最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)
黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
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かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
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黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。
フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。
フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。
それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。
そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。
そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。
だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。