメーカー、スタックス・ブランドのアンプということで、大いにそそられ、聴きたくなったのも当然だろう。
 SJ試聴室の標準スピーカーJBLスタジオ・モニター4341が接続され、音溝に針を落してボリュームが上がると、響きが空間を満たした。その時のスリリングな興奮は、ちょっと口では言えないし、まして、こうして文字で表わすことなどできない。なんと言ったらよいのだろうか、まず4341が、JBLがこういう音で鳴ったことは今までに聴いたことがない。それは、やわらかな肌触わりの、しなやかな物腰の、品の良いサウンドであった。いわゆるJBLというイメージの、くっきりした鮮明度の高い強烈さといった、いままでの表現とまったく逆のものといえよう。だからといって、JBLらしさがなくなってしまった、というわけでは決してない。そうした、いかにもJBLサウンドという音が、さらにもっと昇華しつくされた時に達するに違いない、とでもいえるようなサウンドなのだ。まったく逆な方向からのアプローチであっても、それが極点に達すれば、反対側からの極点と一致するのではないだろうか。ちょっと地球の極点のように、南へ向っても北へ向っても、ひとまわりすれば極点で一致するのと同じ考え方で理解されようか。
 スタックスのアンプのサウンド・クォリティーを説明するのは、むづかしい。本当は今までになく素晴しい、といい切っても少しも誇張ではないが.それならば、どんなふうにいいのか。少なくとも、音溝のスクラッチ音が極端に静かになる。JBLのシステムで聴くと、レコードのスクラッチはきわめてはっきりと出てくるが、その同じスピーカーでありながら、スタックスのアンプでは、驚くほど耳障りにならなくなってしまう。さらに演奏者の音が、そのまわりの空間もろとも再現されるという感じで鳴ってくれる。ステージでの録音ならばそれは、良い音としての必要条件ともなるが、スタジオでのオンマイク録音においてでさえも、こうした演奏現場の音場空間がスピーカーを通して聴き手の前にリアルに表現される。優れた再生というものの重要なるファクターであるこうした音場再現性が、スタックスのこのパワーアンプDA80でははっきりと感じられる。もし聴きくらべることができる状態ならば、おそらくそうした事実は、誰もが非常にはっきりと感じとることができるのではないだろうか。それは、ちょっときざっぼい、言い方をすれば、再生音楽の限界の壁を越え得たといえる。または、生(なま)へ大きく一歩前進したともいえよう。
 さて、こうした、かってない未知の再生効果の衝撃的体験をしたときから、このアンプDA80は、私に新たなる可能性を提示し拡大してくれたのである。その製品の、オリジナリティーおよびクォリティーの高さは、スタックス・ブランドの最も誇りとするところであり、これはごく高いレベルのマニアの間でこそ常識となっているとはいうものの、「スタックス」というブランドは必らずしもよく知られているわけではない。だからSJ読者の中にも、このページの登場で初めて意識される方も多いことと思われる。スタックスは、国内オーディオ・メーカーの中でも、もっとも永いキャリアーと他に例のないユニークな技術とで知られる、今や世界にもまれになったコンデンサー・カートリッジとコンデンサー・スピーカーからそのスタートを切り、アーム、さらにヘッドフォン、そのためのアダプター・アンプと順次に作ってきて分野を序々に、しかし確実に拡げてきたのち、1年前に、パワー・アンプDA300を発表した。150/150ワットのA級アンプは、ごく一部のマニアの間で、話題になったが商品としては、高価格のため必らずしも大成功とまではいかなかったようだ。今回、このDA300を実用型として登場したのが、このDA80だ。しかし、DA80は、兄貴分たるDA300を、性能的にも再生品位の上でも一歩前進したといって差支えないようだ。AクラスDC構成アンプというその回路的な特長による技術的な優秀性だけが、決してそのすばらしさのすべてではないのだ。おそらくオーディオも商品としてもまた兄貴分DA300は、一歩を譲るに違いあるまい。
     *
今日、もうひとつのブログ、the Review (in the past)で公開した、
岩崎先生が、スイングジャーナルの1976年10月号に書かれた、スタックスのパワーアンプDA80の製品評だ。
最初は、リンクするだけにしておこうと思ったが、確実に読んでほしい、と思ったので、
まるごと、こちらでも公開した。

私は、この岩崎先生の文章を読んで、やっぱりそうだったんだ、という感を深くした。
そして、ひとりで、うんうん、と首肯いていた。

Date: 12月 24th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その11)

なぜ、そのような使い方をするのか。

その前に、同じJBLのスピーカーシステム、ハークネスのことを書きたい。
ハークネスは、いまでも「欲しい!」という気持がつづいている。
ステレオサウンド 45号の連載記事「サウンド・スペースへの招待」を読んだときから、
ずっとその気持は続いている。
ときに強くなったり、かすかになったりしながらも、1977年から持ち続けている気持だ。

この号の「サウンド・スペースへの招待」の副題には「木に薫るハークネス」とついている。
紹介されているのはデザイナーの田中一光氏のリスニングルーム。
このときの田中一光氏のシステムは、
スピーカーシステムは、もちろんJBLのハークネス(001 System)、
コントロールアンプはマッキントッシュのC22とマークレビンソンLNP2L、パワーアンプはマランツの510M、
プレーヤーはヤマハのYP800でカートリッジはピカリングXSV/3000。

ステレオサウンド 45号が手元にある方はぜひひっぱり出して見てほしい、と思う。
こんなにハークネスが見事に部屋に収まっているのを見た14歳の私は、ずっと憧れてきた。

ハークネスというスピーカーシステムは、美しい、と思う。
けれど、他のJBLのスピーカーシステム、
たとえばハーツフィールド、パラゴン、オリンパスと比較すると、
エンクロージュアはバックロードホーンではあるものの、サランネットをつけた状態ではそのことは判らない、
四角い箱でしかない。

金属製のテーパーのついた細い脚、
シックなサランネットもフラットではなく中心から両端にかけて奥に引っ込んでいる。
JBLのスピーカーシステムの中で、モダーンデザインの成功例だと思う。

そういうハークネスだから、
ハーツフィールド、パラゴン、オリンパスに見られるような家具的要素・側面は希薄であり、
通常のスピーカーシステムと同じように内側に振って設置するという使い方もある、と思うし、
田中一光氏の、見事な使い方もある。

田中一光氏のハークネスの使い方は、家具として扱われている。
そのことを意識されていたのかいなかったのかは、「サウンド・スペースへの招待」を読んでもわからないが、
氏のリスニングルームの写真を見れば、
ハークネスが家具として、あるべきところに収まっている、としかいいようがない。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その10)

タンノイのRHRを聴くとき、サランネットは、ではどうするか。
どちらでもいい、と思う。
聴く音楽によって付けたり外したりしてもいいし、音量によっても付けたり外したりして、
自分によって、そのときの自分にとって好ましい方をその都度選択していく、という使い方でいい、と思う。
それに鳴らしはじめのころと、使い始めて1年後、3年後、5年後、10年後……によっても変ってくる。
かたくなにどちらに決めてしまって使うよりも、その方がいい。
サランネットの脱着は簡単に行えるし、RHRはフロントバッフルも仕上げてあるから、
サランネットを外した状態でも外観的に気になるわけでもない。

ではオリンパスは、どうかというと、これはもうつけた状態で聴くしかない。
組格子を外した状態の音が、付けたときの音よりもずっとずっと好ましいとしても、
オリンパスというスピーカーシステムを使うのであれば、あの組格子は外したくない。

組格子を外したオリンパスの外観も、精悍といえなくもないが、
それでもオリンパスは組格子付きの状態こそがオリムパスというスピーカーシステムを成立させている。
オリンパスを組格子なしで聴くのであれば、
いっそのこと、ほかのスピーカーシステムにした方がいいとさえ、私は思う。

そう私に思わせるのは、オリンパスに家具的側面を強く感じているから、でもある。
オリンパスを使ったことはないし、これから先も自分のモノとして使うことはないはずだ。
それでも、もし使う機会がおとずれたとしたら、オリンパスを家具として映える位置に設置するだろう。
そこが音的にはあまり芳しくないとしても、
オリンパスというスピーカーシステムの正しい使い方のひとつ、と思えるからだ。

使い方と使いこなしは似ているようで、違う。

オリンパスは、家具的側面のない現代のスピーカーシステムのようには、角度を付けて設置したくはない。
つまり聴取位置に向けて内側に振りたくはない。
まっすぐ向くように設置したい。
理由は前述しているとおり、映えるようにしたいからだ。

ステレオ再生のために2台のオリンパスをどう設置するのが、もっとも映えるのかを考えれば、
私にとってのオリンパスの設置はこうなってしまう。
そして内側に振るのをやめるだけでなく、
できるだけ左右に広げて、それも部屋のコーナーぎりぎりまでに寄せた方が、より収まりがいいはずだ。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その9)

だからといって、すべてのスピーカーシステムのサランネットを外して試聴していたわけではない。
基本的にフロントバッフルがきれいに仕上げられているスピーカーシステムは、
サランネットを外した状態を標準として試聴していた。
国産のスピーカーシステムは、ブックシェルフ型もフロアー型もフロントバッフルはきれいに仕上げられている。
一方、イギリスのBBCモニター系列のスピーカーシステムとなると、
スペンドール、ハーベス、ロジャースのスピーカーシステムをみればわかるように、
エンクロージュアの側板、天板(機種によっては裏板)はツキ板仕上げでも、
フロントバッフルは黒色の塗装というものが多かった。
この種のスピーカーシステムはサランネットを装着した状態での音づくりをしていることが多く、
実際に音を聴いてもサランネットありの音が好ましく思えることが多い。

サランネットをつけた音か、つけない音かは、メーカーによって違う。
それに開発時期によっても違っている。
外した常態化つけた状態か、その音の判断は、そのスピーカーシステムを使う人が判断することであって、
フロントバッフルが黒塗装のスピーカーシステムでもサランネットを外した音が好ましいと感じるのであれば、
外して聴いた方がいいと思うし、
サランネットがない音のほうが気に入ったとしても、スピーカーユニットが見えるのが嫌だという人もおられる。

こういう例もある。
タンノイのRHRはバックロードホーンのエンクロージュアで、
フロントバッフルと呼べるほどの面積はないもののきちんと仕上げてある。
とはいってもサランネットを外して聴くスピーカーシステムなのかといえば、
サランネットの裏側をみると、そうともいえない。

サランネットにカーヴをもたせるために小孔がいくつもあけられたパンチングメタルが、ネットの裏にある。
これを叩いてみるとけっこうな音がする。
それに小孔を音が抜けるときにも、そのことによる固有音が発生する。

こんなものがスピーカーユニットの前にあったら音質が劣化する──。
たしかに劣化する、といえるし、劣化ではなく音の変化でもあると、この場合はいえる。

タンノイはあえて、こういうサランネットを作ったのであろう、と思っている。
サランネットにカーヴを持たせるには、ほかのやり方がいくつかあったはず。
それでもパンチングメタルを使っている。
小孔、といえば、タンノイの同軸型ユニットの特徴でも、多孔型イコライザーがある。

JBLやアルテックのコンプレッションドライバーがリングスリット状のイコライザーを採用しているのに、
タンノイは一貫して細い孔を、スロートから見て放射状に広がるようにあけたタイプとなっている。

RHRのサランネットの裏側をみたとき、タンノイがあえてこういう構造にしたのは、
多孔型イコライザーとの関連性からかもしれない、と思った。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その8)

私がオーディオに興味をもちはじめた1976年は、まだ組格子のスピーカーシステムが現役であった。
学生だった者にとって、もっとも身近な組格子のスピーカーシステムといえば、
サンスイがJBLのLE8Tを採用したSP-LE8Tだった。

1976年にはすでに製造中止になっていたけれど、
JBLのオリンパスは、私にとっては見事な組格子のスピーカーシステムという印象が、まず最初にある。

オリンパスもSP-LE8Tもエンクロージュア自体は基本的に四角い箱である。
オリンパスはひさし状になっているし、組格子の上からみるとコの字型になっていて、
組格子といってもSP-LE8Tのものとは大きさも造りの立派さも違う。

当時、中学生で4343に惹かれていた若造の目には組格子そのものが、実のところ古臭いイメージとして映っていた。
SP-LE8TはLE8Tそのものに関心があったため、早く聴いてみたい、と思っていたものの、
オリンパスに関しては、立派な外観のスピーカーシステム、という印象以上のものが持てずに、
聴いてみたいスピーカーシステムのリストにははいっていなかった。
それに、あの頃は、いま、こうやって書いているように、
オーディオが家具だった時代があった、とは思ってもいなかった。

けれど、いま家具としてオーディオ機器をとらえようとすると、
オリンパスは、家具としてみることができるスピーカーシステムといえる。

オリンパスをそううけとっているのは、組格子の存在である。
もしオリンパスが組格子ではなくエンクロージュアの形状、仕上げはそのままで、
ほかのスピーカーシステムと同じようにサランネットだったら、
たとえそのネットの布地に気を使い良質の素材を使っていようと、色も慎重に決めていたとしても、
オリンパスを家具とは見れなかった、はずだ。

オリンパスのトレードマークといえる組格子だが、
音的に見た場合、スピーカーユニットの前に、けっこうな厚みの木でできた組格子は障害物となる。
布だけのサランネットでさえ、音の透過性が問題になり、
サランネットをなくしてしまったスピーカーシステムが出てきているし、
1980年代でも、ステレオサウンドの試聴室では、
大半のスピーカーシステムの試聴時にはサランネットを外していた。

Date: 12月 23rd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その7)

QUADのESLとESL63の重量はカタログ発表値ではどちらも18kgといっしょである。
なのにESLには持運び用の把手といえるものがあるのに対し、ESL63には把手に相当するものはついていない。
ESL63Proには両サイドに持ち運びに便利なバンドがついているが、
これはモニタースピーカーとして、
スタジオだけではなくコンサートホールなど録音会場に持ち運ぶことを考慮してのものであり、
家庭用スピーカーシステムとしてのESL63には、把手もバンドもついていない。

そしてESL63はESLのようにパネルヒーター的な外観ではない。
ESL63本体を覆っているのは布地のネットである。存在を目立たせないようにか、色もブラウンとなっている。
オーディオにまったく関心のない人だと、すぐにはスピーカーだとはわからないかもしれないESL63だが、
だからといってなんらかの家具に見えるわけでもない。

なぜESL63には把手が付いていないのか。
それは(その6)で書いたことのくり返しになるが、ステレオ再生では2台のスピーカーの位置は、
モノーラル再生よりもずっと重要で厳密になってくる。
だからリスニングルームにおける最適の位置探しが──それも片方だけではなく2台のスピーカーに対して──、
モノーラルでスピーカーシステムが1本だけのころよりもずっと大変で難しい。
そうなってくると、もうスピーカーシステムを音楽を聴かないときにはどこかに移動したり仕舞っておくものではなくなる。

ESL63に把手がなくなったのはステレオ用スピーカーシステムとして最初から開発されたものであるということ、
だから中高音域においては電極を同心円状に配置してディレイをかけることで球面波をつくり出そうとしている。

1981年に登場したESL63は、すでに音を奏でる家具ではなくなっていた。

他のスピーカーシステムはどうだろうか。
家具というイメージにぴったりなのは、やはりJBLのパラゴンがまず浮ぶ。
パラゴンに関しては、別項できちんと書いてみたい。
パラゴン以外のJBLのスピーカーシステムはどうだろうか。
オリンパスやハークネスは、どうとらえることができるか。

Date: 12月 22nd, 2011
Cate: 書く

毎日書くということ(このブログとは)

毎日書くということ、について、何本か書いてきた。
そのときは、タイトルの通り、毎日書くという行為についての自問であり、その答えだった。
今日ふと思ったのは、そうやって毎日書くという行為による、
この、audio identity (designing)というブログそのものは、いったい私にとって何なのか、という自問だった。

わりとすぐに答えは返ってきた。
これは「墓」なんだ、と。

Date: 12月 22nd, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その6)

QUADのESLをつかったことのある人ならば気づかれていると思うが、
ESLの後側丈夫にある木製フレームの中央は、わずかだかふくらんでいる。
ちょうど手のかかるくらいの幅で、ふくらんでいる。
しかもその部分のESLの裏側を覆うパンチングメタルは、このあたりがわずかだか凹みがもうけられている。
つまり、木製フレームのでっぱり(ふくらみ)は、ESLを持ち運ぶための把手のようなものといっていい。

ESLはモノーラル時代に登場したコンデンサー型スピーカーシステムである。
QUADのESL以前にコーナーリボンと呼ばれていた、
その名の示すとおりコーナー型のスピーカーシステムを出していた。
それにESLはパネルヒーターに似たパンチングメタルが前面を覆っている。

これらのことから、少々強引に推測すれば、
QAUDは、少なくともスピーカーシステムを家具としてもみていた、と思われる。
だから最初のスピーカーシステムはコーナー型、
つづくESLは動作原理上、構造上からもコーナー型とはできないけれど磁気回路を必要としないESLの重量は軽い。
片手で持てる重量しかない。
しかも裏側に把手がついている。

これはもう聴かないときはESLは部屋の隅、もしくは邪魔にならないところ、
目につかないところに片付けておくことを前提としているのでないだろうか。
日本のちゃぶ台に似た考えともいえる。

ステレオであれば2台のESLを必要として、その位置関係の問題もあるため、
聴かないときはどこかにしまっておき、聴くときに所定の位置にESLを設置する、というのは、
正直めんどうな作業になってくる。
シビアに聴こうとすればするほど、簡単に持ち運びできるESLであっても、だ。

だがモノーラル再生であればESLは1台ですむ。
その1台のESLだけを聴くときは目の前に持ってくればいい。
ここにはステレオ再生に要求される2本のスピーカーシステムの厳密な位置関係は求められないから、
今日は少し大きめの音で聴きたいな、と思えば、ぐっと近くにもってきれるのもいいし、
なんとはなしに小音量でバックグラウンド的に鳴らしたいのであれば、
それほど前に出してこずに鳴らす、という自由度もある。

こんな使い方をピーター・ウォーカーが考えていたのかどうかは、はっきりしない。
でも実際にESLを使ってみると、どうしてもそういう意図があったように思えてならない。
そして、やはりこれはESL、つまりはスピーカーシステムを家具とみている、
もしくは家具に似せた、家具と錯覚するようなものにしたかったから、ではないのか。

そして、この点が、ESLとESL63の大きな違いともいえる。

Date: 12月 21st, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その5)

アクースティック蓄音器を、音を奏でる家具としてとらえてみた場合、
モノーラル時代に数多く登場してきたコーナー型のスピーカーシステムも、
家具としての見方が可能なようにも思えてくる。

アクースティック蓄音器に電気が加わり、いわゆる電蓄になり、
さらにそれまでひとつにまとめられていた構成パーツが単品パーツとして独立していく。
SPがLPになり、その傾向はますます強くなっていく。
もちろんこの時代にも電蓄と呼ばれるモノはあったし、その頂点にあるのがデッカのデコラであり、
デコラが、オーディオが家具だった時代の最後ともいえるだろう。

電蓄から、プレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが独立して存在していくことで、
オーディオ(蓄音器といったほうがいいだろう)が家具だという印象も、同時に解体されていったのであろうが、
それでもスピーカーシステムに関しては、その大きさ、存在感からなのか、
まだまだ音を奏でる家具という印象が色濃く残っていた、と私は思う。

モノーラルLP時代の、いま名器と呼ばれているスピーカーシステムの多くはコーナー型である。
コーナー型である理由は、
部屋のコーナーをホーンの延長として利用して低音域の再生の拡充をはかることである、となっている。
たしかにオーディオ的・音響的にはそうであろうが、
家具としてスピーカーシステムをとらえた場合には、
それはコーナー型というのが必然的な形態ではなかったのか、と思えてくる。

タンノイのオートグラフ、JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのパトリシアン、
その他にも同時代のコーナー型スピーカーシステムはみな大型。
1954年にARのスピーカーシステムがワーフェデールの大型スピーカーシステムを公開試聴で負かすまでは、
充分な低音域を確保するためには大型化するのはさけられなかった。

大型であれば、それだけ部屋にあれば目につくことになる。
スピーカーシステムは音を鳴らさないときは、ほとんど何の役に立たない。
箱なのに、なにかを収納出来るわけでもない。
そんなモノが部屋の中にごろんとあったら、オーディオに関心のない家人はどう思うだろうか。
邪魔物でしかないはずだ。

だから大型スピーカーシステムほど、できるだけ部屋の中にあっても邪魔にならない場所、
つまり部屋のコーナーに、いわば押し遣られる。
そして家具として美しくなければならない。
これらの要求から生れてきたのが、
ハーツフィールドであったり、オートグラフ、パトリシアンなどのコーナー型スピーカーシステム──、
こんな想像も成りたつのではないかと思うのだ。