終のスピーカー(その16)
終のスピーカーとは、
自分自身を進化ではなく、己を純化させてくれるモノなのだろう。
終のスピーカーとは、
自分自身を進化ではなく、己を純化させてくれるモノなのだろう。
別項「世代とオーディオ(JBL 4301)」で、
JBLのブックシェルフ型2ウェイの4301について書いている。
ステレオサウンド 46号の特集で、
瀬川先生の4301の評価はなかなかのものだった。
さらにステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’79」で、
瀬川先生は予算30万円の組合せでJBLの4301を使われている。
アンプはサンスイのAU-D607、アナログプレーヤーはKP7600、
カートリッジはエレクトロアクースティック(エラック)のSTS455Eで、
組合せトータル価格は298,700円。
「コンポーネントステレオの世界 ’79」は1978年12月に出ている。
4301の価格は円高のおかげで安くなっていた。
46号のころだと予算オーバーになってしまうが、
1978年ごろに、30万円という予算で組合せが可能になっていた。
「世代とオーディオ(JBL 4301)」を書いていたころからすれば、
多少薄れてきているけれど、4301は程度のいいモノとであえれば、手に入れたい。
なぜ、欲しいという気持が薄れてきたのか。
KEFのModel 303を手に入れたからではないのか。
先日、そのことにふと気づいた。
瀬川先生は、ステレオサウンド 56号で、
KEFのModel 303、サンスイのAU-D607、パイオニアのPL30L、
デンオンのDL103Dという組合せを提案されている。
この組合せのトータル価格は、288,600円である。
つまり予算30万円の組合せである。
この組合せが気づかせてくれた。
アメリカのJBL・4301、
イギリスのKEF・Model 303。
そういうことなのだ、と。
スタインウェイに、Model Dというスピーカーシステムがある。
いくつかあるスピーカーのなかで、Model Dがフラッグシップモデルであり、
Model Dはリンク先をみればわかるように、エンクロージュアをもたない。
平面バッフル(オープンバッフル)のスピーカーシステムである。
しかも、そのバッフルに縦に長く、横幅は狭い。
これで低音の十分な再生が可能なのか、といえば、
アンプ搭載タイプであり、低域の補整を行っているのだろう。
振動板のストロークが大きいユニットであれば、
こういうプロポーションの平面バッフルでも、満足のいく低音は再生可能なのだろう。
実をいうと、シーメンスのコアキシャルを鳴らしていたころ、
こういう平面バッフルを考えたことがある。
低音のためには面積の広さが必要なのだが、
誰もが2m×2m級の平面バッフルを、部屋に置けるわけではない。
そのころシーメンスのコアキシャルを取りつけていたのは、
1.8m×0.9mの平面バッフルだった。
それでも狭い部屋では、かなりの圧迫感だった。
もう少し、幅を狭くできないものか──。
そんなことをよく考えていた。
縦に長い平面バッフル。
考えただけで、実行に移すことはしなかった。
スピーカーをセレッションのSL600にしたからである。
それでも、そのころからユニットの幅ぎりぎりまでに狭め、
縦に長いプロポーションの平面バッフルの音は、聴ける日が来るのか──、と思っていた。
スタインウェイのModel Dを聴く機会はそう簡単には訪れないだろうけれど、
それでもいい、と思うのは、
うまく低域を補整することで、うまくいく可能性がある、という確信が得られたからだ。
別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」に、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。
そこに書かれていることは、別項『「芋粥」再読』でも引用しているが、
ここでもくり返し引用しておきたいし、読み返してほしい。
*
七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
*
ビデオにしてもディスクにしても、
そこにおさめられている映画、音楽を観たい・聴きたいからこそ蒐集するはずなのに、
いざほとんどを蒐集してみるとこうなってしまうのは、なぜなのか。
《充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそう》からだけなのか。
《一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまう》ともある。
夢とは、映画を観ること、音楽を聴くことのはずなのに、
しかも、そのことは多くの人がわかっていることなのに、そうなってしまいがちだ。
安岡章太郎氏は《庶民の夢》とされている。
自身を含めての庶民ということである。
《庶民の夢は、つねに多分に物質的なものである》
このことをつい忘れがちになってしまうのではないだろうか。
いま書店に、「新時代の名曲名盤500+100」が並んでいる。
レコード芸術の特集「新時代の名曲名盤500」を一冊にまとめたものだ。
名曲名盤、このタイトルを眺めていて、
名曲愛聴盤ではないことを考えていた。
タイトルとしては名曲名盤のほうがおさまりがいいし、
見ての印象もいい。
けれど読み手が求めているのは、どちらなのだろうか。
名曲名盤なのか、名曲愛聴盤なのか。
1980年代のレコード芸術の「名曲名盤」は、どこか名曲愛聴盤と感じられるところがあった。
少なくとも、そう感じられるところがあった。
だからこそ夢中になって読んでいたのかもしれない。
いまはどうだろう。
読むこちらが齢をとったということもあるけれど、
なんとなくではあるが名曲愛聴盤という感じが伝わってこないようにも感じる。
名曲名盤なのだから、それでいいのだけれど──。
(その8)に、これを試すにあたって、
無難な部品の選定についてアドバイスがほしい、というコメントがあった。
以前書いているように、電解コンデンサーをショートさせて使うのでは、
耐圧は関係なくなる。
まず始めるにあたって、16Vで10,000μFの電解コンデンサーがいい。
秋葉原に行けば、いくつもの16V・10,000μFの電解コンデンサーが売られている。
その中でどれを買うかとなると、サイズが大きいものである。
同じ耐圧、同じ容量であっても、大きいサイズのモノもあれば小さいモノもある。
ここでの仮想アースの理屈からいえば大きいサイズのモノが効くことになるからだ。
16V・10,000μFの電解コンデンサーは一個数百円くらいで買える。
どれか一つを基準として、いくつか比較試聴してみるのもいいし、
好結果が得られたコンデンサーが見つかったら、
今度は容量を変えてみるのもいい。
倍の20,000μFにするにしても、
16V・20,000μFの電解コンデンサーと、
16V・10,000μFの電解コンデンサーを二つ使うのとどちらがいいのか。
そんなふうに試していったらいいし、
電解コンデンサーに銅箔テープを巻いてみるのもおもしろい。
数日前、ある人と会っていた。
共通の友人がいるけれど、いままで会う機会がなかった。
それほど長い時間ではなかったけれど、あれこれ話していて、
やっぱり、そうなのかとおもったのは、
いまのオーディオ界に対して、むなしい、といわれたことだった。
むなしいは、虚しいであり、空しいであり、
大辞林には、
(1)形だけで中身がない。形式だけで実質が伴わない。うつろである。「人が去って—・くなった家」「—・い生活」
(2)何の役にも立たない。結果が何も残らない。「時間が—・く過ぎる」「—・い努力」「善戦—・く敗れる」
(3)確実でない。頼りにならない。はかない。「—・い夢」「世の中は—・しきものと知る時し/万葉 793」
(4)根拠がない。無実である。「—・しきことにて,人の御名や穢れむ/源氏(乙女)」
(5)魂や心が抜け去って体だけになっている。命がない。「有王—・しき姿に取つき/平家 3」
とある。
ここでのむなしいは、オーディオ界に対して以上に、
オーディオ雑誌に対して、より強く向けられたものだった。
個人的にもステレオサウンドを読んで感じているのは、
この「むなしい」である。
むなしいと感じているのは、そう多くないかも──と思っていたけれど、
そうではなかった。
お前とその人、たった二人だけじゃないか、と言われそうだが、
ほんとうにそうだろうか。
2020年10月に、マイケル・ジャクソンの“Billie Jean”を聴いての印象を書いている。
昨晩、マイケル・ジャクソンの“Black or White”を聴いていた。
“Black or White”は、昨晩聴いたのが初めてではない。
かなりヒットした曲だから、マイケル・ジャクソンのCDを買わなくても、
いろんなところで耳にしていた。
けれど冒頭から聴いたことはなかった。
昨晩は、当然だけれども冒頭から聴いていた。
曲の始まる前に、ああいう音が収録されているとは知らなかった。
そして、その音の生々しさに、驚いてしまった。
特に壁を叩く音。
夜遅かったからヘッドフォンで聴いていた。
TIDALで、96kHzのMQA Studioで聴いていたことも深く関係しているのだろうが、
ほんとうに壁を叩かれているのだと錯覚してしまった。
この生々しさは、MQAでいっそう生々しくなっているのか。
瀬川先生が「いま、いい音のアンプがほしい」で書かれていたこと、
ほんとうにそのとおりだと実感している。
*
そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
*
音のバランスと音のアンバランス。
バランスのとれた音を出すのは、そう容易いことではない。
アンバランスな音を出すのは、簡単といっていい。
ここでの瀬川先生がゾクゾク、ワクワクするような魅力は、
全きバランスのとれた音ではなく、そこからちょっとだけアンバランスにした音。
《音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできた》音。
あくまでもバランスをとったうえでのアンバランスな音である。
バランスをとることができずに、ただのアンバランスな音であっては、
そこにほんとうの意味でのゾクゾクもワクワクもない。
同時に、未知の音と既知の音のバランスということもある。
エラックの4PI PLUS.2は現行製品だと思っていた。
別項「終のスピーカーがやって来る」で書いているように、
昨年10月下旬に、ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40ともに、
4PI PLUS.2もやって来ることになった。
その時点で、4PI PLUS.2の価格を調べようとしたところ、
エラックの輸入元のユキムのサイトでは、調べられなかった。
製造中止となっているわけではないが、
もしかしてそうなってしまったのか? と思い、エラック(ELAC)のサイトを見ると、
4PI PLUS.2のページはなかった。
ほんとうに製造中止なのか。
それがはっきりしないまま年が明けて、つい先日、
4PI PLUS.2の販売再開のニュースがあった。
製造(販売)が休止されていたのか。
それとも製造中止になっていたのが、復活したのか。
そのへんの事情はわからないけれど、とにかく現行製品として入手できる。
ステレオ時代が、いま発売のVol.22から書店売りではなくなってしまっている。
ラジオ技術もずいぶん前から書店売りではなくなってしまっている。
しかも月刊から隔月刊になっている。
休刊(廃刊)ではないから、いいといえばそうなのだが、
何度も書いてきているように、すでにラジオ技術、ステレオ時代の読者だった人は、
そう困らないだろうが、
これからオーディオに興味・関心をもってくる人の目には、
ラジオ技術もステレオ時代も留まらないわけだ。
いまは書店売りしているオーディオ雑誌も、
そう遠くないうちに、同じことになるかもしれない。
一年前からの疑問なのだが、
いいかえるとマジコのM9の重量が発表になったときからの疑問なのだが、
M9は無響室で測定できるのだろうか、という疑問である。
無響室に入ったことのある人、
入ったことはなくても無響室がどうなっているのか知っている人ならば、
あの床(床といっていい構造ではなくフレーム)は、
どこまでの重量に耐えられるのだろうか、と思うことだろう。
454kgと発表されているM9の重量。
無響室は、これだけの重量に耐えられるのか。
耐えられる無響室とそうでない無響室があるだろう。
グランドピアノが無響室に入っている写真を、どこかでみた記憶がある。
グランドピアノよりも重いけれど、ものすごく重いわけでもないから、M9も測定可能なのか。
ADK(朝日木材加工)のCDラックがある。
SD-CD1BDXという製品である。
このSD-CD1BDX(八段重ね)が、もうじきやって来る。
SD-CD1BDX一段に、約73枚のCDが収納できる、とある。
73枚の八段だから、584枚ほどのCDを収納できることになる。
600枚弱のCD。いまでは多くない数字どころか、少ない数字といえる。
学生だったころ、壁いっぱいのディスクのある生活に憧れたこともある。
ステレオサウンドで働くようになり、六本木にWAVEができてからというもの、
頻繁にCD、LPを買っていた。
そんなふうにして買っていると、千枚ぐらいはすぐに集まる。
千枚ほどでは壁いっぱいには、まだまだである。
世の中には、千枚の一桁上、二桁上の枚数のコレクションの人も少なくない。
なのに600枚弱しかおさめられないCDラックについて書いているのは、
このくらいの枚数が、ちょうどいいのかもしれない、と思うからだ。
ほんとうに大切で、くたばるまで聴き続けたい音楽(ディスク)というのは、
そう多いものではない。
壁いっぱいのディスクといっても、狭い部屋と広い部屋とでは、
壁いっぱいのディスクといっても、その枚数は多く違ってくる。
壁いっぱいということに、もう憧れはない。
TIDALがあるから、ということも関係している。
TIDALがなかったとしても、心から愛聴盤とすなおにいえるディスクは、
どんなにながく音楽を聴いてきていても、このくらいなのではないのか。
René Leibowitz(ルネ・レイボヴィッツ)。
1913年3月17日生れのポーランドの指揮者である。
つい先日まで、ルネ・レイボヴィッツの名前すら記憶になかった。
どこかで目にしたり耳にしたりはしていたのかもしれないが、
記憶にはない。
先日、「手塚治虫 その愛した音楽」というCDを手にとっていた。
ライナーノートに、ルネ・レイボヴィッツの名前が出ているし、
このCDにもルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンが収められている。
このCDは聴いてはいないが、ルネ・レイボヴィッツの名前はその場でTIDALで検索した。
それほど数は多くないが、ベートーヴェンもあるし、他の作曲家の演奏もある。
リーダーズ・ダイジェスト・レコーディングスに録音していた指揮者とのこと。
必聴の指揮者、とまではいわないけれど、
ルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンは一度聴いておこうよ、というふうに呼びかけたい。
最初は地味と思えた演奏は、聴いていっていると、なかなかいい感じというふうに変っていく。
菅野先生は、
イヴ・ナットに師事していたフランスのピアニスト、ジャン=ベルナール・ポミエの全集について、
ステレオサウンド別冊「音の世紀」で書かれている。
*
ドイツ系の演奏も嫌いではないが、ベートーヴェンの音楽に共感するフランス系の演奏家とのケミカライズが好きなのだ。ベートーヴェンの音楽に内在する美しさが浮き彫りになり、重厚な構成感に、流麗さと爽快さが加わる魅力とでも言えばよいか?
*
ルネ・レイボヴィッツはフランス系の指揮者ではないが、
ルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンにも、なんらかのケミカライズがあるように感じる。
別項「最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)」で、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。
フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである、と書いている。
まさにそのとおりなのだが、ルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンは、
そういうベートーヴェンとは違う。
違うからダメとかいいとかではなく、
違うことの魅力が《ベートーヴェンの音楽に内在する美しさが浮き彫り》してくれるのだろう。
世代によって、はじめてきいたJBLのスタジオモニターは違ってくる。
いま七十代か、上の世代になると、
JBLのスタジオモニターとして最初に、その音を聴いたのは4320で、
その次に4331や4333、そして4341、4350、4343という順序だろう。
いま六十前後の世代だと、4343が最初だったりする人も多いだろう。
4343を最初に聴いている。
それから4350、4341、4333Aなどを聴いて、4320を聴く機会が訪れたのは、
4343を聴いた日からけっこう経っていた。
この項で、4320を自分の手で鳴らしてみたい、と書いている。
そんなことを書いてきたおかげなのかどうかはなんともいえないけれど、
年内には4320を聴くことができそうである。
その時が来てみないことには、どんなかたちで4320の音を聴けるのかはっきりしないけれど、
自分の手で鳴らすことができるかもしれない。
4320を、現在高い評価を得ているスピーカーシステムよりも優れている、とはいわない。
物理特性を比較しても、4320は古い世代のスピーカーといえる。
だから懐古趣味で聴きたい(鳴らしてみたい)わけではない。
別項で書いているように、オーディオマニアには、
スピーカーの音が好きな人とスピーカーの音が嫌いな人がいる。
4320の音は、スピーカーの音が好きな人にアピールするところがあるのかもしれない。
以前聴いた4320は、じっくりとはとても言い難かった。
聴くことができた、という感じでしかなかった。
それでも4320の音を、また聴きたいといま思い出させるほどに、
記憶のどこかにはっきりと刻まれているのだろう。
4320を、いま聴きたい(鳴らしてみたい)と思う理由を、はっきりと探るための機会。
そうなったら嬉しいし、何を見つけられるだろうか。