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Date: 4月 25th, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その8)

オーディオマニアならば、
「このスピーカーを使いこなすのは難しい」とか、
「うまく鳴らすのが難しい」といったことを口にしなくとも、
一度や二度、思ったことはあるはずだ。

「難しい」という言葉を使う。
「難しい」に近い言葉として「手強い」がある。

ほとんど同じ意味として使われることもある「難しい」と「手強い」。
それでも完全に同じ意味なわけではなく、微妙な意味の違いがあるからこそ、
時には「難しい」を使い、「手強い」を使うこともある。

有名人と著名人とがある。
どちらも、広く名が知られた人という意味をもつが、
まったく同じなわけではない。

有名人は悪いことをしでかして名が知られている人も含まれるのに対し、
著名人はそうではなく、悪いことをしでかした人は含まれない──、
といった使い分けがなされている。

スピーカーにおける「難しい」と「手強い」と考えるに、
その7)で書いている、聴き手を試すスピーカーこそが、
実は「手強い」スピーカーであるはずだ。

Date: 4月 24th, 2017
Cate: ディスク/ブック

The Unknown Kurt Weill

発売になったばかりのレコード芸術の5月号は創刊800号とある。
1952年3月号に創刊号であるから、65年である。

私が買うようになったときにはすでにレコード芸術だったが、
ずっとは以前はレコード藝術だった。

私が熱心に読んでいたのは1980年代の10年間だった。
オーディオ雑誌よりも発売日を楽しみにしていた時期でもあった。

1990年の半ばごろから、どこか惰性で読んでいる気がしてきた。
それでも毎号買っていたけれど、いつごろだったか、それもやめてしまった。

いまでは新譜情報はインターネットのほうが早いし便利でもある。
レコード芸術を書店でみかけても、手にとることすらしなくなっていた。

それでも「創刊800号」と表紙にあれば、手にとる。
「わたしと『レコード芸術』——思いでの1枚」という記事がある。

30人の筆者が、それぞれの一枚について書かれている。
増田良介氏が、
テレサ・ストラータスの「知られざるクルト・ワイル(The Unknown Kurt Weill)」を挙げられていた。

1983年に発売になっている。
CD登場後一年ということもあってだろうか、
録音レベルはかなり抑えめであった。

岡先生はワイル好きでもあった。
ステレオサウンド連載のクラシック・ペスト・レコードで取り上げられていた。
試聴ディスクとしても使われていた。

そうやって知った一枚だ。

ワイル好きの岡先生でも知らない曲が多い、ということだった。
それまでクルト・ワイルの曲をきちんとしたかたちで聴いてこなかった私にとっては、
ほとんど初めてのクルト・ワイルといえた。

それだけによけいに新鮮に感じた。
よく聴いた。
八曲目の「ユーカリ(Youkali: Tango Habanera)」は、口ずさむこともあった。

歌詞を憶えていたわけではない。
サビの部分だけを口ずさんでいた。
いまも思い出して、口ずさむことがある。

Date: 4月 24th, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Series・その11)

I believe in intuition. I think that’s the difference between a designer and an engineer – I make a distinction between engineers and engineering designers. An engineering design is just as creative as any sort of design.
     *
ジャック・ハウ(Jack Howe)が、こういっている。
これがいつごろのことなのかまでは、いまのところわからない。

engineering designers、engineering designといった言葉が、
ここにはある。

これを言っていた人が、
《私は、私の全才能をこのスピーカーで世に問うつもりだ》ともいってデザインしたのが、
1976年登場のABCシリーズである。

今回のタンノイのタンノイのLegacy Series、
なぜ”Legacy”なのかは、ここに理由があるような気もする。

Date: 4月 24th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その4)

ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアは、もう聴くことはないだろう。
誰かのリスニングルームで聴くこと(かけられること)はあるかもしれないが、
自分のシステムでかけることはない、といえる。

ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアにがっかりした。
がっかりするとともに、アルゲリッチはなぜ、バッハを積極的に演奏しないのか、と思う。

アルゲリッチのバッハは、ドイツ・グラモフォンから出ている。
トッカータ ハ短調BWV911、パルティータ 第二番、イギリス組曲 第二番。

ハタチになったばかりのころ聴いた。
そのあとも思い出しては、ひっぱり出して聴く。
パルティータは素晴らしい、と三十年ほど経っても、そう思う。

何に書かれていたのか、正確に思い出せないが、
五味先生はアルゲリッチ(アルヘリッチと表記されていた)の音色に、
少しばか否定的なことを書かれていた。

そういうところはあると感じても、アルゲリッチの演奏には、
他のピアニストの演奏からは感じとりにくい輝きがあって、
バッハのパルティータは、まさにそうである。

アルゲリッチのバッハを聴いた時から、
いつかはバッハをもっと録音してくれる、と信じていた。

全集の完成にはあまり関心はないようだが、それでもいつの日か……、と。
平均律クラヴィーアを残してほしい、と思い続けてきた。

可能性は少ない。
それでもポリーニの平均律クラヴィーアを聴いて、ますます切望するようになった。

アルゲリッチの平均律クラヴィーアが聴ける日は来るのだろうか。

Date: 4月 24th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その14)

虚構の「構」は木偏に冓と書く。
木をうまく組んで前後平均するよう組み立てること、と辞書にはある。

その構から始まる言葉には、
構想、構造、構築、構成などがある──、と考えていると、
別項「atmosphere design」でふれた「空なる実装空間」、
この川崎先生による言葉が浮んできて、結びつく。

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(ゴーストとレヴェリー)

「GHOST IN THE SHELL」と同時期にHuluで「ウエストワールド」の配信が始まった。
「ウエストワールド(Westworld)という映画があった。

1973年公開、マイケル・クライトン監督による作品。
映画館では観ていないが、テレビで放送された時に見ている。
ユル・ブリンナーという役者を知ったのもこの映画だったし、
顔が外れるシーンは強烈だった。

ドラマ版の「ウエストワールド」も映画をベースにした。
タイトルにもなっているウエストワールドは、体験型テーマパークであり、
マイケル・クライトンの「ジュラシック・パーク」と同じといえる。

後者は恐竜で、前者は人と見分けがつかないほど精巧なアンドロイドにるテーマパークである。

ドラマ版「ウエストワールド」の中に、レヴェリーという単語が出てくる。
字幕では「レヴェリー(夢幻)」と訳されている。

「GHOST IN THE SHELL」には、ゴーストという単語が出てくる。
ゴーストとレヴェリーは、近い。

ただしゴーストは義体であっても、脳は生身のままの脳であるから宿る。
レヴェリーは人工頭脳に宿る。

これから先、再生装置が高度になればなるほど、
そこに宿るものが生れてくるとしたら、どちらなのだろうか。

それともすでに、どちらかはあると感じているのだろうか。

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(GHOST IN THE SHELL)

昨晩、友人のAさんと食事をしていた。
「GHOST IN THE SHELL」の話もした。

Aさんはまだ観ていない、とのこと。
ならば、ぜひIMAXで観てほしい、と力説した。

Aさんと別れた後、電車の中でふと気になって調べてみたら、
東京でのIMAX上映はすでに終了している。
3Dでの上映はやっていても、IMAXではないのだ。
神奈川でも、もうやっていない。

他の地区まで調べはしなかったけれど、
「GHOST IN THE SHELL」のIMAXでの鑑賞はできないのかもしれない。

オーディオマニアにこそ、IMAXでの鑑賞をしてほしかっただけに残念だ。

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その1)

数ある現行スピーカーシステムの中で、
もっとも欠点の少ないモノとして挙げるならば、B&Wの800シリーズとなろう。

800シリーズの新製品が出るとなると、オーディオ雑誌はページを割く。
モノクロ1ページではなく,カラーで数ページは割かれる。

オーディオ雑誌のウェブサイトでも、800シリーズの取り上げ方は力が入っている。

ユーザーの注目度も高い、と毎回感じる。
800シリーズの新製品の音に触れるたびに、興奮気味に語る人がいる。

それだけに800シリーズの新製品が、
オーディオ雑誌の賞に漏れることはない。必ず選ばれる、といえる。

けれど800シリーズを自宅で鳴らしているオーディオ評論家はいない──、
このことを指摘するオーディオマニアは、以前からいる。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」
事実を語っているだけであっても、言外にほのめかすのは、
人によっては違っているところもあるようだ。

ステレオサウンドの試聴室では、昔はJBLがリファレンススピーカーとして使われていた。
私が働き始めたころは4343から4344に切り替るタイミングで、
私がいた七年間の大半は4344が使われていた。

4344は上杉先生が使われていたし、
4343は瀬川先生、黒田先生がそうだった。

4341から始まったJBLの4ウェイ・スタジオモニターの年数と、
B&Wの800シリーズの年数は、もうB&Wの方が長い。

けれど誰も使っていない。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」には、
リファレンスとして頻繁に聴く機会があるから、も含まれているわけだが、
それでも、ほんとうに惚れ込んだスピーカーならば、買ってしまうわけだ。

Date: 4月 22nd, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その4)

DD66000のウーファーの下側には、レベルコントロールがあり、
通常はカバーで覆われている。

このカバーは簡単に外すことが出来る。
サランネットを外した音、さらにはこのカバーを外した音。
ここからDD66000の音が始まる、といえるかもしれない。

レベルコントロールのカバーを外した音と装着したままの音の違いは、
それほど大きいわけではないが、それでも一度その違いを聴いてしまうと、
カバー装着の音は聴きたいとは思わないし、無視できない違いであることは確かだ。

DD66000全体が、ひとつの大きな顔に見えてしまう理由のひとつが、
このカバーにもある。

カバー装着時の音は、鼻をつまんでいる話しているようにすら、
外した音を聴いてしまうと、そう感じてしまう。
つまりはカバーが、鼻の穴的にも思えてくる。

そうなると、二基のウーファーの中心には、バッフルが角度をもって接合されているため線がある。
この中心線が鼻筋に相当するかのように見えてしまう。
エンクロージュア下部(台座)の凹んだところが口、
一度そういうふうに捉えてしまうと、このイメージを払拭できないでいる。

だからといって、スピーカーシステムのデザインは、
フロントがフラットであるべき、などとは考えていない。

それでも……、と、DD66000を見ているとおもう。
デザイン、ネーミングの難しさである。

Date: 4月 21st, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その13)

虚構の「虚」とは、くぼんで、中があいているさま、と辞書にはある。
虚構とは、辞書には、
事実でないことを事実らしく作り上げること、また,作り上げられたもの、作りごと、とある。

虚構の世界には、何も満ちていいないのだろうか。
そうだとしたら、虚構世界であるオーディオに、感動することがあるのか。

──そんなことを考えていたら、上村一夫の「同棲時代」が浮んだ。
「同棲時代」の、もっとも知られているであろうシーンである。

男と女が向いあっている。
ふたりの横顔のあいだに、独白がある。
どちらかのセリフというわけではない。
     *
愛はいつも

いくつかの過ちに
満たされている

もしも愛が
美しいものなら

それは男と女が犯す
この過ちの美しさに
ほかならぬであろう
     *
虚構世界も、もしかすると過ちに満たされているのか──、
そう思いたくなる。

過ちの美しさがあるからこそ、なのかもしれない。

Date: 4月 20th, 2017
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その19)

ケーブルによる音の違いについて語られるときに、
電流密度というキーワードが出てくることがある。

身近な例でいえば、ホースと水量の関係である。
径の太いホースにちょろちょろと水を通す。
ケーブルで、同じ状態を電流密度が低い、という。

径の細いホースに大量の水を通す。
ケーブルでは、電流密度が高い、ということになる。

低能率で低インピーダンスのスピーカーで、
しかも大音量で聴くのであれば、太いケーブルでも電流密度が低くなることは、
まずないだろう。

反対に高能率でインピーダンスが16Ωと高いスピーカーであれば、
太いケーブルを使うと電流密度は低くなる。

電流密度と音との関係は、測定できる性質のものではないだろう。
電流密度が低いよりも高いほうが、いい結果が得られるという感覚的なものがある。

ラインケーブルであれば電流密度を高くしたければ、
受け側のインピーダンスを低くすればいい。

パワーアンプの入力インピーダンスを1/10にすれば、
ラインケーブルを流れる電流値は10倍になる。
電流密度は高くなる。

確かに昔から、受けのインピーダンスは高いよりも、
過負荷にならない程度に下げたほうがいい、という人は少なくなかった。

その一方で、受けのインピーダンスを1MΩまで高めたほうがいい、という人もいる。
ジェームズ・ボンジョルノもSUMOのパワーアンプでは、
アンバランス入力のインピーダンスは1MΩにしていた。

マークレビンソンが1MΩにする十年ほど前のことである。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: ディスク/ブック

チャイコフスキー ピアノ協奏曲(アルゲリッチ/コンドラシン)

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、よく知られている曲だが、俗曲である──、
そんなイメージを中学生のころから持っていた。

だからというわけではないが、チャイコフスキーのディスクはあまり持っていない。
そんな私でも、アルゲリッチがコンドラシンと協演したディスクは、
発売後まもなくして買った。

ライヴ録音ということもあって、話題になっていた。
火を噴く演奏だ、という評判だった。
当時はまだCDは登場していなかったから、LPだった。
白いジャケットだったはずだ。

実は、これが最初に買ったチャイコフスキーのレコードだった。
それから30数年経っても、チャイコフスキーのディスクは、あまり増えてない。

このLPもずっと以前、手離してしまっている。
それから聴くことはなかった。
なのに、急に聴きたい、と思うようになった。

きっかけは特に思いあたらないのだが、
アルゲリッチとコンドラシンのチャイコフスキーが聴きたい、と強く思うようになっていった。

廉価盤のCDで出ている。
LPではチャイコフスキーだけだったが、
CDではシャイーとのラフマニノフの三番もカップリングされている。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、多くの録音がある。
有名な曲だけに、そして売れる曲だけに名演も少なくないのだろう。

グレン・グールドも、チャイコフスキーを録音する予定があった。
CBSソニーの小冊子に、そのいきさつが書いてあった。
流れてしまった企画だが、もしグールドが録音していたら、
そうとう売れたことだろう。グールドのレコードで一番の売行きになったかもしれない。

アルゲリッチとコンドラシンの演奏は、もう二十年以上聴いていない。
ひさしぶりに聴いて、当時の印象が、ほぼそのままよみがえってきた。

この演奏に厳しい評価を下す人もいるようだが、
私には、チャイコフスキーのピアノ協奏曲はこ演奏だけでいい。
あれこれ聴き比べをしたいとは思わない。

次回のaudio wednesdayでは、このディスクをかけようか。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その6)

漢文学者・ 東洋学者の白川静氏によれば、
【くるう】という言葉は「くるくる回る」という場合の【くる】ね、
「くるくる」と同じ語源だそうで、
獣が自分の尻尾を追いかけてくるくる回ったりする、理解できない動作をする、
それが【くるう】ということ、だそうだ。

自分の尻尾を追いかけまわす、
こんな馬鹿げていて、無駄な行為はないだろう。
でも、それが狂っている、ということなのだ、ともおもう。

その意味からすると、確かに長岡鉄男氏は狂っていなかった。
常識人である。
だからこそ、長岡鉄男氏はあれほどコスト・パフォーマンスについて語られたのではないのか。

長岡鉄男氏は1926年1月5日生れである。
ぎりぎり大正生れである。

岩崎先生が1928年、井上先生が1931年、菅野先生、山中先生、長島先生が1932年、
瀬川先生が1935年生れだから、
長岡鉄男氏もラジオやアンプの自作の経験があるはずである。

以前、国産メーカーに勤務されていた方からきいたことがある。
昔の秋葉原は、テープデッキのヘッドも売っていた店があったそうで、
長岡鉄男氏はアンペックスのヘッドをその店から購入し、テープデッキを自作された、とのこと。

スピーカーの自作で知られていただけに、この話をきいたときは、
意外な感じもしたが、この時代の人だから、自作は当然のことだとも思った。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その5)

長岡鉄男氏は常識人──、ということに同意する人はどのくらいなのだろうか。

長岡鉄男氏の熱心なファンであった人たち(いまもそうである人たち)は、
果して長岡鉄男氏を常識人としてみているのだろうか。

書き手には熱心な読み手が、たいていはいる。
オーディオ評論家も同じで、長岡鉄男氏には、信者とよばれるほどの熱心な読み手がいた。

私も瀬川先生、五味先生の熱心な読み手であるが、
だからといって瀬川教の信者、五味教の信者とは思っていない。

けれど長岡鉄男氏の熱心な読み手は、そうでないようだ。
自他共に認める長岡教の信者であったりする。

私は、このことが長年不思議に思えていた。
なぜ、信者と呼ばれることに喜びを感じるほどの読み手がいるのか。

長岡鉄男氏がなくなられて20年近くが経つ。
いまだに中古市場で、長岡鉄男氏が絶賛されたオーディオ機器は人気がある、ときく。
長岡鉄男氏の本もいまだ人気がある、ともきいている。

これらのことも、私にとっては、なぜ? だった。

私の中での、このことについての結論は、
長岡鉄男氏は常識人だったから、である。

表現をかえれば、長岡鉄男氏は狂っていなかった、からだ。
狂っていない、という意味での、長岡鉄男氏は常識人なのである。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: ディスク/ブック

A DAY IN THE LIFE

「A DAY IN THE LIFE」

ステレオサウンド 16号にディレクター論の二回目が載っている。
菅野先生と岩崎先生による「クリード・テイラーを語る」である。

この中に「A DAY IN THE LIFE」のことが出てくる。
     *
岩崎 ちょっと恥ずかしいんですが、ぼくは少し前までは「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を聴かないと一日が終わったという気がしなかったものです。それくらいこの人のレコードは好きなんですね。あのレコードを毎日毎日聴いていた。まるで麻薬、音楽の麻薬みたいなものですよ。あの企画は、時代の感覚を鮮明に盛りこんだ音というのは、まちがいなくクリード・テイラーの音だと思うのです。
     *
「クリード・テイラーを語る」の記事の前半を読めば、
「A DAY IN THE LIFE」が、
クリード・テイラーがA&Mにスカウトされて最初に出したアルバムということが、
ジャズに明るくない私にもわかる。
ウェス・モンゴメリーのアルバムだ、ともわかる。

16号を読んだ時から、いつか買おう、と思っていたけれど、
クラシックばかり聴いていると、つい後回しにしてしまう。
後回しにしているうちに、買おうという気持とともに、
「A DAY IN THE LIFE」のことも記憶の片隅に追い払っていたようだ。

でも、なにかの拍子に、突然思い出す。
そうだそうだ、「A DAY IN THE LIFE」を買わなくては、と気づく。

気づくまでにけっこうな月日が経っている。
悠長な買い方をしているわけだ。

聴いていて、曲の展開に少し驚いた。
こういう曲だったのか、と思うとともに、
16号で、岩崎先生が「ちょっと恥ずかしい」といわれている理由が、わかったような気もした。

「A DAY IN THE LIFE」を1960年代のおわりごろに、
岩崎先生は毎日聴かれていた。