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Date: 4月 19th, 2012
Cate: 境界線

境界線(その10)

私はコントロールアンプを、オーディオの系の中点として考えているわけだが、
CDプレーヤーが登場し、そのライン出力がチューナーやカセットデッキよりも高かったため、
コントロールアンプを省いて、フェーダーに置き換えることが流行とまではいかなかったものの、注目された。

ゼネラル通商が当時輸入していたP&Gのフェーダーを使った製品が、その走りで、
つづいてカウンターポイントからも(こちらはロータリー型アッテネーターを使用)出た。
現在もいくつかの製品が出ている。

増幅度を持たないフェーダー、
つまり電源を必要としない受動素子(ボリュウム)のみで構成されている、このフェーダーは、
コントロールアンプの位置にくるものであるが、
だからそのままコントロールアンプと同じようにオーディオの系の中点としてみることができるのだろうか。

フェーダーを使った場合、
CDプレーヤー、フェーダー、パワーアンプ、スピーカーシステムとなるわけだが、
受動素子のフェーダーは、オーディオの系全体を眺めたとき、アンプの類ではないし、CDプレーヤーの類でもない。
こういう区分けをすれば、フェーダーはケーブルと同じ類といえる。

となるとCDプレーヤーとパワーアンプのあいだには、ケーブル、フェーダー、ケーブルが存在するわけだが、
このケーブル+フェーダー+ケーブルは、
実のところ減衰量をもつ(自由に可変できる)ケーブルとして考えられるし、
そうなるとコントロールアンプとフェーダーは、オーディオの系において同じ位置において使われるものの、
存在自体の役割は異り、当然コントロールアンプの領域とフェーダーの領域は同じではなくなる。
そうなるとフェーダーは、オーディオの系の中点とは呼べない、と私は考えている。

Date: 4月 18th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その12)

いまはどうなのかわからないが、一時期、レコードのことを缶詰音楽といっていた人たちがいた。
もちろん、この缶詰音楽は蔑称であり、
この表現を使う人たちの多くはコンサートを、音楽鑑賞における最上のもの、絶対的なものとして、
レコードで聴く音楽(つまりオーディオを介して聴く音楽)は、
どこまでいっても代用でしかない、という意味が込められていた。

そんな使われ方をされてきた「缶詰音楽」だが、
この「缶詰音楽」という形態がほんとうに実現できれば、素晴らしいモノだと思う。

実のところ、缶詰音楽がよく使われていたころ(つまりLPの時代)にしても、
それがCDになっても、「缶詰音楽」とはいえないほど、複雑な仕組みの再生機器を必要とする。

缶詰は、缶の中に食べ物が詰められていて密閉されたものを指す。
つまり缶切りがあれば(最近では、その缶切りすら不要になっている)、
蓋さえ開ければ、その缶に詰められている食べ物はすぐに食べることが出来る。

さすがに手づかみで食べるわけにはいかないから、スプーンなり、フォークなり、箸を使うものの、
基本的には缶詰の中の食べ物を食べるためには、なんら道具を必要としない。
道具を使わないということは、そこでなんらかの処理を行う必要もない、ということである。

その点、缶詰音楽といわれても、実際にはLPにしてもCDにしても、
たとえばLPやCDを耳にあてれば、音楽を聴こえてくるわけではないし、
レコードが缶詰の形態をしていて、蓋を開ければ音楽が素晴らしい音で鳴り響くわけでもない。

LPならばレコードプレーヤーのうえにのせ、カートリッジを音溝に降ろして、アンプのボリュウムをあげる。
すくなくともこれだけの操作は必要で、レコードの溝がスピーカーから音として出てくるまでには、
実にさまざまな変換や処理がオーディオ機器のシステムの中でなされている。

しかも、そうやって出てくる音は同じではない。
缶詰は誰が蓋を開けようと、基本的には同じ味がする。
なのに缶詰音楽とよばれるレコードは、そうではない。

そうなるとLPもCDも缶詰音楽とは呼びにくくなるし、
LPやCDは「音楽の器」なのか、という疑問もわいてくる。

Date: 4月 17th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(写真のこと)

もうひとつのブログ、the Review (in the past)で、
今日黒田先生がテクニクスのSB007について書かれた文章を公開した。

こんなことを書かれている。
     *
マニア訪問とか、あるいはオーディオ装置のある部屋とかいったページが、オーディオ雑誌等には、かならずといっていいほどある。そして、いわゆる名器といわれるアンプやプレーヤーがみがきあげられて棚に並んでいる写真がのっている。しかもごていねいに、カラーであることさえすくなくない。ぼくもこれまでに、そういう写真を何度か、とられたことがある。恥しかった。それに、なんとなく、無駄をことをしているように思えてしかたがなかった。その写真をうつす人の腕が、いかにすぐれていても、この部屋でなっている音はうつせないのだから、うつされていて、申しわけなかった。
その雑誌の編集者だって、本当は、音そのものをうつしたかったのだろうが、それができないので、やむをえず、再生装置というものとか、それをつかっている人間といういきものをうつさざるをえなかったのだろう。音はみえないので、あくまでもやむをえずの処置だったにちがいない。
     *
誌面からは音は出てこない、とはつい最近も書いたばかりである。
文章であっても写真であっても、そこから音は鳴ってこない。
鳴ってこないこと、つまり音は写せないことが当り前になりすぎていたことを、
今日黒田先生の文章を読んでいて気がついた。

写したいのは、目に見えない音であること。
その人が使っているオーディオ機器ではない。
音が写せないから、部屋の雰囲気だったりオーディオ機器だったり、
ときにはそのリスニングルームの主があまり人に見られたくないようなところまで写真におさめたりする。

カット数を多くして、あれこれ撮った(撮ってもらった)ところで、その写真からは音は鳴ってこない。
写真から音が鳴ってくれれば、それこそ1カットだけで、いい。

「音そのものをうつしたかった」けれど、それが不可能だから……、という気持を、あの頃は忘れていた。
だから、今日、黒田先生の文章を入力していて、どきっ、とさせられた。

Date: 4月 17th, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その35)

アンプやCDプレーヤーなどの天板の振動をうまく抑えたいときがある。
そういうときにアセテートテープをつかったり、
ときにはアナログプレーヤー用のスタビライザーを乗せたりすることもあるわけだが、
あれこれ試してみて、
いちばんいい方法はアセテートテープを貼ることでもなくスタビライザーを乗せることでもなく、
自分の手を乗せることだった。

このことも井上先生に言ったことがある。
「手がいちばんいいですよね」と。「うん、そうなんだよ」という返事だった。

あくまでもこれは試聴だから使う方法であり、
自分の部屋で聴くときに常にアンプ、CDプレーヤーの天板の上に手を乗せてたりはしない。
だいたい聴取位置から手の届くところにアンプやCDプレーヤーは置いていないから無理なのだが。

ステレオサウンドでの試聴は椅子の前にヤマハのラックGTR1Bが4つあり、
そこにアンプやCDプレーヤーを置くわけだから、手を伸ばせばすぐに天板に手は届く。

自分の手だから振動を指先や手のひらから感じとれるし、耳では音を聴いている。
それに天板との接触面積もかなり大幅に変えられるし、
同じ面積でもぐっと力を加えれば重量を増すのと同じことになる。

しかも手の内部には骨がある。
いわば硬い芯があるわけで、このことも、
ただ硬いものを置いたり柔らかいものでダンプしたり、とは違う意味をもつ。

実際、井上先生は試聴中に天板の上に手を置かれていたし、
その置き方も置く位置も音の変化に応じて変えられていた。

そして井上先生はアンプの試聴の時、必ずボリュウムだけでなく、あらゆるツマミの感触を確かめられていた。

Date: 4月 16th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(続々ウェストミンスターとグールドのブラームス)

ウェストミンスターを6畳で鳴らす人はいないだろう。私だってそんなことはしない。
では、どのくらいの部屋の広さがあればいいのか。
私が働いていたころのステレオサウンドの試聴室は約20畳ほどの広さだった。

私がウェストミンスターに求めるホールの大きさであれば20畳あればいける。
ぎりぎり15畳でも──部屋の形にもよるけれど──いける気もする。

ウェストミンスターを置くにしてはすこし狭い感じのするくらいの部屋で、
ウェストミンスターの濃厚な(というよりも濃密な)響きを身近に感じながらブラームスを聴きたいと思う。

グールドの「間奏曲集」を聴くのであれば、よけいにそうだ。

グールドが「間奏曲集」を録音したのは1960年。
コンサートをドロップアウトしたのは1964年だから、「間奏曲集」のころはまだコンサートを行っていたわけだが、
だからといって、グールドの「間奏曲集」を大ホールで聴くような鳴らし方をしてしまうのは、
間違っている、とまではいわないけれど、そういう聴き方をする演奏ではない。
ウェストミンスターの大きさがまったく気にならないほど広い部屋で、
ウェストミンスターからの距離も十分にとって、という聴き方を、私はとらない。

アンプだって、最新のパワーアンプもいいけれど、
グールドの「間奏曲集」だけにかぎっていえば、真空管アンプの良質なものを組み合わせたい、と思う。
しかもウェストミンスター同様、濃密な響きをもつモノをもってきたい。
そういうアンプが市販されている製品の中にあるのかは、
すべてのアンプを聴いているわけではないからなんともいけないけれど、
心情的にはウェスターン・エレクトリックの300Bのシングルアンプを、
ウェストミンスターのためにつくることになるかもしれない。
(300Bのシングルアンプといっても人によってイメージする音は大きく違っている。
私がいう300Bシングルアンプの音は、伊藤先生の300Bシングルアンプの音である。)

ウェストミンスターは能率は高い。
しかも広くない部屋で聴くわけだし、グールドの「間奏曲集」を鳴らすのだから何の不足はない。
不足を感じる聴き方にこそ疑問をもつべきかもしれない。

Date: 4月 16th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(続ウェストミンスターとグールドのブラームス)

菅野先生は、タンノイウェストミンスターの音を評して
「ウェストミンスター・ホールで音楽を聴く」という表現を使われている。

そのとおりだ、と思う。
ウェストミンスターというスピーカーシステムで音楽を聴くことは、
聴く音楽がなんであろうと、ウェストミンスター・ホールという、特有の響きをもつホールで聴く印象が強い。
スピーカーシステムには、どんなモノであろうとそれ固有の音、響きをもっているものだから、
どれひとつとして同じ音のするモノは存在しないし、ステレオ再生で聴き手の前にひろがる音場も同じではない。
だから、すべてのスピーカーシステムにもそういう傾向はある、といえるものの、
ウェストミンスターのその傾向は、ひときわ濃い。

他のスピーカーシステムでは、その固有の音、響きがホールをイメージさせるほどのものではない。
だから、型番のあとにホールをつけたくなるようなスピーカーシステムは、
現行のモノではウェストミンスターだけ、といえるし、過去のモノでもそう多くは存在しない。

ホールというと、どうしても大きな空間をイメージする。
現行のウェストミンスター・ロイヤル/SEの寸法は980(W)×1395(H)×560(D)mm、
内容積は530リットルと発表されている。
そうとうに大型の堂々としたサイズだから、
ウェストミンスター・ホール・イコール・大ホールとイメージされる方は少なくないと思う。
けれど、私の印象では決して大ホールではない。
中ホール、もしくは鳴らし方や組み合わせるアンプなどによっては、小ホールとイメージする。
サイズは小さいけれど、響きは濃密でステージとの距離もそれほど遠くない。
眼前で鳴る、というほど近くはないけれど、遠くない、というよりも近い、ともいえよう。

もちろんウェストミンスターを、たとえば40畳とかそれ以上の部屋に設置して鳴らすのであれば、
ホールの大きさに対するイメージは変ってくるにしても、それにしても大ホールという感じはしない。
そこがウェストミンスターというスピーカーシステムの、このラッパならではの良さだと思っている。

ウェストミンスターは大きなスピーカーシステムではあっても、
意外にも親密な音楽の接し方の出来るラッパであり、
だからこそウェストミンスターに関してはオートグラフほど部屋の広さを要求しないようにも感じている。

Date: 4月 15th, 2012
Cate: ワイドレンジ
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ワイドレンジ考(ウェストミンスターとグールドのブラームス)

グレン・グールドが残した録音で、好きだけど滅多に聴かないようにしているのがブラームスの2枚。
「間奏曲集」と「4つのバラード、2つのラプソディ」の2枚である。

グールドのブラームスは、グールドによって弾かれたほかの作曲家、
バッハでもモーツァルト、ベートーヴェン、シェーンベルク……、
とにかくブラームス以外の作曲家の演奏とは、なにか違うものを感じている。
間奏曲集を最初に聴いたときから、そう感じていて、
グールドの没後に発売になった「4つのバラード、2つのラプソディ」を耳にしたときにも、同じものを感じた。

グールドのブラームスは、グールドの他の作曲家の演奏よりも、なまなましい感じ、印象がある。
なまなましいを生々しい、と表記すると、
私がグールドのブラームスに感じているなまなましい感じとは微妙に違ってくるようにも感じるので、
ひらがなで、なまなましい、としたい。

そのなまなましい感じのためか、グールドのブラームスを聴いていると、
聴いているこちらが頬が紅潮してくる。ひとりなのに赤面してしまう。
だからグールドのブラームスは、絶対にひとりで聴く。
どこか、グールドのなまなましい独白をきいているような気になるからだろうか。

私にとって、そういうなまなましい感じのグールドのブラームスから、
なまなましい感じ、印象を削ぎ落としてしまう音がある、と思う。
グールドのブラームスは、試聴用ディスクとして使ったことがないから、
そんなスピーカーシステムが存在するというのは想像でしかないのだが、間違いなく存在している、といえる。
どれがそんなスピーカーシステムなのか、どのスピーカーシステムのことを思い浮べているのか、
それについては書かない(意外に少なくない、と思っているのも理由のひとつ)。

グールドのブラームスを聴いてみたい数少ないスピーカーシステムのひとつが、タンノイのウェストミンスターだ。
ウェストミンスターでは、「4つのバラード、2つのラプソディ」よりも「間奏曲集」を聴きたい。

とはいえグールドのブラームスは、ひとり聴くものだと決めている。
つまりウェストミンスターでグールドのブラームスを聴くには、
ウェストミンスターを自分のモノとしなければならないわけだから、聴く機会がないのは仕方のないこと。

それでも、こういうふうに鳴ってくれるだろうな、と想像しているだけでも楽しいし、
タンノイのウェストミンスターは、私にとってそういう存在である。

Date: 4月 15th, 2012
Cate: audio wednesday, 岩崎千明

第16回audio sharing例会のお知らせ(再掲)

次回のaudio sharing例会は、5月2日(水曜日)です。

テーマは、3月の例会に予定していた「岩崎千明氏について語る」です。
いまfacebookで、岩崎先生のページ「オーディオ彷徨」を公開しています。
そちらに3月の例会の告知をしたところ、
岩崎先生の娘さんの岩崎綾さんからのコメントがあって、
5月の例会に来てくださることになりました。息子さんも来られる予定です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

喫茶茶会記の店主福地さんが、茶会記・店主日記の4月10日のところもお読みください。

Date: 4月 14th, 2012
Cate: 岩崎千明

「オーディオ彷徨」(熟読ということについて)

辞書には、熟読とは、内容をじっくり味わいながら読むこと、内容を深く読み取る、といったことが書かれている。
熟読がこのとおりであれば、一回だけ読んでも、
きっちりと書かれている内容を読み取ることが出来れば熟読したことになる。
何度読んでも、そのためには時間もより多く必要になるわけで、
だからといって内容を読み取れなければ熟読とはいわない。

ようするに本を読むための時間と熟読のあいだには深い関係はない、とつい最近まで思っていた。
早く読んでも熟読できる人もいれば、そうでない人もいるのだから。

けれど、熟読には、もうひとつ意味があるように感じはじめていて、
そうなると熟読には、やはり時間が、それもかなりながい時間が必須だ、と思うようになってきた。

岩崎先生の「オーディオ彷徨」に収められているものにエレクトロボイス・パトリシアンIVを、
アメリカ建国200年の1976年に導入された文章がある。
この文章のタイトルがじつにいい。
そして、熟読とはこういうことであると、
パトリシアンIVのついて書かれた文章のタイトルは語っている、と私は勝手にそう受け取っている。

「時の流れの中でゆっくり発酵させつづけた」

数は少ないけれど、私にははっきりと「時の流れの中でゆっくりと発酵させつづけた」本がある。
これらの本に関してのみ、やっと熟読した、といえよう。

Date: 4月 13th, 2012
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーについて(その8)

現在日本に輸入されているマッキントッシュのスピーカーシステムは、
XRT2K、XRT1K、XR200の3機種で、菅野先生が愛用されているXRT20とはずいぶん違った形になってしまった。

XRT20と型番上は同じXRTシリーズということになるのだろうが、XRT20と現在のXRT2K、1Kの共通点は、
トゥイーターの使用個数が近い、ということぐらいだと私は思う。
そのトゥイーターもXRT20はソフトドームを採用していた。
初期のXRT20はフィリップス製のソフトドーム型だったが、
事情により比較的早い時期からフィリップス製ではなくなっている(と聞いている)。

現在のXRT2K、1Kに使われているトゥイーターはチタン・ダイアフラムのハードドーム型である。

マッキントッシュのXRTシリーズを、
単にトゥイーターを多数使用したスピーカーシステムぐらいにしか捉えられない人にとっては、
ソフトドーム型だろうとハードドーム型だろうと、大きな違いはない、と考えるだろう。
けれど、ゴードン・ガウが、あえてソフトドーム型トゥイーターを24個使うことで実現したものは、
いったいなんだったのかを考えてみると、ハードドームかソフトドームかの違いは、
XRTシリーズの特徴的なトゥイーター・コラムの変えてしまう、とさえ思っている。

同じドーム型振動板をもつトゥイーターでも、
振動板が金属を使った硬い振動板のハードドーム型と樹脂系や布などの柔らかい素材のソフトドームでは、
振動板の動き・挙動はまったく同じとはいえない。
コーン型ユニットでも紙の振動板もあれば金属の振動板のユニットがあるけれど、
コーン型における振動板の素材の違いによる動作・挙動の違いは、
ドーム型における動作・挙動の違いに比べれば小さい、と考えられるのは、ユニットそのものの構造からくる。

Date: 4月 12th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その11)

オーディオでは、アンプ、スピーカーシステムといったオーディオ機器はハードウェアであり、
LP、CD、ミュージックテープなどはソフトウェアである。

ハードウェアの価格は、その製品の開発費、製造コスト、流通コストがかかっているものは価格も高い。
ごくまれには、これでこの価格? と疑いたくなるような値がつけられている商品もあるにはあるが、
総じて価格と、その製品のコストは比例関係にある、といえる。

ところがソフトウェアとなると、
有名な音楽家によるものも新人の演奏家によるものも、値段は同じである。
さらにオーケストラを録音したものも、ピアニストのソロ演奏のものも、
録音にかかわっている演奏家の人数には大きな開きがあっても、レコードの値段は同じである。

レコードというソフトウェアの値段は、そういうものだと思っていた。
音楽の内容と値段は直接の関係はないもの、と。

この価格設定の違いが、ハードウェアとソフトウェアのもっとも大きな違いなのだ、とも思っていた。
けれど、1991年からMacを使うようになると、
パソコンの世界においては、ソフトウェアの価格がレコードの価格のように、
すべて同じではないことを最初から(なぜだか)当り前のように受けとめていた。

当時はまだCD-ROMはほとんど普及していなかったし、インターネットという単語も聞くことはなかった。
ソフトウェアは、だから3.5インチのフロッピーディスクでの供給だった。
つまりソフトウェアの容量の大きなものはフロッピーディスクの枚数が増えていく。
当時、Photshopのヴァージョン2か2.5だったと思うが、
フロッピーディスク10数枚を何度も入れ替えしながらインストールしていった。

レコードでも組物は当然価格は増す。
ワーグナーの「指環」は、だから他の1枚で収まる音楽にくらべると価格は高い。
とはいうものの、例えば10枚の組物でも、
1枚のレコードの10倍の価格ではなく、もう少し安い価格がつけられている。

パソコンのアプリケーションはフロッピーディスク1枚で供給されるものでも、価格はかなり違っていた。
フロッピーディスク10数枚のアプリケーションは、
フロッピーディスク1枚のアプリケーションの10倍の価格になる、とは、だからならない。

Date: 4月 11th, 2012
Cate: 楽しみ方, 表現する

オーディオの楽しみ方(読み方について)

ステレオサウンドにいたとき、音を言葉で表現することの難しさについて、
編集部の先輩のNさんとよく話していた。

オーディオ雑誌からは、昔から言われ続けている通り、そこにあるのは文字と写真とイラスト、図版などであり、
誌面からは音は出てこない。
視覚的なもので音を読者に伝えるために、オーディオ評論家だけでなく編集者もあれこれ考え続けていた。

何度話し合ったところで、決定打はない。
そういうものが、もし世の中に存在しているのであれば、誰かがすでに見つけていたはず。
それが見つからないからこそ、オーディオ評論が面白い、ともいえる。

そういえば、菅野先生から10年ほど前に聞いた話がある。
菅野先生が髪を切りにいかれている店で、
「オーディオにはまったく興味はないんですけど、
音を表現する文章は面白いからときどきオーディオ雑誌を読んでいます。」
と店のスタッフの方に話しかけられた、ということだった。

菅野先生は、意外な話として話された。
私も意外な話として聞いていた。

オーディオに興味のある人は、たとえばスピーカーシステムの買い替えを検討している人は、
スピーカーシステムの特集記事、新製品の試聴記事が載っていれば、
その文章から、そのスピーカーシステムがいったいどんな音をなのか、
そのスピーカーシステムの能力の高さはどの程度のものなのか、
いま鳴らしているモノよりもどれだけいいのか、
そしていま自分が求めている音をほんとうに実現してくれるものなのか、
はたまた価格に見合った音、価格以上の音を出してくれるのか、等々、さまざまな情報を読み取ろうとする。

けれど、菅野先生が話してくれた人は、
そんなことにはまったく無関心なのだから(オーディオに関心がないのだから)、
音の表現方法の面白さを、オーディオマニアよりも純粋に楽しんでいる、ともいえるわけだ。

Date: 4月 10th, 2012
Cate: TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その79)

別項の「名器、その解釈」でもオートグラフとウェストミンスターの違いについて触れているところである。

ずっと以前にも書いていることだが、
私にとってオートグラフとウェストミンスターという、
ほぼ同じ形態をもつ、このふたつのスピーカーシステムは、ベートーヴェンでありブラームスである。
オートグラフは私にとってベートーヴェンであり、ウェストミンスターは私にとってブラームスである。

こうやって書いていくことによって、そのことをよりはっきりと感じるようになってきている。

いちばん新しいウェストミンスターの音は聴いていないから、
もしかするとブラームスという印象は感じないかもしれないが、
スピーカーシステムの性格は細部の改良によって大きく変化していくものでもないから、
おそらくはブラームスと感じてしまうことだろう。

ブラームスの音楽には優しい、といいたくなる内面性がある。
その優しいところを、私がいままで聴いてきたスピーカーシステムでは、
ウェストミンスターが最もよく音楽として表現してくれるから聴き惚れる。
いっさいの無理を感じさせずにブラームスの音楽を美しく優しく響かせてくれるスピーカーシステムは、
ウェストミンスターの他になにかあるのだろうか。

私が過去に聴いてきたスピーカーシステムの中にはすくなくともない。
似たようなスピーカーシステムもすぐには思いつかない。
だから、これはウェストミンスターの美点であろう。

けれど、自分のモノとして手もとに置いて鳴らしたいわけではない。
それは、やっぱりウェストミンスターはブラームスであるからだ。

五味先生はオートグラフのことを
「タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。
それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。」と書かれている(「ワグナー」より。「西方の音」所収)。

五味先生は1980年に亡くなられている。
ウェストミンスターはまだ登場していなかった。これはもう勝手な想像でしかないのだが、
もし五味先生がウェストミンスターを聴かれていたら、同じことを言われたであろうか、と考えてしまう。
ウェストミンスターの音を思いだしながら考えていると、
そういわれないであろう、という可能性を捨て切れないでいる。

結局のところ、ウェストミンスターの響き(本質)は優しい、だからだと思っている。

そうはいいながらも、ウェストミンスターを年に1回でいい、聴いていきたい、とも思う。
ウェストミンスターの音・響きにストレスにはまったく似合わない。
ストレス・フリーでウェストミンスターをうまく歌わせることができる人のところで、
ブラームスのレコードを1枚でいいから聴きたい。
いまはそう思っている。

けれど齢をとっていけば、変っていくのかもしれない。
ウェストミンスターを自分のモノとして鳴らしたいと思うようになるのだろうか……。

Date: 4月 9th, 2012
Cate: Kingdom, TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その78)

ウェストミンスターをオートグラフの後継機種、
つまりは現代版のオートグラフという認識でウェストミンスターを使っておられる方も少なくないと思う。
私もウェストミンスターが登場したときは、そう思っていた。
オートグラフのコーナー型を、
一般的な日本の住環境でも設置しやすいレクタンギュラー型とした現代版オートグラフだと受けとめていた。

ウェストミンスターが登場したころはユニットはフェライトマグネットであり、
この点には不満を感じたものの、それでものちにマイナーチェンジを重ねるごとにアルニコマグネットになり、
ネットワークにも手が加えられエンクロージュアの寸法にも変化があり、
風格を増していったウェストミンスターに対して、
ほんとうにオートグラフの後継機種だろうか、という疑問を持ちはじめたころにKingdomが登場した。

Kingdomを紹介記事をステレオサウンドで読んで思い出していたのは、
1978年に登場したバッキンガムとウィンザーである。

このふたつのスピーカーシステムに関しては、この項の(その30)から(その36)にかけて書いているし、
さらに(その56)と(その57)でも触れている。

(その30)から(その36)を書いたのは2009年の7月、
(その56)と(その57)は2011年の5月。

すこしあいだを開けすぎたと反省して書いているのだが、
バッキンガムは25cm口径の同軸型ユニットに30cm口径のウーファーをダブルで足している3ウェイ・システム。
ウィンザーはシングルウーファー仕様。

当時はタンノイはハーマン傘下にあった。
主力となっていたのは、いわゆるABCシリーズと呼ばれていた、アーデン(Arden)、バークレー(Berkeley)、
チェビオット(Cheviot)、デボン(Devon)、イートン(Eaton)であった。
オートグラフとG.R.F.はタンノイの承認を得てティアックによる国産エンクロージュアとなっていた。

往年のタンノイを知る者にとっては、やや物足りなさをおぼえていたところに、
バッキンガムとウィンザーが登場し、
このふたつのスピーカーシステムについて、(その56)でも引用しているように、
タンノイのリビングストンは、こう述べている。
「オートグラフとGRFを開発した時と全く同じ思想をバッキンガム、ウィンザーにあてはめている」と。

リビングストンは1938年にタンノイに入社した、いわばタンノイの生き字引ともいえる人物であり、
彼が、このように語っているのだ。

ならばKingdomもオートグラフを開発した時と全く同じ思想をあてはめている、といってもおかしくはないはず。
むしろ、バッキンガム、ウィンザーよりも、
より徹底した、その思想をあてはめて開発されたのがKingdomといえよう。

Date: 4月 8th, 2012
Cate: Kingdom, TANNOY, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その77)

また書いているのか、と思われても、
くり返し書くことになるけれど、「五味オーディオ教室」からオーディオの世界へとはいっていった私には、
タンノイのオートグラフは、そのときからずっと、
そして(おそらく)死ぬまで憧れのスピーカーシステムでありつづける。

タンノイの前身であるTulsemere Manufacturing Companyは1926年の創立だから、
あと14年で創立100年の歴史をもつタンノイのスピーカーシステムの中でいちばん欲しいのはオートグラフであり、
これから先どんなに大金を手にしようと、オートグラフを迎えるにふさわしい部屋を用意できようと、
おそらく手に入れずにいるであろうスピーカーシステムもオートグラフである。

特別な存在であるオートグラフを除くと、
私が欲しいと思うタンノイのスピーカーシステムは、
タンノイ純正ではないから、いささか反則的な存在ではあるけれど、
ステレオサウンドが井上先生監修のもとで製作したコーネッタがある。
現行製品の中ではヨークミンスター/SEはいい出来だと思っている。

このふたつのスピーカーシステムを欲しいと思う気持とはすこし違った気持で「欲しい」と思うのは、
やはりKingdomである(それも最初に登場した18インチ・ウーファーのモノ)。

このKingdomこそが、オートグラフの後継機種だと考えているからだ。

オートグラフの後継機種はウェストミンスターではないか、と思われるだろう。
たしかにウェストミンスターは、オートグラフの形態的な後継機種とは呼べるものの、
オートグラフが1953年に登場したとき実現としようとしていたもの、目指していたもの、
こういったものの方向性は、オートグラフとウェストミンスターとではやや違うように感じているからだ。

オートグラフは1953年の時点で行き着けるであろう最高のところを目指していた。
そのための手段としてバックロードホーンとフロントショートホーンの複合ホーン、
さらにコーナー型という複雑なエンクロージュアを採用することになったのではないか。

菅野先生が以前からいわれているように、
スピーカーシステムは同時代の録音と同水準のものそなえることが理想的条件のひとつである。

周波数特性(振幅特性だけでなく位相特性もふくめての周波数特性)、ダイナミックレンジ、リニアリティ、
S/N比……、こういったことをベースとしての音色、音触などいったことを含めての、
つねに同時代の録音に対するタンノイの答が、
1953年はオートグラフであり、それから約40年後はKingdomである。
ウェストミンスターは、オートグラフと同じ要求に対する答ではない──、
私はそう考えている。

だからオートグラフの後継機種といえるのは、ウェストミンスターではなくKingdomであり、
私がKingdomを「欲しい」と思っている理由は、まさにここにある。