組合せという試聴(その1)
このブログをお読みになっている方で、私よりも若い世代だと、
もしかすると、昔はそんなによかったのか、いまはそれほどでもないのか、
そんなふうに受けとめられているようにも思っている。
私は、私が体験してきた昔がよかった、
だからいまは昔よりももっとよくあるべきだと思っている。
オーディオ機器に関しては、悪くなっているところもあるし、そうでないところある。
よくなっているところもある。
だから、オーディオの行く末に絶望はしてはいないし、希望ももっている。
けれど、オーディオジャーナリズムに関してはそうとはいえない。
短期的にみれば悪くなったり良くなったりする。
でも長期的にみればよくなっている──、
そうであってほしいと願っているのだが、確実にひどくなっていると断言できる。
オーディオジャーリズムに携わっている人たちは、そんなことはない、というであろう。
それでも断言しておく、ひどくなっている、と。
ステレオサウンドは194号の特集で、黄金の組合せを行なっている。
194号は春号ということもあってだろう、誌面を刷新している。
そういうなかでの特集なのだから、編集部も力が入っているとみていいだろう。
しかも「黄金の組合せ」である。
少しは期待していた。
けれど期待はやはり裏切られた。
ひどい特集とまではいわない。
けれど間違っている編集である、といっておこう。
194号の特集を見て、ステレオサウンド編集部、そしてオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
組合せをどう考えているのか、そして組合せの試聴をどう捉えているのか。
そのことについて考えてしまった。
同時に編集部も組合せの捉え方が、私が面白いと感じながら読んでいたころの組合せの記事の時代とは、
あきらかに違ってしまっている。
違っていることは必ずしも悪くなっていることとはいえない。
けれど、ステレオサウンド 194号の「黄金の組合せ」を見ると、間違っているといえるし、
組合せという試聴と、いわゆる一般的な試聴との違いも編集部ははっきりと把握していない。
残念ながらそうとしか思えない記事づくりであった。
いままでオーディオジャーリズムについて書く時、
意識的にぼかしていたところがある。
何がどう悪くなったのか、なぜ悪くなったのか、
ではどうすればいいのか。そういったことはぼかしていた。
それはオーディオジャーリズムに携わっている人たちが自ら気づくべきことであって、
他から指摘されたところで改善はしない、という考えからであった。
でも194号の「黄金の組合せ」を見て、少しははっきりとさせていこうと考えを改めた。
それはひどいからではなく、間違っているからである。