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Date: 6月 5th, 2018
Cate: audio wednesday

第89回audio wednesdayのお知らせ(Moanin’)

明日(6月6日)はaudio wednesdayなのだが、どうも雨のようである。
梅雨入りしそうである。

ジトッとしたなかでの、アート・ブレイキーの「Moanin’」。
重く鈍い音が、最初は鳴ってきそうである。

5月のaudio wednesdayでは、
ドライバーに取り付けていたCRのリード線が断線していたため、
これまでずっと付けっぱなしだったCR方法は外していた。

今日、秋葉原に行って、部品を購入してきた。
今回は取り付けての音出しとなる。

それ以外の部品も少し購入した。
といっても高価なモノでもないし、小さなモノである。
これでネットワークに試す予定である。
少なからぬ変化はあるだろうが、結果はどちらにころぶかはなんともいえない。

それ以外にももうひとつ実験のためのものも持っていく。
スピーカーを正面から見ただけでは、どこも変っていない範囲内での実験である。

これらがうまくいけば、「Moanin’」が気持良く鳴ってくれるはずだ。
とにかく今回のaudio wednesdayは「Moanin’」を、
気持良く聴きたい、というのが私のわがままである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 6月 4th, 2018
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(氷点下の三ツ矢サイダー)

その2)で、「氷点下の三ツ矢サイダー」のことを書いた。
四年前のことである。

当時山梨のセブン・イレブンのレジ横の専用ケースで冷やされていた。
それ以降、山梨に夏に行くことはなかったし、都内のセブン・イレブンで見かけたことはなかった。

今日、新宿・歌舞伎町を歩いていたら、自動販売機で「氷点下の三ツ矢サイダー」が売られていた。
VR ZONE SHINJUKUの建物の裏に設置されていた自動販売機の一台で売られていた。

自動販売機から取り出したら、すぐに開蓋して飲んでください、と注意書きがある。
製品の性質上、買ってすぐに飲むものである。

四年前とまったく同じとは感じなかったけれど、
確かに「氷点下の三ツ矢サイダー」であった。

Date: 6月 4th, 2018
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その6)

ステレオサウンド 54号の特集に登場したスピーカーシステムで、
音の品位に関して、瀬川先生と菅野先生の意見が食い違っている機種は、他にもある。

エレクトロボイスのInterface:AIIIとInterface:DIIにおいては、
瀬川先生はInterface:DIIの方を高く評価され、
Interface:AIIIに関しては力に品位が伴っていない、と。

一方菅野先生は、どちらのエレクトロボイスも評価されている。
Interface:AIIIの力に品がないとは聴こえなかった、といわれている。

グルンディッヒのProfessional BOX 2500も、
エレクトロボイスの二機種、どちらも私は聴く機会がなかった。

なのではっきりしたことはいえないのだが、
もし新品に近い状態の、これらのスピーカーシステムを聴くことがあったとしたら、
音の品位に関しては、瀬川先生寄りのところに、私の印象はあるのではないか、と思う。

これが音の品位ではなく、音の品質ということだったら、
あまり食い違いは起こらないずだ。
なのに品位ということになると、ここに挙げた機種以外にも微妙な違いが感じられる。

それでいて、たとえばスペンドールのBCII。
54号には登場していないが、この素敵なスピーカーに関しては、
菅野先生も瀬川先生も、音の品位に関しては一致している。

あまり古いスピーカーばかりに例に挙げても、
イメージがまったく涌かない、という人も少なくないだろう。

ならばB&Wの800シリーズはどうだろうか。
ステレオサウンドでも高い評価を得ている。
優秀なスピーカーの代表格のようにもいわれている。

私も、優秀なスピーカーだとは思っている。
けれど、このスピーカーの音には、品位があるのだろうか、と思うことがある。

Date: 6月 3rd, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その2)

ナルシシズムがかけらもないという人は、ほんとうにいるのだろうか──、
と思っているくらいだから、
「あの人はナルシシストだから」というようなことはいいたくない。

それでも、どうにも我慢できないことはやはりあって、
敬遠してしまう人は、やっぱりいる。

写真撮影を仕事としている人は、ゴマンといる。
人物写真をメインに撮る人も多い。

写真撮影を仕事としているということは、写真を撮ることに関してはプロフェッショナルなわけだ。
写真撮影の技術──、
プロはこうやって撮るんだ、と知ったのは、
ステレオサウンドで、そういう場に立ち合うことになってからだ。
知らなかったとはいえ、こんなにも気を使うのかと驚いた。

プロの写真撮影の技術を、初めて垣間見たわけだ。
そういった写真撮影の技術をしっかりと身につけている人は、プロではある。

写真撮影のプロフェッショナルではある。
でも、その人たちのすべてが、プロフェッショナルの写真家なのか、というと、
そうとは思ってこなかった。

撮影技術はあるのに……、と感じる写真がある。
これまで、そう感じてしまう正体がはっきりと掴めていなかった。

ここにきて、やっと私なりに、その正体の断片が掴めた、と感じている。
BLUE:Tokyo 1968-1972」と、ある写真とが同時期に重なったからである。

「BLUE:Tokyo 1968-1972」に収められている写真(ポートレイト)、
別の人による、ある写真(ポートレイト)、
後者から、とても強いナルシシズムを感じてしまった。

Date: 6月 3rd, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管バッファーという附録(その5)

「快音!真空管サウンドに癒される」の附録の真空管ハーモナイザーも、
間違いなくカソードフォロワーのはず。
写真からもわかるように、双三極管一本を左右チャンネルに振り分けて使用している。

つまりは増幅度1の真空管バッファーである。
それを音楽之友社は真空管ハーモナイザーと謳っている。

この真空管ハーモナイザーという名称は、音楽之友社によるものなのか、
それともラックスによるものなのか、
そこのところは「快音!真空管サウンドに癒される」を買っていないのではっきりしないが、
とにかく真空管バッファーではなく、今回のキットは真空管ハーモナイザーである。

ハーモナイザー(harmonizer)は、大辞林には載っていない。
ハーモナイゼーション(harmonization)は、調和、調整、協調、とある。
ということは、ハーモナイザーは調和、調整、協調させるもの、となる。

調和にしても協調しても、
あるモノもしくは人と別モノもしくは人とを結びつかせるわけだから、
ハーモナイザーは仲介者でもあるわけだ。

そういう意味での真空管ハーモナイザーなのかどうかは、
くり返すが「快音!真空管サウンドに癒される」は買っていないので確認しようはない。
「快音」ともあるし、「癒される」ともあるから、あたらずとも遠からずか。

バッファー(buffer)とは、緩衝器である。
緩衝とは、二つの物の間に起る衝突や衝撃をやわらげること、もしくはその物、と辞書にはある。

二つの物・人の間にはいるのはハーモナイザーもバッファーも同じだが、
そこでの役割は同じなわけではない。

Date: 6月 3rd, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その1)

「BLUE:Tokyo 1968-1972」。
先日(5月30日)が最終日だった「野上眞宏 写真展」ではなく、
今回の「BLUE:Tokyo 1968-1972」は、野上さんの写真集のことである。
6月1日、OSIRISから発売になった。

リンク先には、鋤田正義、細野晴臣、松本隆、三氏の推薦文がある。
松本隆氏の推薦文の冒頭に、《ぼくらはみんな星だった》とある。

私は、この「星」に反応してしまった。
1999年末、仕事を辞めて2000年5月の終りまで、
ほぼひきこもりに近い状態でaudio sharingを作っていた。

公開したのは2000年8月。
その一ヵ月前に中島みゆきの「地上の星」(CDシングル)が出て、
11月に「地上の星」が収録されているアルバム「短篇集」が出た。

それまで「地上の星」は聴いたことがなかった。
テレビをもっていれば、「地上の星」、「ヘッドライト・テールライト」が、
NHKの「プロジェクトX」で使われていた、そこで耳にしていただろうが、それはなかった。

「短篇集」で初めて聴いた。
それから何度くり返し聴いただろうか。
聴くたびに「星」、それも「地上の星」の意味するところをおもった。

受け止め方は、人それぞれだろう。
「地上の星」があれば、空に輝く星もある。

audio sharingでの作業は、私にとっての「地上の星」を照らすことだったんだなぁ、
と中島みゆきの「地上の星」を聴くたびに思っていた。
それは「うつ・す」作業でもあったなぁ、といまは思う。

そんなことは、読む人にとってはどうでもいいこであって、
野上さんの写真集「BLUE:Tokyo 1968-1972」を見て思ったのは、
プロの写真家の「うつ・す」ことについて、である。

写真家としてプロフェッショナルであるか、そうでないかの違いを、
はっきりと感じさせることのひとつに気づいた。

Date: 6月 3rd, 2018
Cate: ディスク/ブック

Here’s To My Lady(その2)

ビリー・ホリディの名前だけは十代のころから知っていた。
けれどレコードを自分で買って聴いたのはハタチになっていた。

ロジャースのPM510を鳴らしているころだった。
ビリー・ホリディがどういう歌手なのかは、なんとなくぐらいしか知らなかった。
どのディスクを買って聴いたのかも、いまでは正確に思い出せない。

それまで聴いてきた、どんな女性歌手とも違うことだけは聴いていて感じた。
でも、それ以上のこととなると、そこで鳴っていた音では、
ビリー・ホリディがものすごく遠く感じたものだった。

だから愛聴盤となることもなかったし、
それ以上ビリー・ホリディのレコードを買うこともしなかった。

岩崎先生が書かれていたことを体験していたわけだ。
     *
 いくら音のよいといわれるスピーカーで鳴らしても、彼女の、切々とうったえるようなひたむきな恋心は、仲々出てきてはくれないのだった。一九三〇年代の中頃の、やっと不況を脱しようという米国の社会の流れの中で、精一ばい生活する人々に愛されたビリーの歌は、おそらく、その切々たる歌い方で多くの人々の心に人間性を取り戻したのだろう。
 打ちひしがれた社会のあとをおそった深い暗い不安の日々だからこそ、多くの人々が人間としての自身を取り戻そうと切実に願ったのだろう。つまりブルースはこの時に多くの人々に愛されるようになったわけだ。
 音のよい装置は、高い音から低い音までをスムーズに出さなければならないが一九三〇年代の旧い録音のこのアルバムの貧しい音では、仲々肝心の音の良さが生きてこないどころか、スクラッチノイズをあからさまに出してしまって歌を遠のける。
 スピーカーが、いわゆる優れていればいるほど、アンプが新型であればあるほど、このレコードの場合には音の良さとは結びつくことがないようであった。
(「仄かに輝く思いでの一瞬」より)
     *
「私とJBLの物語」でも、
ビリー・ホリディと音については書かれている。
     *
ビリー・ホリディの最初のアルバムを中心とした「レディ・ディ」はSP特有の極端なナロウ・レンジだが、その歌の間近に迫る点で、JBL以外では例え英国製品でもまったく歌にならなかったといえる。
     *
《まったく歌にならなかった》、
ほんとうにそうだった。
だから聴いていてしんどかった。

でもビリー・ホリディのレコードのためだけにJBLを手に入れるだけの余裕は、
ハタチの若造にはなかった。

ステレオサウンドの試聴室にはJBLのスピーカーがある。
でも4344では、それに試聴室という場所でビリー・ホリディを聴きたいとも思わなかった。

ビリー・ホリディを素晴らしいといっている人すべてが、
JBLのスピーカーで聴いているわけではないことはわかっている。

JBL以外のスピーカーで聴いても、ビリー・ホリディの歌の素晴らしさはわかる(はずだ)。
わからないのは、お前がオーディオマニアだからだろう、といわれそうだが、
それでもいい。

ビリー・ホリディは、JBLの高能率のスピーカーでなければ、
私にはその良さが伝わってこない。

「仄かに輝く思いでの一瞬」で、岩崎先生はこうも書かれている。
     *
「ビリー・ホリディが何年か前に、アンティックばやりの最中、急に流行したりしてその名が誰かれの口に登るようになった時は、少々うとましいほどであった。もっともその底にはビリーの本当の良さが私ほど判ってたまるものか、という一人占めの気持が働いていたのだろうか。なんとうぬぼれの強いことと今は恥ずかしいくらいだ。
     *
《今は恥ずかしいくらいだ》とあるが、
《ビリーの本当の良さが私ほど判ってたまるものか》は本音だと思う。

Date: 6月 2nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

Here’s To My Lady(その1)

Here’s To My Lady。
1979年のローズマリー・クルーニーの「ビリー・ホリディに捧ぐ」である。

ステレオサウンド 51号掲載の「わがジャズ・レコード評」で、
安原顕氏が取り上げられている。
     *
ホリディの愛唱曲ばかりを歌ったレコードはこれまでにも数多く出ているが、結局はメロディやテンポをくずした、一種鬼気迫るようなエモーションを表出した、ホリディ独自のあのにがい歌の印象があまりにも強烈なために、聴き手であるわれわれは、たとえそれがホリディとは対極の歌唱だとしても、他の歌手の表現ではどうしてもあきたりないものを感じてしまうケースが多かったが、今度のこのクルーニーの歌唱は、表面的にはホリディとは正反対のアプローチのようにみえながら、深部ではホリディの歌心と通底しているという不思議な魅力をもっている。
 とくに「Lover Man」や「Don’t Explain」等でみせる彼女の歌唱は、ポップス・シンガーとかジャズ・シンガーといったようなジャンルを超えた、まさに今年51歳のクルーニーでしか表現し得ないような、強くて深い説得力でわれわれに迫ってくる(しつこいようだが先の村上君とこのレコードについて話した折、ホリディきちがいの彼は、断じてこのクルーニー盤は認められないといっていたけれど、ぼくはそれほどホリディきちがいではないし、なんのかんのといってみても最終的にヴォーカルの行き着くところは、こうした一見単純で素直な歌唱法だろうとぼく自身は思っている)。
     *
「先の村上君」とは、村上春樹氏のこと。
51号のころ、「風の歌を聴け」で、第22回群像新人賞受賞している。

村上春樹氏と安原顕氏、ふたりの「ビリー・ホリディに捧ぐ」の評価の大きな違い。
ことばをかえれば、ホリディきちがいかそうでないかの違い。

51号を読んだ当時は、それがどこからくるものなのか、まったくわからなかった。
村上春樹という名前も、私は51号で初めて知ったくらいで、
どういう人なのか、どんなスピーカーで聴いてきた人なのか、まったく知らなかった。

安原顕氏についても、ステレオサウンドの筆者の一人、ということ以上は知らなかった。

いまなら、村上春樹氏はJBLで、ビリー・ホリディを聴かれていたからではないのか──、
そうおもう。

Date: 6月 2nd, 2018
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その5)

(その4)までで引用してきたステレオサウンド 60号での試聴は、
個別の試聴ではなく全員での試聴である。
瀬川先生も菅野先生も、同席されての試聴である。

音の品位は、なにもスピーカーについてのみいえるのではなく、
アンプについても、カートリッジに関しても、他のオーディオ機器であってもいえる。
けれど、もっとも感覚的に捉えられるのは、やはりスピーカーである。

60号の一年半前にステレオサウンドは、スピーカーの試聴を行っている。
54号である。
この時の試聴は、黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏によるものだが、
個別試聴である。
試聴レコードも三氏で違うし、
スピーカーを鳴らすオーディオ機器(プレーヤー、カートリッジ、アンプ)も三氏皆違う。

それに試聴方法も違っている。
スピーカーだから、そのセッティングが重要になるわけだが、
ここも微妙に違っている。

そのうえで、特集の鼎談を読むわけだが、
ここでも音の品位について、菅野先生と瀬川先生とでは、
完全に一致しているわけではない。

たとえばグルンディッヒのProfessional BOX 2500。
     *
菅野 私は、瀬川さんがこのスピーカーに、まあ9点はびっくりしましたが、8点くらいつけるのはよくわかる気がします。瀬川さんは、あるところ非常にハードに厳しいけれど、あるところすごく甘いところがあるように思う。徹底してどちらかにいってしまう。
瀬川 ……(苦笑)。
菅野 引っかかると徹底的にハードを追求し、引っかからないと徹底的にハードを無視してソフトに行くという、そういう性癖がある(笑い)。
 このグルンディッヒはひっかかってきたひとつだと想うのです。まず音が非常に電蓄的ですね。先ほど古いとおっしゃったが、まさにその通りでノスタルジーは感じます。しかし、今日の水準で聴くと、クォリティ面で、特にユニット自体の品位があまり高くないことが露呈してくる。
瀬川 そうですか? 品位は高いと思いますけれど……
菅野 それは全体としてでしょう。バランスはそれなりにとれていると思いますが、たとえば低域は、なかなか重厚といえば重厚だが、よく聴くとボコボコですよ。
瀬川 私が鳴らすとボコボコいわないんてすよ。
     *
編集部によると、Professional BOX 2500での三氏が鳴らす音に、
それほど大きな違いはなかった、とあるが、
三氏がそれぞれに指摘している長所、短所は、同席していて納得がいくともある。

Professional BOX 2500は、60号でのマッキントッシュのXRT20とは反対に、
菅野先生は品位がない、と感じ、瀬川先生は品位があると感じられた例である。

Date: 6月 1st, 2018
Cate: 数字

300(その8)

ステレオサウンド 44号の音楽欄、
「東芝EMIの〈プロ・ユース〉シリーズとTBMの〈プロフェッショナル・サウンド〉シリーズを試聴記」
という記事を、井上先生が書かれている。

プロ・ユースシリーズ五枚、
プロフェッショナル・サウンドシリーズ三枚のレコードについて、
それぞれ紹介されていて、
TBMの「MARI」についての文章のなかに、
テープスピードの違いによる音について書かれている。
     *
一般的に、38センチを剛とすれば、76センチは、むしろ柔である。テープらしいガッチリとして引締まり、パワフルな音が2トラック38センチの音の特長だが、76センチとなると、低域は豊かに伸びやかであり、中域以上も滑らかで、より細やかでナチュラルになるのが普通である。
     *
これはかなり意外だった。
44号は1977年に出ている。
このころの私は38cm/secの音も、まだ聴いていない。

76cm/secは、38cm/secの倍である。
つまり剛の二倍である。

剛(ごう→五)の二倍は柔(十)、
たしかにそうだな、と高校生だったにも関らずオヤジギャグ的なことも思っていた。

マッキントッシュの一連のシリーズもそうではないか。
300WのMC2300が、ちょうど38cm/secのテープスピードの音にあたる。
600WのMC2600が、76cm/secの音である。

井上先生が76cm/secの音について書かれていることは、
そのままMC2600の音にあてはまる。
《低域は豊かに伸びやかであり、中域以上も滑らかで、より細やかでナチュラル》、
MC2300からMC2500を経てのMC2600への音の変化も、まさにこれである。

Date: 6月 1st, 2018
Cate: 数字

300(その7)

300WのMC2300は、500WのMC2500になり、
MC2500のブラックパネル(内部も改良されている)、
さらに600WのMC2600にまで発展していった。

パワーアンプとしても、MC2300よりもMC2500、
MC2500のシルバーパネルよりもブラックパネル、
そしてMC2600と優秀になっていっている。

MC2600はMC2500の系譜にあたる音(アンプ)である。
MC2300とMC2500(シルバー)、
MC2500(シルバー)とMC2500(ブラック)、
MC2500(ブラック)とMC2600の比較試聴はしているが、
MC2300とMC2600とは比較試聴したことはない。

その機会があったとしても、印象は大きくは変ってこない、と思う。
MC2300から始まった、このシリーズはパワーを増すごとにしなやかさに身につけている。
柔軟になってきた、ともいえる。

こんなふうに書いてきて気づくのは、オープンリールデッキのテープスピードのことである。
一般的に19cm/sec、38cm/sec、76cm/secがある。
76cm/secの音を聴いたことがある人は、ごくわずかだろう。
私もない。

19cm/secと38cm/secは何度も聴いているし、
このふたつのテープスピードによる音の違いも、まったく知らないわけではない。

19cm/secから38cm/secになったときの音から、
38cm/secから76cm/secになった音を想像すると、見当はずれになるようだ。

井上先生は、38cm/secの音を剛とすれば、
76cm/secの音は柔である、と表現されている。

Date: 6月 1st, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その4)

新宿珈琲屋を始めるあたって、
店主のMさんは、友人のOさんにオーディオをまかせている。

QUADのシステムを選びセットアップしたのはOさんである。
Oさんとは、このブログに度々登場するOさんである。

ステレオサウンドの編集に50号あたりから携わり、
サウンドボーイの創刊、HiViの創刊、両誌の編集長でもあった。

サウンドボーイの記事中にもあったが、あのあたりの当時の電源事情はかなりひどくて、
ノイズカットトランスが必要になった、とのこと。

二基のESLは、客の後側に置かれていた。
ESLの音をきちんと聴きたければカウンターの中に入るしかない。

客は背後から鳴ってくる音を聴くことになる。
もっともほとんどの客は、すぐ後にあるパネルヒーターのようなモノが、
スピーカーとは思っていなかったようだ。

なんとなく、どこかから音楽が鳴っている──、
そんな感じで受けとっていたように思う。

私は新宿珈琲屋によく通っていた。
日曜日は必ず行っていた。
仕事の後も、週に二度は通っていたから、週三は最低でも、
新宿で映画を観たあとも、ここでコーヒーを、という感じだったから、
週四というときもあった。

それだけ通っていて、一度だけ、
ある客が、「どこから音、鳴っているんですか」と訊ねていたのを見ている。
そういう音の鳴らし方だったし、新宿珈琲屋は名曲喫茶ではない。

私はここで本格的なコーヒーの味を初めて知った。

Date: 5月 31st, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その3)

西新宿といっても、
高層ビルが建ち並ぶ一画ではなく、青梅街道を挟んで位置する西新宿。

雑然とした一画があった。1980年代のはじめ、
あのへんにはストリップ劇場もあったし、ソープランドもたしか二軒あった。
墓地はいまでもある。
夜は薄暗い雰囲気だったのをおぼえている。

そこに一軒の喫茶店があった。
当時既に、あのへんでも珍しかった木造長屋の建物の二階に、その喫茶店はあった。
新宿珈琲屋といった。

カウンターだけの小さな店。
客の印象にあわせてコーヒーカップを選んで、という店のはしりである。
この店が始まりだともきいている。

この店は、ステレオサウンドの弟誌にあたるサウンドボーイに載っていた。
まだ田舎にいたころに読んだのだったか、
東京に行ったら、この店に行こう、と思いながら、
その記事の写真をよく眺めていた。

そうはいっても、コーヒー一杯に500円の店には、なかなか行けなかった。
そういうコーヒー専門店に入ったこともなかった。
なんとなくひとりで行くのに、気後れしていたところもあった。

初めて行ったのは、東京に出て来て一年ほど経ってからだった。
ステレオサウンドで働きはじめていて、少しは東京のそういう店にも入れるようになっていた。

サウンドボーイに紹介されるくらいだから、名曲喫茶ではないけれど、
きちんとしたシステムがあった。

QUADのESL、アンプもQUAD(33と50E)、アナログプレーヤーはトーレンスのTD125に、
SMEの3009 Series IIにオルトフォンのMC20だったはず。
バロック音楽だけを、ひっそりした音量で鳴らしていた。

レコードも多くは置いてなかった。
30枚ほどだったか。
グレン・グールドのバッハもあったし、よくかけられていた。

Date: 5月 31st, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管バッファーという附録(その4)

この時期に、こういうタイトルで新たに書き始めたのは、
察しのよい方ならば気づかれているように、
音楽之友社からムック「快音!真空管サウンドに癒される」が書店に並んでいるからだ。
このムックには、附録としてラックスマン製真空管ハーモナイザー・キットがつく。

少し前から告知されていたから、かなりの人が知ってはいたと思う。
私も出ることは知っていた。

先日書店に行ったら、平積みされていた。
写真で、キットの内部は見ていた。
だから、このくらいの価格かな、と想い、
手にとり値段を確認したら、高い、と思ってしまった。

税込みで一万四千円ほどだ。
内部写真から、私は一万円を切るくらいのモノだと思っていたからだ。

キットといっても、ハンダ付けの必要はまったくない。
ネジを締めるだけで完成する、いわば半完成品なだけに、
キットの感覚で値段を判断してはいけないことだとはわかっていても、やってしまう。

私が、どのくらいと思っていたのかは、
人様の商売の邪魔をしたくはないからふせておくが、
この価格だったら、自作しようと思う。

世の中にはハンダ付けが苦手な人もいるし、
このキットの価格を高いとは思わない人もいる。
それに、私は買っていない、つまり聴いていない。

高いか安いかは、聴いたうえで判断すべきなのはわかっていても、
D38uのラックスならば、今回のキットもラックスである。
おそらくD38uのバッファーとほぼ同じ(電源は違うようだが)であろう。

Date: 5月 30th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管バッファーという附録(その3)

トータルの位相を正相にしたところで、
真空管のカソードからとプレートからとでは、取り出す信号のレベルが違う。

プレートから取り出せば増幅された信号になる。
それに出力インピーダンスも、カソードフォロワーよりもかなり高くなる。

ならば真空管で一段増幅したあとに、抵抗を直列に挿入する。
たとえばコントロールアンプの入力インピーダンスが10kΩだとしたら、
直列に挿入する抵抗を10kΩにすれば、信号レベルは-6dBになる。

そして真空管から見た負荷は、
コントロールアンプの入力インピーダンスの10kΩ+挿入抵抗の10kΩで、20kΩとなる。

そんな乱暴な……、と思われるかもしれないが、
真空管バッファーをわざわざ挿入するぐらいであれば、
このくらいやってもいいではないか、と割り切ることも必要ではないのか。

もちろんどんな抵抗でもいいというわけではない。
良質な抵抗にかぎる。

真空管バッファーを通ることで、何かが失われ何かが足される。
その結果が、聴き手にとって心地よければそれでいい、という世界なのだから、
抵抗を挿入して、それで心地よい結果が得られれば、私はそれでいいと思う人間だ。

真空管バッファーを一種のトーンコントロールと書いたが、
現実のトーンコントロールでは、バイパスした音と経由した音の差がないのが理想である。
まったく同じにはならないわけだが、それでも極力差は小さい方が、
挿入されるトーンコントロールの性能は優秀ということにもなる。

けれど真空管バッファーは一種のトーンコントロールではあっても、
実際のトーンコントロールなわけではない。
周波数特性を変化させるものではない。
挿入することで帯域バランスは変化することもあるが、
それは周波数特性を変化させての結果ではない。

そういうものであるならば、はっきりとした音の変化があったほうが、
それが好ましい方向に、常にではなくとも、
あるディスク(曲)に関してはそう働くのであれば、切替えスイッチを積極的に使うことになろう。

その意味では、ラックスのD38uのvacuum tubeポジションは、
消極的すぎないか、と思ったりするわけだ。