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Date: 8月 17th, 2015
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その2)

人脈とは、姻戚関係・出身地・学閥などを仲立ちとした,人々の社会的なつながり、辞書には書いてある。
とうぜんだが、その辞書には、人脈力は載っていない。

人脈に「力」をつけるわけだから、
人々の社会的なつながりのもつ力が、人脈力なのかというと、
ステレオサウンド 193号に登場した人脈力は、そうではなく、人脈をつくっていける力と読める。

人と人のつながりは大事だよ、と諭されれば、そのとおりだと私だって思う。
けれど人脈は大事だよ、といわれると、同じ意味でいわれたとしても、違和感をまったく感じないわけではない。

人脈力は大事だよ、といわれたら、そこにははっきりと気持悪さを感じる。
年老いた人が、人脈力は大事だよ、といったのであれば、
ああ、この人はそういう人生を送ってきたのか……、と思うぐらいだが、
同じ言葉を、私よりも若い世代の人がいうのであれば、受け取り方も違ってくる。

なぜ、こんなにも人脈力という言葉に反応しているのか。
いま、2020年東京オリンピックに関することが騒がれている。
毎日のように、新たなネタがインターネットで見つけ出され、画像の比較が行われている。

問題が発覚してから半月以上が経っても、まだまだ勢いはやむどころか、むしろ増しつつある。
最初のころ、擁護していた人たちがいた。
この人たちの書いたものを読んでいて感じたものも、人脈力を目にして感じたものと同種のものだった。

Date: 8月 16th, 2015
Cate: 4345, JBL

JBL 4345(4347という妄想・その2)

4347という、実際にありえなかったJBLのスタジオモニターを想像している。
前回書いたように、18インチ口径のウーファーに12インチ口径のミッドバスの4ウェイ・システム。

タンノイのKingdomも同じ構成なのだが、
Kingdom以前にも、ほぼ同じ構成のスピーカーシステムがあったことを思い出した。
エレクトロボイスのGeorgianである。

Kingdomは4ウェイだが、Georgianは3ウェイ。
コルゲーションのはいった18インチ口径ウーファーとノンコルゲーションの12インチ口径ミッドバス、
このふたつのクロスオーバー周波数は250Hz、
1.5kHz以上はCDホーン型ユニットが受け持つ。

このGeorgianに10kHzあたりでスーパートゥイーターを追加すれば、
JBLの4ウェイ・スタジオモニターとほぼ同じクロスオーバー周波数とユニット構成となる。

エレクトロボイスは古くから4ウェイのシステムを手がけてきている。
GeorgianはII型に改良されている。
III型はなかった。エレクトロボイスがコンシューマー用スピーカーから手を引いたためだろうか。

もしエレクトロボイスがコンシューマー用スピーカーを継続していたら、
タンノイまでもスーパートゥイーターを単体で発売するくらいまで続けていたら、
スーパートゥイーターを搭載したGeorgian IIIが登場したかもしれない。

Georgianと4345の比較、
エレクトロボイスという会社とJBLという会社の比較、
そんなことも考えながら、4347が登場していたら、どんな姿に仕上っていたのかを想像している。

Date: 8月 16th, 2015
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その2)

ワディアのD/Aコンバーターの音を聴いたのは、知人宅だった。
聴いて、心底驚いた。
こういう音がCDから出るのか、と驚いた。

CDの音で驚いた経験が、なにもこれが初めてではなかった。
CD発表前夜、ステレオサウンド試聴室で聴いたマランツ(フィリップス)のCD63の音。
このCD63は、その後市販されたCD63と同じではなかった。

この驚きから、CDは始まった。
同じフィリップスのLHH2000の音に驚いた。
Lo-Dのセパレート型(SPDIF接続ではないモデル)の音にも驚いた。

LHH2000の音は、こういう音がCDから出るのか、と驚いた。
でも、こういう音がCDから出るのか、は同じでも、ワディアとは意味合いが違う。

LHH2000の初期モデルの音を聴いて、欲しいと思ったけれど、
あのとき、あの値段は出せなかった。それでも欲しい、と思い、帰宅した。

さすがに、この日は自分のシステムでCDの音を聴こうとは思わなかった。
だからアナログディスクをかけた。
プレーヤーはトーレンスの101 Limitedだった。

その音を聴いて、LHH2000と同じ音だと感じた。
はっきりと同じ類の音だった。
だからこそLHH2000を強烈に欲しいと思ったのだと気づいた。

でもアナログディスクであれば、この音を聴けるわけだから、LHH2000の購入計画をたてることはなかった。

Lo-Dのセパレートモデルでの驚きは、LHH2000の驚きとは違う。
CDがここまで良くなった、良くなるのか、という驚きだった。
これと同じ驚きは、国産の、その後登場したいくつかのCDプレーヤーにもあった。

そしてワディアでの驚きである。
この驚きは、どちらの驚きとも違っていた。

聴きながら、瀬川先生がマークレビンソンのLNP2を初めて聴かれた時の驚きは、
こういうものだったのかもしれない……、そんなことを思っていた。

Date: 8月 15th, 2015
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その2)

あらゆる変化のなかで生きているからこそ、
変わらぬことの新鮮さ、変わらないからこそ新鮮、ということを教えてくれるモノ・コトは、
大切にしていかなければならない。

そんなことを2007年、グラシェラ・スサーナのコンサートに20年以上ぶりに行って感じた。
そのことを「変らないからこそ」に書いた。

そこで聴けた歌は、ずっと昔に聴けた歌とほとんど変らぬ歌であった。
とはいえすべてが同じだったわけではない。
細部には違いがあった。

それでも変らぬことの新鮮さを、そこで感じたのは、
グラシェラ・スサーナの歌によって私の心のなかに浮ぶ情景が変らぬからこそだったのかもしれない。

Date: 8月 15th, 2015
Cate: audio wednesday

第56回audio sharing例会のお知らせ

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

テーマはまだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その7)

ステレオサウンド 43号の特集はベストバイだった。
このころのステレオサウンドには毎号必ずアンケートハガキがついていた。
42号のアンケートハガキは、ベストバイ・コンポーネントの投票用紙だった。

スピーカーシステムから始まって、プリメインアンプ、コントロールアンプ、パワーアンプ、
チューナー、アナログプレーヤー、カートリッジ、ターンテーブル、トーンアーム、
カセットデッキ、オープンリールデッキ、
それぞれのベストバイと思う機種のブランドと型番を記入していくものだった。

ずいぶん考えていたことを思いだす。
まだオーディオに興味をもちはじめて数ヵ月だったから、
それほど多くの機種について知っているわけではない。

記入にあたって最も参考にしたのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
スピーカーシステムは何にするか。
まずこれから考えた。

第一候補はJBLの4343だった。
このスピーカーシステムが、もっとも優れていることは感じていた。
ベストバイとはいえ、自分で買える機種を選ぶつもりはなかった。

それでも「JBL 4343」とは記入しなかった。
私が、どちらにするか最後まで迷ったのは、
キャバスのBrigantinかロジャースのLS3/5Aだった。

なぜこの二機種かといえば、「コンポーネントステレオの世界 ’77」の影響である。
井上先生の組合せを何度も読み返し、記入した。

43号には「読者の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント」というページがあった。
スピーカーシステムの一位は4343だった。505票集めていた。
発表されていたモノで票数が最も少なかったのは8票で、四機種がそうだった。

私が記入したスピーカーは8票以下だったようで、掲載されていなかった。

Date: 8月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その6)

雑誌の編集者であれば、関心・興味のない記事でも、場合によっては担当することもある。
けれど川崎先生の「アナログとデジタルの狭間で」の担当編集者は、そうではなかった。

彼は、金沢21世紀美術館で開催された川崎先生の個展に出かけている。
たしか連載が終ってからだったはずである。

押しつけられて担当していたわけではなかったはずだ。
強い関心・興味は、その時点までは少なくとも持っていたはずだ。

そのことを知っているから、どうしてもいいたくなる。
あれから約十年である。

人は生きていれば取捨選択を迫られるし、意識的無意識的に取捨選択をやっている。
十年のあいだにも、いくつもの取捨選択が、誰にでもある。
そこで何を選ぶのか。

現ステレオサウンド編集長が、十年のあいだに何を選んだのかは私にはまったくわからない。
でも、彼が何を捨て去ったのか……、
そのうちのひとつだけはわかる。

それがいまの間違った編集へとつながっていっているのではないのか。

Date: 8月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その5)

この項に関しては、(その3)までで、
言いたいことはいってしまっている。
その4)を書きながら、ここからは蛇足かもしれない、と思っていた。

受動的試聴と能動的試聴、そして川崎先生の「応答、回答、解答」のブログへのリンク。
編集を真剣に考えている人であれば、
これだけでステレオサウンドの編集の何が間違っているのかに気づくはずだから、
その先を書く必要はないといえば、そうである。

ステレオサウンド編集部が、194号の特集の何が間違っているのかに、
だから気づくのかといえば、そうではない、といわざるをえない。

なぜ気づかないのか。不思議でならない。
いまのステレオサウンド編集部には私より下の世代の人が中心のようだが、
私より少し年上の人もいる。
となれば世代の違いが原因ではないだろう。

私がここで指摘していることは、ステレオサウンドのバックナンバーをしっかりと読んでいれば、
そして川崎先生のブログを読んでいれば、自ずと気づくことである。
それが編集者であり、ジャーナリストと呼ばれる人である。

オーディオ雑誌の編集者であり、ジャーナリストであると自認するのであれば、
ステレオサウンドのバックナンバーはしっかりと読んでいて当然である。
ただ読んだ、というレベルでなく、読み込んでいなければならない。

読み込んでいれば、
いま自分たちがやっている組合せの記事と、
以前のステレオサウンドの組合せの記事の違いに、はっきりと何が違うかまではわからなくとも、
何かが違うことだけはわかるはずである。

何かが違うとわかれば、より深く考える。
なのに……、と思う。
結局、バックナンバーを読み込んでいない、としか思えない。

そして川崎先生のブログ。
現ステレオサウンドの編集長だけには、いっておきたい。
わずか五回で終了してしまった川崎先生の連載「アナログとデジタルの狭間で」、
この担当者が、いまのステレオサウンドの編集長であるからだ。

連載がなくなれば、関心も興味もなくしてしまうのか、と。

Date: 8月 12th, 2015
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その12)

隔離された場所での、不意打ちのように流れてきた音楽に接した聴き手と、
クラシック音楽が好きで、自分でレコードを買い、オーディオを介して接する聴き手とで、
演奏家に対しても違いがある。

レコードを買って聴く聴き手は、
レコードを棚から取り出すときすでに、曲とともに演奏家を意識している。
ベートーヴェンの「第九」をカラヤンで聴きたい、とか、トスカニーニで聴きたい、といったように。

隔離された場所で「第九」、「フィガロの結婚」に接して聴き手は、
流れてきた曲が誰が作曲したのかもわからない人が多いかもしれないし、
たとえ曲名は知っていても、誰が演奏しているかどうかまでは知らずに聴く(聴かされる)ことになる。

何も知らずに、突然鳴ってきた音楽を聴く。
音楽との出逢いにおいて、この不意打ちのように聴こえてきた音楽は、
ときとして意識して聴く音楽以上に、聴き手の心に響くのかもしれない。

隔離された場所での不意打ちのように鳴ってきた音楽──。
その1)で書いた映画「いまを生きる」(原題はDead Poet Society)の中盤、
突然鳴ってきたベートーヴェンの「第九」は、私にとってまさに不意打ちであった。

あのシーンで「第九」が使われるとは、とも感じたけれど、
やはり、あのシーンでは「第九」だな、と思いながら、
誰の演奏なのかわからない「第九」を初めて聴いていた。

映画館も、いわば隔離された場所といえなくもない。
大きな映画館では千人以上の人が入り、暗がりの中、皆スクリーンを見つめている。

自分の意志で入場し、出ようと思えば映画の途中でも退場できる。
そんな隔離された場所は、刑務所という出入りが自由にはできないところとは、
隔離の意味合いがずいぶんと違うのはわかっている。

私は映画館というある種隔離された場所・時間の中で、ライナーの「第九」と出逢った。

Date: 8月 11th, 2015
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(荻上チキ・Session-22をきいた)

TBSラジオで月曜から金曜の22時から「荻上チキ・Session-22」が放送されている。

テレビのない生活が長いと、決った時間にテレビやラジオをつけて番組を視聴するという習慣がなくなる。
だから、けっこう聞き逃すことも多いが、できるだけ聞くようにしているラジオ番組のひとつである。

昨夜(8月10日)のテーマは、
荻上チキの『長崎・原爆の日』取材報告 被爆報道のこれから、そして当事者たちが望むこと」だった。
いまは便利な世の中である。
聞き逃してもインターネットがあればポッドキャストでいつでも聞くことができる。

昨夜の「荻上チキ・Session-22」は、ひとりでも多くの人に聞いてもらいたい。
前半の、7歳で長崎で被爆された元長崎放送の記者、船山忠弘氏の話も聞き逃してはならない。
けれど、後半の長崎被災協・被爆二世の会・長崎会長の佐藤直子氏の話。

直子氏のお父様(14歳で被爆されている)の話を聞いたとき、
いままで体験したことのなかった感覚におそわれた。
なんなんだろう……、ととまどうしかなかった。

直子氏のお父様は、弟を被爆で亡くされている。
それだけでなく、自らの手で火葬されている。

この部分を聞いたとき、すぐにはなにかの感覚におそわれたわけではない。
わずかの間をおいて、それはおそってきた。

戦争の悲惨さは親からも断片的に聞いている。
テレビ、映画、小説、マンガなどでも知っている。
長崎原爆資料館にも行っている。

戦争を体験した人の数だけの悲惨なことがあったのはわかってはいたつもりだった。
それでも、佐藤直子氏の話を聞いたあとにおそってきた感覚には、とまどうしかなかった。

Date: 8月 11th, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)

黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。

Date: 8月 10th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その4)

別項で、ステレオサウンド 99号での予算30万円の組合せについてすこしだけ触れた。

この記事を誰が書いたのかについてはあえて触れなかった。
書いた人について書きたいわけではなかったからだ。

いまステレオサウンドに書いている人の誰でもいい、
99号と同じ質問に対する回答として、どんな組合せを提示できるのかといえば、
ほとんど同じレベルであることが予測できるから、その人ひとりについて書こうとは思わない。

別項では、ステレオサウンド 56号での瀬川先生による予算30万円の組合せと比較した。

同じ予算30万円の組合せで、つくった人が違う(時代も違う)。
違うのは、それだけではない。
瀬川先生の56号での組合せは、回答としての組合せである。

99号での別の人の組合せは、表面的には回答としての組合せである。
読者からの質問に答えての組合せなのだから。

だが、私にはその組合せが回答としての組合せには思えない。
思えないからこそ、印象に残っていない(あまりにも印象に残らないから記憶していた)。

片方は回答としての組合せであり、もう片方はそうとはいえない組合せである。
すこし言い過ぎかなと思いつつも、それは応答としての組合せにすぎない。

同じことはステレオサウンド 194号の特集「黄金の組合せ」にも感じる。
あの誌面構成を含めて、応答としての組合せにすぎないものを「黄金の組合せ」と言い切っている。

最低でも「黄金の組合せ」は、回答としての組合せでなければならないのに。
だから(その1)で、間違っている、と書いた。
間違っている編集と言い切れる。

どうして、こうなってしまうのか。

Date: 8月 9th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その3)

受動的試聴と能動的試聴。
このふたつがあるのはわかっている、当然じゃないか、という反論があるかもしれない(ないかもしれない)。

いまのステレオサウンド編集部が、受動的試聴と能動的試聴に気づいていて、
その違いがどういうものかわかっているかもしれない。
可能性がまったくないとはいわない。

けれどもいまのステレオサウンドの誌面を見るかぎりは、
いまのステレオサウンド編集部はこのことに気づいていない、と判断できる。
気づいていて、その違いがわかっていたら、ああいう誌面構成にはならないからだ。

では以前のステレオサウンド編集部は気づいていたのか、わかっていたのか。
私がいたころの編集部では、受動的試聴、能動的試聴という言葉では一度も出なかった。
気づいていなかった、といっていいだろう。

それ以前の編集部はどうだろうか。
はっきりとはわかっていなかった、と誌面を見る限りはそう思える。
けれど、いまのステレオサウンド編集部よりは、なんとなくではあっても感ずるものがあったのではないか。

それは編集部が、というよりも、筆者がなんとなく気づいていた、というべきなのかもしれない。

私はそういう誌面構成のステレオサウンドをもっとも熱心に読んできた。
だからこそ、組合せの記事に対する違和感は、人一倍感じるのかもしれない。

──と書いているが、私が受動的試聴、能動的試聴に気づき、はっきりと考えるようになったのは、
そんなに以前のことではない。数年前のことだ。

川崎先生が、応答、回答、解答についてブログで書かれている。
これを読んでから、である。

Date: 8月 9th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その12)

瀬川先生は、
マイケルソン&オースチンのパワーアンプによる4350Aのバイアンプ駆動の組合せで、
コントロールアンプはアキュフェーズのC240を、やはり選ばれるのか……、とも思う。

4343やアルテックの620Bの組合せでは、C240とTVA1の組合せは好ましい。
けれど、ここでの組合せは4350Aであり、しかもバイアンプである。

低域用にもTVA1をもってこられるとしたら、コントロールアンプはC240ですんなりと落着くと思う。
だが低域用にはM200である。
となると、もしかするとマークレビンソンのML6という可能性もあったのではないか……、そんな気もしてくる。

ML6だったとしたら、エレクトリックデヴァイディングネットワークはLNC2になる。
ML6がモノーラル仕様だからLNC2もモノーラルにされるかもしれない。
M200もモノーラル仕様だからだ。
となると、中高域用のTVA1も贅沢に片チャンネルのみ使用するということになるかもしれない。

コントロールアンプがC240だったら、こんなことはされないと思うが、
ML6をもし選択されたのであれば、ここまでいかれたのではないか。

そんな気がするのは、オール・レビンソンによるバイアンプ駆動の音を「ひとつ隔絶した世界」と表現され、
M200の音の切れ味に関して、次のように書かれているからだ。
     *
切れ味、という点になると、このアンプの音はもはや剃刀のような小ぶりの刃物ではなく、もっと重量級の、大ぶりで分厚い刃を持っている。剃刀のような小まわりの利く切れ味ではない。力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力を持っている。
     *
この音の切れ味は、レビンソンの音の切れ味と対極にある。
《どこまでも音をこまかく分析してゆく方向に、音の切れこみ・切れ味を追求するあまりに、まるで鋭い剃刀のような切れ味で聴かせるのが多い。替刃式の、ことに刃の薄い両刃の剃刀の切れ味には、どこか神経を逆なでするようなところがある》、
この傾向がもっとも強いといえるのが、この時代のマークレビンソンのアンプの音だった。

「ひとつ隔絶した世界」と対極にあるもうひとつの「ひとつ隔絶した世界」を、
マイケルソン&オースチンのTVA1とM200のバイアンプ駆動によって、
4350Aから抽き出すことができるのであれば、そこまで瀬川先生は試されたような気がする。

《力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力》は、
内蔵ネットワークでの4343以上に研ぎ澄まされるはずである。

4350Aではウーファーにはネットワークが介在しない。
しかもダブルウーファーである。
《力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力》は、力を込めれば丸太をまっ二つにできる底力になるはずだ。

大ぶりの分厚い刃は、より鍛え抜かれたものになるのではないか。
それがどういう音なのか、想像するのが楽しくてならない。

Date: 8月 9th, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その17)

声(歌)について思い出すことは、もうひとつある。
これもここに引用しておきたいことである。
     *
 D130が私に残してくれたものは、ジャズを聴く心の窓を開いてくれたことであった。特にそれも、歌とソロとを楽しめるようになったことだ。
 もともと、アルテック・ランシングとして44年から4年間、アルテックにあってスピーカーを設計したジェイムズ・B・ランシングは、映画音響の基本的な目的たる「会話」つまり「声」の再現性を重視したに違いないし、その特長は、目的は変わっても自ら始めた家庭用高級システムとハイファイ・スピーカーの根本に確立されていたのだろう。
 JBLの、特にD130や130Aのサウンドはバランス的にいって200Hzから900Hzにいたるなだらかな盛り上がりによって象徴され予測されるように、特に声の再現性という点では抜群で、充実していた。
 ビリー・ホリディの最初のアルバムを中心とした「レディ・ディ」はSP特有の極端なナロウ・レンジだが、その歌の間近に迫る点で、JBL以外では例え英国製品でもまったく歌にならなかったといえる。
 JBLによって、ビリー・ホリディは、私の、ただ一枚のレコードとなり得た、そして、そのあとの、自分自身の空白な一期間において、折にふれビリー・ホリディは、というより「レディ・ディ」は、私の深く果てしなく落ち込む心を、ほんのひとときでも引き戻してくれたのだった。
 AR−2は、確かに、小さい箱からは想像できないほどに低音を響かせたし、二つの10cmの高音用は輝かしく、現在のAR−2から考えられぬくらいに力強いが、歌は奥に引込んで前には出てこず、もどかしく、「レディ・ディ」のビリーは雑音にうずもれてしまった。JBLを失なってその翌々年、幸運にも山水がJBLを売り出した。
     *
D130の文字から、誰の書かれたものか、すぐにわかるはずだ。
岩崎先生の「私とJBLの物語」からの引用である。

D130は15インチ口径のフルレンジユニットである。
センターキャップをアルミドームとすることで高域の延びを改善しようとしたところで、
それほど延びているわけではない。

「私とJBLの物語」で岩崎先生も指摘されているように、
D130の高域は5kHzぐらいまでで、8kHz以上ではさらに大きく減衰している。
低域に関しても口径の大きさの割に下のほうまで延びているわけではない。
はっきりとナロウレンジのスピーカーである。

でもそのナロウレンジのスピーカーが、上も下も周波数レンジ的には延びているAR2よりも、
ビリー・ホリディの歌を、間近に迫る点でD130がはるかに優っている。

この「間近に迫る」は歌が奥に引き込まず前に出てくるという意味だけではないようにも受けとれる。
聴き手の心の間近に迫ってくるように鳴ってくれたようにも、私には読める。