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Date: 5月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音・「夜のラジオ」を読んで)

谷川俊太郎氏の「夜のラジオ」を読んだ。
どきっ、としたところがある。
     *
どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ
     *
どきっ、としないオーディオマニアがいるだろうか。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その50)

ステレオサウンド 49号からはじまったState of the Art賞は、
Components of the yearとなり、
いまはStereo Sound Grand Prix(ステレオサウンド・グランプリ)となっている。

この賞の名称の変化と、
昨日から書き始めた「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」でとりあげていく、
オーディオ評論家の敬称として「先生」とつけることは、
別のことではなく、根っこは同じことだと私は見ている。

ここにステレオサウンド編集部の狡さが、はっきりとある。
狡さ、と書いた。
実は他の表現もいくつか思いついていた。
それらをすべて書くのは気が引けたから、ひとつだけ「狡さ」を選んだ。

この狡さに、ステレオサウンド編集部は気がついているのだろうか。
意識して、賞の名称を変え、オーディオ評論家を先生とつけて呼んでいるのであれば、
ステレオサウンドはいつかは変っていけるかもしれないと、淡い期待ももてないわけではない。

けれど「狡さ」を無意識のうちにやっているのであれば、
ステレオサウンドは終ってしまった、といわざるをえなくなる。

この「狡さ」については、
「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」の中で書いていく。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その1)

世の中にはいろんな人がいることはわかっていても、
こうやってブログを書いていると、そのことを強く実感することがある。
ほんとうにいろんな人がいる……。

何度も書いていることだが、
オーディオはどこかを変えれば、音は変る。
ほんのわずかな違いのときもあれば、大きな違いとなってあらわれることもある。
小さな違いの時には、人によっては気がつかないこともあるだろう。

その場合、違いに気がつかなかった人にとっては音は変らなかった、ということになる。
気がついた人には音が変った、ということになる。
この時、わずかな違いに気がつかなかった人も、誰かの指摘を受けたり、
経験を積むこと、耳の訓練を積むことで、
その時はわからなかった音の違いをしばらくしたらわかるようになることだってある。

とにかく音はささいなことで変っていく。
こんなことで変ってくれるな、と思うようなことでも変化する。

ケーブルを替えれば音は変る。
接点が汚れていたのをクリーニングしても変るし、
RCAコネクターの嵌合具合を変えてみても音は変化する。

ラック(置き台、置き場所)をかえても変る。
ラックの天板の上でアンプやCDプレーヤー、アナログプレーヤーの位置をずらしても変る。

音が変る要素をひとつひとつ書いていったらキリがないくらいに、
つまり無数にあるといっていい。

けれど、世の中にはケーブルでは音は変らない、
ましてラックなどで音が変ってたまるか、と頑なに主張する人がいる。
それはそれでいい。
その人は、音の変化を聴きとれていないからなのだ。
耳の音の変化に対する閾値の違いであり、
何もこまかな音の違いを聴き分けているから、オーディオでいい音が出せるとは限らないし、
そうでないからといっていい音が出せないわけでもない。

だから私には違いがわからなかった、といわれた上で、
だから私にとっては音は変らなかったと同じこと、といわれるであれば、
それに対しては私は何も言うことはない。

けれど世の中にはいろんな人がいるのだから、
変らないという人の中にもいろんな人がいる。
やっかいなのは「オーディオは科学だ」という、
彼らにとっては水戸黄門の印籠ともいえる、このセリフを口にする。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その1)

[味噌も糞も一緒]
善悪・優劣などの区別をせず、何もかもごたまぜに同一視する。
辞書をひくと、こう書いてある。

タイトルにそのまま「味噌も糞も一緒」とはしたくなかった。
それでカタカナ表記にした。

こんなタイトルをつけて何がいいたいのか。
それはオーディオ評論家と呼ばれている人たちにつけられる敬称についてである。

私は、五味先生をはじめ、何人かの方たちに先生という敬称をつけて書いている。
先生とは辞書には次のように書かれている。

①学問・技芸などを教える人。また,自分が教えを受けている人。師。師匠。また,特に,学校の教員。「お花の—」「書道の—」
②学芸に長じた人。「駿台—(=室鳩巣)」
③師匠・教師・医師・弁護士・国会議員などを敬って呼ぶ語。代名詞的にも用いる。また,人名のあとに付けて敬称としても用いる。「—,いろいろお世話になりました」「中村—」
④親しみやからかいの気持ちを込めて,他人をさす語。「大将」「やっこさん」に似た意で用いる。「—ご執心のようだな」
⑤自分より先に生まれた人。年長者。

先生という文字からわかるように、原義は⑤の先に生れた人である。

瀬川先生は1935年生れで、私より先に生れた人である。
けれど瀬川先生は46歳で亡くなられた。
私は瀬川先生の年齢をもうこえてしまっている。
岩崎先生の年齢もこえているし、あと五年で五味先生の年齢に並ぶ。

それでも私は瀬川先生と呼ぶ。これからもそう呼ぶ。
死ぬまでそう呼んでいるであろう。惚けてしまってもそう呼んでいるかもしれない。

このブログを読まれている方の中に、
なぜオーディオ評論家に先生という敬称をつけるのか、と違和感をもつ人もいるのは知っている。
そうだろう、と思う。

瀬川先生、五味先生と呼び書いている私でも、なぜこの人まで先生と呼ぶのか違和感をおぼえることがある。
オーディオショウに行けば、多くのオーディオ評論家が、
メーカー、輸入元の人たちから「先生」と呼ばれているのをみることができる。

この人たちがつける先生という敬称は、辞書のどれにあたるのか。
⑤ではない、③でももちろんない。
①なのか、②なのか、それとも④なのか。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その2)

Nakamichi(ナカミチ)といえば、テープデッキである。
それもカセットデッキである(オープンリールデッキもフィデラ・ブランドで出していた)。

カセットテープにそれほど関心があったわけではない私にとって、
ナカミチという存在は、積極的にカセットデッキを開発しているメーカーという印象に留まり、
個人的にナカミチというブランドに思い入れがあったわけではない。

ナカミチもカセットデッキだけでなく、ターンテーブルの開発も行った。
TX1000というターンテーブルである。
いまでも中古市場では人気があるらしい。

技術的には意欲的なところをもつターンテーブルではあった。
TX1000はステレオサウンドの試聴室で聴いている。
レコードの偏芯による音の変化も確認している。
たしかに、その音の効果は耳で確認できる。

とはいえTX1000が素晴らしいターンテーブルだと思っていないので、
中古市場での高値を見ていると、不思議な感じがしてくる。

そしてナカミチはB&Wの輸入元でもあった(その前はラックスと今井商事だった)。
同時期にスレッショルドと技術提携してステイシス回路搭載のパワーアンプ、
ペアとなるコントロールアンプも出してきた。

これ以前にも、傾斜したフロントパネルをもつセパレートアンプを出していたけれど、
やはりナカミチといえばカセットデッキのメーカーという印象が強すぎていた。

1980年代にはいり、ナカミチは総合オーディオメーカーを目指しはじめていたのかもしれない。
結果的にうまくいかなかった、といえよう。
カセットデッキ専門メーカーというイメージが強すぎたためなのか。
とにかくナカミチは香港のファンドに買収されてしまった。

そしてNIROが、中道仁郎氏によって1998年に設立された。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その3)

真空管アンプにおけるトランスの配置はパズルのようなものである。
トランス(チョークコイルをふくめて)は、相互干渉の大きな部品である。
どんな部品でも周囲の影響を受けない、周囲に影響を与えないものはないけれど、
トランスはその中でもっとも大きな部品だけに頭を悩ます存在である。

いちばん確実で簡単な解決方法は十分な距離をとることである。
だがそれでいいアンプが作れるか、という問題が生れてくる。
音さえ良ければ無様なアンプでもかまわないという人であればそれでいいだろうが、
そんなモノを自分で使いたいとも思わないし、作りたいとも思わない。

そしてそんなバラック的なアンプを、初心者にすすめることだけはやってはいけない。

とにかくトランスの配置を考えていくのは、
重量バランス、振動のことも含めてのことだけに、けっこう楽しい作業といえる。

トランスの配置ということでは、初心者にむいているのはステレオアンプではなく、
モノーラルアンプである。
モノーラルにすることでシャーシがふたついるし、電源トランスもそうなる。
いくつかの部品がステレオアンプよりも余計に要り、その分コストもかかるから、
初心者向きとはいいにくくなってくるけれど、アースの処理も含めて、モノーラルのほうが作りやすい。

けれどインターネットでときおりみかける「五極管シングルアンプは初心者向き」は、
おそらくステレオアンプのことであり、モノーラルで作ることではないように受け取っている。

この点に関しても、「五極管シングルアンプは初心者向き」には何も触れていないのが多い、
というかほとんどである。
それに初心者向き五極管シングルアンプとは、
特定の製作記事のことを指しているのかも、はっきりとしていない。

ただ五極管シングルアンプは初心者に向いている真空管アンプだ、と書かれているのが多過ぎる。

五極管シングルアンプの回路構成はどうするのか。
電圧増幅段は一段なのか二段なのか、
NFBはどうするのか、かけるとしたらどの程度かけるのか、
出力管をどう扱うのか(五極管接続なのか、UL接続なのか、三極管接続なのか)、
これらの基本的なことにふれずに、
「五極管シングルアンプは初心者向き」が増殖していっているような感じを受けている。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その9)

アンプにもテープデッキにもカートリッジにもセパレーション特性という項目がある。
アンプは完全なモノーラル仕様であればセパレーション特性は関係なくなるが、
ステレオ仕様であるかぎり、どんなオーディオ機器であれセパレーション特性が関係してくる。

どんなに優秀なセパレーション特性のアンプやデッキなどであっても、
高域になればセパレーション特性は悪くなっていく。
20kHzまではセパレーション特性がフラットにできたとしても、
それ以上の高域、40kHz、80kHz……周波数が高くなればセパレーション特性はどんどん悪くなっていく。

20kHzまでであれは十分なセパレーション特性であっても、
高域レンジが拡大していくことで、それでは十分とはいえなくなる。
再生周波数レンジを高域方向にのばしていこうとすれば、
十分なセパレーション特性をどう確保していくのかが問題となってくる。

しかもデジタル機器では高域のレンジをのばしていくためには動作周波数を高くしていくことになる。
そのためSACDプレーヤーが登場したばかりのころ、
あるSACDプレーヤーはアンプとケーブルで接続しなくとも、
PLAYボタンをおしてSACDを再生すると、スピーカーから音が鳴ってきた。

CDプレーヤーでは起り得なかった現象が、
より高い周波数で動作しているSACDプレーヤーでは、輻射ノイズに音楽信号がのり、
そのノイズをアンプが検波してしまい結果としてケーブルによる接続がなくとも音が鳴ったわけである。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その2)

瀬川先生の文章を読んでヤマハのCIとテクニクスのSU-A2を、まっさきに思い浮べたのは、
そこに書かれていたことから遠い存在として、であった。

その後に、瀬川先生の文章のような存在といえるコントロールアンプいくつか思い浮べていた。
そしてこれらのコントロールアンプのデザインに 短歌的なものを見いだせるとしたら、
CIとSU-A2は、技術者がやりたいことをやったという性格のアンプだから、
文字数の制約のない小説ということになるのか。
そんなことを考えた。

そんなことを考えながら思い出していたのは、
瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭に書かれた「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」だった。
マッキントッシュのC29とMC2205のことを書かれている。
     *
 ずっと以前の本誌、たしか9号あたりであったか、読者の質問にこたえて、マッキントッシュとQUADについて、一方を百万語を費やして語り尽くそうという大河小説の手法に、他方をあるギリギリの枠の中で表現する短詩に例えて説明したことがあった。
 けれどこんにちのマッキントッシュは、決して大河小説のアンプではなくなっている。その点ではいまならむしろ、マーク・レビンソンであり、GASのゴジラであろう。そうした物量投入型のアンプにくらべると、マッキントッシュC29+MC2205は、これほどの機能と出力を持ったアンプとしては、なんとコンパクトに、凝縮したまとまりをみせていることだろう。決してマッキントッシュ自体が変ったのではなく、周囲の状況のほうがむしろ変化したのには違いないにしても、C29+MC2205は、その音もデザインも寸法その他も含めて、むしろQUADの作る簡潔、かつ完結した世界に近くなっているのではないか。というよりも、QUADをもしもアメリカ人が企画すれば、ちょうどイギリスという国の広さをそのまま、アメリカの広さにスケールを拡大したような形で、マッキントッシュのサイズと機能になってしまうのではないだろうか。そう思わせるほど近ごろ大がかりな大きなアンプに馴らされはじめた目に、新しいマッキントッシュは、近ごろのアメリカのしゃれたコンパクトカーのように小じんまりと映ってみえる。
     *
大河小説というキーワードで思い出したにすぎないのだが、
これがCIとSU-A2はほんとうに文字数の制約のない小説なのだろうか、と考え直すきっかけとなった。

ヤマハのCIは実際に触ったことはある。
とはいえ自分のモノとしてしばらく使ったわけではないし、触ったという程度に留まる。
SU-A2は実物を見た記憶がはっきりとない。
もしかすると学生時代に、どこかでちらっと見たような気もしないではないが、もうおぼろげだ。

これだけ多機能のコントロールアンプは短い期間でも自分の使ってみるしかない。
そのうえでないと、きちんと評価することはできない、といっていいだろう。

なのでCIとSU-A2に関しては、あくまでも写真を見ただけの判断になってしまうのだが、
このふたつのコントロールアンプに未消化と感じるところは、私にはない。

Date: 5月 12th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その2)

伊藤先生が晩年、無線と実験に6V6のシングルアンプを発表された。
手持ちのアンプがなくなったため、手持ちの部品で作られたアンプを記事にされていた。

このアンプ、最初はハムが出た、とある。
伊藤先生ほどの真空管アンプのベテランでも、ハムが出てしまう。
しかもあれこれハムを止めるためにやってみたけれどおさまらない。
結局チョークコイルを後付けして止った、とあった。

このくらいのアンプならばチョークなしでも大丈夫だろうと横着した結果がこれである、
そんなことを書かれていたと記憶している。

シングルアンプはハムが出やすい、というよりも、チョークコイルなしではほぼ出ると考えた方がいい。
プッシュプルアンプであればチョークコイルなしでもハムが出ることは、
よっぽどまずい設計か、よっぽどまずい配線の引き回しでもないかぎりハムに悩まされることはほとんどない。

シングルアンプもチョークコイルを使えばハムに悩まされることはないわけだが、
チョークコイルを使うのは初心者向きなのかどうかと考える。

チョークコイルを使うと、ステレオアンプだと鉄芯をもつ部品が、
出力トランス(二個)、電源トランス、チョークコイルと四つ使うことになる。
この四つを、どう配置するのか。

左チャンネルと右チャンネルのそれぞれのトランスを、どう配置するのがいいのか。
シャーシの左右両端に離すのか、それとも見映えも考慮して二個並べて配置するのか。
その場合に、トランスの向きはどうするのか。

初心者向きのアンプでは、コアが露出しているタイプのトランスが使われることが多い。
だからこそトランスの配置、向きは最初に押えておかねばならぬポイントであるにもかかわらず、
まったく触れていない記事の多いこと。

Date: 5月 12th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その1)

先ほどfacebookを見て知ったばかり、
NIRO NakamichiがHE1000というスピーカーシステムを発表している。
まだNIRO Nakamichiのウェブサイトはあることにはあるが今日現在何も公開されておらず、
岡山のオーディオ店AC2のサイトでの公開である。

Nakamichiブランドでもない、NIROブランドでもない、
NIRO Nakamichiブランドである。

Date: 5月 11th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その1)

ときおりみかけるのが、五極管シングルアンプ製作は、
真空管アンプを製作したことのない人にいちばんすすめられる、というのがある。
(ここでの五極管とはビーム管をふくめての意味で、便宜上三極管以外の出力管を五極管と書く)

その場合6L6系列の球をすすめられることが多いようだ。
こういうのをみかけると、時代がかわったのかなぁ、と思う。

誰だって最初は初心者だし、初心者向きのモノ・コトがあれば、
そこから始めれば失敗のリスクも低くなる。

私がそういった意味で初心者だったころ、
初心者向きの真空管アンプ製作といえば、プッシュプルアンプだった。

EL84(6BQ5)、6F6、6V6などの出力管のプッシュプルで、
電圧増幅管には五極管と三極管をひとつにまとめた複合管、
ECC82(12AU7)、ECC83(12AX7)などの双三極管を使い、
初段で増幅したあとにP-K分割の位相反転段という構成だった。
いわゆるアルテック回路、ダイナコ回路と呼ばれたものだった。

これだと片チャンネルあたり使用真空管は三本。
出力もそれほど大きくないから出力トランスも大型のモノを必要とはしないから、
アンプ全体もそれほど大きくならずに製作出来る。

真空管もポピュラーなモノだし、電源トランスも容量の大きなモノは必要としないから、
製作コストも高価になることはなかった。

私はいまでも初心者向きの真空管アンプ製作といえば、こういったアンプをすすめる。
私は少なくとも当時、シングルアンプは腕が上達してから挑戦するモノという感覚だった。

それはシングルアンプ・イコール・直熱三極管のシングルアンプというイメージがあったためでもあるが、
そういうイメージを抜きにしても、シングルアンプは初心者向きとは思えない。

いま五極管シングルアンプが初心者向きというのは、
どのあたりからどう変ってきて、そういわれるようになったのだろうか。

Date: 5月 11th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その1)

それは日本古来の短歌という形式にも似ている。三十一文字の中ですべての意味が完了しているという、そのような、ある形の中で最大限の力を発揮するという作業は、まことに日本人に向いているのだ、と思う。
     *
これは瀬川先生がラジオ技術 1961年1月号に書かれた文章である。
瀬川先生は1935年1月生れで、1961年1月号は1960年12月に出ているし、
原稿はその前に書かれているのだから、瀬川先生25歳の時の文章となる。

この文章はコントロールアンプのデザインについて書かれたもの。
短歌は、五・七・五・七・七の五句体からなる和歌であるから、
31文字であれば、六・六・五・五・九や四・五・六・八・八でいいわけではなく、
あくまでも31文字という制約と五・七・五・七・七の五句体という制約の中で、すべての意味が完了する。

正しく、これはコントロールアンプのデザインに求められることといえる。
これだけがコントロールアンプのデザインのあるべき姿とはいわないが、
瀬川先生がこれを書かれてから50年以上経ついま、きちんと考えてみる必要はある。

瀬川先生の、この文章を読んで、まず私が頭に思い浮べたのは、
ヤマハのCIとテクニクスのSU-A2だった。
どちらも非常に多機能なコントロールアンプである。
コントロールアンプの機能として、これ以上何が必要なのか、と考えても、
すぐには答が出ないくらいに充実した機能を備えているだけに、
それまでのコントロールアンプを見馴れた目には、
コントロールアンプという枠からはみ出しているかのようにもうつる。

ツマミの数も多いし、メーターも装備している。
そうなるとフロントパネルの面積は広くなり、それだけの機能を装備するということは、
回路もそれだけのものが必要となり、消費電力も増える。
電源はそれだけ余裕のある設計となり、筐体も大きくなり、
CIは重量17kg、消費電力55W、
SU-A2は重量38.5kg、消費電力は240Wとなっている。

このふたつのコントロールアンプは、だから短歌的デザインとはいえない、といえるだろうか。
私の知る限り、CI、SU-A2に匹敵する多機能のコントロールアンプは他にあっただろうか、
日本以外のメーカーから登場していない。

このふたつのコントロールアンプは、日本だから登場したモノといえる。
ということは、これらふたつのデザインに、短歌的といえるなにかを見いだすことができるのか。
そう考えた。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・「含羞」)

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」というマンガがある。
1990年代に週刊誌モーニングに連載されていた。
曽根富美子氏が作者だった。

この「含羞」が読みたくてモーニングを購入していた、ともいえるし、
単行本になるのが待ち遠しかった。

タイトルからわかるように、中原中也、小林秀雄が、
この物語の中心人物であり、ここに長谷川泰子が加わる。

これは読み手の勝手な想像にすぎないのだが、
「含羞」を描いて、作者は燃え尽きた、というよりも、精根尽き果てたのではないか、
そんな感じを受けた。

これは文字だけでは表現できない世界であり、
同じ絵であっても、動く絵のアニメーションよりも動かぬ絵のマンガゆえの表現だとも思う。

ここで描かれているのは、少し事実とは違うところもある。
それをわかったうえで読んで、小林秀雄に対する印象が、私の場合、大きく変化した。
そうだ、このひとには「乱脈な放浪時代」があったことも思い出した。

「含羞」は残念なことに絶版のままである。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その4)

「音楽談義」をきいていると、どうしてもいろんなことを思い考えてしまう。

「人は大事なことから忘れてしまう。」

これは2002年7月4日、
菅野先生と川崎先生の対談の中での、川崎先生の発言である。

残念なことに、ほんとうに人は大事なことから忘れしまう。
最近のステレオサウンドを見ていても、そう思ってしまう。

そう書いている私だって大事なことから忘れてしまっているのかもしれない。
そう思うから、毎日ブログを書いているのかもしれない。
大事なことをわすれないために、である。

別項でも書いているのだが、
ステレオサウンドの現編集長は、創刊以来続く、とか、創刊以来変らぬ、がお好きなようである。

でも大事なことから忘れてしまっているからこそ、創刊以来変らぬ、といえるのだろう。
大事なことを忘れずにいようとしていたら、そんなことはとてもいえない。

「音楽談義」は、他のオーディオ雑誌に掲載されたわけではない。
ステレオサウンド 2号に載ったものだ。

「音楽談義」そのものも忘れてしまっているのだろうか。
そんなふうに思えてしまう。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(続Devialetのケース)

デジタル技術が高度になればなるほど、サポートは、輸入元にとって無視出来ない問題となってくるはず。

いま家電量販店のスマートフォン売場をみていると、
設定サービスの料金表が大きく、目につくように貼り出されているところがほとんどということに気づく。

アドレス帳移行、メール設定、twitter設定、Gmail設定、パソコン同期設定、OSのヴァージョンアップ……、
まだまだこまかくいろいろとある。
それぞれに当然だけれど、価格が設定されている。
大半が1000円で、その上が1500円くらいである。
すべての設定をまかせてしまうと、けっこうな金額になってしまう。

それでもいろんな家電量販店がこれらのサービス(といえるのか)をやっているのは、
それだけの需要があり儲けとなるからなのだろう。

こんなのを見ていると、
これからのオーディオも似たようにものになっていくのであろうか、と想像してしまう。

パソコンとの接続サービス、OSのヴァージョンアップ・サービス、
アプリケーションのヴァージョンアップなどをはじめ、
あらゆることでこまかく料金が設定されていくのだろうか。

そんな輸入元も出てくるであろう。
そうはなってほしくない、と思っている。
けれど、これからますますパソコン、タブレットなどとの連携が深まっていくデジタルオーディオ機器、
それも自社開発ではなく海外製品の輸入であった場合、
輸入元の負担は製品によって違ってくるとはいえ、たいへんになっていくのは間違いない。

それでも輸入元なのだから、すべてをしっかりサポートしなければならない、というのは、
無理を押し通すようなものではないのか。

輸入元が、大手の家電メーカーのように全国にセービスセンターをもてる規模であるならば、
要求もできようが、実際にはそうではないし、
大手の家電メーカーですらサービスセンターを閉鎖して縮小している。

これはオーディオ販売店との密接な協力関係を築いていくしかないのではないか。
特約店の数を絞ってでも、きちんとサポート出来る販売店スタッフを増やしていく。
輸入元がたんなる輸入代理店ではなく輸入商社であるためには、
オーディオ販売店をふくめたシステムをつくっていくことではないのか。