組合せという試聴(その4)
別項で、ステレオサウンド 99号での予算30万円の組合せについてすこしだけ触れた。
この記事を誰が書いたのかについてはあえて触れなかった。
書いた人について書きたいわけではなかったからだ。
いまステレオサウンドに書いている人の誰でもいい、
99号と同じ質問に対する回答として、どんな組合せを提示できるのかといえば、
ほとんど同じレベルであることが予測できるから、その人ひとりについて書こうとは思わない。
別項では、ステレオサウンド 56号での瀬川先生による予算30万円の組合せと比較した。
同じ予算30万円の組合せで、つくった人が違う(時代も違う)。
違うのは、それだけではない。
瀬川先生の56号での組合せは、回答としての組合せである。
99号での別の人の組合せは、表面的には回答としての組合せである。
読者からの質問に答えての組合せなのだから。
だが、私にはその組合せが回答としての組合せには思えない。
思えないからこそ、印象に残っていない(あまりにも印象に残らないから記憶していた)。
片方は回答としての組合せであり、もう片方はそうとはいえない組合せである。
すこし言い過ぎかなと思いつつも、それは応答としての組合せにすぎない。
同じことはステレオサウンド 194号の特集「黄金の組合せ」にも感じる。
あの誌面構成を含めて、応答としての組合せにすぎないものを「黄金の組合せ」と言い切っている。
最低でも「黄金の組合せ」は、回答としての組合せでなければならないのに。
だから(その1)で、間違っている、と書いた。
間違っている編集と言い切れる。
どうして、こうなってしまうのか。