第32回audio sharing例会のお知らせ
9月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
9月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
パイオニア、Exclusive F3の開発にそれだけの時間がかけられている──、
このことをいま知って、うんうんとひとり頷きながら納得している。
けれどチューナーにほとんど関心のなかった、若いときにこのことを知っていたら、
うーん、そうなんだ……、ぐらいの感想になっていたのは間違いない。
そして、そのことももう忘れてしまっていたことだろう。
活字による同じ情報でも、こちら(受けて)の状況で、その重要度が大きく違ってくる。
だから、いまExclusive F3がやって来て、少しずつF3について調べている、
このことは、現在(いま)でよかった、と思っているところだ。
三井啓氏の記事によれば、チューナーも、コントロールアンプ、パワーアンプとともに企画されていたことがわかる。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のパイオニア号、
204〜205ページにデザイン・スケッチが掲載されている。
コントロールアンプ、パワーアンプのスケッチとともに、
あきらかにチューナーのデザイン・スケッチがそこにはあった。
ではなぜチューナーのExclusive F3だけが約一年も遅れたのか。
その理由は、測定器の開発から始まったことにある。
三井氏の記事にはこうある。
*
今日では広く採用されている群遅延特性測定器や、微分利得特性測定器といった精巧な測定器は、「エクスクルーシヴ」のFM専用チューナーを開発するうえで必要に迫られ、設計グループによって実現したものであった。
*
記事には測定器の写真も載っていて、その説明文には「測定器メーカーとの共同開発による」とある。
オーディオ機器の開発の大変さは、なんとなくではあっても想像がつく。
けれど、測定器、それも新しい測定器となると、どれだけ大変なのかは、私には想像がつかない。
おそらく新しい測定器の開発と並行しながらExclusive F3の開発・設計も進められていた。
記事にも、「新しいFM専用チューナーは、昭和47年末ごろの設計の段階では」という記述がある。
昭和47年は1972年、Exclusive F3の発売は1975年。
Exclusive F3は、それだけの時間がかけられたチューナーといえる。
小学校の時の、そんな体験を彷彿させたのが、
五味先生の「西方の音」を読んでいたときだった。
長崎原爆資料館を訪れてから、約十年が過ぎていた。
「バルトーク」という一篇があった。
長くなるが引用しておく。中途半端に省略したくなかった。
*
もともとバルトークの音楽は私のもっとも忌避する芸術であった。彼の弦楽四重奏曲を、はじめて聞いた時の驚きを私は忘れない。かんたんに申すなら、バルトークは私を気違いにさせたいのか、と思った。そうでなくても何か一本、常人とはスジの狂った神経が自分にあるのを感じている。私は、常に正常でありたいし、こういう言い方が許されるなら目立たず平凡に一生を終えたいとどんなにつとめてきたかしれぬ。それでも最も自分らしくのびのび振舞えたと思えたとき、私の言動は常軌を逸し、人もそう言う。後で私もそう思う、だが常に、後でだ。
そんな常軌を逸し、すじの違った何かをバルトークはことさら私の内部で拡大し、踏みはずせ踏みはずせと嗾ける。ふみはずせばどうなるか、防御本能で私は知っている。俺は破滅したくないのだ、平凡人でいたいのだ……私は心で叫んで抵抗し、脂汗で皮膚がぬめってくるような感じに、なんども汗を拭いた。そんな音楽である。バルトークは周知の通りその作品があまり急進的なため、不評を蒙り、一時は創作のペンを折らねばならなかった。しかし彼はそういう精神的孤立の中で最も自分らしい音楽を書いた、それが第二弦楽四重奏曲だ。当時彼は三十五歳だった。
またそれからの二十年間、彼の充実した時期にその心の内奥を語りつづけたのが全六曲のクヮルテットであり、時に無調的、半音階的、不協和的作風(第四番)を経てヨーロッパを離れる六番にいたるまで、これら六つの弦楽四重奏曲には、つまり巨匠バルトークの個性のすべてが出ている。彼は晩年、貧乏のどん底でアメリカに死んでいったが、悲境のその死を一群のクヮルテットのしらべの中から予感するのは、さほど困難ではない。——などと、もっともらしい音楽解説は実はどうでもよいことだ。
とにかく、私はバルトークの弦楽四重奏曲を——はじめに第二番、つぎに四番、六番と——ついにそのどれ一つ、終章まで聴くに耐えられなんだ。
「やめてくれ」
私は心中に叫び、それが歇んだときホッとした。およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。ところが、バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。私には、バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった。言いかえれば、バルトークの弦楽四重奏曲を終章まで平然と聴けるのは、よほど、強靭な神経の持ち主に限るだろう。人はどうでもよい、私にはそうとしか思えないのである。
*
「それが歇んだときホッとした」とある。
ここで、小学低学年のころの映画のこと、
小学五年での長崎原爆資料館のことを思い出すことになった。
死の床で、もう一度食べたいものがあるとしたら、
私は長崎原爆資料館を見た後に食べた、あのアイスかもしれない。
そのくらい、あの時のアイスの味は忘れ難いものになった。
あの時のまったく同じアイスが、いま目の前にあって食べたとしてもおいしいと感じても、
あくまでも、数ある食べ物の中のひとつとしておいしいと感じるだけだと思う。
それでも、こんなことを思い、書いているのは、あの時のアイスの味だけが、
直前まで見ていた長崎原爆資料館にいて、
それまでの十年間でいちども味わったことのない、いいようのない気持をどうにかしてくれたからだ。
小学低学年のときに観た映画、
このときは暗い映画館の中から(昔の映画館はほんとうに暗かった)、
明るい外に出た時に、ほっとした(できた)。
長崎原爆資料館のときには、外に出たくらいではそうはならなかった。
このときたしか十歳だった。
そんな子供は、なんとか、すこしでもはやくほっとしたかった。
そのとき目の前で売っていたのがアイスだった。
アイスはおいしかった。
ひとつ食べて、もうひとつ買った。それも食べ終るとまたひとつ買った。
なにか対比を求めていたのかもしれない。
映画館の暗さと外の明るさ──、
映画のときはこの対比でなんとかほっとできた。
けれど長崎原爆資料館のときは、外の明るさだけではどうにもならなかった。
子供心に、あのときのアイスは対比として存在であることがわかっていたのだろうか。
一時期、ワンブランドシステムとかワンブランドオーディオという言葉が雑誌を飾っていた。
マッキントッシュ、B&O、QUADといった、
音の入口から出口まで揃えているメーカーでシステムを統一する。
マッキントッシュのCDプレーヤー、マッキントッシュのチューナー、マッキントッシュのコントロールアンプ、
マッキントッシュのパワーアンプ、マッキントッシュのスピーカーシステム、
とすべてマッキントッシュの製品で揃えればデザインでの統一と音質・音色での統一が得られる。
B&O、QUADもワンブランドですべて揃えてしまうことで得られるものが確実にある。
同時に得られないものもあるわけで、
結局はどちらを重視するかにより、人はワンブランドを選択したりそうでなかったりする。
ワンブランドオーディオ、ワンブランドシステムという言葉が登場する以前は、
シスコンという言葉があった。
システムコンポーネントの略語である。
これもワンブランドで統一されたシステムであるわけだが、
メーカーのお仕着せということと、それにどちらかといえば安価なシステムが多かったこともあり、
初心者向きという認識であった。
このシスコンに対して、バラコンというのがあった。
バラコン──、バラバラにスピーカーやアンプを買ってきてコンポーネントを組み合わせるから、
つまりバラバラのコンポーネントという略語であった。
瀬川先生は、こんな言葉は使いたくない、使わない、といわれていたのを思い出す。
自分にとって、ほんとうに求めていたスピーカーシステムと早々に巡りあえることは、まずない。
いくつものスピーカーシステムを自分で鳴らしてこなければ、まず無理である。
その意味では「このアンプに合うスピーカーはなんですか」
と質問してくる人のことがまったく理解できないわけではない。
それでも、スピーカーシステムは自分で見つけるもの(モノ)である。
いつかは、きっとスピーカーシステムが見つかる。
それがどのくらいかかるのかは、なんともいえない。
幸運にも一年くらいで見つかる人もいるだろうし、
十年かかって見つけた人だっている。
それ以上の年月をかけているけれど、まだ見つからない……、という人もいよう。
それまでは、すでにシステムをつくっている。
一度にすべてのオーディオ機器を、欲しいモノを買える人もいるけれど、
私を含めて多くの人は、すこしずつグレードアップしていく。
プレーヤーにしても、アンプにしても、
自分にとってほんとうに求めていたスピーカーシステムが見つかるまでに、
いったい何度入れ換えているだろうか。
そうやっていっていると、往々にしてそれぞれのオーディオ機器のデザインに関しては、
じつにバラバラになってしまいがちだ。
1967年、オーディオ機器へ物品税がかかるようになり、
それまでは部品扱いだったアンプやスピーカー、プレーヤーが、完成品とみなされるようになった。
車は車一台で車としての機能を持っている。
けれどオーディオ機器の場合、アンプだけを買ってきても、それだけでは音は出てこない。
スピーカーシステムにしてもプレーヤーシステムにしても同じで、
レコードを聴くには最低でもプレーヤーシステムとアンプ、
それにスピーカーシステム、もしくはヘッドフォンを買ってこなければならない。
その意味では、確かにオーディオ機器は「部品」という見方ができる。
その「部品」を買ってきて、自分のためのシステムを構築する。
システムとは「個々の要素が有機的に組み合わされた、まとまりをもつ全体。体系」と辞書にはある。
まとまり・まとまるとは「ばらばらであったものが集まってひとつになる。また統一のある集まりとなる」ことだ。
ばらばらであったものが集まるには、中心となるもの(モノ)があってこそ、成り立つのではないのだろうか。
中心がなければ、ばらばらであったものは、いつまでたってもばらばらである。
オーディオというシステムにおいて、中心となるのはスピーカーシステムということになる。
まずスピーカーありきで、組合せを考えることは始まる。
ずっと以前は、多くのオーディオ雑誌にあった相談コーナーのページで、
「このアンプに合うスピーカーはなんですか」と読者の質問が少なからずあった。
いまでもインターネットに、昔と同じようにあるようだが、
いまも昔も、くり返すが、まずスピーカーありき、である。
たとえばラックスのコントロールアンプCL32は128000円、キットのA3032は88000円、
CL30は169000円、キットのA3400は108000円、
パワーアンプのMB3045は128000円(一台)、キットのA3000は79000円(一台)だった。
物品税の分だけ安いともいえるし、
そのメーカーでの組み立てにかかるコストも省けるから,ともいえるわけだが、
キットにはキットならではの苦労が、メーカーにはあったはずだ。
キットを購入して組み立てる人の技術が、どの程度なのかはばらばらのはず。
自分で回路設計もできてコンストラクションまで考える人もいるば、
ハンダゴテを握るのも初めて、とにかく安く買えるから、という人までいたと思う。
当然ハンダ付けの技術もワイヤリングの技術もまったく異る人たち向けにキットは売られている。
技術のある人ならば問題なく組み立て、調整し、完成品とまったく変わらぬモノを安く手にできる人もいる反面、
まともに組み立てられずメーカーに送る、という人もいた。
それに対してもメーカーとしてはアフターサービスとして、きちんと対応していた、と思う。
このコストは、完成品が故障で戻ってくるのよりも、ずっとかかっていたのではなかろうか。
キットの販売は大変だったはずだ。
それをラックスは長年やってくれていた。
私自身はラックスキットを購入したことはないけれど、
キットという存在はオーディオの勉強の教材としても存在していた。
物品税は1989年の消費税導入によってなくなった。
そうなると製品でもキットでも、消費税率は同じになる。
1970年代、1980年代は各メーカーからキットが発売されていた。
有名なところではラックスキットがあった。
キットといえば初心者向きのモノと受けとられがちだが、
ラックスキットは充実していた。
たとえばラックスの管球式パワーアンプMB3045のキットはA3000、
MQ60のキットはKMQ60、
その他にもキットのみのモデルもあった。
コントロールアンプもCL32のキットがA3032、
CL30のキットがA3400として出ていた。
アメリカではダイナコの真空管アンプのキットも有名だった。
その他にもキットはいくつもあった。
ターンテーブルのキットもあり、アンプ、スピーカー、
それにデヴァイディングネットワーク(チャンネルデヴァイダー)もあった。
システムのほとんどをキットで揃えることもできた。
キットがこれだけ充実していたのには、物品税という理由がある。
昭和42年(1967年)、それまで部品扱いで非課税だったオーディオ機器に物品税がかけられることになった。
物品税は15%が基本で、いきなり15%もの課税になると、一挙にオーディオ機器の価格は高くなる。
そのため5%ずつ上げる、という猶予が与えられた。
そうなってもキットは、部品扱いだったため15%の物品税は関係ない。
だからキット販売は、価格をかなり抑えることができた。
今回考えた組合せの、音の中心となるのはウエスギのU·BROS2011Pではないかと想像している。
実際のところ、組合せをつくり音をまとめていく過程で、スピーカーシステムのGX250MGが中心になるのか、
それとも私の想像しているようにU·BROS2011Pになるのかが、はっきりする。
それでもU·BROS2011Pを音の中心に据えて音をまとめていくというのも、ひとつの手法としてある。
では今回の組合せのデザインの中心となるのは、どれなのか。
全体のデザインの統一感はなくとも、どれかひとつ秀でたデザインのモノがあれば、
組合せ全体のイメージがずいぶん変ってくるのだが、
ここでは中心となるモノはない──、そんな気がする。
たとえばデザイン面の統一感を重視してコントロールアンプもCDプレーヤーもアキュフェーズに変更したとする。
システムの半分以上がアキュフェーズになれば、見た目の統一感は増す。
増すけれど、それでアキュフェーズのコントロールアンプなりCDプレーヤーが、
パワーアンプでもいいのだが、これらのひとつがデザインの中心になってくれるとは考えにくい。
アキュフェーズのデザインに関して、高く評価する人は割と多い。
私は、正直、いまのアキュフェーズの一連のデザインに関しては、どこか薄さを感じてしまう。
そのことが、それまで私のなかで積み重なってきたアキュフェーズの印象と少しずつ離れていくところがあり、
このままアキュフェーズのデザインは、この方向で展開していくのだとすれば、
いろいろとおもうところがある。
デザインに関しては、フォステクスのGX250MGもそうだ。
あえて、こういう外観にしているのだろうが、あまりにも魅力に欠ける。
今回の組合せはデザインの中心となるモノがないから、よけいにそれぞれの機器のデザインが気になってくる。
私が長崎原爆資料館に行ったのは、もう40年ほど前のこと。
そのときの建物は新しくはなかった。
どちらかといえば暗い感じのする建物だった記憶がある。
少なくとも近代的な明るい印象の建物ではなかった。
そんな資料館の中に展示されているものをひとつずつ見てまわった。
できれば見たくない、と思っていたような気もする。
でも、すべてをきちんと見なければ、と小学生ながらに思ってもいた。
いくつかはひどく記憶に残って、
しばらくはそのイメージが頭から消し去ることができなかった。
修学旅行は小学五年のときだった。
ぺちゃくちゃしゃべりながら行動をしがちの年ごろだったけれど、皆無口だった。
妙に静かだった。
心の中では、どういう言葉を発していたのかはわからない。
でも皆黙っていた。
湿気がまとわりつくような感じも記憶に残っている。
長崎原爆資料館の外に出たら、
自転車で小さな屋台をひいて、アイスを売っている人がいた。
長崎名物の氷のつぶがはいったアイスだ。
このアイスを食べて、ほっとした、というか、やっとほっとできた。
「虎の威を借る狐ですね」と誰かにいわれたら、たいていの人はむっとする。
「虎の威を借る狐」は他人の権勢をかさに着て威張る小人(しょうじん)のたとえと辞書にはある。
侮辱されているのだから、むっとしたり怒ったりしたり当然なのだが、
この数年、感じているのは、「虎を威を借る狐」はまだましなほうなのだと思うことである。
すくなくとも、この狐は、虎が強いことを知っている。
自分で虎が強いということを判断した上で、「虎の威を借る」わけだ。
この狐は、ある意味賢いし、狡い。
それでも、的確な判断を下している。
私が「虎の威を借る狐」がまだましと感じているか、というと、
「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかがあらわれて増えてきたように感じるからだ。
「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかは、
もうすでに誰が、何が強いのかを判断できなくなっている、そのことがわからなくなっている。
だから、そんな狐の威を借ることになる。
私には、「虎の威を借る狐」にみえるものが、別の人には虎に見えているのかもしれない。
人それぞれといってしまえばそれまでのことなのだが、
オーディオ機器について書かれているものをインターネットで読むときに、
あるときはある販売店のある店員に、
(むしろオーディオ以外のことで感じることが多いのだが)
「虎の威を借る狐」、その狐を威を借るなにものか的な要素を感じてしまうと、
「虎の威を借る狐」はまだストレートだったんだなぁ……、と思い、
これも複雑な幼稚性なのかとも思ってしまう。
ラックスのアナログプレーヤーといえば、PD121がある。
PD121を知る者、憧れた者には、 現行のPD171のデザインにはついあれこれいいたくなってしまう。
でも、国産のアナログプレーヤーとして、決して高価すぎない、
しかも大きすぎない、大袈裟すぎない製品を、他に見つけることは難しいのだから、黙っておこう。
それでも書いておきたいのは、何も知らずはPD171を見せられたら、
ラックスのアナログプレーヤーとは思えない、ということだ。
価格的なバランスをくずして、もう少し安いところまでみれば、
デノンのDP1300MKIIがある。
そのくらいだろうか。
私の中では、テクニクス、デンオン、ビクターはダイレクトドライヴ御三家だった。
この中でいまもアナログプレーヤーを製造しているのはデノン(デンオン)だけなのは、
時代の流れなのだから、そういうものだと受けとめるしかないのだが、
それにしても、ラックスのPD171、デノンのDP1300MKIIにしても、
せっかく、こういう時代にアナログプレーヤーをつくっているのだから、
いつの時代のアナログプレーヤーなのか、と見る者が判断を迷うようなデザインではなく、
これまでのキャリアがあるのだから、それに見合うだけの洗練したモノが欲しいところである。
アナログプレーヤーと比較すると、CDプレーヤーの選択肢は多い。
国産のCDプレーヤーという制約をつけても、マランツ、デノン、アキュフェーズ、ラックス、エソテリックがある。
これらのモデルであれば、どれを選んでも間違いはない。
こうやって組合せができたわけだが、
組合せをあれこれ考えているときから感じていたことがある。
音のことではなく、組合せ全体のデザインのことである。
私が生れ育った田舎町にも昔は映画館があった。
中学生になったころにはもうなくなっていた。
古い、ボロい映画館だった。
いわゆる名画座で、二本立て、三本立てで上映されていた。
話題の映画はバスに一時間ちょっと揺られたところにある映画館に行く。
地元の、そんな映画館で観ていたのは、学校推薦の映画であったりした。
何本か観ているのだが、ほとんど記憶には残っていない。
でも、一本だけ強烈に記憶に残っている映画がある。
タイトルはもう憶えていない。
ストーリーもうろ覚えだ。
なのにいまも憶えているのは、観ていて気持悪くなった映画だったからだ。
第二次大戦の、どこかの島での話だった。
終戦近いころの話だったはず。
極限状態に追い込まれた日本兵が描かれていた。
そんな映画を、小学校低学年の時に観ている。
吐きそうになる寸前の、気持悪くなるシーンもあった。
いま思うと、よくこういう映画が学校推薦になったな、と思わなくもない。
映画が終り、外に出た時にほっとしたことも、強烈に憶えている。
昼間の太陽の光が、こんなにも人の気持を一瞬にして変えてくれるものだと感じたのは、
その数年後、小学校の修学旅行で行った長崎原爆資料館を見終り、館の外に出た時も同じだった。