Author Archive

Date: 10月 29th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その13)

録音されたモノを再生する、という行為で、
高城重躬氏の行為と、市販されているプログラムソースを購入して鳴らす、という私を含めての一般的な行為、
このふたつの行為の違いはなんなのか。

別項「ハイ・フィデリティ再考」の(その29)で書いたことをくり返すことになる。

High Fidelity ReproductionかHigh Fidelity Play backの違いである。
High Fidelity Reproductionは、誰かがどこかで録音したプログラムソースを鳴らす行為であり、
High Fidelity Play backは、高城氏がやられていた行為である。

この考えが一般的がどうかはわからないが、私はそう考えている。
グレン・グールドがいうところの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」、
録音は未来であるためには、reproductionでなければならない。

reproduction(リプロダクション)には、High Fidelity ReproductionとGood Reproductionとがある。
1950年代にイギリスの音響界で、ハイ・フィデリティについて討論がなされていたころ出て来た概念が、
Good Reproduction(グッド・リプロダクション)であり、
最近のステレオサウンドで、ハイ・フィデリティとグッド・リプロダクションの扱われ方には、
いくつかいいたくなるけれど、ここでは控えておこう。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その12)

録音の対象であるスタインウェイが置かれた部屋での再生。
そこでほぼナマのスタインウェイの音と判断がつかないレベルの音が出たとしても、
スタインウェイのピアノを、その場から出した状態で、もう一度再生してみたらどうなるか。

ずいぶん違う印象の音になることはまちがいない。
スタインウェイのピアノが置かれた状態では、
ナマのスタインウェイの音と再生音との区別がはっきりとわからなかった人でも、
スタインウェイのピアノがなくなってしまった状態では、わかる人も出てくるはず。

このことで高城重躬氏が追求されていた「原音再生」を否定はしないし、できもしない。
ピアノがあることの、再生音への影響は高城重躬氏もよくわかっておられたであろうし、
あくまでも高城氏のリスニングルーム(スタインウェイのピアノが置かれた部屋)という、
非常に限られた条件下での原音再生であるのだから。

高城氏がLPも再生されていたのは知っている。
重量級のターンテーブルプラッターを、
オープンリールデッキのモーターを流用しての糸ドライヴという手法を、かなり昔からやられていた。

けれど高城氏の著書を読むかぎりでは、あくまでも音の追求ということに関しては、
LPで、ということではなく、自身で録音されたスタインウェイの音である。

高城氏がオーディオ、音について書かれたものを読む際に忘れてはならないのは、このことである。
とはいえいったん録音したものの再生であることには、レコード再生も自宅録音の再生も変りはない。

たとえば同じ部屋をふたつつくり、片方の部屋にはスタインウェイのピアノ、
もう片方にオーディオのシステムを置く。

ピアノの音うマイクロフォンで拾い、録音せずにそのまま隣の部屋のオーディオで鳴らす。
これでそっくりの音が出るように追求する、という原音再生の手法も考えられる。
けれど高城氏はそうではない。いったん録音されている。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その6)

サンスイのプリメインアンプAU-D907 Limitedを買ったことは何度か書いているとおり。
それからSMEの3012-R Specialも無理して買った。

AU-D907 Limitedは型番からもわかるように台数限定だった。たしか1000台だったはず。
3012-R Specialも、ステレオサウンドに最初広告が載った時には、限定、と書いてあった。
結局、SME(もしくはハーマンインターナショナル)が思っていた以上に売行きが良かったのだろう、
限定ではなく通常の製品になっていた。

オーディオ機器にはLimitedの型番がモノが他にもいくつもある。
Limitedとつかなくとも限定のオーディオ機器もいくつもある。

マニアの心理としてLimitedの文字には弱い。
それはなぜなのか。
「いい音で聴きたい」という気持よりも「人よりもいい音で聴きたい」という気持が、
時として強く、その人自身を支配しているからではないのか、と思う。

AU-D907 Limitedも3012-R Specialも、かなり無理して買っている。
これらが限定ではなかったら、そこまで無理はしなかったであろう。

いま買わないと、もう手に入らなくなる。そんなあせる気持もあった。
しかもAU-D907 Limitedも3012-R Specialも、音を聴かずに買っている。

なぜそこまでして買ったのだろう。
「いい音で聴きたい」という気持からだ、とは、もちろんいえる。
オーディオマニアのほとんどの人が、おそらくそういうだろう。

でも、やはり「人よりいい音で聴きたい」という気持があったからだ、ともいえる。

このことだけではない、オーディオマニアとしての「いい音で聴きたい」ための行動を、
少し違う視点からふり返ってみると、どうしても「人よりいい音で聴きたい」という気持があったことを、
少なくとも私は否定できない。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: audio wednesday

第46回audio sharing例会のお知らせ(賞とショウ)

11月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

インターナショナルオーディオショウもハイエンドオーディオショウも、
showをショーではなく、ショウとしている。
今年もあと二ヵ月ほどだ。
11月、12月に出るオーディオ雑誌では、それぞれ独自の賞を特集する。

showも賞も、(しょう)と読む。
単なる偶然なのだろうが、オーディオ雑誌の賞の在り方をみていると、
単なる偶然なのだろうか、という気がしてくる。

賞はshowなのか。
この関係について、何か話せるような気がしている。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

戻っていく感覚

川崎先生の10月28日のブログ(『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』)を読んで、
五味先生の文章を読み返した。

ステレオサウンド 51号、オーディオ巡礼である。
     *
 二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
 再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的エレクトロニクスの進歩に耳の馴れた吾人が聴いても、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
 誤解をおそれずに言えば、二流の再生装置ほど、物理特性を優先させることで芸術を抽き出せると思いこみ、さらに程度のわるい装置では音楽的美音——全音程のごく一部——を強調することで、歪を糊塗する傾向がつよい。物理特性が優秀なら、当然、鳴る音は演奏に忠実であり、ナマに近いという神話は、久しくぼくらを魅了したし、理論的にそれが正しいのはわかりきっているが、理屈通りいかないのがオーディオサウンドであることも、真の愛好家なら身につまされて知っていることだ。いつも言うのだが、ヴァイオリン協奏曲で、独奏ヴァイオリンがオーケストラを背景につねに音場空間の一点で鳴ったためしを私は知らない。どれほど高忠実度な装置でさえ、少し音量をあげれば、弦楽四重奏のヴァイオリンはヴィオラほどな大きさの楽器にきこえてしまう。どうかすればチェロが、コントラバスの演奏に聴こえる。
 ピアノだってそうで、その高音域と低域(とくにペダルを踏んだ場合)とでは、大きさの異なる二台のピアノを弾いているみたいで、真に原音に忠実ならこんな馬鹿げたことがあるわけはないだろう。音の質は、同時に音像の鮮明さをともなわねばならない。しかも両者のまったき合一の例を私は知らない。
 となれば、いかに技術が進歩したとはいえ、現時点ではまだ、再生音にどこかで僕らは誤魔化される必要がある。痛切にこちらから願って誤魔化されたいほどだ。とはいえ、物理特性と芸術性のあいまいな音はがまんならず、そんなあいまいさは鋭敏に聴きわける耳を僕らはもってしまった。私の場合でいえば、テストレコードで一万四千ヘルツあたりから上は、もうまったく聴こえない。年のせいだろう。百ヘルツ以下が聴こえない。難聴のためだ。難聴といえばテープ・ヒスが私にはよく聴きとれず、これは、私の耳にはドルビーがかけてあるのさ、と思うことにしているが、正常な聴覚の人にくらべ、ずいぶん、わるい耳なのは確かだろう。しかし可聴範囲では、相当、シビアに音質の差は聴きわけ得るし、聴覚のいい人がまったく気づかぬ音色の変化——主として音の気品といったもの——に陶然とすることもある。音楽の倫理性となると、これはもう聴覚に関係ないことだから、マーラーの言ったことはオーディオには実は該当しないのだが、下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数の伸び、歪の有無などばかり気にしている、それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
読み返して、いま書いていることのいくつかの結論は、ここへ戻っていくんだ、という感覚があった。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その5)

オーディオにおける音の追求は、あくまでもいい音で聴きたい、なのであって、
人よりいい音で聴きたい、と思う気持ちが、人よりもいいモノを持ちたい、という気持を生んでしまう。

人よりいい音で聴きたい、という気持を全否定はしたくない。
こんな気持も、必要な時期が人にはあるだろうし(私にはあった)、
この気持を持ったことがない、という人よりも、そんな時期があったな……、という人の方がいい。

けれど、そんな気持も行き過ぎてしまうと、別項で書いた人のようになってしまうかもしれない。

誰かに自分の音を聴いてもらう、
今度は誰かの音を聴かせてもらう、
けっこうなことではある。

けれど、このことが「いい音で聴きたい」気持よりも「人よりいい音で聴きたい」気持を肥大させはしないだろうか。
そして「人よりもいいモノを持ちたい」気持へとなっていく。

この「人よりもいいモノを持ちたい」気持をもってしまった人を見逃さない人がいる。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その19)

「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた。」
黒田先生は、「そういう経験がこれまでなかった」だけに、びっくりされている。

この時の黒田先生は「疲れをとるためにさまざまなことをしてみた。にもかかわらず、
あいかわらず後頭部がなんとなく重く、身体もだるかった。
疲れはちょっとやそっとのことではぬけそうになかった」ほどに疲労されていた。

音楽を家庭で聴くという行為は、レコードを選ばなければならない、ということで能動的な行為である。
この時の黒田先生は、レコードを選ぶのが億劫だった、と書かれている。

レコードなんて、すぐに選べるではないか。
そう思ってしまえる人と黒田先生とは、レコードの選び方に違いがあるのではないか。

「ミンミン蝉のなき声が……」が載ったステレオサウンドは52号。
1979年9月に出ている。黒田先生は1938年1月1日生れだから、この時41歳。
30代の黒田先生であったら、レコードを選ぶのを億劫がられることもなかったかもしれない。
     *
 ききたいレコードに対しては、どうしても身がまえる。身がまえる──という言葉が正しいかどうかはともかくとして、音楽に対して正座する。正座したいと思う。しかし、場合によっては、関節のあたりがいたくて、正座できないこともある。本当は、正座がしたくともできない状態でも、きいてしまって、結果として正座してしまうのがいいのだろう。これまでは、そうやって、きいてきた。ただ、今回は、それができなかった。
 そのために、ふいをつかれて、よろめいて、身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさに気づいた。そうしてそのことは、必然的に、音楽をきくことの微妙さ、むずかしさ、きわどさにかかわる。そうか、疲れれば、ミンミン蝉のなき声しかきけないこともあるのかと、わかりきっていることを、あらためて思った。
     *
若ければ、「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づくこともないだろう。
けれど人は誰もが歳をとる。
歳をとることで「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づく。

「頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた」ことを、
私も体験している。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その16)

電気工事の人が使うアナログ式テスターは、小さいとはいえない。
かなり大きいサイズであることが多い。

電気工事の人が使う工具はテスターだけではない。他にもいろいろな工具を必要とする。
だから必要な性能であれば、工具は小さくて軽い方がいい面もある。
アナログ式テスターは、どうしても大きくなってしまう。
サイズ(小さいということ)では、デジタルテスターの方が有利である。

にも関わらずアナログ式テスターの方がいい、と言っていた人は、
「針が振れるから」ということだった。

正確な測定値を読みとるということではデジタルテスターの方が便利なのだけど、
そうではなく、導通があるのかないのか、電気が来ているのかそうでないのか、
そういった測定値が必要なのではなく、状態を確認する場合には、針が振れることが重宝する、ということだった。

あとはおそらくデジタルテスターは、電圧・電流を測る時でも電池を必要とする。
電池がなければデジタルテスターは動作しない。

アナログ式テスターは、抵抗値を測る時には電池が必要となるが、
電圧・電流の測定には電池は必要としないこともあってだと思う。

アナログ式テスターが大きくなってしまうのはメーターのためである。
アナログ式テスターのメーターの文字盤にはいくつもの目盛りが描かれている。
電圧・電流・抵抗を測るのがテスターの基本なのだから、少なくともこれだけは必要となり、
さらにアナログ式テスターではレンジの切替えもやる。

デジタルテスターではそんなことは必要としない。
電圧を測るのか電流なのか、抵抗値なのかを指定するだけである。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: prototype

prototype(8Kを観て)

オーディオ・ホームシアター展でのNKHの8Kは、プロトタイプといえよう。
NHKのブースに運び込まれていた器材はかなりの数だった。

考えてみれば音声でも22.2チャンネルなのだから、
スピーカーシステムは22本プラスサブウーファーが2本、
それを駆動するパワーアンプも同じ数だけ必要になるし、
それ以外にも信号処理のために必要な器材もあったのだろう。

どの器材が、どういう働きだったのかは、見ただけではほとんどわからなかった。
とにかくすごい数の器材が置いてあり、ほとんどすべてが動いていたように感じていた。

器材の数、消費電力の多さ、発熱量の多さ、その他、家庭におさまるようにするためには、
クリアーしなければならないことが数多くあるはずだ。
それらは2020年の東京オリンピックまでにはクリアーされるはずだ。

とにかく、現時点でやれることをやってみた。まさしくプロトタイプだと思う。
こういうプロトタイプが、オーディオ関連のショウで展示されることが久しくなかった。

プロトタイプのみが味わわせてくれる昂奮が、8Kにはあった。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その4)

価格も数字である。はっきりとした数字である。
これも数字なのだ、と実感している。

数字といえば、カタログに記載されているスペックがある。
周波数特性、歪率、S/N比、インピーダンスなど、さまざまな項目の数字(数値)が並ぶ。

価格もカタログ・スペックも数字が並んだものだ。

スピーカーシステムのスペックに、再生周波数帯域がある。
これをとても気にする人がいる。
たとえばあるスピーカーシステムが25Hz〜20kHz、別のスピーカーシステムが30Hz〜20kHzだとしよう。
こんな差は、私はまったく気にしないけれど、
そうでない人にとっては、前者のスピーカーシステムの方が低域の再生能力に優れている、
ということになるようだ。

これはほんの一例で、他にもいくつかの例を聞いたり見たりすることがある。
数字のもつ力を無視できない、と思う。

数字(数値)によって、選択が決定されることもあるように感じられる。
つまり重要な判断材料なのだろう。

そうであれば、価格という数字(数値)もそうなのだろう。
人よりもいいモノを持ちたい、という気持が、どこかで、人より高いモノを持ちたい、
そんなふうにすり変ってしまうのだろうか。

そうでなければ「もっと高くした方が売れますよ、高くしましょう」ということにならないはずだ。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 理由

「理由」(その28)

白川静氏が書かれている。

【きよし(浄・清)】純粋で美しい。余分のものや汚れのないことをいう。対義語の【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れること。これに対して「きよし」は、本来の生気を保っている状態をいうものであろう。もとは人の生きざまをいう語であろうが[万葉]では山川についていうことが多い。

ならば「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」ということは、
本来の生気を保っている状態になることであるはずだ。
本来の生気を保っている状態以上にはならないのではないか。

「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」と頻繁に口にする人の中には、
どうも勘違いされている方がいるように感じる。
浄化を、あたかも本来の生気を保っている状態以上にしてくれるのだ、と。

【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れることならば、
浄化によって、本来の生気を保っている状態とは、本来の形をとり戻す、ということになるだろう。

本来の形がいびつなものであったなら……、と考えてしまう。
浄化とは、己のいびつな形から目をそらすことではない、と。

Date: 10月 26th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その15)

平面であることがすべて悪いわけではなく、
平面であることの良さが感じられるメーターであれば、OPPOの液晶によるメーターをひどいとはいわない。
けれどOPPOのヘッドフォンアンプについているメーターは、平面であることの良さがまったく感じられなかった。

その12)で、メーターに時計と共通するものを感じる、と書いた。

メーターも時計も文字盤と針があるだけでなく、透明なガラス(もしくはプラスティック)が前面にある。
奥から文字盤、中間に針、手前にガラスが、それぞれの間隔をもって配置され、閉じた空間を形成している。
この間隔が、時計というモノに対しての感覚をつくっているのではないか。

空間の存在しない表示をしてしまう液晶表示のメーターは、何を模倣しているのか。
ただ針の動きを模倣すれば、液晶でメーターが表示できる、というものではないはずだ。

時計もメーターも閉じた空間の中で針が動く。
直読ということでは、針と文字盤による表示よりも、数字での直接表示が有利だろう。
なのに、なぜ針の動きに惹かれるのか、針で表示することにメリットはなにかあるのだろうか。

メーターはアンプやカセットデッキの他にも、テスターにもついている(いた)。
私が最初に買ったテスターは、いわゆるアナログ式テスターである。
大きなメーターがついていた。

そのころデジタルテスターも登場していたかもしれない。
だがデジタルテスターは、当時は高価だった。いまとは違っていた。

デジタルテスターもどんどん安価になっていき、いま秋葉原に行けば、デジタルテスターの方が数多く並んでいる。
私もデジタルテスターを使っている。

どのくらい前になるだろうか。
デジタルテスターがシェアを逆転しはじめたころだった。
ある電気工事の人が、テスターの話をしているのが聞こえてきた。

デジタルテスターも良くなっているけれど、まだまだアナログ式テスターだ、ということだった。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その45)

格付けが悪いわけではない。
すべてのオーディオ機器、どれも素晴らしいですよ、と横並びで紹介するのは無理なことであり、
そんなことをやって何になるというのだろうか。

だが、こんな項をたてて書こうとしているのは、
賞(格付け)を否定したいからではない。
賞(格付け)が変ってきていると感じているからである。

State of the Art賞もベストバイも、
瀬川冬樹という存在があったころまでは、納得できる格付けであった。
ステレオサウンド 49号での第一回のState of the Art賞のすべての機種が、
State of the Artの名にふさわしいとは思えないまでも、
複数の人の投票による選考なのだから、その結果は理解できる。

このころまではステレオサウンドによる格付け、とはっきりといえた。
ステレオサウンドのメイン筆者による格付け、ともいえた。

ここで私よりも一世代、二世代下の人たちとは違ってくるのかもしれない。
49号でのState of the Art賞の選考委員は、
岡先生を委員長に、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、柳沢功力、山中敬三だったが、
現在のStereo Sound Grand Prixでは柳沢氏だけで、あとは皆入れ代っている。

49号は1978年12月発売だから、30年以上の月日が経っているのだから、入れ代りは当然である。
けれど賞は格付けである以上、どういう人がどういう考え・基準で選ぶかがことさら重要なことである。

はっきりと書こう。
以前はステレオサウンドによる格付けだった。
だが、いまはステレオサウンドのための格付けに変ってきている。
さらに書けば、ステレオサウンドを格付けするための賞になってきている。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その44)

格付けということで、ステレオサウンドのベストバイの変化をみれば、
はっきりと格付けの性格が強くなっていることがわかる。

47号から、星による点数が導入されている。
「’78ベストバイ・コンポーネントを選ぶにあたって」で、瀬川先生はこう書かれている。
     *
 同じたとえでいえば、購入して鳴らしはじめて数ヵ月を経て、どうやら調子も出てきたし、入手したときの新鮮な感激もそろそろ薄れはじめてなお、毎日灯を入れるたびに、音を聴くたびに、ああ、良い音だ、良い買物をした、という満足感を与えてくれるほどのオーディオパーツこそ、真のベストバイというに値する。今回与えられたテーマのように、選出したパーツにA(☆☆☆)、B(☆☆)、C(☆)の三つのランクをつけよ、といわれたとき、右のようなパーツはまず文句なしにAをつけたくなる。そして私の選んだAランクはすべて、すでに自分で愛用しているかもしくは、設置のためのスペースその他の条件が整いさえすればいますぐにでも購入して身近に置きたいパーツ、に限られる。
     *
ステレオサウンド編集部は、ベストバイの選考者に対して、
星の数によって、「三つのランクをつけよ」と依頼している。

ベストバイという記事も、
ベストバイに選ばれるか選ばれないか、という意味、
点数がどれだけ入るのか、何人の人によって選ばれるのか、
どこにも賞とは書かれていないけれど、いわばベストバイ賞であり、格付けが行なわれている。

49号のState of the Art賞からはじまり、Components of the year賞、現在のStereo Sound Grand Prix賞、
すべて賞を与えることによる格付けである。
Components of the year賞からGolden Soundを、さらに選ぶようになっている。
さらなる格付けである。

いずれも格付けであるからこそ、
読者は自分の使っているオーディオ機器が選ばれれば、嬉しいものであろう。
どんな人であろうと、まったく嬉しくない、ということはないはずだ。

つまりベストバイもState of the Art賞も、
ステレオサウンドのメイン筆者による格付けであった。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ショウ雑感

2014年ショウ雑感(ヘッドフォン祭)

ヘッドフォン祭に行ってきた。
ヘッドフォン祭に行くのは、今回が初めてである。

大盛況である、とか、若い人が多い、とか、そんなことは耳に入っていた。
実際に会場である中野サンプラザに行くと、若い人が多い。
ものすごく人が多いのかと思っていたら、大混雑というほどではなく、
活気もあって、いい具合の人の入り方だったように感じた。

先月開催されたインターナショナルオーディオショウとは、こんなに雰囲気が違うのか、と、
誰もが思うに違いない。
こんなことを書くと、ヘッドフォンで聴くのは、オーディオではない、という人がいる。

私はそうは思わないけれど、帰途の電車の中で気づいた。
ヘッドフォン祭は、ヘッドフォン祭という名称であって、ヘッドフォンオーディオ祭ではなかったことに。

ヘッドフォン祭の主催は、フジヤエービックという販売店である。
ヘッドフォン祭をヘッドフォンオーディオ祭としなかったのは、意図的なのかたまたまなのか。
あえてオーディオを外しているとしたら、客商売をしている人ならではの感覚によるものなのか。
そんなことを思っていた。

オーディオの催し物は、インターナショナルオーディオショウ、ハイエンドオーディオショウ、
オーディオ・ホームシアター展と、必ずどこかにオーディオという単語が入る。
それを当り前にこれまで受けとめてきた。

けれど、オーディオに強い関心はないけれど、
家庭で音楽を楽しみたい、という人たちにとって、オーディオとつかないほうがいいのかもしれない。