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Date: 9月 3rd, 2018
Cate: Jazz Spirit

二度目のナルシス(その3)

空間プロデュースの会社に「ビートニク風に」と依頼すれば、
どんなふうに仕上がるのは想像できないけれど、なんとなくそれっぽいビートニクには、
腕のいい空間プロデュースの会社ならば仕上げるだろう。

依頼した人が納得していなくとも、
ここがこうだからビートニクなんですよ、と、細かく説明していって納得させるかもしれない。

私の勝手な想像で書いているだけだから、実際はどうなのか。
真剣にビートニクに取り組む空間プロデュースの会社もあるはずだ。

金と時間に糸目をつけなければ、いい感じに仕上がるとは思う。
けれど、それはどこか映画のセット的趣をわずかとはいえ残したままなのかもしれない。

それがこだわり抜いたビートニクであればあるほど、
ナルシス的ビートニクとは違うものになっていくのかもしれない。

こんなことを書いているけれど、ビートニクを理解しているわけではない。
それでも、ビートニクとは、そういうものではないはずだ、とは感じている。

少なくとも、ナルシスはつくりものという感触はない。

Date: 9月 3rd, 2018
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その8)

ヤマハのC2と同時代にトリオのコントロールアンプL07Cがあった。
C2が150,000円、L07Cが100,000円だった。

同価格帯には微妙にいいがたい価格差がついていたが、
L07Cは音の良さはかなり話題になっていた。

瀬川先生も、音に関してはなかなかの評価だった。
けれどL07Cのデザインに関しては、ボロクソといえるほどだった。

ステレオサウンド 43号では《デザインに関しては評価以前の論外》とか、
《いくら音が抜群でも、この形では目の前に置くだけで不愉快だ》と書かれていたし、
49号では、こうも書かれていた。
     *
 しかし07シリーズは、音質ばかりでなくデザイン、ことにコントロールアンプのそれが、どうにも野暮で薄汚かった。音質ばかりでなく、と書いたがその音質の方は、デザインにくらべてはるかに良かったし、そのために私個人も多くの愛好家に奨めたくらいだが、ユーザーの答えは、いくら音が良くてもあの顔じゃねえ……ときまっていた。そのことを本誌にも書いたのがトリオのある重役の目にとまって、音質について褒めてくれたのは嬉しいが、デザインのことをああもくそみそに露骨に書かれては、あなたを殴りたいほど口惜しいよ。それほどあのデザインはひどいか、と問いつめられた。私は、ひどいと思う、と答えた。
 *
48号の時点でL07CはL07CIIに改良され、外観も改良された、といっていい。
基本的なレイアウトは同じでも、質感がまるで違うものに仕上がっている。

私もL07Cはひどい外観だと思っていたけれど、
当時は、瀬川先生が、なぜそこまで酷評されるのかはよく理解できていなかった。
このことについては、いずれ書くつもりだが、
そんなにひどい外観のL07Cではあったけれど、それでもコントロールアンプの顔をしていた。

C2は7.2cm、L07Cは10.0cmという高さである。
薄型といえるアンプだから、コントロールアンプに見えていたわけではない。
分厚いフロントパネルだから、プリメインアンプと受けとるわけでもない。

コントロールアンプとプリメインアンプのデザインをわけるのは、
フロントパネルの色でも、厚み(高さ)でもない。

では、なんなのか、となると、ひじょうに言語化しにくい。
けれど、それをはっきりと掴んでいる(いた)メーカーとそうでないメーカーがある。

ヤマハは、(残念ながら)掴んでいたメーカーになってしまった。

Date: 9月 3rd, 2018
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その7)

国際コンシューマー・エレクトロニクス展覧会IFA2018で、
ヤマハのC5000とM5000が正式に発表になった。
7000ユーロ前後になるらしい。

ということは90万円前後。日本ではいくらになるのかはわからない。
あくまでもヨーロッパでの話である。

そのくらいの価格はするだろうと思っていた。
5000シリーズのセパレートアンプなのだから、当然といえば当然である。

だから、よけいに、これが90万円のコントロールアンプのデザインか……、
と、どうしてもいいたくなる。
仕上げはいいんだろう。

けれどいくら仕上げがよくても……、である。
これが他のメーカー、
つまりプリメインアンプのデザインとコントロールアンプのデザインの区別がわかっていない、
そういうメーカーには、何もいわない。

けれどヤマハは、そういうメーカーではなかった。
むしろ、わかっていたメーカーだっただけに、こうやって書いている。

CI、C2が現役だったころのヤマハのプリメインアンプのフロントパネルに、黒はなかった。
例外はCA-V1という安価なモデルだけだった。

CA2000、CA1000III、CA-S1、CA-R1などはシルバー(白っぽい)フロントパネルだった。

セパレートアンプはブラック、プリメインアンプはシルバーという違いがあったわけだが、
だからといって、フロントパネルの色だけが違いではなかった。

CA2000、CA1000IIIなどの世代のプリメインアンプが製造中止になって、
次の世代、さらに次の世代ごろからヤマハのプリメインアンプもブラックモデルが出てきた。

それでも、それらの機種は確かにプリメインアンプのデザインだった。
フロントパネルが黒だから、コントロールアンプと間違うことはなかった。

今回のC5000にはシルバーとブラックが用意されているようだ。
ブラックパネルのC5000を見ても、コントロールアンプには見えない。
プリメインアンプのフロントパネルでしかない。

Date: 9月 3rd, 2018
Cate: ジャーナリズム

言いたいこと(十年後)

このブログの書き始めは、2008年9月3日の19時7分に公開している。
十年前の予定では、この「言いたいこと(十年後)」が10,000本目となるはずだったが、
現実は8,763本目である。1,200本以上足りずに十年目を迎えている。

一本目は「言いたいこと」だった。

十年経った。
書きたいことは減ってくるのか、と当初は思っていた。
けれど、逆に増えている。

これは嬉しいことではない。
もう書く必要はないな、とほんとうは思いたかった。

Date: 9月 2nd, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(「生命現象の基本にゆらぎを発見」を読んで)

JT生命誌研究館というウェブサイトに、
サイエンティスト・ライブラリーという項目がある。

そこで大阪大学教授の柳田敏雄氏の「生命現象の基本にゆらぎを発見」が読める。

こういうサイトがあるのを、いままで知らなかった。
facebookのおかげで知った。

「生命現象の基本にゆらぎを発見」は、
オーディオとは直接関係があるわけではない。
それでも《ノイズばかりのざわざわした状態そのものがシグナルなのだろう》は、
やはりそうなのか、と思ったし、間違ってなかった、とも思った。

Date: 9月 2nd, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(ULTRA DACを聴く・余談)

今井商事から始まったメリディアンの輸入元は、
その後ハーマンインターナショナル、アクシスになり、
現在のハイレス・ミュージックである。

ハイレス・ミュージック株式会社の英語表記はHi-Res Music Limitedである。
Hi-Resは、一般的にはハイレゾと呼ばれているが、決して語感のいい略語ではない。

別項「Hi-Resについて(その2)」で書いているが、
High Fidelity(ハイ・フィデリティ)の略語、Hi-Fiを、
誰もハイフィとはいわない。

略語の場合は、ハイファイである。
英語の専門家ではないけれど、Hi-Resをハイレゾと呼ぶのには違和感がある。
High Resolution(ハイレゾリューション)の略だから、ハイレゾは安直すぎるように感じていた。

Hi-Res Music(ハイレス・ミュージック)に、
ハイレゾに慣れてしまった人は違和感を感じるのかもしれないが、
私はハイレスのほうが、すっきりと受け入れられる。

Date: 9月 2nd, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(ULTRA DACを聴く)

まず訂正をしておきたい。

メリディアンの207を用意できる、と書いていたが、
207を貸してくださる方から勘違いだった、という連絡があった。
207ではなく206である。

207は、ジャンルとしてはCDプレーヤーということに一応はなるが、
そこに留まらない、当時としては意欲的なコンセプト、
ただ人によっては、余計な機能を……、と捉えていた、と思う。

形式としてはセパレート型CDプレーヤーとなるが、
一般的なセパレート型ではなかった。
トランスポートとD/AコンバーターはSPDIFで接続されるのではなく、
多芯ケーブルとコネクターによるもので、
D/Aコンバーターユニットには、アナログ入力端子を備えていた。

別売のフォノモジュールも搭載可能だった。
TAPE OUTももち、CDプレーヤーとしての出力は固定と可変があった。

CDプレーヤーに簡易的コントロールアンプの機能をもたせた、ともいえるし、
1970年代以前は、チューナー付きコントロールアンプが、数社から出ていた。
このチューナーをCDプレーヤーに置き換えた、ともいえよう。

206は、この207からコントロール機能を取り除いたCDプレーヤーである。
CDプレーヤーとしての性能、音は207と同等のはずだ。

9月5日のaudio wednesdayには、
メリディアンの輸入元ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎氏も来てくださる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 9月 2nd, 2018
Cate: Jazz Spirit

二度目のナルシス(その2)

ナルシスが今の場所(東京都新宿区歌舞伎町1-13-6 YOビル2F)に移ったのは1978年(らしい)。
40年である。

行けばわかる、古い建物の二階にナルシスはある。
トレイは和式だし、床はタイル張り。
店内にはピンクの公衆電話があった。
Free Wi-Fiなんてものはない。

どっぷり昭和である。
だから、いい、といいたいのではない。

金曜日の別れ際に野上眞宏さんが「ナルシス、最高!」といわれた。
そうだろうとおもう。

ナルシスは堅苦しいジャズ喫茶ではない。
ジャズがかかっていても、おしゃべりしてもいい。

ナルシスにいるときに野上さんは、
「(時代的には)ヒッピーの前のビートニクだね」といわれた。

こういう感覚、捉え方は私にはなかった。

ナルシスは一人で行っても楽しいだろう。
でも、誰かと一緒に行くと、より楽しいはずだ。

前回のナルシスは四年前。
その後、一人でナルシスに何度か通っていたとしても、
「ヒッピーの前のビートニクだね」とは感じなかった、とおもうからだ。

Date: 9月 1st, 2018
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その6)

左ききのエレン」というマンガがある。

「左利きのエレン」のリメイク版だそうだ。
元の「左利きのエレン」は読んでいないし、知らなかった。

インターネットで土曜日に一話ずつ公開される。
土曜日になった瞬間(つまり午前0時)に更新され公開される。
20ページ程度のマンガなのだが、楽しみである。

43話が公開されている。
ここにも自画像ということばが登場する。

主人公の山岸エレンは、圧倒的な才能をもつ絵描きである。
そのエレンが、43話以前の数話で、岸あかりというモデルと出逢う。

43話の一ページ目には、
 似ているモノが
 2つ並べば
 似ている所より
 違う所が
 目につくものだ
というモノローグがある。

オーディオでも、同じだな、と思いながら、読んでいた。
43話の終り、山岸エレンが岸あかりにいう。

 私と
 お前は
 似ている……

 でも
 まるで違う
 その違いを知りたい

 ずっと避けていたけど……
 お前を通じてなら
 ちゃんと
 描ける気が
 したんだ

 自画像

「左ききのエレン」の43話の山岸エレンのセリフは、
私にとって「音による自画像」についての答だと思った。

そうか、そういうことだったか、と思うと同時に、
これもまた、次の瞬間に問いへとなっている。

Date: 9月 1st, 2018
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その5)

「音による自画像」は、「天の聲」のなかにも出てくる。
「音による自画像」という文章が「天の聲」に収められている。

つまり「音による自画像」を少し手直しされたものが、「五味オーディオ教室」に載っているわけだ。
古くからの五味先生の読者であれば「音による自画像」を先に読まれているだろうし、
「音による自画像」だけを読まれているかもしれない。

私は「五味オーディオ教室」を先に読んで、それから数年後に「音による自画像」という順だった。
「音による自画像」は、こう終っている。
     *
 音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、時には倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりになるだろう。音譜が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。ほかでもない私自身の顔を知りたいからである。
     *
「五味オーディオ教室」でも、このところはほぼそっくりある。
けれど、少し違うところもある。
     *
 音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、ときには倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうメタフィジカルなものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりにはなろう。音譜が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。
 あきもせず同じ曲を毎年くり返し録音することも、そういった作曲家の自画像の探求を通じて、ほかでもない、私自身の顔を残してくれるかも知れない、鏡に写すようにそんな自分の顔が、テープには収まっているかも……とまあそんな屁理屈をいって、結局、死ぬまで私は年末にはバイロイト音楽祭を録音しているだろう、と思う。業のようなものである。
     *
《鏡に写すようにそんな自分の顔が、テープには収まっているかも……とまあそんな屁理屈》とある。
「五味オーディオ教室」のほうが後に書かれている。

「音による自画像」は、屁理屈なのかもしれない。
それでも「音による自画像」は、いまも私にとっては問いである。

Date: 9月 1st, 2018
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その4)

またか……、と思われようが、しつこいくらいにくり返すが、
私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっている。

何度も何度も読み返していた。
学校へも持っていってた。
休み時間に、読んでいた。

いくつもの印象に残るところがある。
そのひとつが、これである。
少々長くなるが、引用しておく。
     *
 毎年、周知のようにバイロイト音楽祭の録音テープが年末にNHKからFMステレオで放送される。これをわが家で収録するのが年来の習慣になっている。毎年、チューナーかテープデッキかアンプが変わっているし、テープスピードも曲によって違う。むろん出演者の顔ぶれも違い、『ニーベルンゲンの指輪』を例にとれば、同じ歌手が違う指揮者のタクトで歌っている場合も多い。つまり指揮者が変われば同一歌手はどんなふうに変わるものか、それを知るのも私の録音するもっともらしい口実となっている。だが心底は、『ニーベルンゲンの指輪』自家版をよりよい音で収録したい一心からであって、これはもう音キチの貪欲さとしか言いようのないものだ。
 私の場合、ユーザーが入手し得る最高のチューナーを使用し、七素子の特製のアンテナを、指向性をおもんぱかってモーター動力で回転させ、その感度のもっともいい位置を捉え、三十八センチ倍速の2トラックにプロ用テレコで収録する。うまく録れたときの音質は、自賛するわけではないが、市販の4トラ・テープでは望めぬ迫力と、ダイナミックなスケール、奥行きをそなえ、バイロイト祝祭劇場にあたかも臨んだ思いがする。一度この味をしめたらやめられるものではなく、またこの愉悦は音キチにしかわかるまい。
 白状するが、私は毎年こうした喜悦に歳末のあわただしい数日をつぶしてきた。出費もかさんだ。家内は文句を言った。テープ代そのものより時間が惜しい、と言うのである。レコードがあるではありませんか、とも言う。たしかに『ワルキューレ』(楽劇『ニーベルンゲンの指輪』の第二部)なら、フルトヴェングラー、ラインスドルフ、ショルティ、カラヤン、ベーム指揮と五組のアルバムがわが家にはある。それよりも同じ『指輪』の中の『神々の黄昏』の場合でいえば、放送時間が(解説抜きで)約五時間半。収録したものは当然、編集しなければならぬし、どの程度うまく録れたか聴き直さなければならない。聴けば前年度のとチューナーや、アンプ、テレコを変えているから音色を聴き比べたくなるのがマニアの心情で、さらにソリストの出来ばえを比較する。そうなればレコードのそれとも比べたくなる。午後一時に放送が開始されて、こちらがアンプのスイッチを切るのは、真夜中の二時、三時ということになる。くたくたである。
 歳末には新春用の原稿の約束を果たさねばならないのだが、何も手につかない。翌日は、正午頃には起きてその日放送される分のエア・チェックの準備にかからねばならず、結局、仕事に手のつかぬ歳暮を私は過ごすことになる。原稿を放ったらかすのが一番、妻の気がかりなのはわかっているだけに、時には自分でも一体なんのためにテープをこうして切ったり継いだりするのかと、省みることはある。どれほどいい音で収録しようと、演奏そのものはフルトヴェングラーの域をとうてい出ないことをよく私は知っている。音だけを楽しむならすでに前年分があるではないか、放送で今それを聴いてしまっているではないか、何を改めて録音するか。そんな声が耳もとで幾度もきこえた。よくわかる、お前の言う通りさと私は自分に言うが、やっぱりテープをつなぎ合わせ、《今年のバイロイトの音》を聴き直して、いろいろなことを考える。
 こうして私家版の、つまりはスピーカーの番をするのは並大抵のことじゃない、と思い、ワグナーは神々の音楽を創ったのではない、そこから強引にそれを奪い取ったのだ、奪われたものはいずれは神話の中へ還って行くのをワグナーは知っていたろう、してみれば、今、私の聴いているのはワグナーという個性から出て神々のもとへ戻ってゆく音ではないか。他人から出て神に帰るものを、どうしてテープに記録できるか、そんなことも考えるのだ。
 そのくせ、次の日『神々の黄昏』を録っていて、ストーリーの支離滅裂なのに腹を立てながらも、やっぱり、これは蛇足ではない、収録に値する音楽である、去年のは第二幕(約二時間)でテープが足りず尻切れとんぼになったが、こんどはうまく録ってやるぞ、などとリールを睨んでいる。二時間ぶっ通しでは、途中でテープを交換しなければならない、交換すればその操作のあいだの音楽は抜けてしまうので、抜かさぬために二台のテレコが必要となり、従前の、ティアックのコンソール型R三一三にテレフンケンM28を加えた。さらには、ルボックスA七〇〇を加えた。したがって、テレフンケンとルボックスとティアックと、まったく同じ条件下で収録した音色をさらに聴き比べるという、余計な、多分にマニアックな時間が後で加わる。
 とにかくこうして、またまたその夜も深夜までこれにかかりきり、さてやり終えてふと気づいたことは、一体、このテープはなんだという疑問だった。少なくとも、普通に愛好家が録音するのはワグナーのそれが優れた音楽だからだろう。レコードを所持しないので録音する人もいるだろう。だが私の場合、すでにそれは録音してある。何年か前はロリン・マゼールの指揮で、マゼールを好きになれなんだから翌年のホルスト・シュタインに私は期待し、この新進の指揮にたいへん満足した。その同じ指揮者で、四年間、同じワグナーが演奏されたのである。心なしか、はじめのころよりうまくはなったが清新さと、精彩はなくなったように思え、主役歌手も前のほうがよかった。それだけに、ではなぜそんなものを録音するかと私は自問したわけだ。そして気がついた。
 私が一本のテープに心をこめて録音したものは、バイロイト音楽祭の演奏だ。ワグナーの芸術だ。しかし同じ『ニーベルンゲンの指輪』を、逐年、録音していればもはや音楽とは言えない。単なる、年度別の《記録》にすぎない。私は記録マニアではないし、バイロイト音楽祭の年度別のライブラリイを作るつもりは毛頭ない。私のほしいのはただ一巻の、市販のレコードやテープでは入手の望めぬ音色と演奏による『指輪』なのである。元来それが目的で録音を思い立った。なら、気に食わぬマゼールを残しておく必要があるか、なぜ消さないのか、レコード音楽を鑑賞するにはいい演奏が一つあれば充分のはずで、残すのはお前の未練か? 私はそう自問した。
 答はすぐ返ってきた。たいへん明確な返答だった。間違いなしに私はオーディオ・マニアだが、テープを残すのは、恐らく来年も同じ『指輪』を録音するのは、バイロイト音楽祭だからではない、音楽祭に託してじつは私自身を録音している、こう言っていいなら、オーディオ愛好家たる私の自画像がテープに記録されている、と。我ながら意外なほど、この答えは即座に胸内に興った。自画像、うまい言葉だが、音による自画像とは私のいったい何なのか。
     *
音による自画像、
「五味オーディオ教室」のなかでも、最も印象に残っているものだ。

五味先生は《答はすぐ返ってきた。たいへん明確な返答だった》と書かれている。
確かにそうだろう。
バイロイト音楽祭の録音テープを残すのは──、という自問に対しての明確な答ではある。

けれど、中学二年の私にとっては、それはいまも続いている問いである。
五味先生にとっても、音による自画像は、すぐ返ってきた明確な返答であったろうが、
次の瞬間からは、音による自画像は問いになっていたのではないのか。

Date: 8月 31st, 2018
Cate: Jazz Spirit

二度目のナルシス(その1)

空間プロデュース、空間プロデューサーという言葉を頻繁に耳にするようになったのは、
いつごろからなのだろうか。

ウソっぽい仕事とは思っていないが、
それでも薄っぺらいと感じることがないわけではない。

どこかの空間プロデュースの会社、
空間プロデューサーの誰かがてがけた店舗というのが、増えているようにも感じる。

空間プロデュースというのは、こういう仕事なのか、と感心する店舗もあれば、
既視感たっぷりの店舗もある。
どういう仕事であっても、ピンもあればキリもある。

それでも個人経営の店であれば、空間プロデュースの必要性はいかほどだろうか──、
と思ったのは、今日、新宿歌舞伎町にあるジャズ喫茶・ナルシスに行ってきたからだ。

ナルシスには四年前に一度行っている。
また行こう、と思いながら、夕方からの営業だから、
ブログを書くことを優先していると、早く帰って……、と思ってしまい、
結果、二度目が今日になってしまった。

前回のことは「会って話すと云うこと(その6)」に書いている。
店は四年前となにも変っていなかった。
記憶にある四年的の比較なのだから、変っているところもあったのかもしれないが、
何も変っていなかった、としか感じなかった。

グッドマンのダブルコーンに、
おそらくパイオニアのホーンEH351Sである中高域が足されている。
アンプも上等なモノではないし、オーディオマニアの興味を惹くシステムとはいえない。

オーディオも四年前のままだった。
ナルシスが入っているビルは、四年分だけ古くなっているはずだろうが、
元々老朽化したビルだから、変ったようにも見えない。

そのナルシスに、今日は写真家の野上眞宏さんと一緒に行ってきた。

Date: 8月 31st, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(ULTRA DACを聴く)

ブースロイド・スチュアートが、ステレオサウンドで紹介されたのは、
48号(1978年秋号)の新製品紹介のページである。

井上先生と山中先生による対談、
山中先生による原稿で、記事は構成されていた。

取り上げられていたのは、コントロールアンプの101、MC型カートリッジ対応の101MC、
35W+35W出力のパワーアンプ103、45W+75Wの103D、100Wモノーラルの105のラインナップだ。

101も103も105も同寸法(W14.0×H5.2×D31.5cm)のアルミ引き抜き材をシャーシーとし、
別電源も用意されていて、103に別電源を加えたのが103Dである。
つまり103を購入して、別電源購入すれば103Dになるわけだ。

コントロールアンプは電源をもっておらず、パワーアンプから供給される。
おそらく別電源からの供給可能だったはずだ。

しばらくしてチューナーの104Sも登場した。
もちろん104Sもコントロールアンプ、パワーアンプと同寸法である。
つまりメリディアン(ブースロイド・スチュアート)の100シリーズは、
これらのアンプユニットを必要に応じて組み合わせ、
実際の設置も縦に積み重ねたり、横に並べたりして使うことを配慮している。

シンプルといおうか、地味といおうか、素っ気ないといおうか、
100シリーズのデザインは、写真からの印象はそんなところだった。
実際に100シリーズでシステムを構築してみると、印象は違ってきたのかもしれない。

これら100シリーズの音は──、と書きたいところだが、
100シリーズを聴いている人はどのくらいいるのだろうか。
私は実機を見たこともない。

私にとって最初のメリディアンのモデルは、スピーカーシステムのM10だった。
アンプメーカーとしてのメリディアンを意識しはじめたのは、MCA1の登場からである。

そして200シリーズの登場。
CDプレーヤーが、アンプと同じ寸法、デザインのシャーシーで登場する。
メリディアンのコンセプトが、かなり明確に打ち出されたのは、この200シリーズからだと思う。
そして200シリーズから500シリーズ、800シリーズと展開し、ULTRA DACがあるといえる。
9月5日のaudio wednesdayでは、ULTRA DACとともに207も聴いていく。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 8月 30th, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(ULTRA DACを聴く)

9月5日のaudio wednesdayは、メリディアンのULTRA DACを聴く。

私自身、ULTRA DACが聴けるのをとても楽しみにしている。
9月のaudio wednesdayのテーマは、ULTRA DACを聴くことなのだが、
せっかくだから、ということで、メリディアンのCDプレーヤー、207も用意できる予定だ。
1988年ごろのCDプレーヤーだから、30年前のモデルだ。

もちろんSACDは再生できない。
セパレート型ではあるが、一般的なセパレート方式ではなかったはずだ。

MCD、MCD-Proよりも、メリディアンらしい音のCDプレーヤーだと私は思っている。
メリディアンらしい、といっても、その当時のメリディアンらしい、なのだが。

ULTRA DACと直接の比較試聴をしてもらおう、というより、
私個人の興味のためである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 8月 30th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(番外)

現代真空管アンプ考というタイトルをつけている。
現代スピーカー考」という別項もある。

現代、現代的、現代風などという。
わかっているようでいて、いざ書き始めると、何をもって現代というのか、
遠くから眺めていると、現代とつくものとつかないものとの境界線が見えているのに、
もっとはっきり見ようとして近づいていくと、いかにその境界線が曖昧なのかを知ることになる。

1989年、ティム・バートン監督による「バットマン」が公開された。
バットマンは、アメリカのテレビドラマを小さかったころ見ていた。

バットマンというヒーローの造形が、こんなに恰好良くなるのか、とまず感じた。
バットモービルに関しても、そうだった。

「バットマン」はヒットした。
そのためなのかどうかはわからないが、
過去のヒーローが、映画で甦っている。

スーパーマン、スパイダーマン、アイアンマン、ハルク、ワンダーウーマンなどである。
スパイダーマンは日本で実写化されたテレビ版を見ている。
ハルクとワンダーウーマンのテレビ版は見ている。

スーパーマンの映画は、
1978年公開、クリストファー・リーヴ主演の「スーパーマン」から観てきている。

これらヒーローの造形は、現代的と感じる。
特にワンダーウーマンの恰好良いこと。

ワンダーウーマンの設定からして、現代的と感じさせるのは大変だったはずだ。
けれど、古い時代の恰好でありながらも、見事に成功している。

日本のヒーローはどうかというと、
仮面ライダー、キカイダー、ガッチャマン、破裏拳ポリマーなどの映画での造形は、
アメリカのヒーローとの根本的な違いがあるように感じる。

較べるのが無理というもの、
予算が違いすぎるだろう、
そんなことを理由としていわれそうだが、
ヒーローものの実写映画において、肝心のヒーローの造形が恰好良くなくて、
何がヒーローものなのか、といいたくなる。

日本の、最近制作されたヒーローものの実写映画での造形は、
どこか根本的なところから間違っているように思う。

「現代」という言葉の解釈が、アメリカと日本の映画制作の現場では大きく違っているのか。
日米ヒーローの造形の、現代におけるありかたは、
「現代」ということがどういうことなのかを考えるきっかけを与えてくれている。