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Date: 7月 3rd, 2018
Cate: audio wednesday

第90回audio wednesdayのお知らせ(AXIOM 401+Aleph 3+LNP 2)

明日(4日)のaudio wednesdayでは、グッドマンのAXIOM 401を鳴らす。
コントロールアンプにマークレビンソンのLNP2をもってくる。

LNP2はライン入力でもモジュール(増幅回路)を二段経由する。
アンプを経由すれば、音の鮮度や純度は、わずかとはいえ影響を受ける。

LNP2の使いこなしといって、TAPE OUT端子からパワーアンプへ接ぐ人がいる。
そうすればトーンコントロール回路を経由しない。
セレクターもメインボリュウムもパスできる。

音量調整は左右独立のインプットレベル調整のツマミでできる。
そうすれば音の鮮度、純度も通常の使い方よりも改善される──、
とそういう人は、そんなことを自慢気に言う。

そんなことはLNP2を使っている人、
LNP2に憧れてきた者ならばわかっていることだ。

それでもそんな使い方はしないのは、
別項で書いている「冗長と情調」に関係してくることを感じているからだ。

明日、どんな音が鳴ってくるのか、想像がつかないところもある。
それでも私にとっては、「冗長と情調」についてのヒントを得られる音が聴けるのではないか、
そんな期待を持っているし、そんなふうに鳴らしてみたい。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 2nd, 2018
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その11)

導入記は、すでにあるオーディオ機器を購入してのものだから、
購入後ではあるけれど、購入時的な導入記もある、ということだ。

何かを、それまでのシステムに導入する。
いったいどれぐらい経ったら、購入時から購入後といえるようになるかは、
はっきりといえることではないし、人によって大きく違ってこよう。

わずか数ヵ月で購入後といえる視点をもつ人もいれば、
半年、一年、もくしはそれ以上の期間を必要とする人いるであろう。

購入時と購入後の視点をはっきりとわけるものは、
小沢コージ氏の文章中にある無意識インプレッションだと思っている。

ステレオサウンド 207号掲載の二本の導入記のうち、
原本薫子氏のそれは、力が入っているのがわかる。
それを腐すつもりは毛頭ない。

力がそうとうに入っているだけに、原本薫子氏の文章はまさに導入記といえる。
いえる、と書いてしまうのがまずければ、私にはそう感じる、といいかえよう。

つまり小沢コージ氏の文章にある
《クルマのハンドリングに関する真の評価は、そのドライバーが無意識的に走っている時にこそ行われるべきで、自分で「走るぞ!」と思っている時のステアリングの手応えや操縦安定性の評価など、あてにならないというのだ》
このことだ。

何も購入時の導入記があてにならない、といおうとしているのではなく、
いわゆる試聴テストではなく、こういう内容の記事であるからこそ、
「走るぞ!」(「聴くぞ!」)という、いわゆる蜜月をすぎたといえるようになってからの、
ようするに無意識インプレッションが、購入後の視点だと考える。

Date: 7月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号。
巻末に「マッキントッシュ対マランツ」という特別テストが載っている。

副題として、〈タイムトンネル〉もし20年前に「ステレオサウンド」誌があったら……、
とついている。

1976年から20年ほど遡って、
当時のマッキントッシュのアンプとマランツのアンプの比較試聴である。

マッキントッシュはC8S+MC30、
マランツはModel 1+Model 6+Model 2である。

この記事を懐古趣味と一蹴するのは、簡単だ。
1976年はすでに40年前、そこからさらに20年なのだから、60年前のアンプについての記事を、
ここで取り上げるのは、ここでの試聴結果が、今回の謝罪の件にも関係してくるからだ。

機会があれば、ぜひ読んでほしい。
ここでは、菅野先生の発言のひとつだけを取り上げる。
     *
菅野 ほんと、そういう感じですよね。この二つは全く違うアンプって感じですな。コルトーのミスタッチは気にならないが、ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。
     *
岡先生は《うまい例えだな。これ、ひっくり返したら全然だめだからね》と返されている。
ほんとうにそうである。

クラシックをまったく聴かない人にはわからない例えだろうが、
言い得て妙とは、まさにこのことだ。

コルトーのところは、他のピアニストに変えることはできない。
ワイセンベルグは、ワイセンベルグに限らない。
この記事が1976年ということもあってのワイセンベルグである。

ここでコルトー的なアンプはマッキントッシュであり、
ワイセンベルグ的なのはマランツである。

そして、この例えをマッキントッシュ、マランツのアンプではなく、スピーカーに置き換えてみる。
ワイセンベルグ的(マランツ)をYGアコースティクスのHailey 1.2に、
コルトー的(マッキントッシュ)を、ステレオサウンド 207号で柳沢功氏が高く評価しているモノ、
フランコ・セルブリンのKtêmaにしてみよう。

私が染谷一編集長の立場だったら、avcat氏への説明に、この例えを使うかもしれない。
avcat氏がクラシックを聴かない人だったら、この例えは役に立たないが……。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その1)

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その20)」でも引用している。
映画「イノセンス」序盤での荒巻大輔のセリフである。

今回の件は、ほんとうにそうだな、と実感しているところだ。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その10)

ステレオサウンド 207号に購入後の視点的な記事が二本載っている。
和田博巳氏の「ファンダメンタルMA10導入記」、
原本薫子氏の「マッキントッシュMCD550導入記」である。
どちらも四ページ構成の記事だ。

文字数を数えていないが、
amazonのレヴュー投稿よりは、ずっと文字数は多い。
それにどちらも四点の写真もある。

この記事について、購入後という視点で書く予定でいたところに、
友人から、あるサイトのURLがメッセージで届いた。

webCGに六年前に公開された一本の記事へのリンクだった。
第452回:これじゃメルセデスには追いつけないぜ! “無意識インプレッション”のススメ」、
小沢コージという方が書かれている。

その冒頭に書いてあることこそ、購入後の視点ではないだろうか。
     *
「自分が言うのもなんですが、箱根で新車の試乗会やっても、あまり意味ないと思うんです。みなさんそのつもりで走ってるし、運転がうまい人ほど足りない分を自然に補っちゃうので……」いやはや、とある試乗会で、とあるテストドライバーから衝撃的なコメントを……というか、昔から漠然と抱いていた疑問に対する答えをもらってしまったぜ。いわばそれは、“無意識インプレッション”のススメだ。どういうことかというと、クルマのハンドリングに関する真の評価は、そのドライバーが無意識的に走っている時にこそ行われるべきで、自分で「走るぞ!」と思っている時のステアリングの手応えや操縦安定性の評価など、あてにならないというのだ。
いや、それも大切かもしれないけれど、最も重要なのは、ボーッと走っている時に「いかにドライバーの脳に適切な刺激やインフォメーションを与えられるか」「轍にタイヤを取られたりしないか」といったことであり、プロのテストドライバーは、運転中に意識的にその領域に踏み込んで評価できるという。
まさに達人の境地というか、スターウォーズの“フォース”みたいな話じゃないの(笑)。でも、ダメンズ小沢自身、本当にそうだと思った。というのも実際問題、箱根で走ってると、クルマの動的性能がよく分からない場合が多いのだ。もちろん、“速い”とか“フィールがいい”とか“ブレーキが効く”と感じる部分はあるし、それをなるべく自然体で分かりやすくリポートしようとはしているつもりだが……。
     *
無意識インプレッションである。

207号の二本の導入記を読んでいて感じていたのは、
購入後の視点といえる記事ではなく、あくまでも導入記としての記事ということだ。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その8)

秋葉原にあるテレオンが、まだテレビ音響だった時代なのか、
それともすでにテレオンになっていたのか、そのへんのところははっきりしないが、
テレオンが、いまのビルではなく、ラジオ会館がどこかのビルで営業していたころの話だ。

当然、そのころ私はまだオーディオマニアではなかったし、
東京に住んでもいなかった。
人から聞いた話だ。

彼も、もちろんオーディオマニアだ。
彼が学生のころに、テレオンのその店にカートリッジを買いに行った。
そのテレオンは、創業者の奥さんと思われる人が仕切っていた。
ショーケースの中には、市販されている大半のカートリッジが並んでいる。

シュアーのV15が欲しい、というと、まず訊かれる。
いまどのカートリッジを使っているのか、
システムの構成、それからどういう音楽を好むのか、聴く音量、
オーディオの知識、キャリアなどを見透かす質問をしてくるそうだ。

それに合格しなければ、希望のカートリッジを売ってくれなかったりする。
「あなたにはまだV15は早すぎる」、
そんなことを言って売ってくれないんだそうだ。

そしてシュアーの安価な、けれどしっかりしたカートリッジを薦めてくれる。
買いたいモノが買えるだけの余裕があって買いに行く。

なのに売ってくれない。
理不尽だ、と思う人もいるけれど、私はそうは思わない。
こういうオーディオ店が昔はあった。
トロフィー屋ではないオーディオ店があった。
いまのテレオンがそうなのかは知らないけれど、そうあってほしい。

ならば、他のオーディオ店に行けばいい、と思う人もいる。
けれど彼は、テレオンでカートリッジを買っている。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その31)

「音の美」と忠実性について、ここではこれ以上ふれない。
別項で書く。

avcat氏はオーディオのプロフェッショナルではない。
アマチュアである。
だから、ステレオサウンド掲載の試聴記をどう読もうと、avcat氏の自由(というより勝手)である。
それにその不満、不愉快になったことをツイートするのも自由(勝手)でいい。

問題にしているのは、そのことに対して、
ステレオサウンドの染谷一編集長がどうして謝罪したかということだ。

染谷一編集長とavcat氏の関係は知らないが、少なくとも顔見知りであることは間違いない。
親しい間柄なのかもしれない。
ならば、謝罪ではなく、説明をすべきだった、と私は考える。

説得できるかどうかはわからない。
それでもきちんと説明すべきだった。

ステレオサウンド 207号には、
ソナス・ファベールのパオロ・テッツォン氏による「三つの再生システムを聴く旅」が載っている。
パオロ・テッツォン氏が、柳沢功力、小野寺弘滋、ベイシーの菅原正二、
三氏の音を聴いての印象を綴った記事だ。

この記事こそ、三氏のそれぞれの「音の美」について語っている。
染谷一編集長が、この記事の担当がどうかはわからない。

担当していたとしよう。
染谷一編集長は、こういう記事をつくる一方では、
「音の美」を否定するかのようにavcat氏に謝罪している。

それともこの記事の担当者は別で、
染谷一編集長は、この記事をどう思っているのか。
知りたいところである。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: audio wednesday

第90回audio wednesdayのお知らせ(AXIOM 401+Aleph 3+LNP 2)

7月4日のaudio wednesdayでは、グッドマンのAXIOM 401を鳴らす。
アンプはPASSのAleph 3が用意できることは前回書いた。

音量調整をどうするか。
フェーダーでやるのも考えたが、もっと積極的な音づくり(音出し)がしたい。
マークレビンソンのLNP2を持ってきたい。

今回、アンプを用意してくださるKさんは、「JC2もあります」とのこと。
JC2も、たしかにいい。
でもLNP2にするのは、トーンコントロールがついているからだ。

LNP2は1970年代後半のアンプ、
Aleph 3は1990年代前半、AXIOM 80はこれらよりもさらに古い。
SACDプレーヤーのマッキントッシュMCD350は最近の製品。

世代(年代)はバラバラだ。
ここまでくると、どんな音がするのか想像するのが楽しいし難しい。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性
1 msg

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その30)

avcat氏の一連のツイートは筋が通っているといえば、そうである。
avcat氏の年齢ぐらいは知りたいと思った理由は、ここにある。

avcat氏は以前はTAD-M1を、いまはYGアコースティクスのスピーカーを鳴らされているようだ。
どちらのスピーカーも安価ではない。
それなりの経済的余裕がなければ買えない。
学生が買えるモノではない。

学生といっても、起業していたり、富裕層であったりすれば簡単に買えたりするだろうし、
実際にそういう学生もいよう。

avcat氏がそうとは思えなかった。
なのに一連のツイートを遡って読んでいると、
青年の主張とでもいおうか、高校生の弁論大会のようとでもいおうか、
そのへんに通じるものを感じていた。

もしかするとavcat氏は、かなり若いのかも……、と。
私が筋が通っている、と感じたのは、そういう筋の通り方だったのだ。

「ワカいな」と思ったのは、
一連のツイートには、(その28)で書いた「音の美」に通じることが、
まったく感じられなかったし、
柳沢功力氏の「音の美」を認めた上での発言とは思えなかったからだ。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌だ。
雑誌の読み方ぐらい、読む側の自由であってもいいだろう。
どんな読み方もしてもいいだろう。

それでもオーディオ雑誌は、そういうものだろうか、というおもいがある。
この項に限らず、このブログでは最近のステレオサウンドには批判的なことを書いている。

今回207号をひさしぶりに購入して読んでいた。
一見、良くなってきているように見えても、そう見えるだけだというのが、
徐々にはっきりしてくる。

もう、こうなってしまったステレオサウンドは完全に見捨てていいのではないか……、
そういう気持もあるけれど、それでもステレオサウンドは、やはりステレオサウンドであって、
そこでの試聴記を、書き手の「音の美」を認めずに読むのか、とひとこと言いたくなる。

avcat氏のツイートは、柳沢功力氏の「音の美」を認めずに、
ただ一方的に忠実性の点からだけでの筋が通っている、のである。

Date: 6月 30th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その6)

《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
思いつめた表情のときもあっただろうが、遠いまなざしの表情へなっていったろうか。

Date: 6月 30th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その5)

(その4)への友人からのコメントがfacebookにあり、
またダイレクトメッセージでも届いた。

ビートルズ(The Beatles)ではじまり……でおわる。
Sさんは、The BeatlesではじまりLed Zeppelinでおわる、と。
OさんはThe BeatlesではじまりFrank Zappaでおわる、と。

おもしろい。
この思考は、人によって違ってくるはず。

私はたまたまパッと思い浮かんだビートルズを最初にもってきただけであって、
人によっては、いやビートルズではなくて……、だったりするだろう。

はじまりもおわりも人によって違ってくるし、
はじまりが同じでもおわりは違う(その逆もある)。

五味先生は
《しばらくして群小音楽に超越したモーツァルトにめぐり会う。ほぼこれが(モーツァルトが)カタログの中央に位置するピーク》
とも書かれている。

ロック・ポップスで、モーツァルトの位置にいるのは誰なんだろうか。
何もMにこだわることはないわけだが、ロック・ポップスにあまり明るくない私は、
マイケル・ジャクソンが浮ぶ。

レッド・ツェッペリン、フランク・ザッパはラストネームがZなのに、
マイケル・ジャクソンはファーストネームがMである。

でもいいじゃないか。マイケル・ジャクソンは、マイケルで通用しているし、
父親との関係において、モーツァルトとマイケル・ジャクソンは、
共通するところがないわけでもない(そんなふうに感じている)。

ここで、ではジャズでは、と考える。
ここではMが最初に浮ぶ。
中央に位置するピークは、マイルス・デイヴィスではないのか。

はじまりは、チャーリー・パーカーが浮ぶ。
彼もまたBだ。バード(Bird)だから。

Date: 6月 30th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(英断なのかもしれない……)

英断とは、思いきりよく物事をきめること、すぐれた決断、
と大辞林にはある。

今回の、ステレオサウンドの染谷一編集長の謝罪は、
だからまったく英断とは言えない。

それでも……、と思うことがある。
今回の謝罪の件を書き始めてすぐに友人から電話があった。
そこで話したことなのだが、
染谷一編集長は、あえて謝罪をしたうえで、
avcat氏にツイートしてもらうようにしたのかもしれない。

そうすることで私のような者が、そのことについて何かを書く。
今回の謝罪の件が、それによってさらに拡がり、ステレオサウンドを廃刊の一歩手前まで堕とす。

オーディオ業界からも、読者からも、筆者からもソッポを向かれる。
そして、これかもっとも重要なことだが、ステレオサウンド内の広告営業部も見向きもしなくなる。
そういう状況を自らつくりだすことで、
ステレオサウンドを根底から生れ変らせよう──、
そういう戦略があってことだったら、それは英断といいたい。

創刊から50年。
想像で書くことだが、さまざまなしがらみでがんじがらめになっていて、
ステレオサウンドを変えていこうとしても、それは表面的なところでの変化に留まってしまう。

本質的なところで、根幹から変える必要があると感じていても、
無理なのかもしれない。

ならばどうするか。
もう徹底的にダメにしてしまうのも手のひとつと、私は考える。

それでavcat氏に協力を請い、ああいうツイートをしてもらう。
そしてアナログオーディオフェアという、多くの人があつまる場所で謝罪する。
そのうえでavcat氏に、謝罪の件もツイートしてもらう。

だとしたら立派な策略だ。

Date: 6月 29th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その4)

(その2)で書いたこと。

聖書とシェイクスピア全集。
レコード(ディスク)で、この二つに相当するものはあるだろうか。

ロック・ポップスを中心に聴く人たちにとっては、
ビートルズとあとひとつ何かなのだろうか。

あまり考えなしに書いてしまった。
今朝(その3)を書いて気づいた。

ビートルズもまたBからはじまる。
クラシックのバッハと同じである。

ならばクラシックはワーグナーのWで、一応おわる。
ロック・ポップスも、ここもまた同じなのか。
Wのあとにもアルファベットは、XYZと続くから、Wに限らなくてもいい。

《バッハではじまりワグナーでおわる》のように、
ビートルズではじまり……でおわる、となるのか。
だとしたら、何が来るのか。

Date: 6月 29th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その30を書く前に)

(その29)へのコメントがfacebookであった。
(その29)の冒頭「ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか」、
最後の「avcat氏のツイートは筋が通っている」のコメントの方からだった。

(その29)への、皮肉を込めたコメントであった。
くり返し読んでも、私はそのコメントには納得できない。

それはそれでいい。
コメントの方も、私の書いているものに納得されていないようだから。

文章の読み方というか、受けとめ方は、あらためていうまでもないことだが、
人それぞれだ。
どんなに言葉を尽くしても、「えっ、そんなふうに受けとるの?」と思うこともあるし、
言葉を省略した文章であっても、こちらの意図を読み取ってくれる人もいる。

さらには(まれではあっても)、こちらの意図以上のものを読みとってくれる人もいる。
これもある種の誤読なのかもしれないが、
そういう人のコメントには、大いに刺戟されるし、意欲もわいてくる。

私の文章だけが誤読されているのではない。
五味先生の書かれたものだって、誤読している人を少なからず知っている。
もう、そういう世の中なのだ、と諦観している。

それでも書いている。
書かなければならないと、私がひとり感じていることを優先して書くようにつとめている。

この項で書いていることを、ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪行為を、
ひたすらくり返す非難することに対して、別の見方もあり得る、ということでの、
「ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか」だったそうだ。

これを読んでも、別の見方をしても、英断では、絶対にない。
絶対にやってはいけないことを、染谷一編集長はやってしまった。

このことをコメントの方に納得してもらう気も、私にはまったくない。
英断だと思われるならば、それでいい。
それだけのことだ。

「avcat氏のツイートは筋が通っている」のコメントも、
avcat氏のあるツイートに関してものであって、
どのツイートかの指摘は、先のコメントにはなかったものだから、
私はavcat氏の一連のツイートに対して、筋が通っている、と受けとった。

ここでも、私は、その特定のツイートのほうが、筋が通っていない、と思う人間だ。
(その30)以降で、一連のツイートに関係してくことを書く。
ただし、これは先のコメントで私が感じたことを書いていく。

正直、後出しじゃんけんのようなコメントに感じた。
こう書くと、そんなつもりはない、あなたが勝手にそう解釈しただけ、
といわれるだろうが、そういう人はそういう人だ、と思うしかない。

そして、この項はまだまだ続く。
どんなに書いたところで、染谷一編集長は、なんとも感じてないのかもしれないし、
これから先、ステレオサウンドがよくなっていくとも思えない。

それでも書いていく。

Date: 6月 29th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性
1 msg

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その29)

facebookへのコメントで、
YGアコースティクスは優秀な製品であって、
柳沢功力氏の試聴記が不適切であるならば、
ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか、と。

YGアコースティクスのスピーカーを、
私はインターナショナルオーディオショウでしか聴いていない。
その精度の高い音に感心するし、なるほど優秀な製品ではある。

YGアコースティクスのスピーカーを、だから欲しいかと問われれば、
欲しい、とは一度も思ったことはない。
Hailey 1.2を買えるだけの余裕があるならば、私は別のブランドのスピーカーを選ぶ。

よくオーディオの世界では、個人の好みではなく、高忠実性を重視すべきだ、という意見がきかれる。
わからないわけではないし、エンジニア側であれば、それはもっともな理屈である。

けれど、そのもっともな理屈を、オーディオマニア側に求める、
というよりも、中には押しつけているのではないか、と感じさせる人もいる。

これもずっと以前からさんざんいわれていることだが、
われわれオーディオマニアが聴くのは、なにも最新録音、優秀録音ばかりではない。
そういう録音を、その録音がなされたときと同じ音量での再生が可能であり、
常にそういう再生を求めている人ならば、いわゆる忠実性を重視したスピーカーを選択するのもわかる。

けれどわれわれが聴くのは、そういった録音ではない。
むしろ、そういう録音を聴くことはキャリアを重ねるとともに減ってくるのではないか。

古い録音も聴く。
優秀録音とはお世辞にもいえない録音も聴く。
音量も、大きな音を出せる環境にいても、好む音量は別である。

──こんなことは昔、よくいわれてきた。
それが家庭で音楽を聴く、という行為である。

facebookのコメントでは、avcat氏のツイートは筋が通っている、とあった。
それは否定しない。
でも筋が通っている、ということは、どういうことなのか。