オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その1)
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。
ステレオサウンド別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」で、
菅野先生がML7のところでマークレビンソンのアンプのデザインについて書かれている。
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ただし、マーク・レビンソンの一連の製品についていえることだが、明らかに一般ハイファイ・マニアを相手にしながら、プロ機器仕様とデザインを決めこんでいるのはどうかと思う。トラックかブルドーザーのようなデザインばかりではないか。中ではLNP2Lが一番まともだが、決して使いやすくもない。
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これを読んで、LNP2のデザインに感じていたのは的外れではなかった、とほっとした。
ただトラックやブルドーザーのようなデザインには、完全には同意できなかったけれど、
菅野先生とはいわんとされているところはわかる。
何度も書くが、LNP2のデザインを悪いデザインとは思っていない。
けれど、優れたデザイン、美しいデザインとはこれまで思ったことはないし、
これから先もそう感じることはない、と言い切れる。
なのに、なぜLNP2は、いいデザインという評価が得られているのだろうか。
オーディオマニアすべてがそう思っているわけではないにしても、
少なくない人が、しみじみと「LNP2のデザイン、いいですよね」と発するのを聞いている。
悪いデザインとまでは思っていないから、あからさまに否定することはしないものの、
この人もそうなんだ、とは思ってしまう。
「LNP2のデザイン、いいですよね」という人は、
菅野先生の「トラックやブルドーザーのようなデザイン」という発言をどう受けとめているのだろうか。
毎日書いていると、書くことにつまることはない。
むしろ、書きたいこと、書いておかねばと思うことがいくつも出てくる。
だから書く気になるかどうかは別として、書くことに困ることはない。
いいわけにもならないが、そのため、「同軸型はトーラスなのか」のように、
続きを書くのにときとしてあいだが開きすぎてしまう。
他にも続きを書こうと気に掛けつつも、他のことを書いてしまっている。
私は、このブログを書くために試聴や取材をやっているわけではない。
それでも書きたいことは、山のようにあるわけだから、
オーディオ雑誌に携わっている人たち(編集者、筆者)は、
試聴や取材をやっているわけだから、私以上に書きたいことは山のようにあるわけだ。
しかも本づくりには複数の人が携わっているわけだから、
ひとりひとりの山は、私ひとりの山よりもずっと高くあるべきだし、
その高い山がいくつも連なっているのだから、そこから発せられる情報量は、
本来ならばとてつもなく多いものになるはずである。
ステレオサウンドは季刊誌である。
私がいたときも、季刊誌のままでいいのだろうか、と編集部と先輩と話していたことがある。
月刊は無理だろうから、隔月刊にするべきなのかも……と。
そのときは隔月刊もきつい、ということに落ち着いたように記憶している。
そこから外れて、いま思うのは、
編集部の人数がいまの倍ほどになれば、ステレオサウンドの月刊化はできるはずだということである。
もちろん、いまと同じページ数での月刊化である。
読者に伝えていくこと(書いていくこと)は、そのくらい余裕であるはずである。
書くことに困る(誌面をうめることに困る)ということは、彼らがプロフェッショナルであるならば、
ありえないはずである。
(その1)を書いたのが2010年3月、五年ほど経っている。
この項の(その26)も2011年2月ですでに四年前、
ずいぶんあいだをあけすぎたな、と思いながら、また書き始める。
「同軸型はトーラスなのか」というタイトルは、
(その3)(その4)に書いたように、
「回」という漢字からの連想である。
パイオニアのS-F1のユニットは、まさに「回」の字そのものといえるからだった。
同軸型の「同」。
「回」の下の横棒を上にずらす。
口の部分の上にもってくると、同になる。
こんなこじつけめいたことも考えながら、書き始めた。
同軸型ユニットとはいっても、いくつかの種類がある。
最初から同軸型ユニットとして設計されたものと、そうでないのものとがある。
多くの同軸型ユニットは最初から同軸型として設計されたといえるが、
たとえばコーン型ウーファーもしくはフルレンジユニットの前面に、
コーン型もしくはドーム型トゥイーターを後付けしたユニットがある。
これも同軸型であり、私が昔鳴らしていたシーメンスのコアキシャルも、いわばトゥイーター後付け型になる。
ただ、ここで考えていきたい同軸型から、この手のモノは除外する。
旅人がトランクにつめこんだレコードは、いうまでもなく「ききたいレコード」であった。
ききたいレコードが一枚ではなく、何枚もあったから車掌は、
いきたいところがわからなかった旅人の行き先を察することができた。
ききたいレコードは、ききたくないレコードの裏返しでもある。
ならば旅人がトランクにききたくないレコードばかりをいれていたら、
それを見た車掌は、旅人がいこうとしている目的地を察することができただろうか。
38年前には考えなかった、こんなことをいまは考えている。
単純接触効果というのが、すでに実証されている。
くり返し何度も対象と接することで、好意度が高まり印象が良くなる、というものである。
音に関しても、単純接触効果はあるのだろう。
だとすれば……、と思う。
オワゾリール、アルヒーフの録音が好きだったききては、
ほんとうにこれらのレーベルの音が好きだったのか、である。
人の好みは、どうやって形成されていくのか、くわしいことは知らない。
ただ思うのは、嫌いなものを排除することの好みの形成であるはずで、
好きな音がまだつかめていない段階でも、嫌いな音、ききたくない音ははっきりしているのではないだろうか。
人によって、それも異っているのかもしれないが、
とにかく嫌いな音を徹底的に排除することから、
オーディオをスタートさせたききては十分考えられる存在だ。
嫌いな音を徹底排除することによって、ある独特な音が形成される。
その音で、彼はさまざまな音楽をきいてきた。
音楽をきいてきた回数だけ、その音に接している。
そして、いつしか、その音を好きになっている──。
これも単純接触効果といえるだろう。
マークレビンソンのLNP2というコントロールアンプ。
1970年代後半もっとも注目を集めたといえるコントロールアンプ。
私も憧れたことのあるコントロールアンプ。
よく耳にするのが「LNP2のデザイン、いいですよね」である。
あの時代の、憧れのコントロールアンプだから、悪いデザインとはいわないものの、
優れたデザインか、となると、そうとはいえない。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 1のカラー口絵。
JBLの4343をバックに、マークレビンソンのアンプが真正面から撮られたページがある。
この写真が象徴しているように、LNP2には精度感があった。
ウェストンのメーターは大きすぎず小さくもない、
三つあるレベルコントロールのツマミの周囲には、減衰量がdB表示されていた。
ツマミの大きさも大きすぎない。
精度感を損なう要素は見当たらないLNP2のフロントパネルであった。
HIGH-TECHNIC SERIES 1の写真は、そのことを充分伝えていた。
このページを切り取って壁に貼りたいとも思っていた。
それでもLNP2のデザインは優れているとは、思っていなかった。
これは、いまも変らない。
今月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。
昨夜(正確には今日未明)、あるキーワードで検索していたら、
Great Plains Audioから604E SeriesIIなるユニットが出ていることを知った。
Great Plains Audoは、アルテックの製造ラインを引き継いだ会社として知られている。
いまもアルテック時代のスピーカーユニットの製造を行っている。
604シリーズも、フェライト仕様の604-8H-IIIがあるのは知っていた。
これまでにいくつもの604という型番のついたユニットが登場している。
数でいえば、604E、604-8Gがもっとも多く市場に出回っているのではないだろうか。
604-8Gまでがマルチセルラホーンで、604-8Hからマンタレーホーンへと変更された。
この604-8Hがアルニコマグネット仕様の最終モデルだった。
その次の604-8KSはフェライトマグネット仕様であり、
こういうユニットを購入してスピーカーを組む者は、フェライトよりも心情的にアルニコを選ぶ。
私も604に関して、興味があったのは604-8Hまでだった。
それでもアルテックのユニットに精通している人によれば、アルテック時代の最後の604がもっとも音がいい、ということでもある。
つまりフェライトマグネットである。
音はいいのかもしれない。
ただユニット単体として眺めた時に、
フェライトの604は、アルニコの604のプロポーションを見馴れた目には寸足らずに感じられて魅力を感じない。
601の原型となる601は、1941年開発。
そういう時代を感じさせてくれるという意味で、604はアルニコマグネットであってほしい。
604E SeriesIIは、フレームの形状でいえば、604-8G SeriesIIといえる。
写真の印象では、悪くない。
聴いてみたい、とおもわせるものがある。
しかも価格も納得のいくものである。
604E SeriesIIの写真を見ていたら、同軸型ユニットについて、あれこれ思っていた。
それについてひとつひとつ書いていくと長くなるのでばっさり割愛するが、
同軸型ユニットは、他のユニットにはない何かがある。
同軸型ゆえの構造的欠点もある。
そんなこともふくめて、同軸型ユニットのこれからをテーマにしたい。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
昔は、はっきりとオーディオマニア向けを謳ったLPがいくつかのレコード会社から出ていた。
一部の例をのぞき、LP、CDをふくめてレコードにおさめられているのは音楽である。
音楽を伝える・届けるためのメディアとしてレコードはあり、
だからこそ音楽が主体のメディアといえた。
けれどオーディオレコードと呼ばれるものは、音楽よりもはっきりと音が主体であった。
だからこそオーディオレコードは、蔑みの意味も込められて使われることが多かった。
とはいえオーディオマニアであれば、音の快感を知っている。
音の快感をまったく知らなくてオーディオマニアとはいえない、ともいえる。
その音の快感のためだけに存在するレコード、
それがオーディオレコードといえた。
ここでのタイトルである「オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器」とは、
そういうことである。
オーディオ機器はレコード(録音物)を再生するためのモノである。
音楽を聴くための機器である。
けれど、ここにも音の快感が無視できない存在として、オーディオマニアならば意識する。
そういうオーディオマニアとしての部分をしびれさせる音を特徴とするオーディオ機器がある。
そういうオーディオ機器を、オーディオレコード的と捉えている。
インターネット・オークションが盛んになり、
個人売買が日常となってくることで、見えてくるものもある。
オーディオ店が買取り、中古として売る場合には、多少の整備がなされる。
少なくとも店側として高く売りたいから外観はキレイにする。
前使用者の手垢を感じさせるものは取り除く。
けれど個人売買だと、必ずしもそうではない。
はっきりと前使用者の手垢を感じさせるものがついてくることがある。
それがカートリッジの場合であれば、
ヘッドシェルに、針圧をメモしたテープが貼ってあったり、
さらにはカートリッジ交換時の調整をはぶくために、
ヘッドシェル込みの重量をすべて一定にするためにウェイトで調整したり、
高さ調整を省くためにヘッドシェルとカートリッジの間にスペーサーを挿んだり、という例もあるときく。
スタティックバランス型のトーンアームであれば、
ヘッドシェル込みの重量を調整すれば、針圧調整すら不要になる。
重量調整の、最初の手間さえ面倒と思わなければ、いいアイディアといえるかもしれない。
私にこういう発想はなかった。
私は気に入ったカートリッジを見つけたら、そのカートリッジを最適に調整するようにしていたし、
カートリッジをあれこれ交換することはやっていなかった。
ときにはまったく傾向の違うカートリッジで聴きたいという欲求はあったけれど、
それほど強いものではなく、結局交換することはほとんどなかった。
そんな使い手もいれば、LPのジャケットにカートリッジの型番をメモしている人もいる。
このLPにはこのカートリッジ、というふうに交換していく人である。
chassis(シャーシー、シャシー)、
辞書には、自動車・電車などの車台、ラジオ・テレビなどのセットを取り付ける台と書いてある。
車台とは、車輪の上の,車体を支えている部分、とある。
オーディオでシャーシーといったら、アンプの場合、金属ケース全体のことを指す。
私もそう言ってきた。
けれど厳密には、アンプの場合、シャーシーと呼べるのは、
真空管アンプで、トランスや真空管がとりつけられている土台となる金属ケースのこととなる。
トランジスターアンプのような金属ケースは、厳密な意味でのシャーシーとは呼びにくい。
だからシャーシーと呼ぶのをやめよう、といいたいのではない。
車の場合、シャーシー(車台)があって、金属ボディがある。
アンプの場合、これまで四角い金属ケースばかりだったから、シャーシーと呼ぶことに抵抗はあまりなかった。
けれど、いまアンプの金属ケースは四角いモノばかりではなくなってきている。
金属加工の技術がすすみ、カーヴを描くモノが増えてきている。
高級(高額)なアンプ、CDプレーヤー、D/Aコンバーターでは、
むしろ直線よりも曲線の方が主流になりつつある。
すべてが成功しているとはいわないが、ひとついえるのは、
もうこれらをシャーシーと呼ぶよりも、ボディと呼んだ方がいいのかもしれない、ということだ。
シャーシーからボディへ、
この流れがよりはっきりとしていき、結実していくのか、楽しみである。
カラヤンは、古楽器について、ひからびた、しなびたといった表現をしている。
これはカラヤンが古楽器を全否定しているから、こういった表現になっているのであり、
古楽器には古楽器ならではの音のよさがあり、古楽器によるすべての演奏がそんな響きだとは思っていない。
それにそんな響きであっても、
人によっては、ストイックな響き、と受けとめる。
一方の、古楽器ではない響きを、堕落した響きと受けとめる人もいても不思議ではない。
古楽器の響きをストイックと受けとめる人は、
古楽器の響きが好きということであり、
オワゾリールやアルヒーフ、このふたつのレーベルの音が好んでいたききても、そうであるといえる。
けれど好きな音と嫌いな音も、また呼応していることを忘れてならない。
オワゾリール、アルヒーフの音を好んでいたききてには、苦手な音・嫌いな音があった。
苦手な音・嫌いな音は、誰にだってある。
私にも、それはある。
どんな音かというと、磁石を砂鉄の中にいれると磁石に砂鉄がけば立つようについていく。
こういう感じの音が、どうしても苦手である。
一部では、こういう音をエッジがはっきりしている音と評価しているようだが、決していい音ではない。
ただ、こういう音は悪い音であるわけだから、苦手・嫌い、というよりも、
こういう音を出してはいけないともいえる。
とすると、いまの私は、はっきりと苦手な音・嫌いな音は、他に思い浮ばないから、ないのかもしれない。
嫌いな音は好きな音と呼応しているのだから、
好きな音がはっきりとしている(そのため狭くなりがちでもある)からこそ、
嫌いな音も、またはっきりと存在している──、のではないだろうか。
オワゾリール、アルヒーフの音を好むききてをみていて感じていたのは、このことである。
彼は好きな音を追い求めていたのだろうか、
それとも嫌いな音を徹底的に排除していたのだろうか。
オーディオがブームだったころ、店頭効果ということがよくいわれていた。
客がスピーカーの試聴にオーディオ店にくる。
当時はブックシェルフ型であれば各社のスピーカーが所狭しと積み上げられていることが多かった。
そして客は、店員にいくつかのスピーカーを聴きたいとリクエストする。
店員は切替えスイッチで、客が希望するスピーカーを次々と鳴らす。
このときスピーカーの音圧が揃うように調整する店員もいたであろうが、
そうでない店員もいた。
そうなると切り替えた時に、前に鳴っていたスピーカーよりもわずかでも音圧が高ければ、
実際のリスニングルームとはかけ離れた試聴条件では、よく聴こえてしまうことがある。
音圧が同じでも地味な音のスピーカーよりも、派手な音のスピーカーのほうが目立つ。
とにかく他社製のスピーカーよりも、自社製のスピーカーを客に強く印象づけるための音づくり、
これを店頭効果と呼んでいた。
いまはそんなものはなくなっていると思うが、
デザインに関しては、どうだろうか、と思っている。
例としてあげたブックシェルフ型スピーカーは、さほど高級(高額)なモノではなかった。
大きさもユニット構成も外観も似ているモノが大半だった。
だからこそ音での店頭効果で目立とうとしていた、といえる。
ここで書こうとしているデザインについては、
そういった普及価格帯のモノではなく、高級(高額)のモノについてであり、
デザインの関係性・関連性と排他性について考えていきたい。
2015年は未年(ひつじ年)である。
以前、美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、と書いた。
そういわれても、なかなか実感はわきにくい。
まず、なぜ羊なのか、と思う。
大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。
神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。
となれば、美ということに対しての認識も変ってくる。
原稿用紙に手書きする。
それを見ながら、キーボードで入力する。
二度手間といえることを何度かやってみた。
面倒くさいと感じていた。
手書きがすでに面倒なことに感じた。
何かを書く、ということは、今の私には親指シフトキーボードを打つことになってしまっている。
試しにローマ字入力をしてみる。
手書よりも面倒だと感じる。
数えたわけではないが、すでに手書きで書いた量よりも、親指シフトキーボードで書いた量の方が多い。
間違いなく多い。
ステレオサウンドの原稿用紙にステッドラーの芯ホルダーで書いていた時期はそう長くはない。
まとまった量の文章で、この組合せで最後に書いたのは、
ステレオサウンド 72号の「幻のEMT管球式イコライザーアンプを現代につくる」での読者からの手紙である。
栗栖さんという930stユーザーからの手紙から、この企画は始まったことになっている。
この栗栖さんという読者の手紙は私が書いた。
肩に力がはいりすぎたような原稿を書いた。
自分でもそう感じていたから、ダメ出しをもらった。
それで書き直した。
それでOKをもらい、自分の手書きの原稿を、
導入されたばかりの富士通のOASYSで入力していった。
グッドマンのAXIOM80は、このユニットならではの独特の構造をもつ。
一般的なエッジとダンパーは、この9.5インチという、他にあまり例のない口径のフルレンジユニットにはない。
そのため軽量コーンでありながら、f0は20Hzと驚異的といっていいほど低い。
となれば、HIGH-TECHNIC SERIES 4にある佐伯多門氏の解説通りであれば、
AXIOM80の低域特性は20Hzあたりから12dB/oct.で減衰していくはずである。
だが実際のAXIOM80の特性は、というと、200Hzあたりから減衰していく。
それも-12dB/oct.ではなく、-6dB/oct.のカーヴを描いている。
HIGH-TECHNIC SERIES 4には、残念ながら、そのことについての記述がなかった。
ラウザーのPM6も200Hzあたりから減衰していく。
JBLのD130もそうだ。
D130のf0は40Hzと発表されている。
しかし200Hzから下の帯域が6db/oct.で減衰していく。
AXIOM80、PM6、D130に共通しているのは、軽量コーンと強力な磁気回路を組み合わせたユニットであること。
それゆえに能率が100dB/W/m前後となっている。
HIGH-TECHNIC SERIES 4を読んだ時は、ここまでしかわからなかった。
その後わかってきたことは、
AXIOM80、PM6,D130の200Hz以下の帯域は、速度比例による動作である、ということ。
そして6dB/oct.で減衰している、というよりも、6dB/oct.で音圧が上昇しているということである。