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Date: 8月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その8)

雑誌の売行きを安定にする。
特集の企画によって、売れたり売れなかったりをできるだけなくしたい、とするのは、
経営者の判断であり、それを編集部が忠実に実行していくのは、どういうことを自ら招くのか。

気に入られようとする。
そのための幕の内弁当であり、さらに進んだマス目弁当。
弁当は食べてしまうと、目の前に残るのは弁当箱だけである。

オーディオ雑誌は読み終ったからといって、ページが消失してしまうわけではない。
すべてのページを読んでしまったら、表紙だけが残ってしまうわけではなく、
一冊まるごと残っている。

最新号も残っていれば、捨てないかぎり、それ以前に読み終えた号も残っている。
それらが本棚に並んでいく。

一年で四冊、二年で八冊……、
増えていけば、一冊読んだだけでは気づきにくいことにも気づく。
気づかないまでも、なんとなく感じてくるようになる。

己の裡にある毒を転換してのオーディオの美だと、別項で以前書いた。
オーディオ機器、特にスピーカーは毒をもつ。

毒と毒。
だからこそ美へと転換できるとさえ、私は思っている。

私が熱心に読んできたオーディオ評論は、そのことを暗に語っていた。
いまは、それがなくなっていることに気づく。

だからなのか、毒に対しての拒絶反応が、
一部のオーディオマニアのあいだに出てきているようにも感じる。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その6)

(その5)へのコメントがfacebookであった。

そこにはトップダウン、ボトムアップとあった。
トップダウンは、企業経営などで,意思決定は社長・会長がして上位から下位へ命令が伝達され,
社員に従わせる管理方式、
ボトムアップは、企業経営などで,下位から上位への発議で意思決定がなされる管理方式、とある。

コメントされた方は、
過去のオーディオ誌に求められたのがトップダウンの評論であるとすれば、
今はボトムアップのノウハウのようなものが求められると感じている、とあった。

いわんとされることはわかる。
コメントをされた方は私よりも若い世代。
そういうふうに感じられているのか、と思う。

過去のオーディオ誌は、私が熱心に読んでいた時代のオーディオ雑誌を指すのか。
それともそれより後の時代のオーディオ雑誌なのか。

私が熱心に読んできたオーディオ雑誌の時代は、
私にはトップダウン的評論とは感じていなかったし、いまもそれは変らない。

あの時代、オーディオ評論家(職能家)は、手本であり、
憧れというより目標であった。
もっといえば、将来のライバルというふうにも見ていた。

いまは10代の若造だけれど、あと十年すれば、
そのレベルにまで上っていく──、そういう意味での目標であり、
将来のライバルとは、そういうことである。

そんな私は、トップダウンの評論とは感じていないが、
評論のところを編集に変えてみたら、どうだろうか。

トップダウンの編集、ボトムアップの編集である。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その16)

AXIOM 80には毒がある、と書いてきている。
その毒はどこから来ているのか。

ひとつには独自の構造から来ているとも書いている。
AXIOM 80は通常のエッジではないし、通常のダンパーではない。
それの実現のために、独自の構造、
つまりフレームの同軸構造ともいえる形態をもつ。

メインフレームから三本のアームが伸び、サブフレームを支えている。
このサブフレームからはベークライトのカンチレバーが外周を向って伸び、
メインコーンの外周三点を支持している。

AXIOM 80の写真を見るたびに、
このユニットほど、どちらを上にしてバッフルに取り付けるかによる音の変化は大きい、と思う。
そんなのはユニット背面のAXIOM 80のロゴで決めればいい、悩むことではない、
そんなふうに割り切れればいいのだが、オーディオはそんなものじゃない。

独自のフレームとカンチレバー。
この部分の面積は意外にあるし、この部分からの不要輻射こそ毒のうちのひとつであり、
同じ構造を気現在の技術で現在の素材でつくるとなると、
サブフレーム、三本のアームの形状は断面が四角ではなく、違う形状になるはずだ。

少なくともコーンからの音の邪魔にならないように設計しなおされる。

でも、それだけでは根本的な解決にはいたらない。
AXIOM 80の現代版は、フレームの同軸構造を内側から外側へと反転させる。
サブフレームはメインフレームよりも小さいのを、メインフレームよりも大きくして、
メインフレームの外側に位置するようにしてしまう。

そのためユニット全体の口径は振動板の大きさからすれば、ひとまわり大きくなるが、
そうすればカンチレバーもメインフレーム外側にもってくることができ、
バッフルに取り付けた正面は、一般的なダブルコーンである。

サブフレームとカンチレバーは、バッフルに取り付けた際に、
バッフルに隠れるし、この部分からの不要輻射はバッフルが抑える。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(9月のテーマについて)

8月1日のaudio wednesdayがまだなのに、
9月5日のことについて、少しだけ予告しておく。

まだはっきりとはいえないが、
システムの一部がいつもとは大きく変更になる。

その製品を聴くのは、私は初めてである。
関心をもっている製品だけに、じっくり聴けるのはありがたい。

これも協力してくださる方のおかげである。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: audio wednesday

第91回audio wednesdayのお知らせ(涼しげな音を出せれば、と)

明日(8月1日)の8月のaudio wednesdayのテーマは、というか、やりたいことは、
いつもより涼しげな音が出せれば、と思ってのセッティングのわずかな変更である。

しげしげ見なければ、どこがいつものと違っているのかはわからないくらいの変更で、
音がそれによってどの程度変化するのか、予測していても、
音は実際に出してみてわかるところが必ずある。

暑いからといって気合いの入っていない鳴らし方はしない。
7月はアルテックのスピーカーをまったく鳴らしていない。
二ヵ月、自分で鳴らしていないわけで、
8月もそんな調子だと、9月のaudio wednesdayでの音出しがたいへんなことになるからだ。

スピーカーに気合いを入れるための8月のaudio wednesdayである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その5)

大人のオーディオマニアが大人として、
オーディオのプロフェッショナルがプロフェッショナルとして、
若い世代の手本になっていないと感じるのも、時代の軽量化といえよう。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(余談)

ステレオサウンド 207号のスピーカーの試聴記を見ていて、
異和感をおぼえたのは能率に関することである。

いまでは90dB/W/mを超えるスピーカーの方が少数である。
その中にあって90数dBのスピーカーシステムは、相対的に能率が高い、ということになる。

まあ、でも傅信幸氏、三浦孝仁氏が、
90数dB/W/m程度のスピーカーを、能率が高い、というふうに書かれているのをみると、
異和感をおぼえる。

傅信幸氏は私よりひとまわり上、
三浦孝仁氏はひとつくらい上のはずで、いわば同世代。

93dB/W/m程度でも、最近のスピーカーは能率が低くなった、といわれていた時代を過している。
100dB/W/mの高能率のスピーカーの音も聴いている。

93dB/W/mは変換効率でいえば、1%である。
93dB/W/mより低い値のスピーカーは、いつの時代であっても能率が低いわけで、
たかだか1%の変換効率のスピーカーを、高能率だというのは、
周りの音圧レベルが低くなっているとはいえ、それでいいのか、と思う。

傅信幸氏、三浦孝仁氏が20代、30代というのなら、わかる。
90dBを切るスピーカーが多数になっていた時代にオーディオに興味をもっているのだから。

なぜ、そこに合せるのか、という疑問が、異和感につながっていく。
50代も60代もいい大人なんだから──、と思う次第だ。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その16)

この二人が主宰するメーカーは、どちらも規模は小さい。
社員が大勢いる大企業ではなく、それぞれの人のいうことが、
そのメーカーの主張するところである。

この二人のメーカーの人は、オーディオ評論家を、
自分たちの代弁者であってほしい、と思っているのではないか。
だから、あれほど喜んだとしか思えない。

その意味で、そのオーディオ評論家はオーディオ評論家(商売屋)としてプロであった、ともいえる。
けれど読者が求めているオーディオ評論家は、
オーディオ評論家(職能家)ではないのか。
少なくとも私はオーディオ評論家(職能家)がいてほしい、と常々思っている。

けれど、オーディオ評論家(商売屋)のほうかわかりやすいと思っている読み手もいるようだし、
メーカー側の人たちが、少なくともこの二人はそうである。

メーカーにとってオーディオ評論家(商売屋)はそれでいいが、
オーディオ評論家(職能家)は、
メーカーの人たちが気づいていないところを指摘するのも仕事である。

それは欠点でもあるし、製品がメーカーの試聴室から市場に出た時に生じる魅力、
メーカーの人が気づいていない価値を指摘するのも仕事だ、と私は考えている。
そこに気づいたメーカーの製品だけが商品となっていくのではないのか。

二人のメーカーの人は、自分の賛同者、代弁者が欲しかった。
それはオーディオ評論家(商売屋)こそが得意とするところでもある。

今回のモニター機に関するいざこざは、個人ブロガー(オーディオマニア)に、
そんなオーディオ評論家(商売屋)と同じことをメーカー側が求めていたことも、
原因のひとつなのではないか。

メーカーと個人ブロガー、どちらか一方にだけ非があるようには思えない。
自分にとって都合のいいことしか求めなくなっている──、
そんな空気が、いまのオーディオ界の現状のような気もする。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その1)

「タンノイはいぶし銀か」を書き始めたところ。
タンノイの同軸ユニットにはフロントショートホーンが不可欠だ、と、
以前から書いていることをくり返している。

もうひとつ不可欠(フロントショートホーンほどではないが)といえるのが、
KT88のプッシュプルアンプである。

世の中に出ているすべてのKT88プッシュプルアンプを聴いて書いているのではない。
タンノイに接いで聴いているのは、マッキントッシュのMC275、
マイケルソン&オースチンのTVA1、ウエスギ・アンプのU·BROS3、
それからジャディスのJA80(これはパラレルプッシュプル)だけである。

けれど、このどれでタンノイを聴いても、よく鳴ってくれる。
真空管アンプの音が出力管だけで決るわけでないことは重々承知しているが、
それでもタンノイにはKT88プッシュプルだ、と口走りたくなるほど、
それぞれに魅力的、ときには魅惑的な音をタンノイから抽き出してくれる。

JA80で鳴らしたGRFメモリーの音は、フロントショートホーンがついていないけれど、
もうこれでいいのかもしれない……、
そんなふうなある種の諦観に近いところに誘われている感じさえした。

やや白痴美的な音でもあった。
CDで聴いていたのに、以前一度だけ聴いたことのあるカートリッジの音を思い出してもいた。
グラドのSignature IIである。

1979年に199,000円もしていたカートリッジで、
瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られた時に持参されていた。

このカートリッジのことは、「ラフマニノフの〝声〟VocaliseとグラドのSignature II」で書いている。

甘美な音がしていたカートリッジだった。
私も、欲しい、と思った。
高校生にはとても手が出せない価格だったけれど。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その55)

ステレオサウンドの記事は、どういう読み方であっても、
すべての読者に対してまったく同じ記事である。

今回の207号にしても、私が買った207号と別の人が買った207号とで、
記事の一部が、書いてあることが微妙に違っているということは絶対にない。

同じ内容の記事を読んでいても、読む人によって受けとめ方は違ってくるということは、
今回の染谷一編集長の謝罪の件については、
人によって読んでいるものが違っているのだから、受けとめ方はさらに違っているのではないか。

私以外にも、今回の謝罪の件を取り上げている人はいる、と聞いている。
twitterでツイートしている人もいるようだし、
自身のブログで書いている人もいる。

私はある人から教えてもらったブログをひとつだけ読んでいる。
そこにリンクしようかと思ったけれど、そのブログを書かれている人は、
あえて固有名詞を出さずの書き方なので、リンクはしない。

でもステレオサウンド 207号の写真は載っているから、
わかる人には、今回の謝罪の件だとわかる。

おそらく、この人以外に書いている人はいるだろう。
ということは、人によって、今回の染谷一編集長の謝罪の件は、
読んでいることに違いが生じている。

すべての人がavcat氏のツイートを遡って読んでいるとはかぎらない。

雑誌掲載の同じ記事を読んでもそうなのに、
読んでいるものが微妙に違ってきては、受けとめ方は記事以上に違ってきても不思議ではない。

読み手がどれを信じ信じないのか、どれに共感するのかしないのか、
そういったことが微妙に違ってきていることの怖さを、編集者ならば想像してみてほしい。

今回の件に沈黙してしまうということは、そういうことなのだ。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その15)

モニター機の評価に関するいざこざは、メーカー側の求めることにもあったのではないだろうか。
今回のメーカーが、どういうことを個人ブロガーに求めていたのかははっきりしないが、
個人ブロガーをふくめてオーディオマニアを、
自社の広報マンの代理として考えていた可能性はあるように感じている。

もう十年近く前になるが、
あるメーカーのある製品が、オーディオ雑誌に取り上げられた。
あまりこのメーカーの製品は雑誌で扱われることはない。
高い評価を得ていた。

その後で、そのメーカーの人と話す機会があった。
彼はすごく喜んでいた。
そうだろう、と思ったけれど、そのあとに彼の口から出た言葉を聞いて、
少し考えさせられた。

これと同じことがfacebookでもあった。
別のメーカーの、ある製品を、とあるオーディオ評論家が評価していた。
そのことをこのメーカーの人も喜んでいた。
二人の喜び方は、同じに見えた。

つまり彼らが伝えたいことを、すべてオーディオ評論家が伝えてくれたからである。
だから、彼らは、○○さんはいい評論家だ、といっていた。
最初のメーカーを評した人(二人)とあとのメーカーを評した人(一人)は、
一人だけが同じ人である。

二人のメーカーの人が喜んでいるのは、そういうこと(レベル)なのか、と思った。
そのぐらいのこと、オーディオ業界で飯を食っている人にとっては、
さほど難しいことではない。

そういう評論家は、メーカーにとってはありがたい人であろうが、
読者にとっては、いい評論家といえるだろうか。
もっといえばメーカーにとっても、いい評論家とはいえないはずだ。

そこに、二人のメーカーの人は気づいていないようだった。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの定価

私が初めて買ったステレオサウンドの定価は1,600円だった。
いまは2,000円で、これに消費税がついて2,160円。

ステレオサウンドが1,600円だったころ、新聞の購読料は同じくらいだった。
いまはステレオサウンドよりも、けっこう高くなっている。

他のオーディオ雑誌も、昔は数百円だったけれど、千円を超えている。
読みたい記事がなければ、もっと安くても高いと思うものだが、
ステレオサウンドの定価は、よくやっているのではないか、
と今回久しぶりに買って思っているところ。

それに一冊買えば、ブログに書きたいことがそこかしこにある。
207号にしても、最初からじっくりひとつひとつについて細かく書いていくことだってできる。
特に特集のあとに続く記事については、そうとうに書きたいことがあるが、
そこまで触れるつもりはない。

私にとって読み応えはないが、書き応えはあるから、
ステレオサウンドの定価は安い、といえる。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その3)

ステレオサウンド 207号では、和田博巳氏がArdenの音をいぶし銀と評されている。
見出しにも、いぶし銀が取り上げられている。

私は(その1)で、フロントショートホーンをもつタンノイの音は、
決していぶし銀と感じてないし、烏の濡れ羽色に近い音色と感じている、とした。
別項にコメントしてくださった方と同意見であり、
その方から(その1)にfacebookでコメントがあり、オートグラフを聴かれていることがわかった。

そうだろうな、と強く思う。
フロントショートホーン付きのタンノイの音を聴いたことのある人ならば、
それもいぶし銀とかいう、無用なバイアスなしで聴いている人ならばこその音の印象である。

ならばフロントショートホーンなしのタンノイは、いぶし銀なのか。
菅野先生がスイングジャーナルの1969年12月号で、IIILZ MKIIについて書かれている。
     *
 そこで、英国系のスピーカーには、どうしてもクラシック音楽のイメージが強いとされてきた理由もなんとなくわかるのではあるが、今や、英国も、ビートルズを生み、ミニスカートをつくる現代国家であるし、特に輸出によってお金を嫁ぐことに熱心なことは先頃の英国フェアでもよく知っておられる通りである。英国がその古い伝統と、高度な産業技術を、クラフトマンシップを生かしてつくり上げた製品は、筋金入りの名品が多く、しかもお客の望みを十分に叶えてくれるサービス精神にもとんでいる。タンノイはいぶし銀のような艶をもつスピーカーだと評されていたが、このIIILZのニュータイプのIIILZ MKIIは、さらに明るさが加ってきた。重厚明媚を兼備えた憎い音を出す。これでジャズを聞くと、実に新鮮な迫力に満ちた音だ。MPSのジャズのように、最近はジャズの音も多様性をもってきた。アメリカ録音に馴れていた耳には大変新鮮な音のするヨーロッパ録音ではある。再生系も、英国スピーカーはクラシック向と決めこまないでチャンスがあったら耳を傾けてみてほしい。
     *
いぶし銀、と確かにあるが、
《いぶし銀のような艶をもつスピーカーだと評されていた》と含みをもたせてある。
評してきた、ではない。

「世界のオーディオ」のタンノイ号にざっと目を通したけれど、
オーディオ評論家の誰かが、いぶし銀と書いているのは見つけられなかった。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その2)

1979年のステレオサウンド弁冊「世界のオーディオ」タンノイ号、
井上先生の「私のタンノイ観」で書かれていることが、実に興味深い。
     *
とくに、モニター15の初期のモデルは、ウーファーコーンの中央のダストキャップが麻をメッシュ織りとしたような材料でつくられており、ダーク・グレイのフレーム、同じくダーク・ローズに塗装された磁気回路のカバーと絶妙なバランスを示し、いかにも格調が高い、いぶし銀のような音が出そうな雰囲気をもち、多くのファンに嘆息をつかせたものである。
     *
モニターシルバーと呼ばれていた時代のタンノイの同軸型ユニット。
そういえば、と、
古いイギリスのオーディオメーカーのスピーカーユニットのフレームを思い浮べてほしい。

ヴァイタヴォックスのAK155、156、グッドマンのAXIOM 301といったユニットのフレームを、
思い浮べられない人は、Googleで画像検索してみてほしい。

井上先生は、タンノイからいぶし銀のような音がしていた、とは書かれていない。
あくまでも、《いぶし銀のような音が出そうな雰囲気》とあるだけだ。

確証はもてないが、いぶし銀という表現が使われるようになったのは、
意外にもイギリスのユニットのフレームの仕上げから来ているようである。

「私のタンノイ観」の最後に井上先生は、書かれている。
     *
 つねづね、何らかのかたちで、タンノイのユニットやシステムと私は、かかわりあいをもってはいるのだが、不思議なことにメインスピーカーの座にタンノイを置いたことはない。タンノイのアコースティック蓄音器を想わせる音は幼い頃の郷愁をくすぐり、しっとりと艶やかに鳴る弦の息づかいに魅せられはするのだが、もう少し枯れた年代になってからの楽しみに残して置きたい心情である。暫くの間、貸出し中のコーナー・ヨークや、仕事部犀でコードもつないでないIIILZのオリジナルシステムも、いずれは、その本来の音を聴かしてくれるだろうと考えるこの頃である。
     *
《しっとりと艶やかに鳴る弦の息づかい》とある。
この表現を、いぶし銀に結びつけるのか、
烏の濡れ羽色を想像するのか。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 戻っていく感覚

好きな音、好きだった音(あえて書いておく)

(その8)で引用した黒田先生の表現。
25号に載っていることを見つけ、書き写してみれば、
ほぼ正確に記憶していたことも確認できた。

ならば25号を見つけ出さなくとも書けたのではないか。
書けた。

書けたけれど、黒田先生の書かれたものという記憶がこちらにある以上、
それに手元にステレオサウンドのバックナンバーがある以上、
やっぱり正確に引用しておきたい。

それに黒田先生の文章ということを黙ったまま、
さも自分で考えたかのように、少しだけ変えて書くのは絶対にやりたくない。

オーディオ雑誌には、そういう例がけっこうある。
書いている本人は、自分で思いついたと思っているだけなのだろうが、
パクリといわれてもしかたない、という表現もある。

ほんとうに知らないのか、それとも過去に読んだことを忘れてしまっているのか、
そのへんは定かではない。本人にしてもそうなのかもしれない。

こんなことをあえて書いているのは、ステレオサウンド 207号でも、
気になるところがあったからだ。

傅信幸氏のタンノイのKensington/GRの試聴記に、タンノイ劇場、とある。
これが、菅野先生が以前よく使われていたウェストミンスターホールと、
私の中では、どうしてもかぶってくる。

念のため書いておくが、ウェストミンスター劇場のウェストミンスターとは、
タンノイのスピーカーのことである。

ウェストミンスターホールを、菅野先生が使われていたのは、それほど昔のことではない。
傅信幸氏が読んでいないわけがないし、読んだことを忘れていないはずだ。
忘れていた可能性をまったく否定するわけではない。

仮に忘れてしまっていての、今回のタンノイ劇場なのかもしれない。
だとしても、ステレオサウンド編集部の人たちは、何も思わなかったのか、
何も感じなかったのか、何も思い出さなかったのか。

菅野先生のウェストミンスターホールと傅信幸氏のタンノイ劇場。
何の問題もないとする人がいるのはわかっている。
そんなこと、わざわざ書くことか、と言われるであろうこともわかっている。

それでも、何かひっかかるものを感じている。
私だけなのか。